ポルトの街を後にして、僕は一人、王都アルクスを目指していた。
ポルトの街の喧騒は、もう遠い。彼の乗った船が水平線の向こうに消えていくのを、僕は見届けなかった。感傷に浸る時間は、不要だと思ったから。
僕はまず、馬を一頭買った。この街から船で逃げ出す人が多いからか、ほとんどタダで買うことができた。
三日間、ほとんど少しの休憩以外は馬を走らせ、街道を走る。馬が限界を迎え、走れなくなると、手綱を外してやり、野に返した。
そして、近くを流れる川へと向かった。
馬車で二週間かかった道のり。常識的に考えれば、到底数日で戻れる距離ではない。
だが、僕には僕だけの道があった。
僕は川岸に立ち、その流れに意識を沈める。僕の体は水の精霊でもある。
だから、理論上は水と同化することができるはずだ。
実際、ラクサ村で見た水の精霊は、湖からその体を顕在させたのだから。
服や靴を脱いで、影へと仕舞うと、川の中へと足を踏み入れる。
水になれる、と強く思いながら、川へと体を沈めていく。
しばらく、僕は水に浸かっていた。傍から見れば、奇妙な行いに違いない。
数分間迷走していると、僕の体は黒い水の粒子となって霧散し、川の流れに溶け込んだ。
僕は水となったのだ。もはや、僕に定まった形はない。僕は、魚がかき分ける水となり、石を動かす流れとなり、岸辺を濡らす水滴となった。
そして、僕は、川の流れそのものに逆らって、上流へ――王都アルクスの方角へと進んでいく。
夜も、昼も、関係ない。疲労も、空腹も、僕の体には存在しない。
むしろ、馬で進むよりも早いだろう。しかし、この方法はあまりにも人間から乖離している。
長い時間、水と一体化していると、人間の体に戻れなくなりそうだと、精霊としての知識が警告していた。
なぜ、王都へ向かうのか。
その問いが、川の流れの音と共に僕の中で反響する。
クロウの言う通り、この国はもう終わる。僕一人が戻ったところで、戦況が覆るわけではない。むしろ、既に王都の陥落は避けられないだろう。
ふと、ラクサ村での出来事が、脳裏をよぎった。
ガリア帝国に滅ぼされた、あの村。僕がマリアさんたちを救えなかった、あの日。
あの時、僕はもっと早く村に戻っていれば、と後悔した。『時間停止』を使っていれば、あるいは、違う未来があったのではないか、と。
今の状況はあの時と、どこか似ている。
一つの場所が終わりを迎えようとしている。そして、僕は離れた場所にいて、そこへと向かっている。
あの時の僕は、後悔と無力感に縛られていた。ただ、呆然と立ち尽くすだけだった。
それと比べて今はどうだ?
今の僕は、何にも縛られていない。
王都の人々に彼らに愛情を抱いていたわけでもなければ、暗部の命令も、ゼスとの契約も、もはや僕を縛ってはいない。
それなのに、なぜ。
突き詰めると、それは、意志の継承なのだと思った。
マリアさんから意志を、精霊から意志を託されたように。
誰かの意志を僕は受け取るべきだと思ったのだ。
間に合わなくてもいい。王都が僕の目の前で灰燼に帰したとしても、それは、この国が選んだ運命だ。僕は、それを受け入れるだろう。だが、そこにいる人々の意志は、誰かが聞く必要がある。
そんな、答えの出ない思索を繰り返しながら、僕は水の流れとなって、闇の中を駆け抜けていった。
ポルトを出てから、5日が過ぎた頃。
僕の意識は、ついに、王都アルクスの付近を流れる、河川へとたどり着いた。
僕は人気のない場所で、再び人の形を作り出した。
ひんやりとした、湿った空気が、僕の肺を満たす。久しぶりに取り戻した、五感。
そして、その感覚がこの街の終わりを感じ取った。
鼻をつくのは、何度目かわからないが、血と煙の臭い。
耳に届くのは、遠くで響く、断続的な戦闘音と、人々の悲鳴、そして、建物の崩れる轟音。
僕は、じっと王都を見つめた。
空には、いくつもの黒煙が立ち上がっている。かつては壮麗だったであろう街を囲う壁は崩落していて、ガリア兵が街中へ入り込んでいる。
僕は服を着ると、街へと歩みを進めた。
街に潜り込むと、状況が詳しくわかる。
王城を囲む最後の城壁は、まだ、かろうじて持ちこたえているようだ。しかし、それも時間の問題だろう。街のあちこちで、帝国兵と、わずかに残った王国兵や、あるいは、自警団と思われる市民との、散発的な戦闘が繰り広げられている。
剣戟の音。怒号。そして、悲鳴。
既に道には死体がいくつも転がっている。
王都から逃げられない人々がたくさんいたのだろう。
それは、僕がフォルトゥナで見てきた光景よりも悲惨だった。
僕は人目を避け、影から影へと、音もなく移動する。
目指すは、暗部の隠れ家のある地下水路だ。
地上は、もはや、ガリア帝国軍の支配する領域だ。だが、地下はどうなっているのだろう。
そう思いながら、地下へと潜った。
地下水路の中は、地上の喧騒が嘘のように、静まり返っていた。
いつものように、壁を伝う雫の音とネズミが這いずる音だけが、単調に響いている。
僕は、ゆっくりと暗い水路を歩き始めた。クロウがいた時と違って、僕一人ならば明かりは必要なかった。
この水路は、暗部となってから幾度と使ってきた。だから、よく知っていた。どこに、何の隠し部屋があるのかも含めて。
しばらく進むと、前方に複数の揺らめく光が見えた。
松明の炎だ。そして、複数の話し声。
「――おい、こっちには行き止まりだぞ」
「ちっ、俺も、上で活躍したかったぜ」
「さっさと終わらせて、上に戻ろうぜ。まだ、漁れる家がたくさんあるだろ」
下卑た笑い声。ガリア帝国の兵士たちだ。彼らもまた、この地下水路を捜索しているらしい。
僕は静かに身を潜める。僕の気配は完全に消えた。
彼らに恨みはない。
だが、今、ここで騒がれるのは面倒だし、探索の邪魔だった。
僕の足元から、数本の黒い触手が音もなく伸びていく。
触手は水底を這い、兵士たちの足首にまるで蛇のように絡みついた。
「――うおっ!?」
「な、なんだ、これ!?」
彼らが悲鳴を上げるよりも早く。
触手は彼らを、水の中へと力ずくで引きずり込んだ。
ごぼごぼ、という、空気が漏れる音。
水面がわずかに波立ち、そして、すぐに静けさを取り戻す。
数秒後には、そこに何もいなかったかのように、ただ、淀んだ水が流れているだけだった。
僕は彼らの持っていた松明を一つ拾い上げ、水路へと落とす。
そして、再び、闇の奥へと進んでいった。
僕は水路の壁に隠された、暗部の隠し部屋を、一つ、また一つと、見て回った。
最初の隠し部屋は、もぬけの殻だった。
中には、食料の残骸や、破り捨てられた書類が散乱している。誰かが慌ててここを立ち去ったことが、一目でわかった。
二つ目の隠し部屋も、同じだった。
壁に立てかけられていた武器は、全て持ち去られ、薬品棚は、空っぽになっていた。そして、床には乾いた血痕が、黒い染みとなって、こびりついているだけ。
誰も……いない。
彼らはどこへ行ったのだろうか。
任務で死んだのか。あるいは、逃げることに成功したのか。
この国の終わりと共に、彼らの存在もまた、闇の中へと消えていくのだろうか。
――もしかしたら、暗部は全滅したのかな。
そう思いながら水路を歩き回り、五つ目の隠し部屋へと足を運んだ。
僕の記憶が確かなら、このへんは既に城の下部に当たるはずだ。
水路の壁に隠された扉を開け、中へと入る。
その瞬間、外側からは全く感じ取れなかった、生き物の気配を感じる。
――人の気配だ。
それも一人ではない。――複数いる。
さて……敵か味方か。
僕は気配を消して静かに中へと進む。
部屋の奥、わずかなランプの光の下で、数人の男女が、机に広げられた地図を囲み、深刻な表情で、何事かを話し合っていた。
その中心にいたのは、僕がよく知る、あの男だった。
短く刈り込まれた、灰色の髪。顔に刻まれた、深い皺。
最後に会った時よりも、さらに、その身にまとう疲労の色は濃くなっていたが、その瞳に宿る鋭い光は衰えてい。
ゼス。
そして、彼の向かいには少女が立っていた。
年の頃は、十六、七歳だろうか。上質な、しかし、所々が汚れた服を身にまとっている。金色の髪は、無造作にまとめられ、その美しい顔には、気丈さと、そして、隠しきれない悲しみの色が浮かんでいた。
彼女の佇まいからは、出る育ちの良さが滲み出ていた。一目で、貴族、それも上位の人間であるとわかった。
その少女を、守るようにして、横に控えているのは、屈強な体つきをした、一人の騎士。
使い込まれた、しかし、手入れの行き届いた鎧を身にまとい、腰には長い剣を携えている。顔は、まるで、岩を削って作ったかのように、厳しい。
彼らが、何を話しているのか。
僕は、静かに近づきながら、話に耳を傾ける。
「……やはり、西からの脱出は危険すぎる。すでに、ガリア兵が国境を封鎖しているだろう」
「ですが、ゼス殿。東の山道は、あまりに険しすぎます。殿下の御足では……」
「時間がないのだ。もはや、安全な道など、どこにもない。我々が選べるのは、危険か、あるいは、より危険か、その二択でしかない」
王女。国外への、脱出計画。
断片的な言葉から、僕は彼らの目的を理解した。
この国は終わる。だが、彼らは最後の希望を、未来へと繋ごうとしている。
この少女――アルシオン王国の王女を、国外へと逃がすこと。それが、彼らの継承の道なのだ。
僕はどうするべきか、考えた。
このまま、黙って、立ち去るか。
あるいは。
僕は静かに、息を吸った。
そして、ゆっくりと、暗闇の中から、姿を現した。
「――手伝おうか」
僕の声は部屋の中に、やけに響いた。
その声に、部屋にいた全員が弾かれたように、こちらを向いた。
最初に反応したのは、少女の傍に立つ騎士だった。
彼は瞬時に、僕と王女の間に割って入ると、鞘から剣を抜き放ち、その切っ先を僕の喉元へと突きつけた。
「――何者だ!」
彼の声は怒りと、警戒心に満ちていた。
王女もまた、驚きに目を見開き、一歩、後ずさる。その瞳には恐怖の色が浮かんでいた。
だが、ゼスだけは違った。
彼は僕の姿を認めると、その目に、信じられないものを見るような、驚愕の色を浮かべた。そして、それはすぐに、呆れへと変化する。
「……お前」
彼の口から、乾いた声が漏れた。
「……なぜ、ここにいる……。ポルトに、行かせたはずだぞ」
「任務は失敗した」
僕は騎士の剣先を、意に介することなく、静かに答えた。
「協力者は現れなかった。だから、帰還した」
「っ……馬鹿者が」
ゼスは吐き捨てるように言った。だが、その声には怒り以外の響きがあった。
彼の言葉は途中で、途切れた。
僕がなぜ、戻ってきたのか。その理由を、彼は問わなかった。ただ、僕の目をじっと、見つめている。
「ガイウス、剣を収めろ。その者は……敵ではない」
ゼスは騎士に向かって、静かに言った。
「しかし、ゼス殿! このような時に、得体の知れない者を殿下の近くになど……!」
ガイウスと呼ばれた騎士は、納得できないといった様子で反論する。
「得体は知れている。こいつはリン……。私が今使える、最も有能な『駒』だ」
ゼスの言葉に、ガイウスは訝しげな目で、僕を睨みつけた。
「王女を国外へ逃がすんだろう?人手がいるなら、 僕は少しは役に立つはずだよ」
僕の言葉に部屋の空気が、再び張り詰める。
ガイウスは僕を値踏みするように、上から下まで睨みつけた。
王女は不安げな表情で、僕とゼスとガイウスを交互に見ている。
沈黙を破ったのはゼスだった。
彼は重々しく、口を開いた。
「……ガイウス。王女殿下。彼の申し出をお受けください」
彼の声には、有無を言わせない力がこもっていた。
「こ奴がいれば、西からの脱出も十分考えられます」
ゼスは僕の方を、ちらりと見た。
「それに、こ奴はガリアとは無関係です。敵に回る心配はありません」
ゼスの言葉にまだ懐疑的なガイウスだったが、渋々剣を収める。
「……本当によろしいのですか、ゼス殿」
「ああ。私が保証する」
彼は長い、長い、沈黙の後、僕に向かって話し始めた。
「……我が名はガイウス。王女殿下の筆頭騎士である。……よろしく頼む」
こうして、僕はアルシオン王国、最後の希望を運ぶ、逃避行に加わることになった。
本当に運ぶのは希望か、それとも未来への復讐か。
それは誰にもわからない。