エリアナのその熱を帯びた瞳に見つめられて、僕は断ることができなかった。
面倒事は避ける。それが僕の基本的な信条だ。
だが、彼女の純粋で、燃えるような知的好奇心は、僕のその信条をいとも簡単に揺るがした。
「……分かった。僕でよければ協力するよ」
僕がそう答えると、エリアナの顔がぱあっと輝いた。
まるで、ずっと欲しかったおもちゃを手に入れた、子供のような笑顔だった。
「ほんと!? ありがとう、リン! あなたっていい人ね!」
彼女は僕の手を、両手で固く握りしめた。
その手は少し冷たくて、インクの匂いがした。
こうして、僕とエリアナの奇妙な日々が始まった。
「ほんとは、ちゃんとお金を払って見せてもらうのが筋なんだけど……」
エリアナは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「私、今、本当にお金がなくて……研究費で、いつもカツカツなのよ」
彼女は書庫の写本の仕事をしているらしい。でも、それだけでは生活費と研究費を賄うので精一杯なのだと、ため息をついた。
下級魔術師の懐事情は、どこも厳しいらしい。
「お金はいらない」
僕は首を振った。
「その代わり、一つお願いがある」
そう。僕がここを訪れた目的。見習いランクでは、実用的な魔術書をほとんど見ることができないため、諦めていたのだ。
「お願い?」
「人探しのための、魔術や魔道具について、何か知らないかな。どんな些細な情報でもいい」
それが、今、一番知りたいことだった。
僕の言葉に、エリアナは、うーん、と腕を組んで考え込んだ。
「人探しの魔術ね……私の知る限りでは、そんな便利なものは、聞いたことがないわね。どこかの物語の中で聞いた気もするけど」
その答えは、ノーリンのギルドで聞いたものと、ほとんど同じだった。
僕は少しだけ、がっかりした。
だが、エリアナは何かを思いついたように、顔を上げた。
「でも、もしかしたら下級ランクで見れるの書庫に、何か手がかりがあるかもしれないわ。魔術師はたくさんいるから、誰かが作っていてもおかしくないわよ」
なるほど。それは良い提案だ。
僕はその案に素直に同意した。
彼女は、にっと笑って、契約書を手早く書き上げる。口約束でいいと思ったけど、職業病だろうか。
「分かったわ。それが、あなたの条件ね。リンが魔法を見せてくれる間、私は、あなたの探している情報について、徹底的に調べてみる。どう? この交換条件で」
「……うん。それでいいよ」
こうして、僕たちの間には、一つの契約が結ばれた。
僕は彼女に魔法を披露し、彼女は僕のために、失われた知識を探す。
果たして、魔法を彼女は使えるようになるのだろうか。
それは誰にもわからない。
次の日から、僕たちは本格的な実験を始めた。
「この街では、冒険者ギルドの訓練場は、魔術ギルドの訓練場も兼ねているのよ。だから、ここなら、多少派手なことをしても、誰にも文句は言われないわ」
エリアナが案内してくれたのは、冒険者ギルドの裏手にある訓練場だった。
そこは、ノーリンの冒険者ギルドで見た訓練場よりも、さらに広く、そして、様々な設備が整っていた。
頑丈な壁に囲まれ、地面には魔法陣のようなものがいくつも描かれている。
僕たちは、その一角を借り、エリアナの研究を始めた。
「まずは、あなたのその力がどういう原理で動いているのか、知りたいの」
エリアナはそう言うと、どこからか、様々な測定器具を持ち出してきた。
水晶玉のようなもの、方位磁針に似たもの、複雑なレンズが組み合わさったもの。
それらを、僕の周りに、一つ一つ丁寧に設置していく。
その手つきは、真剣そのものだった。
「いい? まずは、昨日みたいに、あの黒い水を出してみて。できるだけ、ゆっくりとお願い」
僕は彼女の指示に従い、右の手のひらから、じわりと、影の黒い水を滲み出させた。
それは、僕の意思に応じて、ゆっくりと球体を形作る。
「――魔力の流れを測定……マナの消費量は、極めて少ない……術式の構成パターンは……検出されない。やっぱり、ないのね」
エリアナは測定器具が示す数値を、羊皮紙に乱暴な字で、すごい速さで書き留めていく。
その目は、ここにいる誰よりも輝いていた。
「次は、それを動かしてみて。できるだけ、複雑な形に」
僕は、黒い水の球体を、鳥の形へ、そして、魚の形へ、流れるように変化させる。
それは、僕にとって呼吸をするのと同じくらい、自然なことだった。
「すごい……形態変化は複雑な術式が必要なはずなのに。まるで、粘土をこねるみたいに、自在に……どうなってるの、これ……」
彼女は興奮を隠しきれない様子で、ぶつぶつと呟いている。
その純粋な探求心に、僕は少しだけ嬉しくなった。
数時間ににわたる、執拗なまでの分析。
エリアナは僕の魔法を、あらゆる角度から、徹底的に調べ上げた。
僕はそろそろ飽きていたが、彼女のためを思って、実験に付き合っていた。
そして、彼女は、一つの結論にたどり着いた。
「……分かったわ、リン。あなたの秘密が」
彼女は、羊皮紙に書きなぐった数式や図形を、僕の前に広げた。
そんなの見せられても、さっぱりわからないよ。
顔には疲労と達成感が浮かんでいる。
「あなたの体そのものが、術式の代わりになっているのよ」
「……僕の体が?」
彼女の出した結論は、術式に代わる何かが僕の体にある、という内容だった。
「そう。私たち魔術師は空気中に満ちるマナを、術式という設計図を使って、特定の形に組み上げる。でも、あなたは違う。あなたは、あなた自身の生命力、あるいは、もっと根源的な何かを、直接、現象に変換している。だから、術式も、詠唱も必要ないのよ」
彼女の言葉は、僕の中にあった、漠然とした感覚を、的確に論理にしてくれた。
精霊と化した、僕の体。
それは、世界そのものと繋がる、一つの回路になっているらしい。
だから、僕は世界の理を、直接書き換えることができる。
しかし、よくよく考えると、僕は精霊化する前から小規模ながらも魔法が使えていたような気がする。それに、ミトラちゃんも使っていたような気が――
そんな僕の疑問を遮って、エリアナは首を傾げた。
「どうして、そんなことが可能なのかまでは、分からないわ。人間の体が、どうやって、術式の代わりになれるのか……その原理が、どうしても解明できない」
彼女は、悔しそうに唇を噛む。
「でも、これ以上を調べるなら……ソノミスの魔術学院にあるような、もっと大規模な実験施設と、高度な測定器具がないと、無理ね」
だが、彼女はすぐに気を取り直したように、顔を上げた。
その瞳には、新たな光が宿っている。
「でも、いいの。全てを解明できなくても、ヒントは得られたわ」
彼女は、僕の魔法の、ある一点に強く惹かれているようだった。
「無詠唱で、魔法が発現する現象。これこそが、私の新しい魔術の、鍵になる」
彼女は、興奮したように自分の考えを語り始めた。
現代魔術では、詠唱は術式を起動させるための、安全装置のような役割も担っている。
それを、どうにかして省略できないか。
リンの魔法のように、思考と同時に現象を発現させることはできないか。
彼女の言葉は、熱を帯び次第に専門的な内容へと移っていく。
僕には、その半分も理解できなかった。
だが、彼女が何の発見の入り口に立っていることだけは分かった。
僕は、そんな彼女の姿を、ただ黙って見つめていた。
自分の力が、誰かの未来を切り開くきっかけになる。
その事実は僕の心に、温かい不思議な感情を灯した。
僕はエリアナを信用した。
彼女の、その純粋な探求心を、心の底から応援したいと思った。
だから、僕は彼女の研究に、全面的に協力した。
それから、数日が過ぎた。
僕とエリアナは、毎日、訓練場で実験を繰り返した。
午前中は魔術ギルドの書庫に籠って知識集め。午後は人探しの魔術の意見交換と、僕の魔法の計測。
エリアナは、僕の魔法から得たヒントを元に、新しい術式の構築に没頭していた。
失敗、改良、そして、また失敗。
その繰り返し。
だが、彼女の顔に焦りの色はなかった。
むしろ、その瞳は日を追うごとに、輝きを増していく。
彼女は、心からこの研究を楽しんでいるのだ。
だが、その様子を遠くから、眺めている者がいた。
その日も、僕たちはいつものように、訓練場の一角で実験に没頭していた。
エリアナが、新しい術式の詠唱を試みようとした、その時だった。
「――ふん。ご苦労なことだな、エリアナ」
冷たく、そして、傲慢な響きを持つ声が、僕たちの間に割り込んできた。
振り返ると、そこに、一人の男が立っていた。
年の頃は、三十代後半だろうか。
上質な黒いローブを身に纏い、その顔には人を小馬鹿にしたような、嫌味な笑みが浮かんでいる。
エリアナと同じ、魔術ギルドの紋章を胸につけているが、その雰囲気は彼女とは全く異なっていた。
「……ソニー」
エリアナが面倒くさそうにその名前を呟いた。
ソニーと呼ばれた男は、僕の姿を頭のてっぺんからつま先まで、値踏みするように眺める。
「そいつが、噂の新しいおもちゃか?ずいぶんと、みすぼらしい格好をしているじゃないか」
その言葉には、あからさまな侮蔑が込められていた。
「あなたには、関係ないでしょ」
エリアナは、僕を庇うように、一歩前に出た。
「私たちの邪魔をしないで」
「邪魔? 人聞きの悪いことを言うな。俺はただ、妹弟子の心配をしてやっているだけだ」
ソニーは、わざとらしく肩をすくめる。
「そんな、得体の知れない男とつるんで、一体何をしているんだ? そんな暇があるなら、少しは昇級試験の勉強でもしたらどうだ?」
彼女らの会話を聞くに、あまり仲は良くないらしい。
「……余計なお世話よ」
「まあ、いい。精々、次の試験で受かるように祈っているさ。もっとも、お前のような才能のない魔術師には、万年下級がお似合いだがな」
ソニーは、そう吐き捨てると、僕たちに背を向け去っていった。
その背中からは、彼の歪んだ優越感が、滲み出ているようだった。
後に残されたのは、ひどく、気まずい沈黙だった。
「……ごめん、リン。嫌なところを見せたわね」
エリアナが、小さな声で謝った。
「彼は、ソニー。私の兄弟子よ。昔、同じ師匠の元で魔術を学んだの」
彼女は苦々しい表情で、ソニーが去っていった方向を睨みつける。
「昔はあんな奴じゃなかったんだけど……」
彼女の話によると、ソニーはかつて、将来を嘱望された優秀な魔術師だったらしい。
だが、中級から上級への昇級試験に、何度も、何度も、落ち続けているうちに、彼の心は次第に歪んでいってしまったのだという。
他人を妬み、見下すことでしか自尊心を保てなくなってしまったのだ。
「最近、彼の周りでは、あまりいい噂を聞かないの」
エリアナは心配そうに、僕の顔を見つめた。
「もしかしたら、リンに、何か接触してくるかもしれない。気を付けて」
彼女の言葉に、僕は静かに頷いた。
面倒事の、匂いがする。
僕の直感が、そう警鐘を鳴らしていた。
その予感は、三日後に現実のものとなった。
その日も、僕たちは夕方まで、訓練場で実験を続けていた。
エリアナの新しい魔術は、まだ、まったく完成には至らないものの、少しずつ改良しているらしい。
「今日はもう、終わりにしましょうか」
空が、茜色に染まり始めた頃、エリアナがそう言った。
僕も頷き、片付けを始める。
その時だった。
エリアナが、ふと、真剣な表情で、僕に向き直った。
「……ねえ、リン。今朝ソニーに会ったの」
その声は少し、震えているように聞こえた。
「彼に言われたわ。『あの、黒髪の男を、私の研究室に連れてこい』って」
「……なんて、答えたの?」
「もちろん、断ったわよ! あなたを、彼のような人間に、会わせるわけにはいかないもの」
エリアナは、きっぱりと、そう言った。
その瞳には、強い意志と怒りの光が宿っている。
「でも……彼の様子が、少しおかしかったの」
彼女は一変して、不安そうに言葉を続ける。
「なんていうか……うまく言葉にできないんだけど、目に光がなかった。まるで、何かに取り憑かれているみたいに……何度も試験に落ちて、正気を失いかけているのかもしれない」
彼女は、僕の手をぎゅっと掴んだ。
「お願い、リン。本当に、身の回りには気を付けて。今の彼なら、何をしてくるか分からないから」
エリアナのその必死な表情を見て、僕は事態が僕が思っている以上に、深刻であることを理解した。
「……分かった。ありがとう、エリアナ」
僕は彼女を安心させるように、静かに頷いた。
だが、僕の心の中では、すでに一つの決意が固まりつつあった。
なんだか、厄介なことになってきた。
エリアナとのこの奇妙な共同研究は僕にとって、心地の良い時間だった。
だが、それも終わりなのかもしれない。
僕はふと、タザニアの街を北に貫く、主要街道のことを思った。
そろそろ、土砂崩れの復旧作業も、終わる頃ではないだろうか。
この街を、去る時が来たのかもしれない。
僕は何もない空を見つめながら、そんなことを考えていた。