僕の親切心がもたらした緊張は、ゼスの鶴の一声によって、ひとまずの融解を見た。
だが、それは表面上のことでしかない。ガイウスと名乗った騎士の僕を見る目は、鞘に収められた剣のように、常に鋭い警戒の色を宿していた。
王女は、僕という存在をどう捉えていいのか測りかねているようで、不安げな視線を時折こちらに向けてくる。
ここにいる、僕を含めた一行は、総勢八名。
王女タリアとその筆頭騎士ガイウス。そして、その部下の。ロバートとリカルドという騎士が二人。
王女の身の回りの世話をする、年の頃三十代ほどの物静かな侍女の女性。名前をクネルというらしい。
暗部の長であるゼスと、一度か二度顔を合わせたことがある暗部のティグレット。
そして、最後に僕。
寄せ集めた歪な集団。それが、逃亡者たちの全てだった。
「――行くぞ。長居は無用だ」
ゼスの低い声が、地下の隠れ家に響く。
彼の指示のもと、僕たちは王都の地下を網の目のように走る、暗い水路へと足を踏み入れた。
王都の地下水路は、ゼスが知り尽くしていた。
彼の後を追って、僕たちは迷路のような水路を、音もなく進んでいく。
地上の喧騒は、分厚い石の壁に遮られ、まったく聞こえない。代わりに聞こえるのは、壁を伝う雫の音と、僕たちの立てるかすかな足音だけ。
時折、前方からガリア兵の松明の光と、下卑た話し声が聞こえてくることがあった。
その度に、僕の足元から伸びた黒い影が、音もなく彼らを水底へと引きずり込んでいく。悲鳴を上げる間もなく、彼らの命の灯火は、淀んだ水の中に消えていった。
その光景を、一行の誰もが、息を殺して見つめていた。
特に、王女たちの驚愕は、隠しようもなかった。
彼らは、僕が振るう力の異質さを、その目で直接目の当たりにしたのだ。
ガイウスの僕を見る目には、警戒に加えて、得体の知れないものへの畏怖の色が混じり始めた。
王女は、ただ、青ざめた顔で、僕の横顔をじっと見つめている。彼女のその瞳の奥で、どんな感情が渦巻いているのか、僕にはまだ、読み取ることはできなかった。
読めない表情も王女教育の賜物なのだろうか。とか考えていた。
僕らの王都からの脱出は、驚くほど容易に進んだ。
街から遠い所にある水路の出口から地上に出た時、僕たちを迎えたのは、冷たい夜風と、遠くに見える王都の燃える空だけだった。
「……これより、二手に分かれる」
王都を抜け、西へと続く森の中である程度進んだところで、ゼスは足を止め、そう宣言した。
「王女殿下とガイウス殿、そして私とクネルは、本隊として進む。リン、貴様は残りの三名を率いて、先遣隊として我々の前を進め。斥候を兼ねて、危険があれば排除しろ。我々との連絡は、ティグレットがやれ」
それは、合理的な判断だった。
僕の索敵能力と戦闘能力を、最大限に活用するための策。そして同時に、僕という不安要因を、王女から物理的に引き離すための策でもあった。
「……わかった」
僕は短く答える。
こうして、僕たち八人は、二つのチームに分かれて、西を目指すことになった。
この国と接していた西の国は、いくつかある。ただ、ガリア帝国軍がどこに包囲網を敷いているかわからないため、国境に近づいてから行く先を決めるらしい。
そして、僕が率いることになった彼らは、実に態度が悪い。
「……おい。本当に敵はいないんだろうな」
騎士の一人がーーたしかロバートという名前だった、睨みながら吐き捨てるように言った。もう一人の騎士も同じような目を向けてくる。彼らは、ろくに索敵もできないようで、ただ僕についてくる存在となっていた。
実質的に、敵の警戒をしているのは、僕と暗部のティグレットだけだった。
もちろん、彼らは護衛騎士だ。索敵など、今までの人生でしたことも無いのだろう。だけど、できることなら、不要な口は噤んでいてほしかった。
彼らにとって、僕は、王女を守るべき一行に紛れ込んだ、得体の知れない異物でしかない。その感情は、手に取るようにわかった。だから、僕は黙って歩いた。
ふと、クロウのことを思い出した。
彼は最初から僕に対して、一貫して態度が悪かった。一方で、仕事に入ると無駄口を挟むことは無かった。
他の暗部のチームへ参加した時も同じだった。
そこには馴れ合いは無かった。しかし、役割を全うする信用は確かに存在したのだと、改めて思った。
だが、今はそれがない。
あるのは、不信と、警戒と、侮蔑だけ。
そうか――他人と組むことはこんなにもやりにくいのだ、とこの世界に来てから初めて感じた。
僕たちは、街道を避けて、道なき道を進んだ。
ガリア帝国の追手の目を逃れるためには、森や丘を越え、人の通らない獣道を選んで進むしかなかった。
昼は、木々の間から差し込む、まだらな光を頼りに歩き、夜は、交代で見張りを立てて、仮眠を取る。
先遣隊である僕たちの役割は、本隊が安全に進めるように、ルートを確保し、危険を事前に排除すること。
僕の精霊としての感覚は、微細な水の動きさえも捉えることができた。森を流れる小川のせせらぎ、葉に残る夜露の震え、そしてそれらが振動する声。
「――この先、ガリアの斥候が二人。迂回する」
「――左の崖の上、見張りが一人いる。弓を持っている。見つからないように移動しよう」
僕は、淡々と感知した情報を、後ろの三人に伝える。
彼らは、僕の言葉を半信半疑で聞きながらも、指示通りに動き、そして、僕の索敵能力が正確であることを知ると、次第にその表情から侮蔑の色を消し、代わりに、不気味なものを見るような目を向けてきた。
敵との戦闘は、ほとんど僕が先行した。
僕の足元から伸びる黒い影が、音もなく斥候たちを仕留めていく。彼らは、悲鳴を上げる間もなく、森の闇へと消えていった。時折、交代でティグレットが務めた。
チームワークなど、存在しない。
だが、僕一人いれば、任務の遂行に支障はなかったから。
王都からの脱出から、15日が過ぎた。
僕たちは、アルシオン王国の西部に広がる、広大な森林地帯を、ひたすらに歩き続けていた。
その日、先遣隊の一人、騎士ロバートがついに音を上げた。
彼は、不慣れな森歩きに疲れて、木の根で派手に転倒し、足首を捻ってしまったのだ。
「ぐっ……!」
男は、苦痛に顔を歪め、立ち上がることができない。
足首は、見る間に腫れ上がり、紫色に変色していた。
「……歩けない、だと?」
本体の到着を待ち、ゼスに報告すると、冷たく言い放った。
「では、離脱せよ。自力で近くの村、もしくは街まで行き待機せよ。――本来なら、ここで始末するべきだが……王女殿下の心情もある……特別に食料を優遇してやる」
ロバートは、額に脂汗を浮かべ、懇願するようにゼスを見上げる。
僕は、黙ってその様子を見ていた。
この男が、このような長距離の行軍に慣れていないのは、明らかだったから。
そして、その決定に、誰も異を唱える者はいなかった。
王女タリアが、悲痛な表情で何かを言おうとしたが、隣にいたガイウスが、無言で彼女の肩を抑えた。
弱者は、切り捨てられる。僕らに、彼を連れて歩く余裕などないのだから。
僕たちは、男が持っていたわずかな食料と水を彼のそばに置くと、再び歩き始めた。
背後から、彼の絶望を伝える呻き声が聞こえてきたが、振り返らなかった。
その7日後、また一人、仲間を失った。
森の中で、ガリア帝国の巡回部隊と、不意に遭遇してしまったのだ。
見張りの交代の隙をつかれた。
数は5名。僕は当番の時間ではなかったので、気付くのが遅れた。そして、僕が対応した時には、すでに遅かった。
「敵しゅ――」
ティグレットが叫ぶのと、敵の放った矢が、彼の喉に突き刺さるのは、ほぼ同時だった。
彼はそのまま、その場に崩れ落ちる。
「散開しろ!」
ガイウスが叫び、剣を抜く。
残った騎士も、震える手で剣を構えた。
僕は、即座に足元の影から、黒い水の触手を伸ばし、敵兵たちを絡め取ろうとした。
だが、襲ってきた彼らは、予想以上に手練れだった。触手を素早くかわし、散開して、僕たちを包囲しようとする。
ガイウスが王女を庇いながら、敵の一人と斬り結ぶ。
ゼスもまた、短剣を抜き、もう一人の敵を始末する。
リカルドとクネル、王女は震えていて役に立たない。
僕は残りの三人を、同時に相手取った。
僕の体から放たれる水の刃が、森の木々を薙ぎ払い、敵兵へと襲いかかる。
彼らは、巧みにそれを避け、あるいは剣で弾きながら、じりじりと僕との距離を詰めてくる。
「こいつ!」
混乱する敵兵の一瞬の隙を突き、僕は一人の足元に影を伸ばし、闇へと引きずり込む。
残る敵は、二人。
僕は精霊としての力を、さらに解放した。
周囲の空気中の水分が、僕らの周りに集まり、霧となって、敵の視界を奪う。
「な、なんだ、この霧は!?」
「姿が見えん!」
戸惑う彼らの背後から、ゼスとガイウスが忍び寄り、その命を刈り取った。
結果的に見れば、戦闘は数分で終わった。
後には、ガリア兵の死体と、そして、命を落とした仲間の亡骸だけが残された。
一行はもはや、六名にまで減っていた。
王女タリア、ガイウス、ゼス、クネル、リカルド、そして、僕。
もう、二手に分かれて進むほどの人数はいない。
「……これより、全員で行動する」
ゼスが、重々しく、そう告げた。
彼の顔にも、隠しきれない疲労と、焦りの色が浮かんでいた。
僕たちは、亡くなった仲間と敵兵を森の土隠し、戦闘の痕跡を消す。
簡単な祈りを捧げて、できるだけはやくその場所から離れる。
僕たちの旅は、その過酷さをさらに増していく。
その夜から、夜の見張りは、ガイウス、ゼス、そして僕の三人で回すことになった。
侍女のクネルは、戦闘能力がなく、王女は、言うまでもない。リカルドは不寝番に不慣れなことや、昼間の警戒を万全にするために、夜の見張りから外れた。
僕たちは、小さな焚き火を囲み、交代で仮眠を取りながら、夜の闇に目を凝らした。
森の夜は、深く、そして、冷たかった。
時折聞こえる、獣の遠吠えや、梟の鳴き声が、彼らの神経をさらに逆なでする。
そして、この旅が始まってから、一か月ほど経った夜。
僕が見張りの番をしている時だった。
焚き火の炎が、ぱちぱちと、静かにはぜる音だけが聞こえる。
他の者たちは、浅い眠りについていた。
不意に、背後で、かすかな衣擦れの音がした。
僕は振り返らなかった。それが誰なのか、夜の霧が教えてたから。
「……眠れないのですか」
僕は静かに尋ねた。
「……ええ。少し」
答えたのは、王女タリアだった。
彼女は、僕から少し離れた場所に、静かに腰を下ろした。その手には、冷えた体を温めるためか、毛布を固く握りしめている。
しばらく、沈黙が続いた。
僕たちはしばらくの間、ただ、揺らめく炎を、見つめていた。
ガイウスの気配が、すぐ近くの闇の中から、僕たちをじっと窺っているのがわかる。僕が少しでも不審な動きを見せれば、即座に飛び出してくるだろう。
やがて、王女は意を決したように、口を開いた。
その声は夜の静寂に、凛として響いた。
「……すこし、よろしいでしょうか」