僕という個体の輪郭が、街の地下を流れる水に混じり合い、ゆっくりと希薄になっていくのを感じていた。
一滴のインクが清水に落ち、瞬く間に広がって溶けていくように。あるいは、一杯の葡萄酒が湖に注がれ、その存在を失っていくように。
僕の意識は、もはや定まった形を持たない。それはブリエンツの街の地下、岩盤を縫って走る無数の水脈全域へと拡散し、隅々にまで行き渡っていた。
そこでは、僕は水そのものだった。井戸の底で揺らめき、洗濯場の石鹸の泡を含み、裕福な商人の家の噴水を飾り、貧しい地区の共同水場で人々の喉を潤す。
多くの感覚を同時に受け取る。人間の時には感じえなかった感覚だ。
石畳の下を流れるときは、地上を歩く人々の足音の振動を。厨房の配水管を抜けるときは、調理の音と、そこで交わされる噂話を。そして、誰かの家の地下室の湿った壁を伝うときは、そこに隠された秘密の囁きを。
膨大な情報が、僕というかつての器を満たし、溢れ、奔流となって流れ込んでくる。
どこで、いつ、だれが、何を言ったのか。何を思ったのか。何を隠しているのか。
子供の他愛ない空想、恋人たちの睦言、商人たちの計算高い会話、そして、この街を覆う不穏な空気の源泉。
――商業ギルドの連中だけが、なぜあんなに羽振りがいいんだ。
――広場で騒いでいる連中、見かけない顔ばかりだ。
――領主様は、もう一年以上もお姿を見ていない。
断片的な声、声、声。それらが僕の中で混じり合い、一つの巨大なモザイク画を描き出していく。
僕はその流れの中で、ひときわ濁った澱みを探していた。ブリエンツでの独立運動に関係する内容。広場の集団の関係者は誰か。何が目的なのか――。
そして、見つけた。
ひときわ暗く、冷たい流れ。
商業ギルド会頭、ゲルハルトの屋敷の地下。ワインセラーの奥、隠された書斎へと続く水路。
そこで交わされる、密やかな会話の響き。帳簿をめくる乾いた音。金貨が擦れ合う音を。
さらに深く、流れを遡る。領主の城の地下。厨房の排水溝から、侍医の部屋の近くを抜ける細い水路へ。
そこには、絶望に染まった、か細い祈りのような呟きがあった。
これぐらいでいいかな。そう結論付けて、意識を肉体へと戻す。
情報の奔流が引き、霧が晴れるように、個としての輪郭が再び明確になっていく。まるで、深海の底から一気に水面へと引き上げられるような感覚だった。
最後に聞こえたのは、宿屋の主人がカウンターの裏で水を飲む音だった。ごくり、という生々しい嚥下音が、僕を現実へと繋ぎ止める最後の錨となった。
ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた宿屋の天井が目に入った。
精霊としての感覚が引きはがされて、人間の其へと戻っていく。
埃っぽい木の匂い。窓から差し込む、午後の柔らかな陽光。遠くで聞こえる街の喧騒。五感が、一つ一つ、現実の世界へと僕を引き戻していく。
体を起こそうとして、全身が鉛のように重いことに気づいた。筋肉が強張り、喉がカラカラに乾いている。そして、すぐそばに人の気配があることにも。
「―――っひ!?」
短い悲鳴と共に、椅子から転げ落ちそうになっているのは、ミラだった。
彼女は、僕が目覚めたことに心底驚いた様子で、大きく目を見開いてこちらを見ている。その手にはリュートがきしむ音を立てて抱きしめられている。だが、今はそれどころではないといった様子だ。
「ど、ど、ど、どうも」
彼女の声は、安堵と、それ以上の恐怖で震えていた。
「……ああ。少し、深く潜りすぎたみたい」
僕は、掠れた声で答えた。情報の海に意識を沈めている間、声帯を使っていなかったせいか、うまく声が出ない。まるで他人の声のようだった。
「別れてから、どれくらい経った?」
僕の質問に、ミラは言葉を詰まらせながら説明する。
「み、三日です……。私が部屋に戻ってきてから……。一度も起きないし、食事も摂らないし、呼びかけても反応がなくて……。本当に、息をしているだけ、で……その…」
三日。僕の感覚では、ほんの数時間のことのように思えたが、この世界ではそれだけの時間が流れていたらしい。この情報収集方法は、いささか時間の感覚が曖昧になる。
体の調子も悪くなるし、あんまり、使い勝手の良い情報収集方法ではないな。
「そう。……心配をかけたね」
僕の謝罪に、ミラは小さく首を横に振った。だが、その表情はまだ硬い。
「いえ……。それより、お体は……?何か、飲みますか?」
彼女はそう言って、テーブルの上の水差しに手を伸ばした。
「ああ、頼む」
受け取ったカップの水をゆっくりと喉に流し込む。乾ききった体に、命の水が染み渡るようだった。
「それで、何か、わかったことは?」
僕は、自分の体の状態よりも、任務の進捗を優先した。
僕のその態度に、ミラは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに気を取り直し、自分が集めた情報を話し始めた。
「は、はい。あれから街の酒場をいくつか回って、吟遊詩人として歌いながら、お客さんたちの話に耳を傾けていました」
彼女は一息入れて、緊張した面持ちで続ける。
「まず、街の誰もが口にしているのは、物価の急激な高騰です。
特に小麦と塩の値段が、この一月で三倍近くに跳ね上がっているそうです。
全体的に物価は上昇しているそうですが、ガリア帝国との戦争の影響だけを考えるには、あまりに上昇が急すぎると考えられます」
「それと、商業ギルドの評判が、あまり良くありません。
戦争の影響で物資が不足しているのをいいことに、商品を法外な値段で吊り上げている、と。
幸いにも、一部の傭兵や職人の給与も上がっているため、大きな不満には繋がっていないようですが、日雇いの労働者や一般の家庭はかなり苦しいようです」
彼女は、酒場で聞いた具体的な話を付け加えた。
あるパン屋の主人は、ギルドから卸される小麦粉の値段が高すぎて、値上げせざるを得ず、客足が遠のいたと嘆いていたらしい。
また、別の酒場では、酔った男が「商業ギルドから金を借りるしかなくなった。返せる当てはないが、そうしないと家族が飢えてしまう」と管を巻いていたという。
「そして……広場で独立を叫んでいる集団ですが、彼らのほとんどは、もともとこの街に住んでいた人たちではない、という話があります。
誰かの親戚や知り合いなど、直接的に関わりのある市民が少ないようです。
この春からいつの間にか居ついた集団だと噂されていました」
僕は頭の中で、ミラが語る情報と、水脈から得た膨大な情報の整合性を確かめる。
彼女が集めてきた情報は、市民レベルで観測できる情報だ。
僕は、ミラの報告を聞きながら、頭の中で情報のピースを組み合わせていく。
物価の高騰。羽振りのいい商業ギルド。よそ者の扇動者。
そして、僕だけが知っている情報。
商業ギルドの会頭ゲルハルトが、意図的に物資を買い占め、価格を吊り上げていること。
その裏で、金貸し事業によって市民の土地や財産を合法的に奪い取っていること。
扇動者の集団が、夜な夜な商業ギルドの幹部と密会し、報酬を受け取っていること。
そして、――この街の領主であるブリエンツ伯が病で長く寝たきりであり、商業ギルドを抑えられていないこと
「黒幕は、商業ギルドらしい」
僕が静かに告げると、ミラは「えっ」と間抜けな声を出す。
「商業ギルドが、戦争による混乱を利用して、意図的に物価を操作しているみたいだ。上層部は、金貸しの事業で大きく儲けているみたい。広場の扇動者たちは、彼らが戦争の不安を煽って、物価をさらに上げるために雇っているみたいだね」
「そ、そんな……。どうやって、そんなことまで……?」
ミラは、信じられないといった表情で僕を見る。
僕がどうやってその情報を得たのか、説明する義理はない。僕の言葉の根拠は、僕がこの街の水となって見てきた、紛れもない事実そのものだ。
「ゼスに報告を」
だけど、僕がそう促すと、ミラははっと我に返り、慌てて立ち上がった。
彼女が懐から小さな道具?を取り出し、魔力を込めようとした、その時だった。
バタン、と乱暴な音を立てて、部屋の扉が開かれた。
「よう。やっとお寝覚めか、眠り姫」
そこに立っていたのは、腕を組み、壁に寄りかかったクロウだった。
その顔には、いつものように皮肉な笑みが浮かんでいる。彼は、僕とミラを一瞥すると、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。
「眠りこけるとは、いいご身分だな、新入り。てっきり、怖気づいて夢の世界に逃げ出したかと思ったぜ」
クロウは、僕のベッドのそばまで来ると、見下すように言った。
僕は、彼の挑発には乗らず、ただ静かに彼を見返した。そして、先ほどの結論を、再び口にした。
「今回の騒動は、この街の商業ギルドが主導している。会頭のゲルハルトと、その幹部たちだ」
僕の言葉に、クロウの眉がぴくりと動いた。
「……何言ってんだ、てめえは。そんな噂、俺でも知ってるぜ」
彼は鼻で笑った。だが、その目の奥は笑っていない。
「ガリア帝国との戦争を利用して、利益を得ているみたいだ」
僕は、クロウの言葉を無視して、淡々と続けた。
僕の脳内には、ブリエンツの水が記憶した、全ての光景が広がっている。
「物価の高騰で生活が苦しくなった市民に、彼らは『救済』と称して金を貸し付けて、儲けているらしい。ただし、返済が滞れば、容赦なく土地や家を借金のカタに取り上げている」
「ほう……」
クロウの表情から、嘲笑が消えた。
「広場で独立を叫んでいる連中は、彼らが金で雇った難民のようだ。街の不安を煽って物価をさらに吊り上げるつもりらしい。」
クロウの声に、訝しむ色が混じる。僕は答えず情報を突きつけた。
「領主であるブリエンツ伯は、一年以上前から病で寝たきり。おそらくは、原因は不明だけど、商業ギルドを制御不能になっているみたいだ」
集めた情報を、映像を語るように、淡々と話す。
クロウの顔から、徐々に皮肉な表情が消え、何かを考える表情へと変わっていく。
部屋は、静まり返っていた。
ミラは、口を半開きにしたまま、僕とクロウを交互に見ている。
やがて、長い沈黙を破ったのは、クロウだった。
「……へっ」
彼は、乾いた笑いを一つ漏らすと、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。
「思ったより、使えるみてぇだな、お前」