暗部の一員となってから、一年が過ぎた。
僕の生活は、報告書の束のように、ただ淡々と積み重なっていく。
任務は、日を追うごとにその危険度を増していった。
最初の頃にこなしていた貴族の不正調査や密偵の監視といった仕事は、いつしか暗殺や破壊工作といった、より直接的で、より血生臭いものへと姿を変えていた。
おそらく、ガリア帝国との戦争が、それだけ激化していて、新人の僕にも回ってくるくらいには手が足りないのだろう。
資料室で閲覧を許可された戦況報告書には、乾いた文字で、アルシオン王国の敗北が記され続けていた。北方の砦が落ち、西の街が奪われ、前線はじりじりと、しかし確実に後退している。前線の街は、まるで消耗品のように、取られては取り返す報告が繰り返され、そして、いくつかの街は取られたまま、アルシオンの地図からその名が消えていく。
暗部の人員も、常に不足しているようだった。
僕よりも新しく入った新人はすぐに消えていくし、前からいた暗部の人員も徐々に見なくなっていく。
かつて地下の酒場で騒いでいた顔ぶれが、ある日を境にぱったりと姿を見せなくなる。誰もそのことに触れないが、彼らが二度と戻らないであろうことは、皆が暗黙のうちに理解していた。死は、この組織において、あまりにもありふれた日常の一部だった。
そんなある日、ゼスからの召集がかかった。
いつものように、重い扉を開けて執務室に入る。そこにはクロウとミラ以外にも、何人かの暗部のメンバーの姿があった。どうやら大規模な作戦が始まるみたいだ。
部屋の空気は、いつもより張り詰め、ゼスの机に広げられた地図が、まるでこれから捌かれる獲物のように、静かに横たわっていた。
「揃ったな」
ゼスは、僕たちの顔を順に見回すと、重々しく口を開いた。
僕が最後みたいだ。
「新たな任務だ」
彼の指が、地図上の一点を叩く。そこは、僕がかつて滞在したラクサ村があった土地――リスティン公国だった。
「リスティン公爵、オルティス・フォン・リスティンを殺害せよ」
その言葉は、僕の耳にはひどく奇妙に響いた。
リスティン公国は、アルシオン王国の属国のはずだ。食料の供給や、兵士の徴兵にも協力していると聞く。その国の長を――なぜだろう。
僕の疑問を読み取ったかのように、ゼスは説明を続けた。
「公爵は、表向きは我々に従順な姿勢を見せている。だが、裏ではガリア帝国と密約を交わしているとの情報が入った。我々を裏切り、帝国側に寝返るつもりらしい」
「……それは、確かな情報なのか?」
そんな声が、誰かの口から漏れた。暗部らしくない感情の混じった声だった。
乾いた静寂が、部屋を満たす。
「――というのは、表向きの情報だ」
そうゼスは告げると、冷たい声で続けた。
「我々のガリア戦線での戦況は非常に悪い。公国は食料と人員の支援をしているが、あくまで主権は公国にあり、その補給線は不安定である。そこで、上は公国を完全なる植民地とすることを決定した」」
アルシオン王国はリスティン公国を、属国から完全な植民地へと変えようとしている。そのための、口実と実行計画。それが今回の暗殺任務なのだろう。公爵が本当に裏切ったのかどうかなど、彼らにとっては些細な問題でしかない。
僕の脳裏に、ラクサ村の穏やかな風景が蘇る。
大樹の木漏れ日、湖の静かな水面、そして、マリアさんの笑顔。
ささやかな日常があった場所。
その土地を治めていた男を、殺すのか。
一瞬、任務の拒否が頭をよぎった。この首輪は僕には効かない。命令の拒否は可能だった。
だが、すぐに、その考えを打ち消した。
村はもうない。僕がいた村はガリア帝国によって、消え去った。
今の僕は、アルシオン王国の暗部という組織に属する、ただの駒だ。それに、僕がこの任務を拒否したところで、他の誰かが実行するだけ。結果は何も変わらないだろう。
……僕は別にこの世界の政治に主体的に関わる気は無かった。統治者が変わり、その地の民たちの生活が変わろうとも、僕は部外者でしかない。つまり、駒として動くのであれば、拒否する理由にはならない。
僕の心の内を見透かすように、ゼスは話を続ける。
「任務は三日後の夜。クロウ、貴様は隊を率いて、城の主要閣僚を拘束しろ。ミラは後方支援――」
ゼスが部屋にいる人間一人一人に指示を出す。
「――そして、リン。貴様には、本隊と共に城に突入し、抵抗する者すべてを排除してもらう」
「……了解」
僕は機械のように、そう答えた。
リスティン公国の首都は、昼間から冷たい雨に濡れていた。
僕たち暗部の部隊は、降りしきる雨音に紛れて、公爵の城へと忍び寄る。
城壁は高く、堅牢だった。だが、クロウが事前に手に入れていた情報通り、警備の薄い箇所がいくつか存在する。僕たちは、音もなく城壁を乗り越え、城内への侵入に成功した。
「合図と共に突入する。各々、配置につけ」
クロウが低い声で指示を出す。
僕たちは、城の中庭に面した回廊の影に身を潜め、その時を待った。
雨粒が石畳を叩く音だけが、やけに大きく聞こえる。
僕は意識を集中させた。僕の体から染み出した黒い水が、足元の水たまりに溶け込み、雨水に混じって、城の敷地全体へと広がっていく。
――作戦開始
合図と共に、僕たちは一斉に動き出した。
静寂は破られ、城内に、怒号と、剣戟の音が響き渡る。
「敵襲! 敵襲だ!」
「何者だ!」
異変に気づいた城の衛兵たちが、次々と駆けつけてくる。
だが、彼らの抵抗は、僕たちの前では、あまりにも無力だった。
事前情報通り、リスティン公国はまともな戦力を有していないようだ。
僕は、その混乱の中心から少し離れた場所で、静かに闇を操っていた。
僕の足元から伸びた黒い影が、まるで生き物のように、衛兵たちの足に絡みつき、闇に飲まれる。
ただ、静かに、そして確実に、城の機能が麻痺していく。
「閣下をお守りしろ!」
「持ち場を離れるな!」
衛兵たちの抵抗は熾烈だったが、僕たちの進軍を止めるには至らない。
本館の扉が破られ、僕たちは、豪華な装飾が施された城の内部へと雪崩れ込んだ。
「行け!」
クロウが僕に向かって叫ぶ。
僕は頷くと、単独で、階段を駆け上がった。僕の任務は、城の戦力を破壊することだ。単独で行動することで、相手の戦力を分散する。
僕の行く手を阻もうとする衛兵たちを、影で絡め取りながら、僕は城の中を歩き回る。
やがて、他の隊員たちの声も、剣戟の音も遠くなった。
おそらく、城の主要な部分はほぼ制圧が完了したのだろう。
僕はふと足を止め、近くにあった一つの扉を開けた。
そこは城の図書室だった。
壁一面に、天井まで届くほどの巨大な書架が並び、びっしりと本が詰まっている。戦闘の喧騒が嘘のような、静寂と、古い紙の匂いに満ちた空間だった。
もう、僕がやるべきことは、あまり残っていないだろう。
公爵の殺害は、別の実行役がいるはずだ。僕は、ここで少し、時間を潰すことにした。
僕は、ゆっくりと書架の間を歩き、背表紙を眺める。
歴史書、詩集、魔術に関する専門書。その蔵書の数は、暗部で見ることができる資料よりもはるかに豊富だ。
ふと、一冊の地図が目に留まった。
手に取って開いてみると、それは、アルシオンの資料室には置いていなかった、大陸南東部の詳細な地図だった。
僕は、その地図を、食い入るように見つめた。
リスティン公国の北にある険しい山脈と河川、そして南部に広がる都市群。
もしかしたら、ロマナとミトラは、この地図のどこかにいるのかもしれない。
あの森で整備した狩猟小屋は南下するように建てられていた。もしも、狩猟小屋を転々として逃げていったのであれば、ガリア帝国の支配が及ばない、遠い南の地にたどり着いていてもおかしくはない。
だが――どうやって探せばいい?
現代日本のように、インターネットもなければ、住民票なども整備されてはいないだろう。国を跨いだ人探しは困難に違いない。
――そうだ、ここは異世界なのだ。異世界らしく、人探しの魔術のようなものがあれば、何か手がかりが掴めるかもしれない。僕は、書架の中から、魔術に関する書物を探し始めた。
しかし、リスティン公国は、古くから精霊信仰が根付いた国だ。魔術に関する資料は、ほとんど見当たらなかった。精霊術に関する書物は数多くあったが、僕が求める答えは、そこにはなかった。
なにか、手掛かりは無いかな…と書庫の中を歩き回っていた時だった。
書架の側面に、きらめくな継ぎ目があることに気づいた。
精霊としての知識が答えを教えてくれる
精霊術による隠し扉だ。
僕は、その扉にそっと手を触れた。
すると、扉の表面に刻まれた微細な紋様が、淡い光を放ち始めた。
僕と同じ、水の精霊の気配がする。だが、その力はひどく弱い。
僕が、自身の精霊としての力を少しだけ解放すると、封印は強制的に解けた。そして、隠し扉が音もなく開いた。
扉の先は、狭い下り階段になっていた。
僕は、躊躇なく、その暗闇の中へと足を踏み入れた。
階段を下りきった先は、書庫の地下に作られた、小さな隠し部屋だった。奥には通路が見える。
部屋の中には、一人の少年と一人の護衛が、体を固くして僕を待っていた。
年の頃は、僕と同じくらいか、あるいは少し下だろうか。上質な絹の服は埃にまみれ、金色の髪は乱れている。その青い瞳には強い意志が宿っている。
護衛は、ただ少年のそばに立ち、僕を見つめている。
僕の姿を認めると、少年は、震える手で、腰に提げた細身の剣を抜いた。
「……来るな! 僕を誰だと思っている!」
「……」
僕は、何も答えず、ただ少年を見つめた。
おそらく、彼はこの国の王子か、それに準ずる身分の人間だろう。他の暗部隊員に見つかれば、間違いなく殺される。ゼスは後腐れのないように、公爵家を根絶やしにするよう命じているはずだ。
だが、僕に下された命令は、「抵抗する者の排除」。
この少年を殺すことは、僕の任務の範囲外にもなりえる。
「僕の任務は、この城の制圧だ。君を捕らえることは指示されていない。だから、見逃してあげる」
僕の言葉に、少年は、信じられないといった表情で顔を上げた。
「……なぜだ? お前たちは、父上を殺しに来たのだろう!」
「そうだね。……行っていいよ。僕は見なかったことにするよ」
僕は、少年に背を向け、螺旋階段を上り始めた。
背後から、少年の声がした。
振り返ると、彼は剣を下ろし、僕に向かって深く頭を下げていた。
「……感謝する……強き精霊の契約者よ」
僕は、何も答えず、再び歩き出した。
その後も、図書室に戻って魔術書を探していると、クロウが腕を組みながら入ってきた。
「どこをほっつき歩いてやがった。とっくに終わってるぞ」
彼は、僕の全身を値踏みするように見ると、訝しげに眉をひそめた。
「……なんだか、妙に湿っぽい匂いがするな。どこぞの地下にでも潜ってたのか?」
「別に。書物を漁っていただけだよ。ここ、換気がされてないから、湿っぽいんだろ」
僕は、何食わぬ顔で答えた。
「何か、面白い魔術書でもないかと思って」
「へっ、魔術書だと? 精霊術が使えるてめえには、必要ねえ代物だろうが」
クロウは、鼻で笑った。
彼は、僕の言葉を疑っているようだったが、それ以上、深く追及しようとはしなかった。
「まあ、いい。さっさと撤収するぞ。後始末は、別の部隊がやる」
クロウに促され、僕は彼と共に図書室を後にした。
城の廊下は死体の山で、地獄のような有様だった。
僕が見逃した少年は、無事に逃げ延びることができただろうか。
ふと、そんなことを考えた。
アルクスへと戻る馬車の中、僕は、窓の外を流れる景色を、ただぼんやりと眺めていた。
雨は、いつの間にか上がっていた。
リスティン公国は、この日を境にアルシオン王国に併合された。
公爵の裏切りは、大々的に発表され、アルシオン王国の介入は、正当化された。
僕たちの任務は、完璧に遂行されたのだ。
なぜ、あの少年を見逃したのか。
その答えの出ない問いが、僕の中で響き続けていた。