ブリエンツでの最初の任務を終えてから、季節が2つほど巡った。
僕の日常は、任務と、その合間の短い休息によって、機械的に区切られるようになった。
ある時は、王都の貴族が溜め込んだ不正な富を暴き出すために、その屋敷の地下水路から情報を集めた。
深夜、月の光も届かない屋敷の地下。僕は壁を伝う冷たい水滴に意識を溶け込ませ、対象である子爵が愛人と交わす甘い囁きと、同時に帳簿を改竄するよう指示する低い声を、同じ価値の情報として拾い上げた。
またある時は、ガリア帝国の密偵と噂される商人を監視し、その金の流れを追った。
活気ある市場の喧騒の中、僕は人混みに紛れ、男が立ち寄る全ての店、言葉を交わす全ての人間を覚えて、報告した。
他にも、国境近くの村で不穏な動きを見せる傭兵団の動向を探った。
雨に煙る寂れた村の酒場の水樽に意識を滑り込ませて、傭兵たちの荒々しい会話に耳を傾ける。彼らの計画、武器の数、金の動き。全ての情報を集め終えた夜、彼らの寝床に忍び寄ると、サイドテーブルに警告状を一本のナイフで結いつける。
任務は、そのほとんどが数日で終わる。
一つの任務が終わると、僕たちは指定された拠点に戻り、羊皮紙に淡々と結果を記す。そして、一、二日の休息を与えられた後、すぐにまた次の任務へと駆り出される。そして、それが僕の日常の香りになっていた。
チームで動くこともあれば、僕やクロウがそれぞれ単独で動くこともあった。ミラはと組むこともあるが、別の連絡役と組むこともあった。彼女は僕に対して、以前のようなあからさまな恐怖は見せなくなったが、それでもまだ、どこか一線を引いているのがわかった。
僕とクロウの関係は、ブリエンツの一件以降、ほとんど変わっていない。
彼は相変わらず僕を「新入り」と呼ぶこともあったが、その口調から以前のような刺々しさは消えていた。任務においては、互いの能力を認め、背中を預けることも増えた。ただ、生き残るための、合理的な協力関係。それ以上でも、それ以下でもなかった。
僕たちは、任務の合間に、様々な街で休息を取った。
その多くは、アルシオン王国の王都、『アルクス』だった。
最初にラクサ村から連行され、ゼスと出会ったあの場所も、このアルクスの一角にある暗部の拠点の一つだったのだと、僕は後になって知った。
アルクスは、僕が任務で訪れたほかの街よりも大きく、そして複雑な顔を持っていた。
中央には壮麗な王城がそびえ立ち、その周りを貴族たちの豪華な屋敷が取り囲んでいる。石畳の道は常に磨き上げられ、絹の服をまとった身なりの良い人々が、香水の匂いを漂わせながら優雅に行き交う。
しかし、一歩裏通りに入れば、そこには全く別の世界が広がっていた。
狭く薄暗い路地には汚水が流れ、淀んだ水の匂いが鼻をつく。壁にもたれかかる痩せた子供たちの虚ろな瞳。日々の糧にも事欠き、道端で力なく座り込む老人たち。戦争の影は、この王都にさえ、確実に、そして深く忍び寄っていた。
休息日。それは、次の任務に備えるための時間だ。
多くの暗部隊員たちは、その時間を武器の修繕や、防具の手入れに費やしていた。鍛冶場から響く金属音、革をなめす匂い、そして、薄暗い地下で行われるささやかな酒盛り。彼らは、刹那的な快楽に身を委ねることで、死と隣り合わせの日常から、一時的に逃避しているようだった。
だが、僕には、そのどれもが必要なかった。
僕の体は、傷つけられてもすぐに再生する。僕の武器は、この世界に水が存在する限り、無限に生み出される。
武器はナイフ一本で、使っていないのでほとんど手入れが必要ない。
だから、僕にはいつも、時間が余っていた。
最初のころ、僕は目的もなくこの街を歩いた。でもそれもすぐにやめてしまった。
「うちの亭主も、とうとう徴兵されちまったよ……」
「王国軍の奴ら、最近いい話を聞かねぇな」
人々の口から漏れるのは、未来への不安と、日々の生活への嘆き。
不幸話はうんざりだった。
それから、持て余した時間を僕はただ、部屋で虚空を眺めて過ごすことが多かった。
窓の外を流れる雲、壁を伝う水の雫、遠くで聞こえる街の喧騒。
その全てが、僕という存在から、ひどく遠い場所にあるように感じられた。
精霊となった体は、時間間隔が曖昧になりやすいようだ。
そんな僕を見かねてか、あるいは、僕という存在を持て余してか。
ある日、ゼスは僕を呼び出し、一つの提案をした。
「貴様、待機中はいつも暇を持て余しているようだな」
執務室の椅子に深く腰掛けたまま、ゼスは言った。その目は、机に広げられた戦況報告書から離れない。
「ならば、資料室の閲覧を許可してやろう。どうせ、ろくな知識も持っていないのだろう。駒として使うにしても、最低限の知識は入れておけ。無知ほど使いにくい駒はない」
彼の言葉は、相変わらず僕の心を見透かすようだった。
「……いいの?」
「ああ。だが、閲覧できるのは許可された資料のみだ。機密情報には手を出すな。それと、魔法を資料室で使うことも禁ずる。破れば、どうなるか分かっているな?」
ゼスはそこで初めて僕に視線を向けた。その瞳は、警告と――そしてほんの少しの期待が混じった色であるように感じた。
釘を刺すことを忘れないのが、彼らしい。
だが、僕にとって、それは望外の提案だった。
「わかった。感謝する」
こうして、僕は休息日のほとんどを、暗部の拠点の一角にある、埃っぽい資料室で過ごすようになった。
とはいえ、任務の合間の刹那の時間だけだけども。
資料室は、黴と古い紙の匂いに満ちていた。
壁一面に並べられた書架には、歴史、地理、文化に関する膨大な書物が、分厚い埃を被って眠るように収められている。窓は小さく、そこから差し込む光の筋が、空気中を舞う無数の塵をきらきらと照らし出していた。
僕は、貪るようにそれらの資料を読み漁った。
最初は、文字が読めるのかと、今更ながら思ったけど、杞憂に終わった。
魔法なのか不思議技術なのか、どんな方法を用いているかはわからないけど、話している言葉と同じように文字も不自由なく使えた。
まず僕は、今いる、このアルシオン王国の地図を広げた。
王都アルクスを中心に、放射状に広がる街道。点在する都市や村。そして、北に広がるガリア帝国との、長く複雑な国境線。その一つ一つの地名が、僕がこれから赴くかもしれない戦場なのだと思うと、乾いた紙の地図が、妙に生々しいものに感じられた。
次に、僕が最初にこの世界で足を踏み入れた、リスティン公国の地図。
アルシオン王国の属国であり、その北に位置する国だ。ラクサ村があった場所でもある。大樹海と山脈に接する、自然豊かな小国。その地図の片隅には、僕がロマナやミトラと過ごした、あの村が二重線で消されていた。
そして、現在、アルシオン王国と戦争を繰り広げている、ガリア帝国の地図。
広大な領土を持つ、大陸東部の最大の国家。その領地は、年々拡大を続けているという。その侵略意欲は、僕のいた世界の歴史を見ているみたいだ。
僕は、それらの地図まず覚えた。噂では、アルシオン王国はかなり劣勢だが、徹底抗戦の姿勢を崩していないらしい。つまり、戦火の場所が任務地になることもあるのだろうと、想像したから。
それに、ロマナちゃん達を探しに行くために、自分がどこにいて、どこへ向かうべきなのか。そのための、道標が欲しかった。
地理だけではない。過去の暗部の報告書も読み漁った。
この国の暗部は何をしてきたのか。誰の指示でそれが成されたのか。
この大陸で繰り返されてきた、数多の戦争と、興亡の歴史を読んだ。英雄の物語も、裏切りの悲劇も。勝者によって記された記録を読んで、現状を綴るその行間を僕は追った。
間者たちの上げてくる報告書も参考になった。様々な国や民族の、生活様式や信仰を知った。リスティン公国の精霊信仰や、東北に位置する神聖国の唯一神教、あるいは名もなき土着の神々。
僕は精霊から見た人々の生活しか知らなかったが、人から見た人外への関わりを知るには、良い時間だった。
ある日の午後、いつものように資料室で分厚い地理書を広げていると、不意に背後から声がした。
「よう、新入り。またお勉強か? 相変わらず、真面目なこった」
振り返ると、そこには、壁に寄りかかって腕を組む、クロウの姿があった。すでに新入りと呼ぶには、時間が経ちすぎているが、彼は時々僕をそう呼んだ。
彼は、いつものように皮肉な笑みを浮かべていたが、その目には、からかい以外の色が混じっているように見えた。
「……何か用?」
「ただの暇つぶしだ。たまり場は、いつもの連中がバカ騒ぎしてて、うるさくてかなわん。お前が、そんなに熱心に何を読んでるのか、気になっただけだ」
彼はそう言うと、僕の隣にどかりと腰を下ろし、僕が広げていた地図を覗き込んだ。
「…大陸全図か。そんなもん見て、何になる?」
「自分のいる場所を知るため」
「ふん。そんなもん知ったところで、腹の足しにもなりゃしねえよ。どうせ俺たちこいつがある限り、逃げられはしねぇぞ。」
クロウは、つまらなそうに鼻を鳴らながら、首輪を弾く。
だが、彼は立ち去ろうとはせず、しばらくの間、僕の隣で地図を眺めていた。
「……なあ、リン」
不意に、彼が僕の名前を呼んだ。
「お前、『異世界人』って話、聞いたことあるか?」
その言葉に、僕は本から顔を上げた。
「異世界人……?」
「ああ。なんでも、俺たちとは違う世界から、突然こっちの世界にやってきた連中のことだ。大陸の西側じゃ、一年くらい前に、そいつらが大量に召喚されたって噂だぜ。この前の任務で潜入した港町で、西から来たっていう船乗りが話してるのを聞いたんだ」
クロウは、まるでゴシップ誌を読むような、軽い口調で言った。
「こっちの東側じゃ、あまり聞かねえ話だがな。……ただ、ガリア帝国には、何人かいるらしい。西側から、わざわざ奴隷として連れてきたって話だ」
ガリア帝国に、僕と同じ『転移者』が。
その事実は、僕の心に、小さな波紋を広げた。
「そいつらはなんでも、魔法でも魔術でもない、特別な力を持ってるらしい。一人で、一個師団を壊滅させたなんて、とんでもねえ噂もある。まあ、話半分に聞いとくべきだろうがな」
クロウは、少しだけ声を潜めて言った。
「で、だ。そいつらの特徴が、面白いことによく似てるんだとさ」
彼は、僕の顔をじっと見つめた。
その視線が、僕の髪と、瞳の色を捉えているのがわかった。
「黒い髪に、黒い瞳。――まるで、お前みたいにな」
僕は、努めて平静を装い、彼から視線を逸らし、再び本に目を落とした。
「……僕のこの色は、地毛じゃない。精霊と契約した時に、変わったんだ」
彼は嘘を見破るのがうまい。下手な嘘はつかないで、事実を答える。
それに、僕のユニークスキル『時間停止』は、暗部となってからは一度も使っていない。
精霊の力を使っていることは、ミラみたいな精霊使いが証明してくれるだろう。
僕の言葉に、クロウはしばらくの間、黙り込んでいた。
彼の探るような視線が、僕の横顔に突き刺さる。資料室の静寂が、やけに重く感じられた。
やがて、彼は、ふっと息を漏らした。
「……ああ、そういや、お前は月夜の湖の精霊とやらと契約したんだったか」
彼は、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。その仕草には、何かを振り払うような響きがあった。
「精霊の影響で、髪や目の色が変わるって話は、聞いたことがある。……そういうこともあるか」
クロウは、納得したような、あるいは、無理やり自分を納得させたような口調で言った。
彼は、それ以上、僕の出自について尋ねることはなかった。僕の実力を知っているからこそ、深く詮索するのは得策ではないと判断したのかもしれない。
「まあ、どっちにしろ、だ」
彼は立ち上がりながら、付け加えた。
「その黒髪黒目は、あまり人前で晒さねえ方がいいかもな。特に、前線じゃ、真っ先に殺しの対象になる。覚えとけよ」
彼はそう言い残すと、今度こそ本当に、ひらひらと手を振り、資料室を出て行った。
一人残された僕は、再び本に目を落とした。
だが、綴られた文字は、もう僕の頭には入ってこなかった。
異世界人。転移者。ガリア帝国。
そして、黒髪黒目。
僕がこの世界に来てから、もう一年以上が経っていた。
日本での日々は、遠い昔の夢のようだ。
同級生や幼馴染はいま、どうしているだろうか。あの白い空間にいた人々は今、何をしているのだろうか。
僕は、暗部の駒として、ただ、与えられた任務をこなすだけの日々を送っている。
その先に、何があるのか。
ロマナちゃん達に、再び会える日は来るのか。
何も、わからない。
ただ、世界は、変化し続けていることだけは、世界が変わってもと変わらないようだ。
僕は、静かに本を閉じた。