安宿の朝は、他人の生活音で満ちていた。
地響きのような鼾。薄い壁の向こうから聞こえる、喧嘩らしき怒鳴り声。人々が出入りする音。
睡眠がほとんど必要ない僕だから、耐えられているが、あまり良い選択肢では無いなと思った。
僕は、硬い板の上でゆっくりと目を開けた。
盗まれるようなものは何もない。僕は身を起こすと、軽く体を伸ばし、宿を出る準備を始めた。
今日の予定は、冒険者ギルドでの戦闘技能研修。
それが終われば、昇格――つまり旅への道が、また一歩近づく。
外に出ると、ひやりとした朝の空気が肌を刺した。
ノーリンの街は、すでに活動を始めている。大通りには荷馬車が行き交い、店先では商人たちが開店の準備に追われていた。
僕はその活気の中を抜け、冒険者ギルドへと向かった。
昨日とは違い、朝のギルドは、人もまばらで、静かだった。
受付で用件を告げると、昨日と同じ栗色の髪の女性が、にこやかに対応してくれた。
「リンさんですね。お待ちしておりました。訓練場はギルドの裏手にあります。あちらの扉からどうぞ」
彼女が示した扉を開けると、そこは半分屋外の土の広場になっていた。
いくつかの的や、打ち込み用の丸太が設置されている。すでに何人かの冒険者が、朝の鍛錬に励んでいた。
広場の隅で、一人の男が腕を組んで立っていた。
年の頃は三十代半ばだろうか。細身で、しなやかな筋肉をつけた、剣士といった風貌の男だ。使い込まれた革鎧を身に纏い、腰には一振りの剣を差している。
僕が近づくと、男は鋭い視線をこちらに向けた。
「お前が、今日の研修を受ける新人か」
「はい。リンです」
「俺は、ここの教官を務めている、バルガスだ」
バルガスと名乗る男の声は、僕の全身を品定めするように、じろりと一瞥する。
「ずいぶんと軽装だな。武器は持っているのか?」
「……一応」
僕は懐から、アルシオンの暗部時代に買った一本のナイフを取り出して見せた。飾り気のない、実用性だけを追求した道具。
バルガスは、そのナイフを見て、わずかに眉をひそめた。
「ナイフ、か。まあ、いいだろう。ルールは一つ。怪我をさせるような攻撃や、殺しは無しだ。もちろん、死ぬ気でかかってこい」
彼はそう言うと、腰のロングソードを抜き放った。
その剣は、木でできた訓練用の剣のように見えた。
「準備はいいか?」
「いつでも」
「では――来い」
バルガスの言葉を合図に、僕は地を蹴った。
ナイフを逆手に持ち、最短距離で彼の懐へと潜り込む。
クロウの、無駄のない体捌き。敵国騎士アストルの、洗練された剣技。これまで見てきた数多の戦闘を思い出すように体を動かす。
それらを模倣し、自分なりに最適化した動き。
だが、それはあくまで模倣。付け焼き刃の技だ。
僕が繰り出すナイフの切っ先を、バルガスは最小限の動きで、ひらりとかわす。
彼の動きには、無駄がない。長年の経験に裏打ちされた、熟練の技。
「ほう。面白い動きをする。どこかで習ったのか?」
彼は、僕の攻撃を受け流しながら、楽しそうに言った。
「……見て、盗んだだけです」
「それで、これだけの動きができるとはな。筋はいい」
言葉とは裏腹に、彼の表情が、すっと引き締まった。
次の瞬間、彼の雰囲気が変わる。
これまでとは比較にならない、鋭い踏み込み。木剣が、風を切る音を立てて、僕の喉元へと迫る。
速い。
ナイフで受け止めるのは、おそらく不可能だろう。
僕は、咄嗟に体を捻り、その一撃を紙一重でかわした。
だが、バルガスの攻撃は止まらない。
一撃目をかわした僕の体勢が崩れるのを見越し、流れるような動きで、第二撃、第三撃を繰り出してくる。
まるで、荒れ狂う嵐のようだ。
僕は、その猛攻を、ただひたすらに避け、受け流し続ける。
体術だけでは、いずれ、追いつかれる。
思ったよりも、相手が強い。魔法を使わなくても、大丈夫だと高を括っていた。
――仕方ない。
僕は、内心で小さくため息をついた。
これ以上、魔法を使わずに相手をするのは、骨が折れそうだ。
バルガスの木剣が、僕の肩を狙って振り下ろされる。
僕は、それを受け止めるのではなく、じわりと黒い水を何もない空間から滲み出させた。
「――なっ!?」
バルガスの目が見開かれる。
僕が作り出した黒い水の盾は、彼の木剣を、まるで柔らかな泥沼のように、受け止めていた。
「魔術か……? 詠唱もなしに、そんな芸当ができるのか」
驚愕に染まった彼の顔を見ながら、僕は、黒い水を自在に操る。
さらに数本の触手を伸ばし、彼の木剣に絡みつかせた。
決着をつけるのは、簡単だった。
このまま、木剣を奪い取り、彼の首筋にナイフを突きつければ、それで終わりだ。
だが――。
僕は、それをしなかった。
彼の剣術を、もう少しだけ、見ていたかった。
この世界で生きる、一人の剣士が、どれほどの技を練り上げてきたのか。
純粋な興味が、僕の心に湧き上がっていた。
僕は、木剣に絡みつかせた触手を解き、再び距離を取った。
バルガスは、警戒を解かずに、僕と、僕が操る黒い水を睨みつけている。
「お前……何者だ」
「……二日目の新人です」
「嘘をつけ。こんな新人がいてたまるか!……どっかの魔術院の出か?まあいい」
彼は、再び剣を構え、じりじりと僕との間合いを詰めてくる。
その瞳には、先ほどまでの余裕の色はない。
代わりに、久しぶりに戦いをしようという、鋭い光が宿っていた。
再び、激しい剣劇が始まる。
だが、今度は、僕もただ守るだけではなかった。
黒い水を鞭のようにしならせ、彼の攻撃を弾き、時には、彼をかく乱する。
戦いは、数分間続いただろうか。
やがて、バルガスは、ふっと肩の力を抜き、構えを解いた。
「……やめだ、やめだ」
彼は、木剣を鞘に納めながら、深いため息をついた。
「お前さん、初心者じゃないだろ。それどころか、俺より強いじゃねえか」
その顔には、疲労と呆れが浮かんでいる。
「なんで、今更、冒険者になったのかは知らねえが……まあ、人にはそれぞれ、事情があるからな」
彼は、懐から一枚の紙を取り出すと、そこに何かを書き込み、僕に手渡した。
「推薦状だ。これを持って受付に行け。戦闘技能は文句なしの『優』だ」
そして、彼は付け加えた。
「さっさと、見習いは卒業して、もっとでかい依頼をやれ。お前ほどの腕があれば、すぐにでも名を上げられるだろう」
僕は、その推薦状を、黙って受け取った。
「……ありがとうございました」
「久しぶりに、面白い戦いができた。いい話のタネになりそうだ」
バルガスはそう言うと、僕に背を向け、新しく来た他の研修生の方へと歩いていった。
僕は、その背中をしばらく見送った後、訓練場を後にした。
ギルドの受付へ戻り、推薦状を提出すると、栗色の髪の女性は、少し驚いたように目を見開いた。
「バルガスさんから『優』評価なんて、滅多に出ませんよ。リンさん、すごいですね」
彼女は、感心したように言いながら、手際よく書類を処理していく。
「これで、戦闘技能の評価はクリアです。推薦を頂けたので、採集依頼で『良』以上の評価を貰えれば、下級ランクへの昇格条件は全て満たされます」
僕は、彼女に礼を言うと、再びクエストボードへと向かった。
採集依頼。
ラクサ村にいた頃、森での採集訓練の一環として、アンお婆さんに薬草や毒草の知識は一通り叩き込まれている。また、アルシオン暗部でも毒草の知識を記した書物が資料室にあった。
知っているものが、あればいいのだけども。と考えながらクエストボードを眺める。
幸いにも、そこには、僕が知っている薬草の名前がいくつかあった。
その中から、ここら辺の草原で採集できそうな、『陽光草』という薬草の依頼書を剥がす。
依頼書を受付に提出して、ギルドを出る。
街の門を抜けると、広大な草原が広がっていた。
受付で聞いたところによると、陽光草の群生地は、ここから歩いて二時間ほどの場所にあるらしい。
僕は、誰に急かされるでもないので、ゆっくりと草原を歩き始めた。
アルシオンでの息詰まるような日々が、まるで嘘のようだ。
空は青く、風は心地よい。
自由と孤独。それが、今の僕には何よりも安らぎを与えてくれた。
二時間ほど歩き続けると、やがて、目的の群生地が見えてきた。
陽の光を浴びて、キラキラと輝く、六つの花弁を持つ黄色い花々。
僕は、その場に腰を下ろし、ナイフを使って、丁寧に薬草を採集し始めた。根を傷つけないように、一本一本、慎重に。水の魔法で土を払い、収納する。
しばらく、無心で作業を続けていた、その時だった。
「―――うぉおお!」
若い男の、悲鳴にも聞こえる雄たけび。
僕は、思わず顔を上げた。
声は、そう遠くない場所から聞こえてくる。
面倒事は、ごめんだ。
だが、その声はあまりにも頼りなさそうなだったので、助けがいるかもしれないとも、少しだけ考えてしまった。
僕は、小さくため息をつくと、採集を中断して、声がした方向へと静かに走り出した。
音のする方へ向かうと、そこでは、一人の少年が、一匹の魔物と対峙していた。
魔物は、ホーンラビット。どこにでもいるウサギのような姿した、額から鋭い一本の角を生やした魔物だ。
普段は草食のくせして、時折誰かまわずに突進し、被害を与える不思議な生き物。
少年は、必死に剣を振るっているが、その動きはひどくぎこちない。
腰が引け、剣先は震えている。ホーンラビットの素早い動きに翻弄されているのは明らかだった。
「くそっ、くそっ!」
彼は悪態をつきながらも、諦めずに剣を振るう。
だが、その剣が、ホーンラビットに届くことはない。
やがて、彼は足をもつれさせ、その場に倒れ込んでしまった。
ホーンラビットが、好機とばかりに、彼に飛びかかる。
額の鋭い角がまっすぐに彼を狙っていた。
――ああ、もう。
僕は、ため息を一つ。
影から、一本の黒い触手を伸ばし、ホーンラビットの体を優しく、しかし、決して逃れられない力で絡め取った。
「……キィ!?」
ホーンラビットは、奇妙な鳴き声を上げ、宙でじたばたと暴れる。
僕はその体を、少し離れた場所で、そっと解放してやった。
ホーンラビットはあたりを見渡すと、一目散に逃げていく。
助けられた若い冒険者は、何が起こったのか分からず、呆然と、その場に座り込んでいた。
やがて、僕の存在に気づくと、その顔に驚きと安堵の色を浮かべた。
「あ、あんたが……助けてくれたのか?」
「うんーーーこんなところで怪我しても、大変でしょ」
「す、すげえ! いつの間に……ありがとう! 本当に、助かった!」
彼は勢いよく立ち上がると、僕の前に駆け寄り、ぶんぶんと頭を下げた。
その瞳は尊敬と憧れの光で、宝石のように輝いている。
「俺、カイルってんだ! あんたは?」
「……リン」
「リンか! かっこいい名前だな! 俺、まだ駆け出しで、全然ダメでさ……あんなちっさい魔物に、殺されかけるなんて、情けないよな」
カイルと名乗る少年は、太陽のように明るい笑顔で、そう言った。
人懐っこい、裏表のない性格なのだろう。
「……何の依頼をしてるの?」
「え? ああ、陽光草の採集だよ。リンは?」
「同じだ」
「ほんとか! じゃあ、よかったら、一緒に行動しないか? 俺、薬草の見分け方も、まだ自信なくてさ」
カイルは、悪びれる様子もなく、そう言った。
なんだか放っておけないな。と思った。
それに、ハンスに与えられた優しさを、誰かに渡したい気持ちになった。
「……分かった。依頼が終わるまでだよ」
「やった! ありがとう、リン!」
こうして、僕の初めての冒険者仲間ができた。
もっとも、それは、ごく短い時間だけの関係だったが。
僕とカイルは、二人で薬草採集を再開した。
カイルは、冒険者としての夢を、熱っぽく語って聞かせた。
いつか、高ランクの冒険者になって、まだ誰も見たことのない秘境を探検し、伝説の魔物を倒すのだと。
その言葉は、あまりにも純粋で――眩しかった。
僕が、とうの昔に失ってしまった、情熱の光。
――それを語る彼は、遠い昔に居なくなってしまった、あの子を思い出させた。
僕は、彼の話を、ただ黙って聞いていた。
その純粋さが、僕の心を温めてくれるような気がしたから。
「……採り方が、ちょっと雑だね」
僕は、陽光草を引き抜こうとするカイルの手を、注意した。
「え? そうか?」
「根を傷つけたら、ギルドでの評価も下がるよ」
僕は、ナイフを使って土を掘る、正しい採集の仕方を、彼に見せてやった。
カイルは、僕の手つきを、感心したように見つめている。
「へえ……リンって、物知りなんだな。それに、強いし。なあ、この依頼が終わっても、また一緒にパーティを組んでくれないか?」
「……それは――できないな」
カイルのことは、ちょっと厚かましいところもあるが、元気で感じがいい少年だと思った。
「えー、なんでだよー」
「僕はこの依頼が終わったら、この街を出るつもりだから」
「そっか……じゃあ、仕方ないな!」
カイルは、あっけらかんとした顔で、そう言った。
彼のその切り替えの早さに、僕は少しだけ、拍子抜けした。
やがて、僕たちは、依頼分の薬草を集め終えた。
二人でノーリンの街へと戻る。
ギルドの前に着くと、カイルは僕に向かって、にっと笑った。
「俺、ここで友達と待ち合わせしてるんだ。リン、今日は本当にありがとうな! おかげで、助かったよ!」
「……ああ」
「じゃあな! また、どこかで会えたら、その時は、もっと強くなってるからさ!そしたら、一緒に組もうぜ!」
カイルは、そう言うと、元気よく手を振って、人混みへと消えていった。
僕は、その背中を一瞥し、ギルドの中へと入った。
受付で、薬草を提出すると、栗色の髪の女性は、その品質を褒めてくれた。
「とても状態のいい陽光草ですね。これなら、評価は『優』です」
そして、彼女は思い出したように付け加えた。
「ああ、それと、昨日の下水掃除の件ですが、管理人の方から、絶賛する報告が届いています。『ぜひ、継続して依頼を受けてほしい』とのことでしたが……どうなさいますか?」
「……申し訳ないけど、断るよ」
「承知しました」
彼女は、少し残念そうにしながらも、僕の昇格手続きを始めた。
「雑務依頼『有』、戦闘技能『優』、採集依頼『優』。推薦あり。これで、昇格の条件を満たしました。リンさんは本日付で、下級冒険者です」
彼女は、そう言うと、カウンターの奥から、一枚の新しいギルド証を持ってきた。
昨日受け取った、粗末な札とは違う。
鈍い輝きを放つ、しっかりとした作りのギルド証。
「おめでとうございます。これで、あなたも一人前の冒険者です」
僕は、その下級冒険者のギルド証を、静かに受け取った。
用事は終わった、と思っていたけど、そこで僕は別の用事を思い出した。
「……一つ、聞きたいことがある」
僕は、手続きを終えた受付の女性に、尋ねた。
「人を探しているんだけど、何か、いい方法はない?」
僕の言葉に、彼女は少し、考え込むような表情をした。
「人探し、ですか……もし、お探しの方が、どこかのギルドに登録されている高ランクの冒険者であれば、国を跨いで捜索することも可能ですが……そうでない場合は、地道に人探しの依頼を出すしかありません……ですが、ある程度の検討が付いていないと、依頼で見つかる確率は、正直、かなり低いと言わざるを得ません」
――そうか。
僕は、予想していたことだったけど、内心でため息をついた。
「……人探しのための、特別な魔法や、魔道具のようなものはある?」
「そうですね……物語や噂話の中では、そういうものも登場しますが、実際に使っている人を見た、という話は、私も聞いたことがありません」
彼女は、困ったように言った。
だが、ふと、何かを思い出したように、顔を上げた。
「もし、そういった特殊な魔術や技術を探しているのであれば……この大陸のはるか北に、『ソノミス』という魔術が有名な国があります。そこには、大陸でも屈指の魔術学院があり、世界中から、優秀な魔術師と、最先端の技術が開発されていると言われています。もしかしたら、そこなら、何か手がかりが見つかるかもしれません」
ソノミス。
魔術学院。
なるほど。人探しの魔術の手掛かりが、ありそうな響きだ。
そこへ行けば、ロマナちゃんたちを探すための、何かが見つかるかもしれない。
「……分かった。ありがとう」
僕は彼女に礼を言うと、新しいギルド証を懐にしまい、ギルドを後にした。
ギルドの外に出ると、カイルが、まだ友達を待っていた。
僕の姿に気づくと、彼は再び元気よく手を振ってくる。
僕も小さく手を挙げて、それに応えた。
僕はその足で、ハンスのいる詰所へと向かった。
そして、彼に借りていた銀貨を返す。
「おお、もう稼いだのか。大したもんだな。もっと、ゆっくりでもよかったんだぞ」
ハンスは、驚いたように言った。
「明日、この街を出ようと思うので」
「そうか。もう、行くのか。まあ、どこへ行くのもお前の自由だ。達者でな」
ハンスは僕の肩を、力強く叩いた。
翌朝、僕は誰に告げるでもなく、静かにノーリンの街を後にした。
目指すは、北。ソノミス。