ゼスの声が消えた後も、僕たちはしばらくの間、通信具の前に立ち尽くしていた。
魔道具のかすかな光が、部屋の隅に追いやられた僕たちの影を、まるで墓標のように長く伸ばしている。
ついに最前線送りか。そんな感想がため息とともに口から零れそうになる。
「……はっ」
沈黙を破ったのは、クロウの乾いた笑い声だった。
彼は、テーブルに突き立てたままだったナイフを引き抜くと、その刃先で爪を弄びながら、独り言のように呟いた。
「やっとかよ。ようやく、このしみったれた生活に終わりが来るってことだろ」
その声には、いつものような皮肉の色よりも他の感情が混じっているようだ。底なしの虚無と、そして、ほんのわずかな高揚感が混じり合っているように聞こえた。彼は、この終わりのない泥沼から抜け出せるのなら、それがたとえ死地であっても構わないと、そう言っているのだ。
ミラは、壁際に座り込んだまま、顔を上げようとしない。
彼女の小さな肩が、小刻みに震えている。リュートを抱きしめる指先は、血の気を失って白くなっていた。彼女にとって、この命令は死刑宣告と何ら変わりないのだろう。ただ、彼女は僕らと違って、隷属の首輪をつけていない。逃げようと思えば、いつでも逃げれるはずだ。
要塞都市『フォルトゥナ』。
王都アルクスから、馬車で三日ほどの距離しかない。ここが落とされたら、王都まで戦火は広がるだろう。
僕はこれが最後の任務になるのかなんて、ことを考えていた。
僕たちは、夜が明けるのを待たず、暗闇の中を馬車で出発した。
休む間もなく酷使された馬は、苦しげな息を吐きながら、ぬかるんだ道を懸命に進んでいく。車輪が軋む音と、雨音だけが、僕たちを揺さぶっていた。
フォルトゥナへと続く道は、これまでの任務地へ向かう道とは様子が違った。
王都へと向かう人々が蟻のように列を成して進む。彼らは旅人でも冒険者でも商人でもない。荷物もほとんど持っていない、ただの避難民だ。
フォルトゥナや、その周辺の村々から逃れてきた人々。
彼らは、老人から幼い子供まで、着の身着のまま、わずかな家財を背負い、あるいは引きずりながら、絶望的な表情で、王都を目指して歩き続けていた。
その列は、どこまでも、どこまでも続いていた。
泥にまみれ、誰もが虚ろな目をしている。その瞳には、ひどく濁っている。ただ、生きるという本能だけが、彼らの足を前へと動かしているようだった。
僕たちの乗る馬車が、その列の横を通り過ぎる時、何人かの避難民が、こちらに気づいて顔を上げた。
その目に浮かんだのは、羨望でも、嫉妬でもない。ただ、死地へと向かう者たちを見る、憐れみと、そして、わずかな安堵の色だった。彼らは、僕たちが自分たちの身代わりになることを、無意識のうちに理解しているのだ。
「……ちっ」
御者台のクロウが、忌々しげに舌打ちをするのが聞こえた。
荷台では、ミラが、ローブの奥で、さらに深く顔をうずめている。
僕もまた、その光景から目を逸らすことができなかった。
僕の体は精霊となってから、人の感情の機微から遠ざかったはずだった。それでも群衆が作り出す感情には揺さぶられるようだった。
彼らの体から発せられる、悲しみ、怒り、恐怖、そして諦観。
それらが、空気中の水分に混じって、僕の中へと少量流れ込んでくる。
それは、前にブリエンツで感じた情報の洪水とは、全く質の違うものだった。もっと生々しく、もっと重い、魂の叫びだった。
三日目の夕暮れ、僕たちは、ついにフォルトゥナの街を囲む壁を遠望できる丘の上にたどり着いた。
「……あれが、フォルトゥナか」
クロウが、乾いた声で呟いた。
眼下に広がる要塞都市は、地球の言葉で幸運の女神を表すくせに、見放してしまったのだろうか。
かつては白く輝いていたであろう壁は、至る所が黒く焼け焦げており、攻撃の跡がいくつも見える。いくつもあったはずの監視塔は、そのほとんどがへし折られ、無残な姿を晒していた。そして、街のあちこちから昇る黒い煙が、まるで死者の魂のように、ゆらゆらと立ち上っている。
街の北西に弓矢や魔法が届かない位置に陣を敷いたガリア帝国軍は、遠く離れたこの丘の上からでも、見れるくらいには大きな規模だった。無数の天幕が、まるで悪性の腫瘍のように大地を覆い尽くし、兵士たちが慌ただしく動き回っている。
「……もう、時間の問題だな」
クロウの言葉に、誰も反論する者はいなかった。
この街が、早々に陥落するであろうことは、軍事の素人である僕にさえ、容易に想像できた。
僕たちは、街から少し離れた森の中に馬車を隠し、最後の作戦会議を行った。
通信用の魔道具を通して、ゼスからの最終的な指示が伝えられる。
『――標的は、ガリア帝国の異世界人三名だ。うち一名は後方指揮官タイプと見られ、前線には出てこない。残る二名が、前線で直接戦闘を行うタイプだ。貴様らの任務は、このうちの一名、可能であれば二名を抹殺することである』
ゼスの声は、ノイズ混じりながらも、いつものように冷静だった。
『司令部からの情報によれば、二名の異世界人は、常に共に行動する傾向がある。一人は、先日の第三魔術部隊を壊滅させた、強力な火炎系の能力者であることが判明している。もう一人の能力は不明だが、おそらくは、それを補助する役割だろう』
皆、ゼスのもたらす情報に耳を傾けている。
『街が陥落した後、敵は残存兵力の掃討と、略奪を行う。その混乱に乗じて、標的に接近し、仕留めろ。これが、貴様らに与えられた役割である』
「……了解」
クロウが、短く答える。
『ミラは、この森で待機。リンとクロウの潜入後、外部との連絡を維持し、脱出のタイミングを計れ。ただし、これより先、こちらからの定時連絡は行わない。下手に通信の魔術を使えば、敵に察知される危険性が高い。緊急時以外の通信は、一切禁ずる』
「……はい」
ミラが、か細い声で答えた。
『リン、クロウ。貴様らには、街の地下水路の地図を転送しておく。脱出の際に利用しろ。……以上だ』
ゼスの言葉を最後に、通信は途絶えた。
部屋には、再び、森の木々が風に揺れる音だけが響く。
「……さて、と」
クロウは、立ち上がると、背負っていた荷物の中から、いくつかの道具を取り出し始めた。ワイヤー、鉤縄、そして、いくつかの小さな爆薬。その手つきは、いつも通りで緊張は感じられない。
「ミラ。お前は、絶対にここを動くんじゃねえぞ。俺たちが戻るまで、何があってもだ。いいな」
クロウは、ミラの方を振り返り、厳しい口調で言った。それは、彼女を案じているからこその言葉だと、僕にはわかった。
「……はい。わかっています」
ミラは、こくりと頷いた。その瞳には、涙が浮かんでいたが、彼女は決してそれを零すことはなかった。
「リンさん、クロウさん……ご、ご武運を……」
彼女は、僕たち二人に向かって、深く、深く頭を下げた。
「てめぇも死んだら、殺すからな」
クロウは、そう悪態をつくと、僕に視線を向けた。
「行くぞ、リン。最後の仕事だ」
僕は、無言で頷き、彼の後に続いた。
ミラが、僕たちの背中を、いつまでも見送っているのが、気配でわかった。
フォルトゥナの街は、死の匂いに満ちていた。
僕とクロウは、避難民の最後尾に紛れ込み、半ば崩れかけた小さな門をくぐった。
門を守っている兵士は、市民に扮した僕らのことを気にも留めなかった。絶望的な表情をした市民たちが、わずかな荷物を手に、我先にと街から逃げ出そうとしていた。その流れに逆らうようにして街へと入る僕たちは、ひどく奇妙な存在に見えたことだろう。
街の内部は、想像していたよりも特異な状況だった。
石畳の道は、打ち捨てられた家財道具で埋め尽くされている。かつては活気のあったであろう町並みには人はいなく、人気のない空いた商店だけが並んでいた。
路地裏には、逃げる気力のない人々が座り込んでいる。
時折、どこからか、人の呻き声や、助けを求める叫び声が聞こえてくる。だが、それに足を止める者は、誰もいない。誰もが、自分の命を守ることで精一杯だった。
「……ひでえ有様だな」
クロウが吐き捨てるように言った。
彼の言う通りだった。この街は、もはや、巨大な墓場と化していた。生き残っている人々も、ただ、死を待つだけだろう。
僕たちは、人目を避けながら、裏路地を選んで街の中心部へと進んでいく。
事前に共有された地図を頭の中に思い浮かべ、敵の侵攻ルート予想を考え、僕たちが潜むべき場所探す。
「敵の主力は、たぶん、正面の大通りから侵攻してくる」
クロウは、建物の影に身を潜めながら、低い声で言った。
「街を制圧した後、兵士どもはこの中央広場に集まるはずだ。ここが、一番街で広い場所だからな」
彼の指差す先には、街の中央に位置する、広大な広場があった。
かつては、市場が開かれ、人々で賑わっていたであろうその場所は、今は、がらんとして、不気味なほど静まり返っている。
「標的の異世界人も、おそらく、ここに姿を現す。手柄を立てた兵士たちを労うためか、あるいは、単なる見せしめか。どちらにせよ、奴らが最も油断する瞬間だ」
「どこに潜む?」
僕が尋ねると、クロウは、広場に面した、一軒の大きな建物を指差した。
三階建ての、立派な石造りの建物。おそらくは、裕福な商人の屋敷だったのだろう。今は、窓ガラスは割れ、扉は半開きになったまま、人の気配は全くない。
「さっき探索した感じだと、あの建物の地下がいい。あそこからなら、広場の様子がわかるだろう。いざとなれば、地下水路へ逃げれる」
クロが周囲の建物を探索す間、僕は、この街の地下水路に意識を飛ばして、構造を把握していた。
僕たちは、互いに頷き合うと、素早く広場を横切り、その屋敷の中へと滑り込んだ。
建物の中は、すでに略奪者によって徹底的に荒らされていた。
家具は破壊され、高価だったであろう調度品は、見るも無惨に砕け散っている。床には、割れた陶器の破片や、引き裂かれた書物のページが散乱していた。
僕たちは、物音を立てないように注意しながら、地下室へと続く階段を下りていく。
広めの地下室は、ワインセラーとして使われていたようだった。ひんやりとした空気の中に、空の樽や木箱、そして、こぼれた葡萄酒の甘酸っぱい匂いが散らばっていた。
「……ここで待つ。――敵が来た場合だが、少人数なら目立たないように消せ。大人数の場合は水路に逃げ込むぞ」
クロウは、壁を指さしながら近くの椅子に座り込むと、短く言った。
僕も、彼の向かい側に、静かに腰を下ろした。
地下室には、地上からのかすかな光が、通気口を通して差し込んでいるだけだった。
その薄明りの中で僕たちは、ただ、その時が来るのを待った。
時間は、まるで、固まってしまったかのように、ゆっくりと流れていく。
遠くで聞こえる砲撃の音と、時折、地上で響く建物の崩れる音が、僕たちがまだ生きていることを、かろうじて教えてくれていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
沈黙に耐えかねたように、クロウが、ぽつりと口を開いた。
「……なあ、リン」
「……なんだ」
「もし、ここを生き延びることができたら……お前は、どうするんだ?」
その問いは、あまりにも唐突で、そして、僕が考えて来なかった問だった。
――生き延びる。そもそも、この体で簡単に死ねるとは思っていなかった。
「……わからない」
僕は、正直に答えた。
「……ただ、探している人がいる。その人たちに、会わなければならない」
ロマナちゃんと、ミトラちゃん。
彼女たちの顔が、脳裏に浮かぶ。僕はマリアさんの最後を彼女たちに伝える義務がある。
「……そうか」
クロウは、それ以上、何も聞いてこなかった。
彼は、懐から、古びた銀のコインを取り出すと、それを指先で弾き始めた。ちりん、ちりん、という、乾いた音が、静かな地下室に響く。
僕もまた、目を閉じ、意識を集中させた。
この屋敷の地下を流れる、地下水路。その水の流れに、僕の意識を同調させていく。
広場の石畳の隙間から染み出した雨水。噴水の残骸に溜まった、淀んだ水。それら全てが、僕の感覚器官となる。
そして、僕は一日以上の時間をこの地下室で過ごした。
クロウは、地下水路の確認などをしに、定期的に外へ出かけている。
それ以外の時間は、交代で眠り機会を伺う。
――来た。
クロウの表情が、眠そうなものから、真剣なものへと変わる。
僕もまた、水脈を通して、それを感じ取っていた。
地響き。
無数の足音。
そして、勝利を告げる、鬨の声。
ガリア帝国軍が、ついに、この街の門を突破したのだ。
それはつまり、僕たちの仕事が始まろうとしていることを、告げるものでもあった。