下級冒険者への昇格。
それが、このノーリンという都市国家から、さらに先へ進むための、僕にとっての最初の関門となった。
僕は受付の女性に礼を言うと、真新しい鉄のギルド証を握りしめ、ひとまず冒険者ギルドを後にした。
まずは、詰所へ戻らなければならない。
約束通り、ギルド証を手に入れたことを報告するためだ。
活気のある大通りを、僕は詰所に向かって歩く。
行き交う人々の喧騒、露店から漂う香ばしい匂い。
詰所の扉を叩くと、中から「入れ」という、少し気だるげな声がした。
僕が中へ入ると、そこにいたのは昨夜僕に声をかけてくれた、あの親切な兵士だった。
彼は机に突っ伏して、何かの書類と格闘していたようだったが、僕の姿を認めると、少し驚いたように顔を上げた。
「おお。無事に登録できたのか?」
その声には、安堵の色が滲んでいた。
僕は黙って頷き、懐から鉄製のギルド証を取り出して、彼に見せた。
「おかげさまで」
兵士は、そのギルド証を手に取ると、まじまじと眺めた。
「リン、か。見習い冒険者だな。記録しておく。もう失くすなよ」
彼はそう言うと、ギルド証を僕に返しながら、にっと笑った。その顔には、彼の人の好さが出ていた。
「昨日は助かりました。ありがとうございます」
「ははっ、気にすんな。それに、若い奴が街の外で野垂れ死にしてるのを見つけると、寝覚めが悪いからな」
彼の気遣いが素直に嬉しかった。
「それで、これからどうするんだ?」
「いくつか依頼をやって、下級冒険者を目指すつもりです……これからギルドで依頼を探します」
「そうか。まあ、焦らずにな。駆け出しの頃が、一番死にやすいって相場は決まってる」
兵士は忠告するように言った。
僕は彼の言葉に静かに頷く。そして僕は彼に尋ねた。
「……名前を教えてくれませんか。いつか、お金を返しに来きます」
僕がそう言うと、彼は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「俺か? 俺は、ハンスだ。ただの兵士だ」
「では、ハンス。また来ます」
僕は、その名前を反芻した。
「じゃあな。無茶はするなよ」
ハンスに見送られ、僕は詰所を後にした。
そして、再び冒険者ギルドへと向かう。
ギルドに戻ると、先ほどよりもさらに人が増え、喧騒は頂点に達していた。
僕はその熱気に少し気圧されながらも、再び受付カウンターへと向かう。
対応してくれたのは、先ほどと同じ、栗色の髪の女性だった。
「おかえりなさい、リンさん。何かご用件ですか?」
「戦闘技能研修の予約をしたいのですが」
「承知しました。一番早くて、明日の朝からになりますが、よろしいですか?」
了承すると、彼女はカウンターの奥へ行いく。
彼女が手早く書類を準備するのを、僕は待った。
「研修費用として、銀貨が二枚必要になります」
「……はい」
僕は懐を探るふりをして、手を影へと沈めた。
僕の影の中には、アルシオンで得た報酬が、そのままの形で保管されている。金貨、銀貨、そして、いくつかの宝石。それらは、僕がこの世界で生き抜くための、唯一の資産だった。
指先に、冷たい金属の感触が伝わる。
僕は、誰にも気づかれぬよう、ごく自然な動作で、二枚の銀貨を手のひらに出現させた。
そして、何でもないことのように、それをカウンターの上に置く。
「……アルシオン銀貨ですね。こちらは現在、2:3の交換レートとなっています。ですので、三枚必要です」
どうやら、アルシオン銀貨は2/3の価値しか持たないらしい。
追加の銀貨を出す。交換レートを毎回計算するのは面倒だし、アルシオンへは戻る予定はないので、何処かで全部換金してしまうのがいいかもしれない。
受付の女性は、僕が差し出した銀貨を訝しむことなく受け取ると、予約完了の証書を手渡してくれた。
「明日の朝、ギルドの裏手にある訓練場にお越しください。時間に遅れないようにしてくださいね」
「分かりました」
これで、明日の予定は決まった。
だが、まだ日は高い。今日一日を無為に過ごすつもりはなかった。
僕は受付の女性に会釈すると、壁際に設置された依頼掲示板(クエストボード)へと向かった。
そこには、羊皮紙に書かれた様々な依頼が、所狭しと貼り出されている。
『迷子の子猫を探してください。報酬:銅貨一枚』
『薬草「月見草」の採集。一束につき銅貨五枚』
『酒場の用心棒。一晩、銀貨三枚』
報酬も内容も、多種多様だ。
僕はその中から、今の自分にできそうな依頼を探す。
戦闘は、まだ避けたい。
魔法使いはあまりいないようなので、目立つのは避けたい。
そうなると、必然的に雑務や採集の依頼に絞られる。
ふと、掲示板の端の方に、人気のなさそうな依頼書が貼られているのが目に留まった。
『下水道の清掃。担当区画の汚泥除去。報酬:銀貨5枚』
下水道の掃除。
その文字を見た瞬間、僕は、これがいいと反射的に思った。
水の魔法。僕が最も得意とする魔法の一つで何とかなる。汚泥やゴミを洗い流すことなど、造作もない。
それに、下水道という閉鎖された空間は、魔法を他の人の目から覆い隠すのにちょうどよかった。
報酬の銀貨五枚もあれば、ハンスに借りた分を返すこともできるだろう。
僕は、その依頼書を掲示板から剥がし、再び受付カウンターへと持っていった。
「……この依頼を、受けたいのですが」
僕が依頼書を差し出すと、受付の女性は、一瞬、驚いたような顔をした。
そして、困ったような、同情するような、複雑な表情を浮かべる。
「この依頼、本当に受けるんですか?初めての依頼としては、お勧めしませんよ。臭いもひどいですし……低位の魔物ですが、スライムが出ます。何より、とても骨の折れる仕事です。だから、誰も受けたがらないんです」
彼女の忠告は、親切心からくるものだろう。
だが、僕の決意は変わらなかった。
「水の魔法が少し使えますので。たぶん、大丈夫だと思います」
僕がそう答えると、彼女は意外そうな顔で、僕をまじまじと見つめた。
「そう、ですか……それなら、少しは楽かもしれませんね」
彼女は、何かを納得したように頷くと、依頼書の控えにサインをした。
「分かりました。では、この依頼を受理します。街の外壁、西側にある下水管理棟へ向かってください。そこの管理人に、この依頼書を渡せば、中へ案内してもらえます」
彼女は、依頼内容の確認を僕に求めた。
期限は三日以内。報酬は、管理人の評価を確認した後、ギルドで支払われる。もし、途中で放棄した場合は、違約金として銀貨一枚を支払わなければならない。
「……承知しました」
僕は、全ての条件に同意し、依頼書を受け取った。
ギルドを出ると、太陽はすでに中天に差し掛かっていた。
僕は、受付の女性に教えられた通り、西の外壁を目指して歩き始めた。
街の中心部から離れるにつれて、建物の豪華さは失われ、道行く人々の身なりも、質素になっていく。
やがて、巨大な外壁が見えてきた。その麓に、目的の建物はあった。
石造りの、窓の少ない、まるで倉庫のような無骨な建物。それが、下水管理棟だった。
扉を叩くと、中から、ひどく面倒くさそうな声がした。
「……なんだ?」
扉が、ぎぃ、と音を立てて開く。
現れたのは、無精髭を生やした、痩せぎた男だった。
彼は、僕の姿を認めると、あからさまに眉をひそめた。
「ギルドからの依頼です」
僕は、依頼書を彼に手渡した。
男は、それを受け取ると、胡散臭そうな目で、僕を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
「……お前さん、一人か?」
「はい」
「――装備は? 明かりは持ってるのか? 下は真っ暗だぞ。それに、最近、スライムが妙に増えててな。そいつらを水路に叩き落とすための、長い棒か何かがないと、どうにもならんぞ」
男は、立て続けに言った。
その口調はぶっきらぼうだが、彼の言っていることは、もっともだった。
「明かりは、魔法で何とかなります。スライムも、問題ありません」
「魔法? へっ、駆け出しが、一人でどうにかなるほど、下水は甘くねえぞ」
男は、鼻で笑った。
「まあ、いい。そこまで言うなら、好きにしろ。だが、忠告はしたからな。年に一人か二人は、お前さんみたいな駆け出しが、足を滑らせて水路に落ちて、死んじまうんだ。そうなっても、俺は知らんからな」
彼はそう吐き捨てると、建物の裏手へと歩き出した。
僕もその後ろについていく。
建物の裏には、地面に設置された大きな鉄の扉があった。下水道への入り口だ。
男は腰の鍵束から、一本の錆びついた鍵を取り出すと、重々しい音を立てて、その錠を開けた。
「終わったら、声をかけろ。確認して、ギルドに報告する」
男はそれだけ言うと、さっさと管理棟の中へ戻ってしまった。
僕は開かれた鉄の扉の前に立った。
ひやりとした、湿った空気が、地下から吹き上げてくる。鼻をつくのは、澱んだ水の匂いと、微かな腐臭。
僕は、躊躇することなく、その暗闇へと続く、石の階段を降りていった。
地下は、男が言った通り、完全な暗闇だった。
僕は指先に意識を集中させ、小さな光の玉を作り出す。それは、まるで月光のように、静かに周囲を照らし出した。
目の前に広がっていたのは、石で組まれた、広大な地下水路だった。
天井は高く、アーチ状になっている。幅は、大人が五人並んで歩けるほどだろうか。中央には、深いの水路が走り、濁った水が、ゆっくりと流れていた。
壁や床は、汚泥がこびりつき、ぬるりとした苔に覆われている。
――これまで暗部で使ってきた地下水路と大差ないな。
そんなことを考えながら、僕はまず、水の魔法で壁の汚泥を洗い流すことから始めた。
指先から高圧の水を噴射させる。それは、まるで透明な刃のように、こびりついた汚れを削ぎ落としていく。
ごう、という水音と共に、剥がれ落ちた汚泥が、水路へと流れ込んでいく。
この作業を、延々と繰り返す。
単純で退屈な作業。
だが、僕はこういう作業が嫌いではなかった。
誰にも邪魔されず、ただ黙々と、目の前の仕事に没頭する。
しばらく、その方法で掃除を続けていたが、あまり進捗が良くないことに気が付いた。
もちろん、手作業で掃除するよりはずっと早く、きれいになっているが、どこまでも続く水路を掃除するのには、遅すぎた。
なので、もっと効率的な方法を考えた。
――影を使えないだろうか。
僕がもっともよく使う魔法。
黒い水。それは、ただの黒い水ではない。僕の意思に応じて、あらゆるものを吸い込み、内包する、異次元のポケットのようなものだ。
僕は試しに、足元の汚泥を吸い込むように意識しながら、影から滲み出させた黒い水を、そっと触れさせてみた。
すると、黒い水が通った後には、何も残っていない。
――これだ。
僕は、やり方を変えた。
高圧の水で汚れを吹き飛ばすのではなく、黒い水を薄く広げ、それで壁や床を撫でるようにして、汚泥を吸い取っていく。
なんとなく、汚れたものをずっと影の中に留めておくのは、気分が良くなかった。だから、吸い取った汚泥は、すぐに中央の水路へと排出する。
これで、実質、僕はただ歩いているだけで、掃除ができるようになった。
右手に月光のような光の玉を浮かべ、足元から影の黒い水を滲み出させ、それを膜のように広げて、壁や床を清めていく。
その光景は傍から見れば、ひどく奇妙な掃除方法だったかもしれない。
僕は、黙々と地下水路を歩き続けた。
時折、スライムに遭遇したが、それらも、黒い水で包み込み、水路へと流してしまえば、何の問題もなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
休憩など必要ない僕は、ずっと地下で作業をしていた。そろそろ、日が落ちる頃合いかもしれない。
依頼書に記されていた担当区画の、最後の角を曲がる。
僕が歩いてきた後ろの通路は、まるで作られた当時のように、石本来の色を取り戻していた。
一方、これから進む先の通路は、まだ手つかずの汚泥に覆われている。その境界線は、あまりにもくっきりと、明暗を分けていた。
僕は、最後の区画の掃除を終えると、地上へと戻ることにした。
石の階段を上り、鉄の扉を開けると、眩しいほどの夕焼けが、目に飛び込んできた。
僕は、下水管理棟の扉を、再び叩いた。
中から現れたのは、やはり、あの無精髭の男だった。
彼は、僕の姿を見ると、少しだけ目を見開いた。
「なんだ?あきらめたか?」
そう言う男に、担当地区の掃除が終わったことを告げる。
「……ほんとか?嘘ついてもすぐわかるぞ」
その声には、信じられない、という響きが混じっていた。
「はい。担当区画は、全て掃除しました」
「……まあ、いい。確認は、明日俺がしておく。評価は、直接ギルドに伝えておくから、お前さんは、それ以降にでも、ギルドで報酬を受け取れ。ただし、掃除ができてたらの話だがな」
男は、そう早口で言うと、すぐに扉を閉めてしまった。
これで、初めての依頼は終わった。
僕は街に戻って寝床を探すことにした。
でも、その前にやることがあった。
下水道から出てきた僕の体は、当然、ひどい悪臭を放っていたのだ。
僕は、人気のない路地裏に入ると、影の魔法で、衣服に染み付いた匂いの粒子を、根こそぎ吸い取った。
水路で試した結果、このような影の魔法を応用して使えるようになったのだ。
依頼を受けてよかったかもしれない。
すっかり綺麗になった体で、僕は宿を探すために、再び街を歩き始めた。
さまざまな宿があって、料金や管理体制が違うらしい。一つ一つを訪れて違いを聞いていく。
盗まれるようなものは、何も持っていない。
結局、僕は一番安い、素泊まりの宿にした。
銅貨数枚を支払い、簡単な仕切り板だけある大部屋の空いているスペースへと寝転がる。
すぐ隣には他人の寝息が聞こえるが、僕にとってはそれで十分だった。
横になり、天井の木目を眺めながら、今日一日の出来事を振り返る。
冒険者になり、初めての依頼をこなした。
それは、本当に些細な一歩に過ぎない。
だが、その一歩は、確かに僕を前へと進ませてくれた。
ロマナちゃんたちを探すという、途方もない目的への、確かな一歩。
明日は、戦闘技能研修だ。
どんな教官がいて、どんな訓練をするのだろうか。
僕は、ゆっくりと目を閉じた。
すこし疲労を感じる。
それは、僕がこの世界で確かに生きているという証だ。