随分と長い間彷徨っていた森を抜けると、そこには黒い湖があった。
まるで、深海を映したらこんなふうになると言われても、信じてしまいそうなどこまでも暗い色が広がっていた。
海のようだというには小さく、大きい池と呼んでも差し支えないサイズで、一周は1km程度に思える。
僕が今抜けてきた森側と接するように湖が合って、向こう側には平原と、いくつかの家。そして、木でできた塀?のような建物の奥には、家がポツポツと見える。
夕暮れ時に見えるその風景は、絵本から切り取られたみたいだ。
ふと、湖の向こう側に人がいるのが見えた。
湖の縁を回って、水辺の人に会いに行く。
特段、彼女に用はないのだけど、村人っぽい人を無視して村へ行くのも変な気がするので、挨拶程度はしておこうと思う。
近づくにつれて、姿が鮮明になる。
とてもきれいな人だ。時折、長いブラウンの髪が風で動く。
白い衣装を身につけた姿は、神聖な空気を醸し出している。
彼女は湖に向かって座り込み、手を組んで、目を閉じていた。
何かを祈っているのか、集中しているのかわからないが、僕には気がついていないようだ。
「あのう、すみません」
ビクッと肩が震えると、こちらを見た彼女は、ひどく驚いていた。
「ッ」
今更、なにか儀式の邪魔をしたんじゃないかと申し訳なくなってきた。
視線が交差する。
ボーイミーツガールが始まる…という空気ではなかった。だって彼女は僕よりも一回りほど年齢が上のように見えたから。
それに、戸惑い。それがこの人から読み取れる表情だった。
「あのう、すみません」
二度目のアクションをかけながら、ふと言葉が通じているのか不安になってきた。というか、異世界だし、言葉が通じないのでは?
不安が湧き上がり、どうしようか考えていると――
「あぁ…はい。…なんでしょうか?」
言葉は通じた。
「実は――遭難してしまいまして。すみませんが、集落へ案内してもらえませんか?」
実に、不審者足り得る発言だけども、とくにいい感じの言い訳が思いつかなかったので、素直に伝える。
「…」
じっと僕を見つめる視線は、居心地が悪い。焦点があっていないような気がする。
というか、返事が返ってこない。
「あのう――」
「っは、はい。大丈夫です。い、いま、案内しますね」
挙動不審。これじゃどっちが不審者かわからないね。
僕は後ろを追従した。
数分歩くと、湖から見えていた家へとたどり着く。
3つほど家といくつかの物置が簡易的な木の塀の外側にあり、木の塀の内側に建物が集まっていた。
そのまま、塀の外にあった家の一つへ案内され、促されるままに椅子へ座る。
「今日は、もう村へは入れませんので、ここで一泊していただくことになります。明日、村へは使いを出しますので…よろしいでしょうか」
落ち着いた雰囲気で話す彼女は、最初に見かけたときと同じく神聖な空気を醸し出しながら話した。
了解した旨を伝えると、彼女は家の外へ行ってしまった。
――ここは彼女の家なのだろうか。部屋に残るタオルや畳まれた衣類、積み上げられた皿などの生活痕から、外来用の建物ではないと思う。
初対面の人物を家にあげて、放置するのは随分と不用心だと思うけど。
特にやることがなくなってしまったので、部屋にある物品から、この世界の生活様式を考えてみる。
机と椅子の加工精度から、電動工具とかで揃えられた雰囲気は感じ取れない。
窓にハマっているガラスや、陶器の器、金属の金物があることから、熱を使った加工品はあるようだ。
とはいえ、家の中の物品は、金属製の物体がほとんどなく、ほとんど木製だ。
原始的な文明ではないことに少し安心する。
また、果物のようなものや、雑貨がたくさんあるので、そこまで貧しい生活ではないのだろうと推測した。
サイドテーブルに乱雑に置かれている雑貨の中に、ランプのような物もある。あとは、よくわからない物品がいくつかある。時計…のような文字盤が書かれた丸い何かには、針は無いし、動いてる様子もない。
窓際の机にはペンと、紙、本が積み上げられている。
本とか紙が普及しているなら、活版技術もあるのだろう。
というか、魔法があるのであれば、何かしらの魔法技術が発展していてもおかしくない。
あと気になるのは…水洗関連。だけど、なぜかこの世界に来てから排泄や食事が必要なくなってしまったので、トイレや風呂が、日本レベルで整ってなくてもそこまで困らないかも。
そういえば、なぜか言葉は通じたけど、僕はこの世界の文字は読めるのかな。
なんとなく気になって、ふらふらと本棚に並べられた本を手にとって見る。
ちょうどリクライニング用の椅子があったので、そこに腰掛ける。
パラパラと適当にページをめくって、いくつかの本を眺めてみる。
うん。まったく読めない。
日本語でも英語でもないし、なんなら文字の種類を目にしたことがないから、地球上の文字では無いみたいだ。
でも、文字がこれだけ普及しているってのは、この家が豊かなのか、この文明が豊かなのか…
本をいくつか眺めていたけど、少なくとも3種類くらいの言語で書かれた本がある。
現代日本でも、家に外国語の本が置かれている家庭は殆ど無いし、もしかして、裕福な家なのかな。
ペラリと、本をめくる音が家の中を巡る。
読めない本と、静かな家。久しぶりに人工的な空間へ出てきた安心感からか、僕のまぶたは徐々に塞がっていった。
肉体的には睡眠なんて必要ないのに、精神的には必要みたいだな…と思った。
――ギュッと足が引っ張られる。
意識が覚醒したてのぼんやりとした頭で、周囲を見渡す。
そうだ。森を抜けて、美人にあって、家に招待されて――。
どうやら目をつぶっていたら、寝ていたようだ。
僕の膝によじ登ろうとする生物と目があう。
不思議そうな顔をして僕を観察する真っ黒い瞳は、なんとなくあの湖を思い出させた。
固まっている生き物の脇に手を入れて、膝に座らせる。
まるで、おとなしい猫のようにされるがままだ。
体格の割に軽いな、と思った。
「…」
「…」
じっと僕を見つめる、その生物は首をかしげる。柔らかそうなくせ毛が動きに合わせて、肩から落ちる。
「僕は…リン。君の名前は?」
「…ミトラ」
この子は、この家の子だろうか。それとも、ブラウニーとか座敷童と呼ばれる異世界ハウス妖精なのだろうか。
「きれー」
そう言いながらミトラちゃんは僕に更によじ登り、髪を手に取り弄り始めた。
白色の髪が珍しいのだろうか。僕のメラニンは以前起きた出来事がきっかけで、すっかり抜け落ちてしまっていたから、目立つ。医学的には、メラニン反応に乏しいため日に当たりすぎなければ問題ないらしい。まぁ、こっちの世界に来てから、それすらも問題ではなくなったけど。
随分と人見知りしない子だな。その頃の子供の多くは人見知りするのが普通だと思うけど。
なんだか、小さい頃の妹みたいで懐かしい気持ちがある。
そんなことを考えながら、ぼくはされるがままに髪を弄られていた。
――ッバンという音とともに勢いよく玄関の扉が開く。
「ミトラ!!離れなさい!」
そう言いながら新しい登場人物が、僕からミトラちゃんを素早く引き剥がして、ドアのところまで引き下がっていく。
その人物は12、3歳程度に見える少女で、僕を警戒心たっぷりの目で睨んでくる。
やっと普通の反応が見れて、少し安心した。
そうだよね。普通、家に見知らぬ男を放置しないし、知らない人には近寄らないよね。
さて、この状況。どうしようか。
すこし悩んでいると、その子の後ろから、僕をここへ案内した女性が入ってきた。
「あらあら、どうしたのロマナ?」
「!!お母さん、家に変な人がいるの!」
僕をここへ連れてきた女性は、母で、その娘二人ってことかな。
「――その方なら困っているようだったから、私が家に入れたのよ。大丈夫よ」
「え?」
「それと、今日は家に泊まることになるとおもうわ」
「何言ってるの!?」
とりあえず傍観して二人の言い争いを黙って聞く。
――なんだか、マイペースな母と妹に振り回されて、可哀想な子だな。僕の最初の彼女に対する印象はそんな感じだった。
それから、一息入れて、僕達はおなじテーブルの席についた。
「村の方へは連絡を入れました。明日には村長に会えると思います」
そう女性は、温かい飲み物を配りながら言った。
「はぁ…なんで知らないやつを泊めなきゃいけないのよ。…レインさんのとこに泊まればいいじゃない」
ぶつぶつと小言を言いながら席についているのは先程の少女。
ミトラちゃんは、隣の席から僕のことをじっと見つめている。
「いいじゃない。ミラも懐いているし、悪い人じゃないわ。それに――」
二人で話している所悪いが、とりあえず、やるべきことがある。
「…すみません、お名前を伺ってもいいですか?――自分の名前はリンといいます」
自己紹介だ。
「あらあら。これは失礼しました。私はマリア。この子はロマナ、その子はミトラよ」
「…ふん。」
そういう二人の容姿はとても似ていた。性格はマリアさんのほうが随分とおっとりしている感じがするけど。
そう思うと、僕の隣に座るミトラだけ髪の色が違う。マリアさんとロマナちゃんは明るいブラウンで、ミトラちゃんはシルバーゴールドだ。
でも、目や鼻筋は似ているから親子で間違いないと思う。
「えっと、それで…僕は今晩泊めてもらえるということでしょうか?ーーもし、迷惑であれば…外にいるので、大丈夫です。明日もう一度伺うので…」
ロマナちゃんは嫌がっているみたいだし、一晩くらいな外で過ごしても問題ない。というか当然の反応だと思うけど。
それに、何日も外で寝てたし問題ない。
「迷惑だなんて…ぜひ泊まっていってください。ロマナも一晩くらいなら大丈夫でしょう?」
「うぅん」
ロマナちゃんの口からは否定寄りの肯定文が漏れ出た。
そのあとは、使ってないらしい部屋に案内された。
食事は用意してくれると言われたけど、そこまで迷惑はかけれないので断った。
案内された部屋では、ずっといっしょに旅してきたリュックの整理と整備をした。
僕自身はなぜか傷ついていないけど、道なき森の中を一緒に旅してきたリュックは、かなりボロボロになってきてた。
裁縫道具をマリアさんに借りると(対価として持っていた通貨を渡したけど受け取ってもらえなかった)、ほつれた部分や、壊れかけている縫い目を縫い直して時間を潰す。
あとは、ぼろぼろになっていたワイシャツやスラックスから、この世界の衣装へと着替えたり、不要なものの選別をしたりして時間を過ごした。
キィという音がして、窓が風で開く。
ふと、そこから外を見ると、最初にここへたどり着いたときに見た湖が見えた。
いや、見えないはずだ。
もう、暗闇が世界を支配していて、明かり一つ無いこの村の周辺を家の中から見えるはずが無いのだ。
でも、その暗闇の向こうから確かに僕を見ているような気がして、それは湖だと思ったんだ。
――なんてね。
僕は首を振って、ベットへ横たわると、目を閉じた。