ノーリンの街を後にしてから、一か月ほどの時間が過ぎた。
下級冒険者として発行された、鈍い輝きを放つギルド証。
それは、僕が想像していた以上に、旅を円滑なものにしてくれた。
街や村の門を通過する際、身分を証明するものがあるというだけで、兵士たちの対応は驚くほど穏やかになる。
ノーリンの街の門で、為す術なく立ち尽くしていた時のことを思えば、雲泥の差だった。
ハンスの親切に僕は改めて感謝した。
僕はひたすらに北を目指した。
ソノミスという、魔術が盛んな国へ向かうため。
ノーリンのギルドで聞いたその場所が、僕のひとまずの目的地となった。
ロマナちゃんたちを探すための、何か特別な魔術や技術。その手がかりが、そこにあるかもしれない。
淡い期待を胸に僕は歩き続けた。
これまでに、いくつかの小さな村や、宿場町に立ち寄った。
夜はその辺の地面で寝るか、冒険者向けの安宿に泊まり、昼間は歩く。
そんな、質素で孤独な旅。
だが、それは僕にとって、ひどく心地の良いものだった。
誰にも干渉されず、誰の思惑にも縛られない。
これまでの生活では得ることのできない、静かな自由がそこにはあった。
時折、焚き火を囲む他の旅人たちの会話が、耳に届くことがあった。
彼らの話題の中心は、ガリア帝国とアルシオン王国の戦争ではなかった。
アルシオンから離れるにつれて、人々の関心は、さらに北で緊張を高めているという、ガリア帝国とジャクサラ神聖国との睨み合いへと移っていた。
アルシオンでの出来事が、遠い過去の歴史のように語られるのを聞くたびに、僕は、自分がどれだけ遠くへ来たのかを実感した。
アルシオンで出会った彼らは、今どうしているのだろうか。
僕の脳裏に、彼らの顔が浮かんでは、揺れる炎の中に消えていく。
そんなことを考えながら旅をしていた僕の目の前に、これまで見てきたどの街よりも巨大な街が姿を現した。
――商業都市タザニア。
大陸東部の都市国家群のなかでも、最大級の大きさを誇る国だ。
その威容は遠目からでも、見る者を圧倒する力を持っていた。
高くそびえる壁は、まるで巨人の腕のように、街全体を抱きかかえている。
門の上には、いくつもの監視塔が設置され、兵士たちの姿が小さく見えた。
門へと続く街道は、人や荷馬車でごった返し、まるで一本の巨大な蛇のように、うねりながら街の中へと吸い込まれていく。
僕は、その行列の最後尾に、静かに加わった。
これほどの規模の街だ。人の出入りも激しいだろう。
ノーリンで作ったギルド証があれば、問題なく入れるはずだ。
一時間ほど待っただろうか。
ようやく僕の番が来た。
日に焼けた、屈強な兵士が僕の姿を認めると、事務的な口調で尋ねる。
「身分証を提示しろ」
僕は懐からギルド証を取り出し、彼に手渡した。
兵士はそれを受け取ると、刻まれた文字と紋章を手早く確認する。
「冒険者だな。……よし、通れ」
あっけないほど、簡単だった。
僕は兵士に軽く会釈すると、巨大な門をくぐり、タザニアの街へと足を踏み入れた。
その瞬間、音と、色と、匂いの洪水に飲み込まれた。
思わず息を呑む。
目の前に広がっていたのは、僕がこれまで見てきた、どの街の光景とも違う、圧倒的なまでの喧騒と活気だった。
石畳で舗装された大通りは、人で埋め尽くされている。
様々な人種が行き交っていた。一つの地域の人間だけじゃない、さまざまな国から来た人々で溢れかえっていた。
ここでは話す言葉も、服装も、肌の色も関係ないみたいだ。
通りの両脇には、露店が所狭しと軒を連ね、威勢のいい呼び込みの声が、あちこちから響き渡る。
焼きたてのパンの香ばしい匂い。異国の香辛料の嗅ぎなれない香り。人々の汗と、家畜の匂い。それら全てが混じり合い、タザニアという街の、むせ返るような熱気を形作っていた。
建物も、ノーリンとは比べ物にならないほど、大きく、そして装飾的だった。
石造りの重厚な建物、木組みの美しい建物、中には、異国の様式を取り入れた、奇妙な形の建物もある。
ここは世界の交差点なのだ。
人、物、金、そして情報。
あらゆるものが、この街に集まり、そして、ここから世界中へと散っていく。
僕はしばらくの間、その圧倒的な光景に、ただ立ち尽くしていた。
アルシオンの王都も、大きな街だった。
だが、そこにあったのは、戦争を目前にした、どこか張り詰めた空気だった。
このタザニアにあるのは、もっと純粋な、人間の生きるための欲望を搔き集めたような、そんなエネルギーがあった。
まずは――
僕は気を取り直し、小さく息を吐いた。
長旅で色々と道具が消耗している。
まずは、物資の補給と、傷んだ装備の買い替えが必要だ。
特に、ずっと着ているこの外套は、もう、ぼろぼろだった。
僕は人波をかき分けるようにして、大通りを歩き始めた。
これほど大きな街ならば、ソノミスに関する、より詳細な情報も手に入るかもしれない。
人探しの手がかりだって、見つかる可能性はゼロではないだろう。
僕は、衣類を扱っていそうな店を探して、脇道へと入った。
大通りの喧騒が、少しだけ遠のく。
しばらく歩くと、一軒の古びた仕立て屋が目に留まった。
『オルコット・仕立て屋』と書かれた、小さな木の看板が下がっている。
ショーウィンドウには、派手さはないが、実用的で、しっかりとした作りの服が並べられていた。
僕はその店の扉を開けた。
カラン、と、ドアベルが軽やかな音を立てる。
店の中は、布と古い木の匂いがした。
壁際には、様々な種類の生地が、ロール状になって積み上げられている。
店の奥から、人の良さそうな店主が顔を出した。
「へい、いらっしゃい。お客さん、旅の方かい?」
「ええ。丈夫な外套と、着替えをいくつか」
「あいよ。そうだな……こいつなんかどうだ?防水加工がしてあって、ちょっとやそっとじゃ、へこたれない。冒険者の人たちに、人気なんだ」
店主が持ってきたのは、深緑色をした、フード付きの外套だった。
手に取って確かめると、生地は厚く、縫製もしっかりしている。
これなら、雨風をしのぐのにも、身を隠すのにも、役立ちそうだ。
「……いいね。これをお願い」
「毎度あり。他に、何かいるかい?」
僕は、下着やシャツを数枚選び、代金を支払った。
結構な金額になったけど、ため込んだ財産には余裕があったから、難なく支払えた。
店主が、品物を包んでくれている間、僕は店内に飾られたタペストリーに目をやった。
そこには、この大陸の簡略化された地図が描かれている。
「……この辺りでは、ガリア帝国と、神聖国の話でもちきりなんですね」
僕が何気なくそう言うと、店主は手を動かしながら答えた。
「ああ。なんせ、お隣さんだからな。いつ、こっちに火の粉が飛んでくるか、分かったもんじゃない。商人仲間も、北へ行く連中は、みんな頭を抱えてるよ。街道の警備は厳しくなるし、関税は上がるしで、ろくなことがない」
店主は、やれやれ、と肩をすくめる。
「まあ、今のガリア帝国は、波に乗ってるからな。西部の技術や人材を仕入れてきてから、ずっと領土を拡大してる。いくつも国を取り込んでるって話しだしな」
その言葉は僕の胸をすこし撫でた。
アルシオン王国の滅亡など、このあたりでは、その程度の認識でしかない。
遠い国の出来事など、人々は関心を持たない。
「お客さん、旅人かい? その格好だと、冒険者だろ?」
「ええ、まあ」
「だったら、気をつけな。腕利きの傭兵でも、最近は物騒だって話だからな」
店主は忠告するように言った。
僕は黙って頷き、包みを受け取った。
「ありがとうございます」
「おう。また、贔屓にしてくれよ」
僕は新しい外套を着て、古い外套の処分を頼む。
前よりも一回り大きいフードを深く被ると、顔が影に隠れて、少しだけ気持ちが落ち着く。
ここでは、黒髪黒目は珍しい。目立たないに越したことはない。
それから、市場で物資の補給を終えた僕は、次に、この街の冒険者ギルドへと向かうことにした。
ソノミスへの、正確な経路を知りたかった。
アルシオンで見た地図は、この辺りから北の情報が、ひどく曖昧だったのだ。
大通りに戻り、道行く人にギルドの場所を尋ねる。
タザニアの冒険者ギルドは、街の北区画にある、ひときわ大きな建物だという。
教えられた通りに歩いていくと、やがて、どこでも共通の剣と盾を組み合わせた紋章が見えてきた。
ノーリンのギルドとは、比べ物にならないほど巨大で、そして、豪華な建物だった。
まるで、貴族の屋敷のようだ。
中へ入ると、その広さと、人の多さに、再び圧倒された。
高い天井からは、魔石を使ったシャンデリアが吊り下がり、床は、磨き上げられた石でできている。
酒場が併設されており、昼間だというのに、多くの人々が酒を酌み交わし、高笑いを上げていた。
壁の依頼掲示板も、ノーリンの数倍はあろうかという大きさで、そこに貼られた依頼の数も、桁違いだった。
高ランク向けの、魔物討伐依頼。遺跡の調査依頼。貴族の護衛依頼。
報酬の額も、僕がノーリンで受けた依頼とは、桁が違うものがいくつも掲載されていた。
僕はその熱気に少し気圧されながらも、受付カウンターへと向かった。
いくつも並んだカウンターは、それぞれ、依頼の種別ごとに分かれているようだった。
僕は、「情報・その他」と書かれたカウンターに並ぶ。
しばらく待って、僕の番が来た。
対応してくれたのは、眼鏡をかけた男性職員だった。
「ご用件はなんでしょうか?」
「ソノミスへの経路について、教えてほしい」
僕がそう言うと、彼は少し困ったような表情を浮かべた。
「ソノミス、ですか……あいにくですが、現在、ソノミスへ向かうための主要街道は、通行止めになっています」
「……通行止め?」
予想外の言葉に、僕は、思わず聞き返した。
「はい。数日前の豪雨で、大規模な土砂崩れが発生しまして。街道が、完全に寸断されてしまったのです」
彼は申し訳なさそうに言った。
「現在、復旧作業が進められていますが、完了するまでには、少なくとも、あと二週間はかかるとのことです」
二週間。
それは、思ったよりも長い時間だった。
「……迂回路はある?」
「一応、西側の山脈を越えるルートがありますが、……あそこは、危険な盗賊がいる地域ですし、道も険しいため、単独で越えるのは、まず推奨されません。パーティを組んで、万全の準備を整えたとしても、無事に越えられる方は少ないです。それに、ソミノスへ行くのであれば、時間はほとんど変わりません」
彼は言葉を濁した。
つまり、僕はこのタザニアで、二週間も足止めされるということだ。
「……そう。情報ありがとう」
僕は礼を言って、カウンターを離れた。
計画が狂ってしまった。碌な計画を立てていないけど。
僕はギルドの喧騒から逃れるように、外へ出た。
空は相変わらず、青く澄み渡っている。
だが、僕の心は、どんよりとした雲に覆われていた。
「はぁ……」
思わず、深いため息が漏れる。
仕方がない。
こうなった以上、しばらくは、このタザニアに滞在するしかない。
僕は、気持ちを切り替えることにした。
まずは、腰を落ち着けるための、宿を探そう。
これまでの旅で、唯一変わったことがあるとすれば、それは宿の質だった。
ノーリンからここまでの旅路で、何度か雑魚寝の安宿に泊まったが、盗難などのいざこざに巻き込まれたりして、大変だった。
少し値が張ってもいい。個室があって、静かに過ごせる宿がいい。
僕は宿屋が密集しているという区画へ、歩き始めた。
いくつかの宿を訪ね、料金と部屋の様子を確認する。
そして、最終的に、一軒の小ぎれいで落ち着いた雰囲気の宿を選んだ。
緑の花。
そんな、少し風変わりな名前の宿だった。
一泊、銀貨三枚。
安くはないが、部屋には、清潔なベッドと、小さな机が備え付けられていた。
僕は宿の主人に代金を支払い、部屋の鍵を受け取った。
木の階段を上り、二階の奥にある、自分の部屋へと入る。
扉を閉め、鍵をかけると、街の喧騒が嘘のように遠のいた。
「……ふぅ」
僕はベッドに、どさりと腰を下ろした。
久しぶりに、一人だけの、静かな密室。
意識していなかった緊張が、ゆっくりと解けていくのを感じる。
窓を開けると、タザニアの雑然とした街並みが、目に飛び込んできた。
様々な形の屋根が、どこまでも続いている。
遠くからは、人々の喧騒が、潮騒のように聞こえてきた。
僕はその光景を、ぼんやりと眺めながら、今後の方針について考えを巡らせた。
二週間。
この街で、ただ、街道の復旧を待っているだけでは、時間の無駄だ。
何か、できることはないだろうか。
人探しの手がかり。
ロマナちゃんたちに繋がる、何か。
あるいは、ほかの何か。
――そういえば。
僕は、ふと、思い出した。
ノーリンのギルドで、受付の女性が言っていた言葉。
『もし、そういった特殊な魔術や技術を探しているのであれば――』
ソノミスには、大陸有数の魔術学院があるらしい。
だが、これほど大きな商業都市である、このタザニアにも、魔術師たちの拠点があるのではないだろうか。
魔術師たちのギルド。魔術ギルドが。
そこへ行けば、何か情報が得られるかもしれない。
人探しの魔術について、何かヒントが見つかるかも。
「……まあ、焦っても仕方ないか」
僕は小さく呟いた。
旅に予定外の出来事はつきものだ。
この足止めも、何か意味のある時間なのかもしれない。
「明日は、魔術ギルドとやらを探してみるか」
僕はそう決めると、ベッドに、ごろんと横になった。
硬い木の天井が、目に入る。
タザニア。
この巨大な商業都市で、僕は、何に出会い、何を知ることになるのだろうか。
なんとなくだけど、何か新しい出会いがあるような気がする。
僕はそんな淡い期待に浸りながら、ゆっくりと目を閉じた。