アルシオン王国の北側の山岳地帯を抜けて、三つ目の街。
石畳の道を、軽やかな革靴がコツコツと音を立てる。すれ違う人々の顔は明るく、市場には活気のある呼び声が響き渡っていた。
私は、その雑踏の片隅に建てられた、噴水の縁に腰を下ろし、懐から小さなリュートを取り出した。
指先が、慣れた仕草で弦を弾く。ぽろん、と鳴った音は、空の青さに溶けていくように、どこまでも澄んで聞こえた。
「……自由だなぁ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
あの息が詰まるような日々から解放されて、もう一月が経とうとしていた。
未だに、ふと目が覚めて、自分があの薄暗い部屋にいないことに安堵する夜がある。
追手の影に怯え、人目を忍んで国境を越えた日の緊張感が、まだ肌に残っている。
でも、もう大丈夫。
私は、自由になったのだ。
リュートを膝の上に置き、私はゆっくりと目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、ここに至るまでの、短くも長かった道のり。
まるで、遠い昔の物語のように、私の人生が脳裏に再生されていく。
私の故郷は、リスティン公国の片田舎にある、トーマという小さな村だ。
山の麓、広々とした草原に囲まれた、穏やかな場所。村人は、古くからこの地に根付く『音の精霊』達を敬い、その恵みに感謝しながら暮らしていた。
母は、その村の巫女だった。
精霊の声を聴き、音楽を奏でる役目を担っていた。
そして父は、村から村へと渡り歩く、陽気な吟遊詩人。彼は、母の奏でる音楽に惹かれてこの村に留まり、やがて二人は結ばれた……らしい。
私は、そんな二人の間に生まれた、一人娘だった。
物心ついた頃から、私の周りには、いつも音楽があった。
母が儀式で奏でる厳かなハープの音色、父が酒場で陽気に歌い上げる物語詩、そして、草原を駆け抜ける風の音、川のせせらぎ。その全てが、私にとっては心地よい音色だった。
私もまた、母の血を濃く受け継いだらしい。
幼い頃から、他の人には聞こえないはずの、精霊の囁きを聞くことができた。
『ミラ、もっと高く歌って』
『そのリズムは違うわ。もっと、心が跳ねるように弾くのよ』
音の精霊たちは、いつも私のそばにいて、音楽の楽しさを教えてくれる、気まぐれで優しい友人だった。
十二歳になった春、私は母の後を継いで、村の巫女になった。
精霊に舞を捧げ、歌を捧げる。それが、私の役目。
村人たちは、私の歌声と音色に耳を傾け、精霊の加護に感謝した。それは、誇らしく、そして満たされた日々だった。
けれど、時が経つにつれて、私の心には、小さな澱のようなものが溜まっていった。
毎日繰り返される、同じ儀式。代わり映えのしない日常。
穏やかで、平和。でも、それだけ。
父が語ってくれた、外の世界の物語のような出来事とは無縁な世界だった。
まだ見ぬ街、まだ見ぬ人々、そして、まだ聴いたことのない、たくさんの音楽。私の心は、この小さな村には収まりきらないほどの、大きな羨望で膨らんでいった。
十八歳になった、満月の夜。
いつものように、精霊に祈りを捧げていると、頭の中に、はっきりとした声が響いた。
『――ミラ。世界を見に行こうよ』
それは、いつも私のそばにいた、音の精霊たちの声だった。
『もっと広い世界で、もっとたくさんの音を聴いて、あなた自身の音楽を奏でるの』
そして、それが、私の旅立ちの合図になった。
両親は、寂しそうな顔をしながらも、私の背中を押してくれた。
「お前の人生だ。お前の心が求めるままに、生きなさい」
父はそう言って、愛用のリュートを私に手渡してくれた。
巫女の役目は他の人に継承したが、音の精霊の1人が私に付いてくれることになった。
こうして、私は生まれ故郷の村を後にした。
まだ見ぬ世界への、大きな期待と、ほんの少しの不安を胸に抱いて。
旅は、刺激と発見に満ちていた。
吟遊詩人として、村から村、街から街へと渡り歩く。
酒場で歌い、広場でリュートを奏で、時には貴族の館に招かれて、その腕を披露することもあった。
土地や文化によって、音楽の形は全く違った。
アルシオン王国の荘厳な宮廷音楽、森の民が奏でる情熱的な打楽器のリズム、北の港町で船乗りたちが歌う、勇壮で少し物悲しい舟歌。
その全てが、私の心を震わせ、私の音楽をより豊かにしてくれた。
旅の途中、私はたくさんの人々と出会い、そして別れた。
一時の恋もした。……叶わなかったけど。
世界は、私が思っていたよりもずっと広く、複雑で、そして美しかった。
そんな自由な旅が、五年ほど続いた頃。私の人生に転機が訪れた。
その時、私はアルシオン王国の首都、アルクスに滞在していた。
いつものように、街角でリュートを奏でていると、一人の男が、私の前に立った。
「見事な腕前だ。その力、王国のために使ってみる気は……ないかな?」
男はミハスと名乗った。
彼も私と同じく、村を離れた精霊使いらしく、この王都で仕事をしているらしい。
彼が所属しているという『組織』は、国のための、いわゆる『汚れ仕事』を請け負っているらしかった。
「報酬は高いよ」
彼が提示した金額は、私が吟遊詩人として一年かけて稼ぐよりも、ずっとずっと多かった。
当時の私は、少しだけ、お金に困っていた。
ずっと使ってた、お父さんのリュートが壊れてしまって、修理に出したら随分と高くついたのだ。
そして、何よりも、その『組織』が持つ、秘密めいた響きに、どこか惹かれるものがあった。父が語ってくれた物語に出てくる、スパイや密偵のような、スリリングな世界。
軽い気持ちだった。本当に。
少しだけ、この刺激的な世界を覗いてみたい。お金を稼いで、また、自由な旅に戻ればいい。
そう、考えていたのだ。
それが、私の人生を大きく狂わせる、間違いの始まりだったとも知らずに。
暗部での仕事は、想像していたよりも、ずっと刺激的だった。
私の役目は、精霊の力を使って、情報を集めたり、あるいは、特定の情報を流布させたりすること。吟遊詩人として培った経験が、そのまま生かせる仕事だった。
酒場に紛れ込み、人々の噂話に耳を傾ける。時には、精霊の力を使い、特定の人物の会話を、遠くから盗み聞きすることもあった。
集めた情報を報告すれば、多額の報酬が手に入った。高価な服を買い、美味しいものを食べ、新しい楽器を買う!
私は自分が、物語の登場人物にでもなったかのような、高揚感を覚えていた。
だが、そんな日々は、長くは続かなかった。
組織に所属して二年が経った頃。私はこの仕事の、暗く、そして、血生臭い側面にやっと気づき始めた。
私が集めた情報によって、人が死ぬ。私が流した噂によって、誰かの人生が終わる。
最初は、見て見ぬふりをしていた。これは仕事だ、と自分に言い聞かせていた。
でも、ある日、私の先輩だった、一人の精霊使いが任務で命を落とした。
私をこの組織に誘った彼だ。
「……誘ってしまってすまなかった。だが、辞めたい、なんて口にするなよ。……辞めた奴は、秘密保持のために、消されるんだ」
生前、彼が苦しそうに言っていた言葉が、脳裏に蘇る。
その時、自分が鳥かごの中にいることを、はっきりと自覚した。
金色の豪華な鳥かご。だが、一度入ってしまえば、二度と出ることはできない。
それから、私の心は、少しずつ枯れていった。
音楽を奏でても、心は晴れない。
美味しいものを食べても、味がしない。
ただ、与えられた任務を、感情を殺して、機械のようにこなすだけの日々。
気がつけば、私は二十五歳になっていた。私の人生は、この薄暗い鳥かごの中で、静かに朽ち果てていくのだ。
そう、諦めていた。
彼が現れたのは、そんな絶望の底に、私がいた時だった。
新しいチームメンバーが来ると聞かされた時、私は少しだけ期待していた。
少し前から、精霊使いが新しくチームメンバーに加わることを知らされていたのだ。
そして、ドア越しに感じた、その人物の気配。
それは、間違いなく、精霊の力を宿した者のものだった。
私と同じ、精霊使い。それも、かなり強力な。
もしかしたら、あの優しい先輩のように、この息の詰まるような日常の中でも、心を通わせることができるかもしれない。そんな、淡い期待を抱いていた。
だが、扉が開き、彼の姿を実際に目にした瞬間。
私の期待は、粉々に砕け散った。
(……違う)
肌が、粟立った。全身の血が、逆流するような感覚。
私の内にいる音の精霊が、沈黙し、恐怖に震えているのがわかった。
(精霊使いなんかじゃない……! 精霊様、そのものじゃない……!)
黒い髪に、黒い瞳。年の頃は、十代半ばくらいに見える、華奢な少年。
だが、その身に宿している力は、私がこれまで感じたことのないほど、巨大で、静かで、そして、底なしに冷たかった。
それは、月と、水と、そして、深い闇の気配。
人間が、契約によって精霊の力を借り受けるのとは、訳が違う。彼は、その存在自体が、精霊そのものだった。
ゼス様の嘘つき!
心の中で、私は叫んだ。精霊と人が、同じ空間で生活なんてできるわけない。
案の定、最初の任務から、彼は私の理解を、遥かに超えていた。
ブリエンツの街で、三日間、まるで死んだように眠り続けたかと思えば、クロウさんすら、知りえなかった情報を、いともたやすく掴んでみせた。
その情報収集の方法は、私には想像もつかなかったが、彼の力が、私の常識の範疇にないことだけは、確かだった。
彼と一緒にいると、いつも、心が落ち着かなかった。
彼の隣にいるだけで、私の契約している精霊が怯えてしまい、うまく力を引き出せない。
時折、彼が、ふと、虚空を見つめることがある。その時、彼の周りには、精霊の気配が、まるで濃い霧のように立ち込める。それは、私にとって、畏怖する存在そのものだった。
彼は……本当に人間なのだろうか。気配は紛れもなく精霊そのものだ。だが、人間の体をもつ精霊など、聞いたこともない。
見た目は人間に見える。だけど、長く付き合っていると、不自然な点がいくつも見受けられた。
小柄な私よりも、ずっと少ない量の食事しか摂らない。時には、何日も、水だけで過ごしていることもあった。
自分の体にも、ひどく無頓着だった。服が破れていても、靴が壊れかけていても、全く気にする素振りを見せない。
クロウさんはそういうのを指摘しないから、私が彼の世話をするのが、当たり前になっていった。
だけど、不思議なことに、彼と話していると、その恐怖は少しだけ和らいだ。
彼は口数が少なく、感情の起伏も乏しい。だが、彼の言葉は嘘がなかった。
彼の言葉は、人の世から離れていたが、それは荒んだ私の心には癒しを与えてくれた。
他の暗部の隊員たちのように、下品な冗談を言ったり、他人を嘲笑したりすることもない。
その静かな佇まいは、徐々に私に安心感を与えていった。
彼とクロウさん、そして私の三人でいくつもの任務をこなした。
危険な任務も、たくさんあった。何度も、死にかけた。
私には、戦闘能力なんてないから、ただ、逃げることしかできなかった。
でも、彼がいてくれたから、私たちは、生き延びることができたことも、たくさんあった。
彼の操る漆黒の水は、どんな障害をも飲み込み、どんな状況をも覆した。
いつしか、私は、彼のことを、ただの恐ろしい存在としてではなく、一人の、信頼できる仲間として見るようになっていた。
もちろん、畏怖の気持ちが完全に消えたわけではない。
だが、それ以上に、彼の隣にいることが、当たり前になっていたのだ。
少しずつ、休息日に音楽を奏でることも再開していった。
やっと、この鳥籠の中でも、自由に羽ばたける気がしていた。
だけど、そんな奇妙な安定も、長くは続かなかった。
ガリア帝国との戦争が激化するにつれて、私たちに下される任務は、日に日に過酷さを増していった。
国内の反乱鎮圧。それは、もはや、任務などという生易しいものではなく、一方的な殺戮だった。
飢えに苦しみ、ただ生きるために武器を取った人々を、私たちは、国の命令のままに殺し続けた。
だから、大して強くない私の心が、耐えられなかったのも、仕方がないのかもしれない。
夜、眠ろうとしても、殺した人々の顔が、次々と浮かんでくる。
食事をしても、砂を噛んでいるようで、味がしない。
そして、何よりも辛かったのは、完全に、私の愛する音楽が失われてしまった。
リュートを弾いても、指が震えて、まともな音が出せない。
歌おうとしても、喉が詰まって、声にならない。
私に付いてくれている精霊は「また、いつか奏でられる」と言ったが、一向に改善はしなかった。
もう、限界だった。
このまま、ここにいたら、私は、本当に、ただの抜け殻になってしまう。
そんな時、下されたのが、要塞都市『フォルトゥナ』への、最前線任務だった。
あ、これで終わるんだ。そう思った。
どうせ、このまま、心が死んでいくくらいなら。いっそ、戦場で、華々しく散った方が、マシかもしれない。
そう思いながら、任務に行き――そして、帰ってこれた。
帰ってきてから、部屋でうずくまっていると、自分が死にたくなかったことにやっと気が付いた。
だから、私は、震える手で、ゼス様に辞表を提出した。
殺されるかもしれない。そう、思った。
先輩が言っていたように、秘密保持のために、始末されるのだろう、と。
それでも、もう終わりにしてほしかったのだ。
「……好きにしろ」
ゼス様は、私の辞表を一瞥すると、ただ、それだけを言った。
その顔には、疲労とほんの少しの憐れみが浮かんでいるように見えた。
私は逃げるように暗部の拠点を後にした。
リンさんと、クロウさんには、何も言えなかった。彼らに、どんな顔をして会えばいいのか、わからなかったから。
アルシオン王国を抜けるまで、私はずっと追手の影に怯えていた。
だが、予想に反して追手は一人も現れなかった。
ゼス様が、本当に私を見逃してくれたのか。それとも、もはや、私一人を始末するだけの人手すら残っていなかったのか。
今となってはわからない。
ただ、私はこうして、生きている。
自由な空気を、吸っている。
そして、自由に音楽を奏でられている。
噴水の水音が、私を、過去の回想から、現実へと引き戻した。
目を開けると、西の空が、茜色に染まり始めていた。
リンさん。クロウさん。
二人は、今、どうしているだろうか。
リンさんは、ご飯をちゃんと食べているだろうか。
クロウさんは、お酒を飲みすぎていないだろうか。
私がいなくても、任務は順調だろうか。
私が抜けたことを怒っているだろうか。
時折、そんなことを考える。
もう、会うこともないであろう、仲間たち。彼らの無事を、祈ることしか私にはできない。
だけども、私には私の人生がある。だから、自由に生きるのだ!
私は、立ち上がると、リュートを背負い直した。
これから、どこへ行こうか。
まだ見ぬ街、まだ聴いたことのない音楽が、私を待っている。