王都アルクスを後にしてから、二週間が過ぎた。
僕とクロウを乗せた馬車は、ひたすらに東へと続く街道を走り続けていた。
北へ向かうほどに荒涼としていた景色は、南下するにつれて、少しずつその色を取り戻していった。
枯れ木ばかりだった道端には、緑の葉をつけた木々が見られるようになり、痩せ細っていた畑は、豊かな土の色を取り戻していく。時折すれ違う人々の顔にも、王都周辺で見たような、絶望の色は浮かんでいない。
アルシオン東部は戦争の影響が少ないらしい。
「……ちっ。のどかなもんだな」
御者台に座るクロウが、吐き捨てるように言った。
その声には、複雑な響きが混じっていた。
僕は同じ国でも、こんなにも情勢が違うのかと、異世界に感心していた。
僕たちの任務は、海岸都市『ポルト』での、不審船の検査。
王都のすぐそばの都市が陥落したばかりだというのに、こんな、前線から遠く離れた場所で、船の検査などという地味な任務に就かせる意味は、一体どこにあるのか。
ゼスは僕たちを意図的に王都から遠ざけたのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
僕たちを死なせたくなかった? 理由はなんだ――あの男が、そんな感傷的な判断を下すだろうか。
あるいは、ポルトが地理的に重要な性質を持つとか。
考えても、答えは出なかった。
僕はただ、流れていく景色を、眺め続けるだけしかできない。
やがて、潮の香りが風に乗って運ばれて、僕らの鼻にも届くようになった。
街道の先に、青く広がる海と、白い帆を掲げた無数の船が見えてくる。
アルシオン王国最大の港湾都市、『ポルト』。その全景が、僕たちの眼前に広がっていた。
「……着いたか」
クロウが馬を操りながら、短く呟いた。
ポルトの街は、僕がこれまでに見てきた、どのアルシオンの都市とも、全く違う空気に満ちていた。
活気。それがこの街の第一印象だった。
門をくぐると、様々な言語の呼び声と、荷馬車の車輪が石畳をこする音、そして、潮風と魚、香辛料が入り混じった、異国情緒あふれる匂いが、僕たちを出迎えた。
道行く人々の肌の色も、髪の色も、服装も、実に様々だ。屈強な船乗りたち、きらびやかな絹をまとった商人、そして、見たこともない楽器を奏でる旅芸人。今まで見たどの街よりも、多種多様な人間がいた。
ガリア帝国は海に面していない。
そのため、このポルトの港は、今のアルシオン王国にとって、安全に外の世界へと開かれた窓口となっていた。
多くの物資と情報が、この港を通して、国にもたらされる。
王都や他の都市が、戦争によって物資不足に喘いでいるというのに、この街の市場には、色とりどりの商品が、溢れんばかりに並べられていた。
僕たちはゼスから指示された、現地の協力者と会うために、港の一角にある薄暗い酒場へと向かった。
『海蛇の砂場』と書かれた、古びた看板。中に入ると、昼間だというのに、酒と煙草の匂いが充満し、屈強な船乗りたちが、大声で騒いでいた。
僕らはそこで、協力者を探した。
――だが、僕たちが待つ協力者は、一向に現れなかった。
「……どういうことだ。すっぽかされたか?」
クロウが苛立たしげに、テーブルを指で叩いた。
今回の任務では、ミラはいない。なので、司令部に直接指示を仰ぐことができなかった。
つまり、現地の協力者がいなければ、僕たちは、何から手をつけていいのかもわからない状態だった。
「そのうち来るよ」
僕はぬるいエールを口に運びながら、言った。
そう、そのとき僕は楽観視していた。時間にルーズな国が地球にもたくさんあったから。そういう街なのだろう、と思っていたのだ。
だが、結局、その日は協力者が姿を現すことはなかった。
僕らは、仕方なくその酒場に併設された安宿に、部屋を取ることにした。
朝になると、クロウは装備を整えて、外へと向かう。
「俺はちっと、街の様子を探ってくる。お前はここで待ってろ」
そう言い残すと、すぐに部屋を出て行った。
彼はじっとしているのが、何よりも嫌いな男だった。おそらく、酒場をいくつか回って、情報収集をするつもりなのだろう。
一人残された僕は、ベッドに腰を下ろして、窓の外を眺めた。
窓からは、活気のある港の様子が一望できた。巨大な商船が、ゆっくりと港に入ってくる。荷下ろしをする船員たちの、威勢のいい掛け声。カモメの鳴き声。
もしかして、任務の時間にゆっくりとしているのは初めてかもしれない。
僕はふらりと、部屋を出た。どうせ待ってても、意味ないと思ったから。
クロウのように、積極的に情報を集める気にはなれなかったが、この街の空気を、肌で感じておきたかった。
僕はあてもなく、港を歩いた。
潮風が僕の髪を優しく揺らす。太陽の光が海面に反射して、きらきらと輝いていた。
すれ違う人々は、誰もが生き生きとした表情をしている。彼らの会話から聞こえてくるのは、儲け話や、次の航海の計画、あるいは恋人の話。戦争の頭文字も、聞こえてこない。
本当に、ここはアルシオン王国なのだろうか。
王都で――フォルトゥナで、僕が見たあの光景は全て夢だったのではないか。
そんな錯覚さえ、覚えてしまう。
僕は桟橋の端に腰を下ろし、ただ、ぼんやりと海を眺めた。
どこまでも続く、青い水平線。その向こうには、どんな世界が広がっているのだろうか。
地球と同じく、別の大陸があるのか。それとも異世界らしく、端があるのだろうか。
ロマナちゃんたちは、今、どこにいるのだろうか。
この海から行ける街にいるのだろうか。それとも、内陸の国にいるのだろうか。
しばらくそうしていた僕は、静かに立ち上がって、宿へと足を進めた。
感傷に浸っている時間はない。
それに、あまり時間を無駄にしすぎると、クロウに怒られてしまう。
宿屋に戻ると、クロウはまだ帰っていなかった。
僕はベッドに横になり、目を閉じた。そして、意識をこの街の地下を流れる水脈へと、静かに沈めていく。
ポルトの街は、これまでの街とは水の流れが全く違っていた。
海に近いせいか、水は脈動的で、すぐに外界へと流れ出てしまう。
その流れに逆らって、僕は街の隅々まで意識を巡らせた。
協力者が見つからない理由。
不審な船の正体。
そして、この平穏な街に隠された、小さな歪み。
だが、二日ほど、僕は水の中に意識を溶け込ませていたが、特にこれといった情報は得られなかった。
協力者とやらは、まるで、最初から存在しなかったかのように、その痕跡すら見つけられない。
ガリア帝国の息がかかった船というのも、今のところ確認できなかった。港に出入りする船は多いが、そのほとんどは、純粋な商業目的の船のようだった。
非合法と思われる商船も、あるにはあったが、今回の任務とは関係ないように思えた。
僕の知らないところで、何かが起きている。
そんな、漠然とした不安だけが僕の中で、少しずつ大きくなっていった。
待機三日目の昼過ぎだった。
僕が情報の海から意識を引き上げ、現実世界へと戻ろうとした、まさにその時。
街の空気が、一変した。
新聞社が叫びながら、街中に紙をまき散らす。
『緊急速報! 緊急速報! 王国軍は敗走! 王都アルクスの陥落も近い!』
その報せは、まるで、雷鳴のようにポルトの街を打ちのめした。
一瞬の静寂。
誰もが、自分の耳を疑い、何が起きたのかを理解できずに、立ち尽くしていた。
そして、次の瞬間。
街はパニックという名の、巨大な津波に飲み込まれた。
「嘘だろ……王国はどうなるんだ……」
「向こうに家族がいるんだぞ」
「封鎖される前にさっさと出国しなければ!」
悲鳴、怒号、泣き声。
様々な感情が、渦を巻き、街全体を、巨大な混乱の坩堝へと変えていく。
さっきまでの、あののどかな平穏は、まるで、脆いガラス細工のように粉々に砕け散ってしまった。
意識を肉体に戻して、その様子を部屋の窓から外を見下ろしていると、バタン、と乱暴な音を立てて、部屋の扉が開かれた。
クロウだった。顔には珍しく、焦りの色が浮かんでいた。
「……聞いたか、リン」
彼の声は乾いていた。
「ああ」
僕は短く答えた。
「思ったよりも、持ちこたえたみてぇだな」
クロウは自嘲するように、ふっと笑った。
「俺たちが王都を出てから、二週間以上か……。あの異世界人を始末したのが、少しは、時間稼ぎになったのかね」
彼の言う通りだった。
僕たちがフォルトゥナで殺した、あの女の転移者。彼女の死が、ガリア帝国の進軍を遅らせたのかもしれない。
だが、結末は何も変わらなかった。
「……さて、どうする」
クロウは僕の顔をじっと見つめた。
「ゼスの野郎からの命令は、どうせ、もう来ねえだろ。協力者とやらも、この騒ぎだ。もう、現れやしねえ」
彼の言う通り、この任務は事実上、ここで終わりだ。
僕たちは完全に、宙に浮いた存在となった。
窓の外では、混乱がさらに拡大していた。
港に停泊していた商船の船長たちが、我先にと、アルシオン王国からの脱出を試みている。
「船を出すぞ! 今すぐだ!」
「船員が足りねえ! 誰か、腕の立つ奴はいないか!」
「金を多めに払ってでも人員を確保しろ!」
港は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
いつもなら、冒険者ギルドや傭兵ギルドを通さなければならないような、船乗りや護衛の募集が、今は桟橋のあちこちで、公然と行われている。
誰もが沈みゆく船から逃げ出そうと、必死だった。
クロウはその光景を、しばらくの間、冷めた目で見下ろしていた。
やがて、彼は決意を固めたように、僕の方を振り返った。
「……リン。俺は、行くぜ」
「……どこへ?」
「どこへでもだ。こんな、負け戦に、最後まで付き合う気はねえ」
彼の声は、驚くほど穏やかだった。
「見てみろよ。あの船に乗れば、俺たちは、どこへだって行ける。アルシオンにも、ガリアの連中にも手の届かない、遠い国へな」
彼は僕の肩に、ぽん、と手を置いた。
その手は、ひどく熱い。
「お前も、来いよ」
クロウの目が、真剣な光を宿して、僕を捉えた。
「お前には、探してる奴らがいるんだろ? こんな国で、犬死にするより、そいつらを探す方が、よっぽどマシだ。そうだろ?」
彼の言葉は、悪魔の囁きのように、甘く、そして、抗いがたい魅力を持っていた。
僕の心は大きく揺れた。
そうだ。彼の言う通りだ。
確かに、この国に義理立てする必要など、どこにもない。
ゼスとの契約も、もはや反故になったも同然だ。
このまま、クロウと共にこの街を去り、自由になる。そして、ロマナちゃんたちを探す旅に出る。
それは、僕がずっと心の奥底で望んでいたことのはずだった。
「……首輪は、外せねえがな」
クロウは、自嘲するように、自分の首筋を掻いた。
「だが、遠くまで行っちまえば、ゼスの野郎の命令も、届かなくなるかもしれねえ。そうなれば、このクソみてえな首輪も、ただの飾りに――」
僕は彼の言葉を、黙って聞いていた。
一緒に行くべきだ。信頼できる仲間は一人でも多い方がいい。
だけど、体は動かなかった。
なぜだ?
何が、僕をこの国に引き留めようとしている?
ゼスへの、わずかな恩義か?
それとも、この国の行く末を、最後まで見届けたいという、野次馬根性か?
違う。
どちらも、違う。
僕の脳裏に、フォルトゥナで見た、あの避難民たちの、虚ろな目が蘇る。
王都で聞いた、子供の泣き声が耳の奥で響く。
そして、リスティン公国で見逃した、あの少年の、真っ直ぐな瞳。
僕が、この世界で関わってきた、名もなき人々。
彼らの顔が、次々と、浮かんでは消える。
僕がここで逃げ出したら、彼らは、どうなる?
僕が、何かを変えられるわけではない。僕一人がいなくなったところで、この国の運命は、何も変わらないだろう。
わかっている。わかっているんだ。
だが、それでも。
僕に何かできることがあるんじゃないか。
「……クロウ」
僕はゆっくりと、口を開いた。
「僕は、行かない」
僕の答えに、クロウは目を見開いた。
その表情には、多分な驚きと、そして、ほんの少しの理解が混じっていた。
「……そうかよ」
彼は短く、そう呟くと、僕の肩から手を下ろした。
「……まあ、お前なら、そう言うだろうと思ってたぜ」
彼は笑ってみせた。
その笑顔はいつも通り、ひどく、歪んでいた。
「じゃあな、リン。達者でな」
クロウは僕に背を向け、部屋の扉へと、手をかけた。
それが、僕たちの、最後の別れになるはずだった。
「待って」
だけど、僕は彼の背中に、声をかけた。
クロウが訝しげに、振り返る。
僕は彼の前に立つと、その首に嵌められた、黒い隷属の首輪に、そっと手を触れた。
「……なんだよ、今更」
「餞別」
僕は指先に、精霊としての力を集中させる。
僕の体から、黒い水がまるで生き物のように、彼の首輪へと染み込んでいく。
パキン、と。
乾いた、小さな音が部屋に響いた。
クロウの首から、隷属の首輪が、まるで、枯れ枝が折れるように、あっけなく砕け散った。
「……なっ……」
クロウは信じられないといった表情で、自分の首に触れた。
そこにはもう、彼を縛り付けてきた、忌まわしい枷はなかった。
「……お前、これ……どうなってやがる……」
「実はこれ、僕には効かないんだ」
そう言いながら自分の首輪も壊す。
僕はそれだけを言うと、彼から一歩、距離を取った。
クロウはしばらくの間、呆然と、自分の手のひらに乗った、首輪の残骸を見つめていた。
やがて、彼はふっと、息を漏らした。
「……へっ。最後の最後まで、わけわかんねぇやつだな。お前」
彼は顔を上げると、僕に向かって、ニヤリと、いつもの皮肉な笑みを浮かべた。
だが、その目にはしっかりと光るものがあった。
「……借りが、できちまったな」
彼は、そう言うと、砕けた首輪を懐にしまい込んだ。
「この借りは、いつか必ず返す――だから、それまで、死ぬんじゃねえぞ」
「……ああ。また、いつか」
僕も頷いた。
クロウはもう一度、僕の顔をじっと見つめると、今度こそ、本当に部屋を出て行った。
僕らの短くて奇妙な関係は、ここで終わりを告げた。
僕も荷物をまとめると、静かに部屋を出た。
向かう先は、一つ。
崩壊に向かう、王都アルクス。