兵士の言葉は、まるで冷たい鉄の壁のように、僕の前に立ちはだかった。
街に入れない。
その単純な事実が、ずしりと重くのしかかる。
アルシオンの暗部にいた頃、僕に正規の身分証などという、上等な物は必要なかった。
だが、ここは違う。
ここは、人々がそれぞれの生活を営み、社会という名の秩序の中で生きる場所。身元不明の人間が、やすやすと入り込めるほど、この世界は甘くないらしい。
僕は、すごすごと門の前から離れ、壁際の隅に腰を下ろした。
行き交う人々が、僕を哀れみの目で見ていく。
――どうしよう
力ずくで押し入ることは、――おそらく可能だろう。この兵士たちを無力化することなど、僕にとっては造作もない。
だが、それは悪い選択肢だ。
無用な争いを、すくなくとも、僕から仕掛けることは望んでいなかった。
夜になったら忍び込めばいいか、なんて考えながら、僕は膝を抱えただ時間が過ぎるのを待った。
空の色が灰色から茜色へ、そして深い藍色へと移り変わっていく。
街の喧騒が次第に遠のき、人工的な明かりが増えていく。
やがて、門を閉じる時間になったのだろう。
昼間の、あの冷たい目をした兵士とは別の、少し年嵩の兵士が僕のそばにやってきた。
見回りだろうか。
その顔には疲労が浮かんでいるように見えた。
「おい、坊主。いつまでそこにいるつもりだ? もう門は閉まるぞ」
その声には昼間の兵士のような冷たさはない。
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……身分証がなくて、入れませんでした」
正直にそう答えた。
兵士は僕の顔を見て、深いため息をついた。
彼は自分の水筒を差し出してきた。
「とりあえず、これを飲め。話はそれからだ」
僕には必要がなかったが、親切心を受け取ることにした。。
僕は水筒の水を一口飲んで、返す。
「……ありがとう、ございます」
「いいってことよ。で、どうするんだ? このままじゃ、野垂れ死にするだけだぞ」
僕はどう答えるべきか、少し迷った。
だけど、現状を話すのがいいと思った。
「川に流されて……今、身分証を持ってなくて」
できるだけ、嘘はつかないように話す。
兵士は、僕の言葉を黙って聞いていた。
だが、やがて、彼は諦めたように、もう一度ため息をついた。
「……分かった。とりあえず、こっちへ来い。隊長に話してみる。何とかなるかもしれん」
彼はそう言うと、僕に背を向けて歩き出した。
僕は、少しだけ躊躇した後、その背中を追って、ゆっくりと立ち上がった。
そして、街の中に入ると、彼は僕に少量の銀貨を渡して、「これで、中に入れてもらえるように話せ」と言った。
こんな殺伐としてそうな異世界にも、親切な人はいるんだな…と思った。
そしてそのまま、兵士に連れていかれたのは、門のすぐ脇にある、石造りの小さな詰所だった。
中に入ると、ランプの灯りが、狭い室内を頼りなく照らす。
石の匂いと、汗の匂いが混じり合った、むっとするような空気が立ち込めている。
奥の机に、一人の男が座っていた。
この男が隊長だろうか。筋骨隆々とした体つきに、顔には深い皺が刻まれている。
僕を連れてきた兵士が隊長に敬礼し、事情を説明して部屋を出ていく。
隊長は僕の姿を頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように眺めた。
「確かに、壁の外で死なれても、それを片付けるのは俺たちだしな……」
彼は低い声で、そう呟く。
「だが、犯罪者を街に入れるわけにはいかない。検査させてもらうぞ」
犯罪。その言葉の意味を僕は考えていた。
アルシオンの暗部として任務は、現代日本では犯罪と呼ばれるものが多数あった。法で処分できないから、暗部という実行部隊がいるのだから。
だが、それで僕を罪に問うことができるのだろうか。
兵士の略奪が免責されるのと同じように、暗部の仕事も免責されるのだろうか。
隊長は、机の引き出しから、奇妙な魔道具を取り出した。
水晶玉のような球体に、複雑な金属の飾りがついている。
「これに手を置け。嘘はつくなよ。わかるからな」
隊長は、その魔道具を、僕の前に置いた。
「これは、『真実の灯火』だ。嘘をつけば、この灯りが赤く染まる。そうなった時のお前の処遇は……分かるな?」
僕は黙って頷き、その冷たい球体にそっと右手を置いた。
この魔道具が、どのような原理で嘘を検知するのかは分からないが、生理的な反応を基にしているのであれば、欺くことは可能だろう。
魔術的な原理ならば、――今の僕にはどうしようもない。
「名前は?」
「……リン」
「どこから来た?」
「……アルシオン王国」
「どうして、この街へ来た?」
「川に流されて、気づいたらこの近くの川岸にいました」
僕が答えるたびに、隊長の鋭い視線が、僕と『真実の灯火』とを往復する。
だが、水晶玉の灯りは、静かな白い光を放ったままだ。
「……犯罪を犯したことはあるか?」
それが、最後の質問だった。
「ないです」
僕はじっと水晶玉を見つめた。
そして――。
『真実の灯火』は、白い光を放ち続けていた。
隊長は、しばらくの間、僕の顔をじっと見つめていたが、やがて、ふっと息を吐き、魔道具を片付けた。
「……まあ、いいだろう。少なくとも、お前が、そこらの盗賊や犯罪者ではないことは分かった」
彼は、椅子に深くもたれかかり、腕を組んだ。
「だが、身元不明であることに変わりはない。このまま街に解放するわけにはいかん」
そう言いながら、僕の身なりを眺める。
「お前が取れる方法は一つだけだ」
隊長は言った。
「冒険者ギルドに登録し、ギルド証を手に入れろ。それが、身分証の代わりになる。この街ではな」
冒険者ギルド。
その言葉は、アルシオンの資料室で、何度か目にしたことがある。
様々な依頼をこなし、報酬を得る者たちの集まり。この世界の便利屋のようなものだと、僕は認識していた。
「だが、お前のような素性の知れない奴を、すぐに信用するわけにもいかん。そこで、だ」
隊長は、指を一本立てた。
「保証金を預かる。その代わりお前には、一日だけ街の中に滞在する権利を与える。その時間で、ギルド証を手に入れて戻ってこい」
先ほどの兵士が、こっそり渡してきたのはこのためか。
ちなみに、アルシオンで得た報酬を僕はまだ所持していた。
だけど、親切心からお金を融通してくれた兵士に、後から不審がられるのも困るので、そのまま銀貨を渡す。
「……分かりました」
「よろしい……今日はもう遅い。ギルドも閉まっているだろう。一晩、ウチで預かってやる。明日中にギルド証を持って帰ってこい」
隊長はそう言うと、扉を開けて外の兵士を呼ぶ。
「地下の牢に連れていけ。明日の朝になったら、開放しろ」
「はっ!」
兵士に促され、僕は詰所の奥にある、地下へと続く階段を降りていった。
異世界の牢屋、という言葉から僕が想像するよりも、その部屋は清潔だった。
石の壁に囲まれた、六畳ほどの空間。簡素なベッドと、バケツがあるだけ。鉄格子の向こう側には、松明の光が揺れている。
しばらくすると、兵士が黒パンとスープの入った盆を、鉄格子の隙間から差し入れてくれた。
僕は、礼を言ってそれを受け取り、ゆっくりと食べた。
美味しくはないな。だけど、残すと印象がわるくなるかも……
そう思って、無理やり口に入れて処理する。
食事を終え、ベッドに横になると、様々な考えが、頭の中を駆け巡った。
冒険者。
都市間の移動や、情報収集を円滑に行うためには、身分を証明するものは、確かに必要だろう。
ロマナちゃんたちを探すためには、様々な街を渡り歩く必要があると思う。その度に、今日のような足止めを食らっていては、実に面倒だ。
それに、ギルド、という響きから察するに、様々な情報が集まるはずだ。
人探しの依頼や、それを可能にする魔道具の情報も手に入るかもしれない。
そう考えると、冒険者になるという選択は、悪くないように思えた。
むしろ、今の僕にとっては、唯一の道なのかもしれない。
僕は、ゆっくりと目を閉じた。
思考を整理するためには、眠りに似た、静かな時間が必要だった。
翌朝、僕は詰所から解放された。
朝日が、眩しく目に染みる。
兵士に、冒険者ギルドの場所を教えてもらい、僕は、活気づいた街を歩き出した。
ノーリンと名付けられたこの都市国家は、僕が想像していたよりも、ずっと大きく、そして、人で溢れていた。
様々な人種が行き交い、露店が軒を連ね、威勢のいい呼び込みの声が、あちこちから聞こえてくる。
アルシオンの王都とは、また違う種類の活気。
戦争の影がない、平和な日常がここにはあった。
しばらく歩くと、ひときわ大きな頑丈そうな建物が見えてきた。
建物の前には、剣や鎧で武装した者たちが何人も出入りしている。
ここが冒険者ギルドらしい。
僕は深呼吸を一つして、その重い木の扉を開いた。
途端に喧騒が僕を包み込んだ。
金属がぶつかり合う音。男たちの野太い笑い声。
壁には、依頼書らしきものが、所狭しと貼られている。
僕はその圧倒的な雰囲気に、少しだけ気圧されながらも、まっすぐに受付カウンターへと向かった。
カウンターの内側では、数人の職員が忙しそうに働いている。
僕の前にいた、屈強な男が受付の女性と何事か話している。
女性は臆することなく、手際よく書類を処理していた。
やがて、僕の番が来た。
対応してくれたのは、栗色の髪をポニーテールにした若い女性だった。そばかすの浮いた、親しみやすい顔立ちをしている。
「こんにちは。ご用件はなんでしょうか?」
事務的で丁寧な口調だった。
「……冒険者登録を」
僕がそう言うと、彼女は僕の全身を、さっと観察するように見た。
その視線は、詰所の隊長のように鋭くはないが、値踏みするような色を帯びている。
「登録ですね。承知しました。では、こちらの書類にご記入ください。それと、登録料として銀貨1枚が必要になります」
僕は頷き、差し出された書類と、羽ペンを受け取った。
名前、年齢、出身地、特技などを書き込む欄がある。
僕は、名前の欄に「リン」とだけ書き、年齢は「19」、出身地は「アルシオン王国」、特技は「魔法」と、当たり障りのない内容を記入した。
書類と登録料を提出すると、受付の女性が一枚の金属製の札を僕に手渡した。
粗悪な鉄でできた札。そこには、僕の名前「リン」と「見習い」という文字が刻まれている。
「こちらが、あなたのギルド証になります。失くさないようにしてくださいね」
僕は、その鉄の札を受け取った。
これで僕は冒険者を名乗れるようになった。
「では、今日から、あなたは見習い冒険者です」
受付の女性が、にこやかに言った。
「ただし、注意点があります」
彼女は指を立てた。
「その見習いのギルド証は、この都市国家ノーリンの中でしか効力がありません」
「……えっと?」
僕は、思わず聞き返した。
「他の都市でも通用す身分証として使うには、冒険者ランクを『下級』まで上げる必要があります。『下級』になれば、ほとんどの国で、身分証として使うことができます」
なるほど。そう簡単にパスポートの様なものが、発行できるわけでは無いらしい。
「……どうすれば下級に?」
「いくつかの依頼と戦闘技能研修で、良い評価を得ることで昇格できます」
どんな依頼を受けられるのか、具体的に聞いてみると、薬草の採集、下水道の掃除、迷子の子猫探し、などがあると、説明してくれた。
それと、戦闘技能研修で戦闘能力有、という評価を貰えれば下級冒険者へ昇格できるとのこと。
どうやら、ソノミスへ向かう、という目的のためには、この作業は避けては通れない道らしい。
面倒だ、という気持ちが半分。
面白そうだ、という気持ちが半分。
その心の動きからすると、僕はすこしだけ、興奮しているのかもしれないな、と思った。
この世界に来てから約3年。やっと異世界らしい話が僕を待っているのだ。
でも、その前にギルド証を見せるために、兵士の詰所へと戻らなければならない。