水の流れに身を任せるというのは、ひどく心地の良いものだった。
憂鬱な世界との接続が曖昧になる。せせらぎの音と、水底の石を撫でる感触で、世界を感じとれる。
アルシオン王国の西の国境線。ガリア帝国騎士アストルとの戦闘の末、僕は自ら引き起こした濁流に身を投じた。
ゼス、クロウ、ミラ、そして王女タリア。
アルシオン王国で出会った彼らの顔が、水の中で揺らめいては、泡のように消えていく。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
一日か、三日か、あるいは、もっと。
時間の感覚さえも曖昧にさせる。
だけど、心地よいからと言って、いつまで微睡みに浸っていては物事は進まない。
僕は意識を人間の体へと浮上させた。
まるで、深い眠りから覚めるように、僕の輪郭が、再び形を取り戻していく。
最初に感じたのは、ざらりとした砂の感触だった。背中に当たる硬くて冷たい地面。次に、鼻をつく腐った藻の匂い。
ゆっくりと瞼を開くと、見慣れない灰色の空が広がっていた。
どうやら、どこかの浅い川底に引っかかっているらしい。
さて――ここは、どこなのだろうか。
アルシオンの国境の川から、どれくらい流されたのだろう。
何もわからない。
だが、不思議と、焦りはなかった。
むしろ、解放されたような、静かな安堵感が僕の心を支配していた。
ふと、人の気配を感じた。
複数。それも、子供たちのようだ。
僕は、咄嗟に気配を消して、再び川底で漂うことにした。面倒事は、できるだけ避けたい。
だが、それは間違った選択だったようだ。
「……おい、見ろよ。誰か倒れてるぞ」
「死んでるのか?」
「服はボロボロだな……なんか金目のもの、もってるかな」
ひそひそと交わされる会話。足音が、ゆっくりと僕に近づいてくる。
彼らは、僕のことを、流れ着いた死体だと思っているのだろう。僕がここに自然に流れ着いたので、このあたりでは、よくあることなのかもしれない。
一人の子供が、棒のようなもので、僕の体をツンツンと突いてくる。
僕は、ぴくりとも動かない。
「……やっぱり、死んでるみたいだ」
「じゃあ、剥げるもんは剥いじまおうぜ」
「待てよ。他に誰か来ないか、見張りを立てよう」
どうやら、彼らの中にも、慎重な性格の者がいるらしい。
やがて、小さな手が、僕の足首にそっと触れた。生きているか確かめようとしているのだろう。
だが、今の僕の体は川の水とほとんど同じ体温だろう。なんせ先ほどまで、ずっと水に浸かっていたのだから。
「……死んでると思う」
その声には安堵と、そして、ほんの少しの罪悪感が混じっているように聞こえた。
「だよな! よーし、じゃあ、靴からだ!」
子供たちが、僕の身ぐるみを剥がそうと、わらわらと集まってくる。
さすがに、これ以上、死体のふりを続けるのは、得策ではない。
僕は、ゆっくりと瞼を開いた。
そして、体を起こす。
「「「―――ひっ!?」」」
僕の周りにいた子供たちが、一斉に息を呑み、凍りついた。
その顔には、死者が蘇ったのを見たかのような、純粋な恐怖が浮かんでいる。
僕は何も言わず、ただ、彼らの顔を一人一人見渡した。
痩せて薄汚れてはいるが、その瞳にはまだ、生命の光が宿っている。この世界のどこにでもいる、必死に生きているだけの子供たち。
次の瞬間、彼らはまるで蜘蛛の子を散らすように、一斉に叫び声を上げて逃げ出した。
あっという間に、その姿は砂浜の向こう側へと消えていく。
なんだか、悪いことをした気分だった。
後には静寂と、彼らが残していった小さな焚き火だけが残されていた。
火はまだかろうじて燻っており、ぱちぱちと小さな音を立てている。
僕はその焚き火のそばに、ゆっくりと腰を下ろした。
じわりと、温かい熱が、冷え切った体を温める。
僕は、揺れる炎を見つめながら、アルシオンで過ごした、目まぐるしい日々を、静かに振り返っていた。
暗部の駒として生きた、二年の月日。
それは、僕にとって、長かったのか、短かったのか。
彼らとの出会いは、僕に何をもたらしたのだろうか。
一人が好きな僕にとって、チームという存在は、当初ひどく煩わしいものだった。馴れ合うつもりも、理解し合うつもりもなかった。ただ、任務を遂行するための、合理的な関係。それだけのはずだった。
だが、最後の瞬間、クロウの首輪を壊した時、僕の心に芽生えたのは、任務の達成感とは違う、何か別の感情だった。彼に「借りができた」と言われた時、僕たちの間には、何か別の繋がりが生まれたように感じた。
――また、いつか
そう言って別れたけれど、その「いつか」が、本当に訪れるのだろうか。
王女タリア。
聡明で、誰よりも国を想っていた少女。
彼女は無事に、リステリア公国へとたどり着けたのだろうか。
彼女との、あの夜の会話が、脳裏に蘇る。
――我々の国が滅びゆくのは、定められた運命
神々の罰。定められた運命。
もし、本当にそうだとしたら、僕が彼女の脱出を手助けした行為は、その運命に抗う、無駄な足掻きだったのだろうか。
それとも、別の新たなる運命を紡ぐ、小さなきっかけになり得たのだろうか。
答えは、見つからない。
僕は傍観者でしかない。今までの人生と同じように、僕一人が何をしようと、世界の大きな流れを変えることなどできはしない。
そんなことは百も承知だった。
リスティン公国で見逃した、あの少年の、真っ直ぐな瞳が焼き付いている。
僕は、なぜ、彼を見逃したのだろう。
あの時の僕は、何を考えていたのだろう。
僕の中に、まだ、何かが残っているのだろうか。
「……わからないな」
僕は、小さく呟いた。
その声は、川の流れにかき消され、誰の耳に届くこともない。
ゆっくりと流れる川を見る。
随分と遠くまで流されてしまったようだ。
アルシオン王国は、もう、僕の背中のずっと向こう側。ガリア帝国との戦争が、今、どんな結末を迎えているのか、僕には知る由もない。
これからのことを考えなければならない。
現在の目的。
ロマナちゃん。ミトラちゃん。
彼女たちを探し出し、マリアさんの最期を伝え、そして、精霊の力を継承させる。
それが、今の僕に残された原動力だった。
――だが、どうやって探せばいい?
この広大な大陸で、たった二人を探し出すなど、砂漠で一粒の砂金を見つけるようなものだ。
アルシオンの暗部の資料室で、僕は様々な知識を得た。
だが、人探しのための決定的な方法は、見つけられなかった。
インターネットも住民票すらもまともに無いこの世界で、どうやって人を探せばいい。
現代の日本ですら、夜逃げという言葉があるくらいには、逃げた人を特定することは困難なのに。
魔術や魔法が良い方法になりえると思った。
でも、あのアルシオンの地は、精霊信仰が盛んな国だった。魔術という技術自体が、あまり一般的ではなかった。
もしかしたら、他の国ならば、何か手がかりがあるかもしれない。
人探しのための、特殊な魔術や、便利な魔道具。
そういったものが、存在するのではないか。
そのためには、まず、情報が必要だ。
ここはどこなのか。この近くには、どんな街があるのか。そして、そういった技術が手に入る――もしくは持っている人がいる場所は、どこなのか。
考えが纏まってきたので、僕は立ち上がった。
焚き火の熱で、服はほとんど乾いていた。冷え切っていた体も人肌程度には温まった。
心の中に渦巻いていた、とりとめのない思索も、炎の揺らめきと共に、少しだけ整理された気がする。
目の前には、子供たちが逃げていった方向に街が見えた。
おそらく、彼らはあの街のスラムに住む子供たちなのだろう。
よし、と。
僕は、小さく、自分に気合を入れた。
まずは、あの街へ行こう。
旅の物資を整え、情報を集める。
それが、僕の新たな旅の、第一歩だ。
僕は、川に背を向け、街に向かって、ゆっくりと歩き出した。
埃っぽい道をしばらく歩くと、やがて高い外壁が見えてきた。
僕が想像していたよりも、ずっと大きな街だった。壁は長年の風雨に晒されて、所々が黒ずんでいるが、その造りは堅牢で、この街が長い歴史とそれを維持する力を持っていることを示していた。
門の前には、数人の兵士が立ち、街へ入ろうとする人々を、一人一人、厳しく検めていた。
商人らしい男が荷馬車を止められ、積荷の内容については説明し、旅人風の一団は羊皮紙の通行証のようなものを提示し、ようやく、門をくぐることを許されていた。
検問する列に並び、一緒に並んでる人に、ここはどこか聞くと、親切に教えてくれた。
「あんた、ここがどこかも分からずにならんでるのかい?ここは都市国家ノーリンだよ。…あの検問を通るには通行証が必要だけど、あんたもってるのかい?」
都市国家ノーリン。たしか、以前みた東部の地図では、東部の中央にある、都市国家群の一つだったと思う。アルシオンから比較的近い国だ。
そして、どうやら、この街に入るには身分を証明するものが必要らしい。
僕は自分の身なりを、改めて見下ろした。
汚れた服。武器らしい武器も持っていない。おまけに、髪もボサボサ。
どう見ても、怪しいこと、この上ない。
だが、今の僕には、それをどうにかする方法は無かった。
なので、そのまま列に並び検査を待った。
やがて、僕の番が来た。
槍を手に、退屈そうな顔で立っていた兵士が、僕の姿を認めると、あからさまに眉をひそめた。
「……通行証か身分証は持っているか?」
その声は冷たく、そして、事務的な者だった。。
「……それは絶対必要ですか?」
僕は思わず、聞き返した。
僕には、この世界での正式な身分など、存在しない。
僕が聞き返すと、兵士は面倒くさそうな顔をした。
「持ってないならば、街には入れられん。身元のわからん浮浪者を、やすやすと入れるわけにはいかんのだ。立ち去れ」
つまり僕は、街に入れないらしい。
これは困った。