僕は、森の木々の間を縫うようにして、国境を流れる川から離れないように歩く。
川の上流で大規模な魔法を使えば、川を氾濫させて、ここら一帯の警備網をまとめて洗い流すことも可能だった。だが、それでは川を渡ろうとしている王女達まで、巻き込んでしまう危険性がある。
僕の目的は陽動。彼らが安全に国境を越えるための、時間を稼ぐこと。
そのためには、敵の注意を僕という存在に、可能な限り強く、そして長く引きつけ続ける必要があった。
しばらく歩いてから、森を抜ける。鬱蒼とした視界がやっと開けた。
眼下には、国境線となる川が銀色の帯のように横たわっている。
そして、その川岸に沿って、無数の天幕と監視塔が設置されている。
ガリア帝国軍の、長大な警備網。
その一端が僕の目の前に広がっていた。
僕は隠れることもせず、堂々と川岸へと続く緩やかな斜面を歩き始めた。
僕の姿は、白昼にさらされて、すぐに敵の知るところとなった。
「――止まれ! 何者だ!」
簡易な監視塔の一つから、鋭い声が飛んできた。
その声に、近くの天幕から、数人の兵士が、慌てたように飛び出してくる。彼らは、剣や槍を手に僕を警戒するように、じりじりと距離を詰めてきた。
「ここは、ガリア帝国軍の管理区域である! 現在、国境は完全に封鎖されている! 速やかに立ち去らなければ、命の保証はしないぞ!」
兵士の一人が、僕に向かって強く警告する。
僕は何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと、歩みを続ける。
その態度が、彼らの警戒心を引き上げを、苛立ちを生ませた。
「聞こえなかったのか! 警告を無視するならば、敵と見なす!」
ひゅっ、と。夜の空気を切り裂いて、一本の矢が飛んできた。
それは、僕の肩を正確に捉え、外套を突き破り、肉に深く食い込んだ。
弓の腕はまぁまぁかな。そんな感想を抱きながら、僕は足を止めない。
痛みはあった。だが、耐えられないほどではない。それに、僕の体は人間のそれとは違う。この程度の傷は、僕の歩みを止める理由にはならなかった。
「なっ……!?」
兵士が驚愕の声を上げる。
さらに数本の矢が、立て続けに放たれる。
腕に、足に、そして、脇腹に。次々と、矢が突き刺さっていく。まるで、弁慶のようだ、と、どこか他人事のように思った。
それでも、僕は歩みを止めなかった。
僕のその異様な姿に、兵士たちの間に、明らかな動揺が広がった。
恐怖。それは、未知の存在に対する、最も原始的な感情だ。
「化け物か……?」
「構うな、攻撃しろ!」
僕が、川岸に近づき、彼らまであと十メートルというところまで近づいた時。
ついに、痺れを切らした兵士たちが、雄叫びを上げて一斉に襲いかかってきた。
数は五人。彼らは僕を包囲して、四方から剣と槍を突き出してきた。
――つまり、火蓋は落とされたのだ。
僕は静かに息を吸った。
すると、僕の足元から、黒い水がまるで生き物のように溢れ出した。
「――な!?」
黒い水は瞬時に、数本の触手へと姿を変え、槍を防ぎながら兵士たちの足に絡みついた。
「うわっ! なんだ、これは!?」
「足が……動かん!」
彼らが混乱し、悲鳴を上げる。
僕はその隙を見逃さなかった。
僕はできるだけ派手に、そして、できるだけ長く、彼らの注意を引きつける必要があった。
だから、即死させてしまっては意味がない。圧倒的な恐怖による逃走を誘うことは、今は悪手だった。
僕は、周囲に無数の水の刃が形成する。
空中を飛ぶ水の刃は、兵士たちの鎧を掠め、兜を弾き、あるいは、地面を抉った。
「ぐあっ!」
「ひ、怯むな! 囲んで、叩き斬れ!」
兵士たちは、必死に抵抗する。だが、彼らの剣が僕の体に届くことはない。
僕の操る黒い触手は、いくつでも生成できた。
彼らの剣は僕には届かないが、僕の攻撃はいくらでも与えることができた。
戦闘の音と兵士たちの叫び声が、ガリア兵の警戒網全体へと広がっていく。
「――敵襲! 敵襲だ!」
「西の川岸に、不審者一名! 魔術師を呼べ!」
角笛の音が、けたたましく鳴り響く。
その音を聞きつけて、近くの天幕からさらに多くの兵士たちが、武器を手に駆けつけてくる。
十人、五十人、百人……その数は、瞬く間に膨れ上がっていった。
「包囲しろ! 逃がすな!」
「魔術師はまだか、 遠距離から攻撃しろ!」
近づいても僕に有効打を当てられないことに司令官が気が付き、遠距離攻撃を構えてくる。
やがて、彼らの後方から、ローブをまとった数人の魔術師たちが現れた。
彼らが杖を掲げ、呪文を唱え始めると、僕の頭上から炎の矢や、氷の槍が雨のように降り注いできた。
んー思っていたよりも、魔術師の練度が低いな。あんまり強い軍人は、ここには配備されていないのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕は攻撃を水の障壁で防ぐ。
そして、時折、あえてその身に攻撃を受けながら、静かに時間が過ぎるのを待った。
僕の体は、炎に焼かれ、氷に貫かれ、剣に斬りつけられる。
だが、立ち続けるのに障害となるような大きな傷は、黒い水が溢れ出し、瞬時に傷を塞いでいく。
今まで、ここまでの攻撃を受けてみたことは無かった。だから、これは僕の体の耐久力を知るための良い機会だった。
その光景は兵士たちの目に、悪夢として映ったことだろう。
不死身の化け物。
そして、リンがガリア兵に接敵してから三十分が経過した。
「……もう、十分かな」
僕は静かに呟く。
これだけ騒ぎを起こせば、警戒網の注意は、完全に僕一人に集中しているはずだ。
川の上流にいるゼスたちが川を越えるには、十分すぎるほどの時間が稼げたはずだ。
僕は攻撃の手を一度緩めて、あたりの水の気配を読む。
……行ったか。
彼らの気配が、川を渡りきるのを感じた。
つまり、僕の役割は終わったのだ。
――さて、と。
僕は、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、僕を囲む百人以上の兵士たちを、一人一人見渡した。
彼らの顔には混乱と恐怖、そして、わずかながらも、僕を殺そうという敵意が浮かんでいた。
「――終わりにしよう」
僕は体から精霊としての力を一気に解放した。
ゴオオオオオオッ、と。
地鳴りのような音と共に、川がまるで、巨大な獣が目を覚ましたかのように、荒れ狂い始めた。
「な、なんだ!?」
「川が……川が、溢れてくるぞ!」
黒く染まった水が川岸から溢れ出し、荒れ狂う波となって兵士たちへと襲いかかった。
それは、もはや魔法などという、生易しいものではない。
自然そのものが牙を剥く、抗うことのできない絶対的な暴力。
「うわあああああっ!」
「助けてくれえええ!」
兵士たちの悲鳴は、濁流の轟音にかき消され、彼らの体は木の葉のように、いとも簡単に水の中へと飲み込まれていった。
天幕がなぎ倒され、焚き火が消え、監視塔が根元からへし折られる。
ほんの数分前まで、鉄壁を誇っていたはずの警戒網は、僕が引き起こした大洪水によって、跡形もなく洗い流されていった。
やがて、水の勢いが、少しずつ収まっていく。
後には泥と瓦礫と、そして、数えきれないほどの、兵士たちの亡骸だけが残されていた。
だが、その地獄のような光景の中に僕以外に、ただ一人だけ、立っている男がいた。
銀色の鎧を身にまとい、長い剣を構えた、一人の騎士。
何かの魔道具か、加護持ちか。彼は濁流に飲まれながらも、その強靭な肉体と卓越した技量で、その場に踏みとどまっていた。
その体は、泥と水で汚れていたが、その瞳だけは、狼のように鋭い光を放っていた。
「見事」
騎士は低い声で唸るように言った。
「これほどの使い手は、大陸広しといえど、そうはいるまい。……さぞ、高名な魔術師とお見受けする。差し支えなければ、その名をお聞かせ願えだろうか」
彼は僕を敵として、そして一人の武人として、認めようとしていた。
その態度は潔が良く、ガリアの騎士とは言えど、印象が良い。
だが、僕は魔術師ではないし、名前も知られていない。
「……名乗るほどのものは無い」
僕は静かに答えた。
「そうか……残念だ」
騎士はそう言うと、剣を正眼に構えた。
「ならば、名もなき強者よ。このガリア帝国騎士アストルが、貴殿を討ち取らせていただく!」
彼はそう宣言すると、地面を蹴り、一直線に僕へと突進してきた。
その動きは速く、そして重い。これまでに僕が見てきたどの兵士とも、明らかに違った。
まさしく、格が違うというやつだ。
――これが帝国騎士か。
だから、僕はふと、彼に興味を覚えた。
この世界に来てから、僕はほとんど魔法だけで戦ってきた。本格的な近接戦闘の経験は、地球を含めても、ほとんどない。
いつか、魔法が通じない相手と対峙する時が来るかもしれない。その時のために、少しでも経験を積んでおくのも、悪くないかもしれない。
加速する思考の中で、僕は足元の影から、一本の黒い剣を作り出した。
僕自身、それを説明するのはなかなか難しいが、黒い水を凝縮してできたもの、という理解が楽だろう。
甲高い金属音が、夜の静寂に響き渡る。
アストルの振り下ろした剣を、僕は影の剣で受け止めていた。
受け止めるだけなら、目と体が追いつけば難しいことではない。
相手の動きに合わせて、剣を合わせるだけだから。
「ほぅ!?」
アストルの顔に、狂気の色が浮かぶ。
僕が魔術師ではなく、剣士としての動きを見せたことが、彼の予想を良い意味で裏切ったのだろうか。
僕は彼の剣を弾き返す。
すぐに次の手が迫ってくるが、それに合わせるように剣を滑らせる。
それから僕らは、何合も斬り合った。
最初は、彼の剣戟に対して防御一辺倒だった。彼の剣は、長年の鍛錬によって磨き上げられた、まさしく騎士の剣と呼ぶにふさわしい技だった。
だが、僕は彼の剣筋を、動きを、呼吸を――拾い集める。一合、また一合と打ち合うと共に、急速に技を吸収していった。
そういうのは僕は得意だった。
しばらくすると、僕の剣は、彼の動きを完全に予測し、対応できるようになっていた。
「……くっ……!」
アストルの顔に、次第に焦りの色が浮かび始める。
彼の額からは脂汗が流れ落ち、その呼吸は少しずつ乱れてきていた。
彼は徐々に理解していった。
目の前にいる存在が、人間の物差しでは測ることのできない、理外の存在であることを。
――もう、いいかな。
そして、ゼスや王女たちの気配が、川の向こう側、遠くの森の中へと消えていくのを、僕は感じ取った。
つまり、僕の最後の任務は、完全に終わったのだ。
それは、この男と戦い続ける必要が、これ以上ないことを意味していた。
「――終わりにしよう」
僕は静かにそう告げた。
そして、僕の背後で、再び川の水が大きく盛り上がった。
先ほどよりも、ずっと大きく、ずっと重く、ずっと暗く。
「……!?」
アストルがその光景に目を見開く。
僕は持ってる力を精一杯解放し、先ほどよりも大規模な氾濫を引き起こした。
今度は、僕自身をも流すほどの濁流だ。
「待て! 勝負は、まだ――」
アストルの叫び声は、全てを飲み込む水の轟音にかき消された。
彼も僕自身も、巨大な波に飲み込まれ、川の流れに乗って下流へと猛烈な勢いで流されていく。
アルシオンの地が、急速に遠ざかっていく。
ゼス、クロウ、ミラの、そして、タリアの顔が脳裏に浮かんでは消える。
彼らとの物語も、これで終わりだ。いつもなら、憂鬱な感情に振り回されるのは好きじゃない。
でも今は、このまま感傷に浸りながら水に流されるのも、悪くないと思えた。