リスティン公国での任務を終えてから、季節は巡り、僕がこの世界に来てから二度目の冬が、凍てつくような風と共に王都を吹き抜けていく。
アルシオン公国の暗部になってから、一年と半年が過ぎた。
僕の日常は、報告書を提出し、割り当てられた部屋のベッドに倒れ込み、そしてまた、新たな命令を受けて戦場へと向かう。その繰り返し。
僕に任される任務の範囲が増えてきたからか、より一層忙しくなってきた。
そして、アルシオン王国の敗色は、日に日に濃厚になっていた。
資料室で閲覧できる戦況報告書の地図には、ガリア帝国の国境を示すインクの染みが、じわじわと、しかし確実に王都アルクスへと迫ってきている。北の防衛線は寸断され、西の穀倉地帯は完全に奪われた。もはや、王国が持ちこたえているのは、奇跡か、あるいは敵の気まぐれか。そんな声が、暗部の隊員たちの間でも囁かれるようになっていた。
「ガリアの奴ら、いよいよ本腰を入れてきたらしいぜ」
ある日の待機日。
いつものように資料室の片隅で古びた歴史書を広げていると、クロウが、どこからともなく現れて僕の隣にどかりと腰を下ろした。その手には、酒の匂いがする器が握られている。本来、資料室への飲食物の持ち込みは禁止されているはずだが、彼はそんな規則を気にする素振りも見せない。
「例の異世界人とかいう連中を、本格的に運用し始めたって話だ」
彼の口から出た言葉に、僕は本から顔を上げた。
その単語は、この世界で生きる僕の、数少ない興味のうちの一つだ。
「前線の街がまた一つ落とされたらしいぜ。王国の誇る第三魔術部隊が、半日で壊滅させられたらしい。生き残った兵士の話じゃ、空から巨大な火の玉が、雨みたいに降り注いできたんだとさ」
クロウは、まるで他人事のように、しかしその声には隠しきれない苛立ちを滲ませながら言った。
彼は一口煽ると、忌々しげに舌打ちをする。
「……うちも、負けちまうのかねぇー。あーあ。負けるなら、さっさと降参してほしいんだが」
以前から、アルシオン王国は劣勢だった。そして、強力なスキルを持つ異世界人が、戦場に投下され、より苦境に立たされているのだろう。
僕は、何も答えなかった。
ただ、脳裏に森で別れたクラスメイトの顔が浮かんだ。もしも、彼らが戦場にいたとき、僕は彼らを殺せるだろうか。
特別親しい関係の人間は、クラスにはいなかった。だから、その想像はうまく働かなかった。
結局のところ、その場で考えるしかないのかもしれない。彼らを目にした時に何を思うかは、今の僕にはわからない。
「どうした、また難しい顔しやがって」
クロウが、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「お前も、他人事じゃねえんだぞ。その見た目じゃ、戦場じゃ真っ先に狙われるだろうよ。まぁ、お前のそのふざけた魔法が通用するか、見ものだな」
「……気をつけるよ」
僕は短く答え、再び本に視線を落とした。
クロウは、僕のその態度が気に入らなかったのか、ふんと鼻を鳴らすと、器の中身を飲み干して立ち上がった。
「まあ、せいぜい、犬死にしねえようにな」
彼はそう言い残し、資料室を出て行った。
一人残された部屋で、僕は、静かに本を閉じた。
ガリア帝国の異世界人。白い空間で渡された紙には、殺しあうことを推進するような内容が書かれていたのを思い出す。
いざとなれば、僕のスキルを使えば、彼らを殺すことは容易だろう。
だが、その先に答えは、まだ、見つかりそうになかった。
その数日後、ゼスからの招集がかかった。
何度通り抜けたかも思い出せない、執務室の重い扉を開けると、そこにはいつもの重苦しい空気が満ちていた。ゼスは、机に広げられたアルシオン王国の地図を、険しい表情で見下ろしている。その顔には、深い疲労が刻まれていた。
「新たな任務だ」
僕と、後から入ってきたクロウ、そしてミラの顔を順に見回し、ゼスは重々しく口を開いた。
「国内の、反乱分子を粛清せよ」
「……反乱、ですか」
ミラはリスティン公国の一件から、気力を落としていた。クロウはいつもの調子で、訝しげに問い返す。
「滅亡の危機にもかかわらず、内輪揉めか?今時、そんな馬鹿がいるとは驚きだな」
「馬鹿だからこそ、逆らうのだ」
ゼスは、冷たく言い放った。
「食料の配給が滞り、各地で飢饉の兆候が出始めている。それに加え、前線の穴を埋めるための過度な徴兵が、民衆の不満に火をつけたようだな。いくつかの都市や村で、武装蜂起の兆しが見られる。多少の不平不満は見過ごしてきたが、看過できん問題になったのだ」
その言葉に、僕は、一つの疑問を口にせずにはいられなかった。
「……前線には、暗部を投入しないのですか? 敵の異世界人への対抗策は」
僕の問いに、ゼスは、初めて地図から顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見た。
その瞳の奥には、底なしの闇のような、深い絶望が揺らめいていた。
「他国との戦争は、貴族と騎士団の領分だ。我らが彼らの面子を潰すわけにはいかん。我々の介入は、これまで通り、最小限に留められる」
彼の声は、ひどく乾いている。
「それに、今の我々に前線を押し戻す力などない。それとも、貴様一人で戦争をする気か?」
その言葉は、僕への期待が無いことを示していた。彼は、僕がただの精霊使いであると信じている。そして、精霊使いの力だけでは、国家間の戦争の趨勢を決することはできないと、冷静に判断しているのだ。
「我々の仕事は、この国が、内側から腐り落ちるのを防ぐことだ。外敵によって滅ぼされる前に、自壊するなど、断じてあってはならん」
ゼスの指の関節が、白く浮き上がっている。
「いいか、これは命令だ。国内の不穏分子を、根絶やしにしろ。我々にはもう、時間がないのだ」
この国の暗部をまとめ上げてきた男の、最後の足掻き。
僕たちは、そのための、血に濡れた刃となるのだ。
王都アルクスを出発する日の朝は、鉛色の雲が空を覆い、冷たい小雨がぱらついていた。
馬車に揺られながら眺める街並みは、僕が初めてこの街に来た時とは、まるで別の場所のように、その姿を変えてしまっていた。
活気のあった市場は閑散としている。道端には、飢えと寒さで力なく座り込む人々の姿が目立ち、その虚ろな瞳は、僕たちの乗る馬車を、何の感情も映さずにただ見送っていた。時折、衛兵と市民が言い争う声や、幼い子供の泣き叫ぶ声が、雨音に混じって聞こえてくる。
王都ですら、この有様だ。
地方の都市や村が、どれほど悲惨な状況に陥っているかは、想像に難くない。
「……ちっ。見てらんねえな」
御者台に座るクロウが、吐き捨てるように言った。
荷台では、ミラが、膝の上で小さなリュートを抱きしめ、俯いたまま動かない。
彼女の故郷がどのような状態なのかを僕らが知るすべはない。ただ、ここよりは良い状況であると、願うことしかできない。
そして、僕たちの任務は、もはや、焼け石の水をかけるようなものだった。
飢えに苦しむ民衆が、生きるために武器を取る。僕たちは、その指導者を殺し、組織を壊滅させる。だが、根本的な原因である飢餓がなくならない限り、またすぐに、別の場所で、新たな反乱の火の手が上がる。
対症療法だ。それも悪手の。
ただ、崩壊の時間を、わずかに引き延ばしているだけだ。
そのことを、チームの誰もが、痛いほどに理解していた。
それから数ヶ月、僕たちは、アルシオン王国内を転々としながら、反乱の鎮圧を繰り返した。
食料庫を襲撃しようとした市民グループのリーダーを、夜陰に紛れて暗殺した。
徴兵を拒否して立てこもった若者たちを、力で制圧し、軍に引き渡した。
不正に財をため込んだ役人を処刑し、民の不満を和らげた。
任務を重ねるごとに、僕らは確実に摩耗していった。
僕が対象としているのは、ガリア帝国の兵士ではなし、悪人でもない。この国に生きる人々だ。彼らの顔には、憎しみや怒りだけでなく、生きることへの絶望が、深く刻まれていた。
僕の足元から伸びる黒い影が、彼らの命の水を取り込むたびに、精霊としての力が彼らの最後の叫びを一緒に取り込む。
『ただ、生きたいだけなんだ』
『こんな国、もう終わりだ』
でも、これは任務だ。僕に与えられた役割なんだ。
休息日はほとんどなくなった。
一つの任務を終えると、休む間もなく、次の任務地へと向かう。暗部の組織全体が、悲鳴を上げているのが分かった。人員は常に不足し、誰もが疲弊しきっていた。
クロウは、日に日に口数が少なくなり、その目には、常に鋭い光が宿るようになった。彼は、任務の合間に、一人で酒を呷ることが増えた。
ミラは、すっかり口を閉ざしてしまった。休息日に彼女の奏でるリュートの音色も、いつしか、聞こえなくなった。
だが、僕の心は変化しない。精霊と化した僕は、気が付かないうちに変化にだいぶ強くなってしまったようだ。
小さな心の揺れを感じることは多々あるけども、それでも僕はかわらない。
そんなある夜。
西部の小さな街で、反乱軍の残党狩りを終えた僕たちは、ボロボロの状態で、指定された拠点である寂れた宿屋に戻ってきた。
「……これで、終わりだ」
クロウが、血の付いたナイフを乱暴にテーブルに突き立て、喘ぐように言った。彼の革鎧は、返り血で赤黒く染まっている。
ミラは、壁際に座り込んだまま、虚ろな目で床の一点を見つめていた。
僕もまた、疲労困憊だった。
この数日間、ほとんど休んでいない。肉体は疲労しなくても、精神の摩耗は、どうすることもできなかった。
もう、何も考えたくない。ただ、意識を一度消したい。
僕が、ベッドに倒れ込もうとした、その時だった。
――緊急招集
頭の中に、直接、司令部の連絡員の切羽詰まった声が響いた。
僕たちは、無言で顔を見合わせた。
こんな時間に、一体何が。嫌な予感が、胸をよぎる。
重い体を引きずるようにして、僕たちは、ミラの持つ通信用の魔道具の前に集まった。
魔道具が淡い光を放ち、ゼスの声が、ノイズ混じりに響く。。
『……聞け。貴様らは、これより最前線へと向かってもらう』
最前線。
その言葉が、僕たちの疲弊しきった脳に、鈍い衝撃となって突き刺さった。
『目的地は、要塞都市『フォルトゥナ』。ガリア帝国との、現在の最前線だ』
『詳細は、移動しながら伝える。……逃亡は許さん』
フォルトゥナ。
その名は、かつて地図で見た名前だ。王都アルクスから、そう遠くない場所に位置する、王国最後の砦。
そこが、最前線になったということは、つまり――。
ノイズと共に音が、ぷつりと消えた。
部屋には、重い沈黙だけが残された。
というか、この通信具、ミラ以外も使えたんだな。そんな感想が疲れた僕の頭を横切った。
僕たちは、互いに顔を見合わせることもなく、ただ、立ち尽くしていた。
終わりのないと思われた、国内での不毛な殺し合いの日々。
その終わりは、あまりにも突然に、僕たちの前に突きつけられた。
これが最後の命令か。否か。
そして、この国の、そして、僕自身の運命を決定づける場所になるのかもしれない。
僕は、静かに、突き刺さったナイフの反射を眺めていた。