エリアナの警告を静かな宿の部屋の中で、一人考えていた。
彼女が去った後も、その言葉の余韻は、続いていたのだ。
ソニー。
彼の、光のない瞳が脳裏に蘇る。
エリアナは「正気を失いかけている」と言った。
そういう人間が一番、厄介なことをしでかす。もちろん絶対じゃない。
でも、僕が敷いていた撤収のラインは、既に超えている気がした。
「……仕方ないか」
僕は小さく呟き、ベッドから立ち上がった。
エリアナとの共同研究は、僕にとって予想外に心地の良い時間だった。
だが、それも、もう終わりだ。
面倒事はごめんだった。
明日にでも、僕はこの街を去ることを決意した。
幸い、冒険者ギルドで昼間に確認したところ、ソノミスへ向かう主要街道の復旧は、ほとんど完了しているらしい。
人探しの魔術も、目新しい情報は無いらしいし。
だから、今夜がこのタザニアで過ごす、最後の夜になるだろう。
僕は、旅の荷物を手早くまとめた。
新しく買った深緑色の外套。数枚の着替え。そして、市場で買った、わずかな食料。鈍い輝きを放つナイフ。
丈夫な靴に、手袋。
一つ一つを確認して、手入れをする。
影の魔法は物を入れることができて便利だが、一度入れたものを覚えていないと取り出せない。
だから、思い入れのないものは、基本的に身に着けることにした。
いつでもどこへでも、身軽に去ることができる。それが、僕の唯一の強みだった。
窓の外はすでに日が落ちて、夜の気配が包み込もうとしていた。
タザニアの街の喧騒も、夜の訪れと共に、次第にその勢いを弱めていく。
僕は、ベッドに腰を下ろし、静かにその時を待った。
夜明けと共に、この街を出よう。
エリアナには悪いけど、宿の主人に言伝でも渡しておけばいいかな。
そう考えていた、その時だった。
――ドン、ドン、ドン
突然、部屋の扉が乱暴に叩かれた。
その音は、静まり返った宿の廊下に、不気味に響き渡る。
僕は咄嗟に身構えた。
こんな夜中に……誰だろう?
僕は音を立てずに立ち上がり、ナイフをいつでも抜けるように、腰に手を当てる。
そして、ゆっくりと扉へと近づいた。
「……誰?」
僕の問いに、返事はなかった。
代わりに、さらに激しく、扉が叩かれる。
まるで、切羽詰まっているかのような音。
僕は、扉の向こう側にいる人物の、荒い呼吸音を気配で感じ取った。
彼女だ。
僕は扉の錠を外し、ゆっくりとそれを開いた。
「―――っ!」
そこに立っていたのは、エリアナだった。
彼女は、肩で大きく息をし、その顔は血の気が引いて、真っ青になっていた。
いつもは無造作に束ねられている赤色の髪は乱れ、その瞳には、恐怖と焦りの色が浮かんでいる。
「エリアナ……? どうしたの、こんな時間に」
「はぁ……はぁ……リン……」
彼女は、僕の腕を震える手で強く掴んだ。
その手は、氷のように冷たい。
「……逃げて」
彼女の唇から、か細い声が絞り出された。
「今すぐ、この街から逃げるのよ……!」
僕は、エリアナを部屋の中に引き入れ、すぐに扉を閉めて鍵をかけた。
彼女は壁に背中を預けると、そのまま、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
「一体、何があったんだ」
僕は彼女の前に屈み込み、その顔を覗き込んだ。
彼女の瞳は怯えたように、揺れている。
「……ソニーが」
エリアナは途切れ途切れに、言葉を紡いだ。
「ソニーが……あなたを捕まえに来るわ」
「……そう」
僕は静かに呟いた。
予感はしていた。だが、これほど早く動くとは予想外だった。
「ギルドにいる、魔術師たちを集めて……彼ら、あなたを『貴重な研究材料』だなんて……」
エリアナはそこまで言うと、顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、リン……」
彼女の肩が、小さく震えている。
「私のせいよ……私があなたに興味を持ったりしたから……あなたを危険な目に……」
涙が、彼女の指の間から次々と溢れ落ちる。
そう泣かれると、僕は悪くないのに罪悪感が湧いてくる。
どうせ、僕を傷つけることなどできないのだから、悩む必要なんて無いのに。
僕は何も言わず、彼女の隣に静かに座った。
そして、その震える肩に、そっと手を置く。
「……君のせいじゃないよ」
自分の声を、できるだけ低く落ち着いたものになるように意識して話す。
「僕が君に協力すると決めたんだ。だから、君が謝る必要はない」
エリアナは、ゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、僕をじっと見つめている。
「でも……」
「それに、君との時間は無駄じゃなかった。楽しかったよ」
僕がそう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間、さらに激しく泣きじゃくり始めた。
僕は彼女が落ち着くまで、ただ黙ってその背中をさすり続けた。
やがて、彼女の嗚咽が少しずつ静まっていく。
エリアナはローブの袖で乱暴に涙を拭うと、懐から一枚のくしゃくしゃになった羊皮紙を取り出した。
「ごめんなさい……すこし取り乱したわ……時間がないの。これを見て」
彼女が広げた羊皮紙には、タザニアの街の地図が描かれていた。
そして、その上には赤いインクでいくつもの印や線が書き込まれている。
「これは……?」
「ソニーたちの、包囲網の予測よ。彼らの話を隠れて聞いてたの」
彼女の指が、地図の上を素早く滑る。
「夜警の巡回ルート、魔術師たちが潜んでいそうな場所、身を隠せる路地裏……私が、知っている情報を、全て書き込んだわ」
その地図は、短い間に彼女がどれだけ、僕のことを案じてくれていたかを、雄弁に物語っていた。
「ソニーに協力するのは、彼の昔からの知り合いだと思う。数はおそらく、十人前後」
エリアナは、早口で説明を続ける。
「リーダー格はロイド。火の魔術を得意とする短気な男よ。挑発すれば、すぐに頭に血が上って隙ができるはず」
「もう一人の幹部格はセレナ。風の魔術の使い手。特に、聴覚を強化する魔術が得意だから、絶対に音を立てないで。彼女に気づかれたら、すぐに仲間を呼ばれるわ」
彼女は追手たちの特徴、得意な魔術、そして、性格の癖まで、驚くほど詳細に僕に伝えてくれた。
「……エリアナ」
僕は彼女の言葉を遮った。
「君は、どうするんだ。彼らに、協力しなかったことが分かれば、君の立場が危うくなるんじゃないのか」
僕の問いに、彼女はふっと力なく笑った。
「私のことは、心配しないで。どうせ非合法なことをしようしてるんだから、表立って批判はできないはずよ。それに、師匠も私のことを気にかけてくれている。ソニーも簡単には手出しできないわ」
彼女はそう言ったが、その顔色は相変わらず青白いままだ。
彼女が、自分の危険を覚悟の上でここに来てくれたことは、明らかだった。
「あなたこそ――」
エリアナは僕の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、彼女の本来の力強い意志の光が宿っている。
「無事に逃げて。探してる人がいるんでしょ?」
僕は黙って頷いた。
もう、慰めの言葉は必要ないようだ。
僕は立ち上がり、まとめておいた荷物を身に着ける。
そして、深緑色の外套のフードを深く被った。
「……いつか」
僕は扉に手をかけながら言った。
「君の新しい魔術が完成したら見せてね」
僕の言葉に、エリアナははっとしたように顔を上げた。
そして、濡れた顔に精一杯の笑顔を作った。
「ええ……必ず。世界があっと驚くような、最高の魔術を完成させてみせるわ」
彼女の声が、また震えている。
「だから……だから、リンも……」
それが、僕たちが交わした最後の言葉だった。
僕は彼女に背を向けて、部屋の窓を開けた。
ひやりとした、夜の空気が部屋に流れ込んでくる。
僕は一度だけ振り返った。
エリアナは、その場に立ち尽くしたまま、僕をじっと見つめていた。
その瞳に浮かぶ感情が何だったのか。
今の僕には、確かめる術はなかった。
僕は音を立てずに窓枠を乗り越え、夜の闇へとその身を躍らせた。
狭い路地裏に、猫のように静かに着地する。
夜のタザニアは、昼間の喧騒がまるで嘘のように静まり返っていた。
だが、その静寂の下で、見えない網が確実に張り巡らされているのを肌で感じた。
僕は近くの高めの建物の壁を蹴り、屋根の上へと駆け上がった。
そこから見下ろす街は、月明かりに照らされて、幻想的な光景を作り出している。
だが、その美しい光景の中に、いくつもの不穏な影が蠢いているのを感じた。
遠くの通りで、ローブを纏った男たちが、二人一組で何かを探すように、ゆっくりと歩いている。
別の建物の屋上には、身を屈め、じっと周囲を警戒している人影が見える。
エリアナの言った通り、包囲網はすでに敷かれているようだ。
僕は、頭の中で彼女がくれた地図を正確に展開する。
ここから北へ。
街を分断する大きな運河を越え、職人たちが住む西区画を抜け、そして、北門へ。
それが良い脱出経路だった。
僕は深く息を吸った。
アルシオンの暗部で過ごした、二年間。
そこで学んだ、隠密行動の技術。気配の消し方。闇への溶け込み方。
こんなところで活かせるとは考えてもいなかったな。
僕は屋根の上を、まるで、影そのものになったかのように滑るように走り出した。
屋根を蹴る音もない。
風を切る音すらない。
烏のように静かに移動するのだ。
僕の存在は夜の闇に溶け込んでいた。
しばらく進むと、眼下に大きな広場が見えてきた。
広場の中央には噴水があり、その周囲で魔術師が固めている。
地上の道を進めば、この広場を通ると思ったのだろう。実際、地上ではないが同じようなルートを僕は取っていた。
順調だ。
そう、思った矢先だった。
短く小さい言葉が闇の中に呟かれた。
――ヒュッ!
鋭い風切り音と共に、何かが僕の頬を掠めた。
咄嗟に身を屈める。
僕が先ほどまでいた場所に、三日月状の鋭い斬撃痕が刻まれていた。
「……見つけたわよ、ネズミちゃん」
ねっとりとした、甘い声が響いた。
振り返ると、そこには一人の女が立っていた。
風に、長い黒髪をなびかせ、その手には短いワンドを持っている。
彼女の周りには、目に見えない風の刃が渦巻いているのが、水蒸気の気配で分かった。
セレナ。
風の魔術の使い手。
「聴覚が鋭いんだったな」
僕は内心で舌打ちした。
いくら、音を消しても、微小な空気の振動までは消しきれなかったらしい。
「大人しく投降なさい。ソニーはあなたを、できるだけ傷つけずに捕らえろと、言ってるわ」
彼女は、くすくすと笑いながら、ゆっくりと僕に近づいてくる。
その瞳は、獲物を見つけた蛇のように冷たく、残忍な光を宿していた。
僕は何も答えず、ただ静かに後ずさる。
そして、次の瞬間、僕は屋根の端から、真下へと身を投げた。
「――!?」
セレナの、驚く気配を背中に感じながら、僕は落下していく。
眼下は狭い、ゴミだらけの路地裏。
地面に激突する寸前。
僕は影の魔法を発動させた。
足元から、黒い水が滲み出し、僕の体を優しく受け止める。
衝撃はない。
僕は音もなくその場に着地すると、その場から走り去る。
ここで、戦闘をしても、他の魔術師を引き寄せるだけだと思ったのだ。
「……あら、逃げちゃった」
屋根の上から、セレナの悔しげな声が聞こえてくる。
だが、彼女が追ってくる気配はなかった。
僕は再び、闇の中を走り出した。
だが、一難去ってまた一難。
スラムの通りに出た瞬間だった。
「――そこだぁ!」
野太い怒声と共に、灼熱の空気が僕の体を包み込んだ。
通りの向こう側から、巨大な火の玉が僕に向かって飛んでくる。
ロイド。
火の魔術を得意とする、短気な男。
僕は咄嗟に、横の路地へと飛び込んだ。
火の玉は、僕がいた場所の石畳を、派手に爆発させる。
轟音と共に、破片が四方八方に飛び散った。
「ちっ、外したか! だが、これはどうだ!」
ロイドはそう叫ぶと、次々と火の玉を放ってくる。
その攻撃は、精密さには欠けるが、一撃一撃の威力は絶大だ。
スラム街の建物が、次々と破壊されていく。
「おい、ロイド! やりすぎだ! 街を壊す気か!」
他の追手たちの、制止の声が聞こえる。
だが、ロイドは完全に、頭に血が上っているようだった。
「うるせえ! あいつを捕まえりゃ、ソニーから、いくらでも、褒美が貰えるんだ! 多少の損害は、必要経費だ!」
エリアナの情報によれば、こいつは挑発に弱い。
僕はわざと物陰から、水の分身を作り、一瞬だけ姿を見せた。
「そこか、こらぁ!」
案の定、ロイドは僕の分身を見せた場所に、巨大な火球を叩き込んだ。
その隙に、僕は彼らの背後へと、回り込む。
そして、彼の足元に小さな影の沼を作り出した。
「うおっ!?」
ロイドたちは、追うために体を反転させるが、足を取られ派手に転倒した。
僕は、彼らに一瞥もくれることなく、その場を走り去る。
相手が、普通の魔術師でよかった。僕はそう思った。
これが、暗部の連中だったら、こうも簡単には包囲を抜けれなかっただろう。
僕は影から影へと、跳躍するように移動する。
やがて、目の前に巨大な街の外壁が、姿を現した。
もうすぐ北門だ。
あと、少し。
だが、僕はそこで足を止めた。
門の前には、見慣れた人影が、一つ立っていた。
月明かりに照らされた、その顔には、焦りと苛立ちの色が浮かんでいる。
ソニー。
「ッチ……使えん奴らめ。だが、お前もこれで終わりだ」
彼は僕の姿を認めると、歪んだ笑みを浮かべた。
「大人しく我らに協力しろ。多少は苦しまずに済ませてやる」
彼の周りに魔力が渦を巻く。
影の拘束魔術。
詠唱が始まった。
だが、僕は焦ってはいなかった。
僕は彼を無視した。
そして、彼の横をすり抜けるように、目の前の高い外壁に向かって、全力で駆け出した。
「……無駄だ! この魔術からは逃げられんぞ!」
ソニーの嘲笑する声が、背後から聞こえる。
だが、彼の魔術は僕には効かないだろうと思った。
僕はそのまま壁を蹴り上げて、上へと進む。
そして、背後から迫る影を、僕の影が食べつくす。
一瞬で、彼の操る影は無くなり、逆に僕が彼を拘束することになった。
「―――なっ!?」
ソニーの驚愕に目を見開く気配を感じながら、僕の体は夜空を駆け上がった。
重力から解放されたかのように。
僕は軽々とタザニアの外壁を飛び越えていく。
街の外に、僕は一枚の枯れ葉のように音もなく着地した。
そのまま、走り抜けて、北の街道を進む。
背後からの追ってくるの気配は、もう感じられない。
完全に振り切ったかな。
僕は一度だけ、タザニアの街を振り返った。
巨大な壁に囲まれた、眠らない商業都市。
その中で、ひときわ高くそびえる、魔術ギルドの塔が、月明かりを浴びて静かに佇んでいた。
僕は再び、闇の中を静かに歩き出した。
僕の姿は、すぐに深い闇に溶けていった。