あなたの能力は時間停止です   作:ハスキー大根

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ヤランでの朝は、優しい音色と共に訪れた。

 

泊まった宿の窓から差し込む柔らかな朝日が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。

朝日と共に、金管楽器の軽快な音が聞こえてくる。それは、まるで街全体が、ゆっくりと目を覚ますための、壮大な序曲のようだった。

 

僕はベッドの上で身を起こし、しばらくの間、街に響く音色に耳を澄ませていた。

こんな朝は初めてだった。

アルシオンの暗部にいた頃の朝は、常に静寂に支配されていた。他の街でも、朝は他人の生活音と喧騒に満ちていた。

 

だが、ヤランの朝は音楽に満ちている。

それは、僕の心を穏やかにさせた。

 

階下に降りると、宿の主人が陽気な鼻歌を歌いながら、朝食の準備をしていた。

恰幅のいい、人の良さそうな男だ。

 

「よう、旦那。よく眠れたかい?」

「……ああ、おかげさまで」

 

僕はカウンター席に腰を下ろし、出されたスープとパンに、ゆっくりと手をつける。

スープからは、具が少ないがいい香りがした。

 

僕は、窓の外に広がる活気ある光景を見ながら、ふと、疑問に思ったことを口にした。

「どうしてここは、こんなに音楽が盛んなんですか?」

 

僕の質問に、主人は「待ってました」とばかりに、にやりと笑った。

 

「そりゃあ、旦那。この街には、大陸でも珍しい『ヤラン音楽院』があるからさ」

彼は布巾でカウンターを拭きながら、得意げに語り始めた。

 

「世界中から、音楽家を目指す若い連中が、ここに集まってくるんだ。だから、街はいつも音楽と若者の熱気で、溢れかえってるってわけさ」

 

音楽院。

なるほど、専門の教育機関があるのか。

だから、この街の音楽は高い質と多様性を保っているのだろう。

 

「ヤランは都市国家群の中でも、真ん中の方に位置するからな。争いとは無縁なんだよ。だから、音楽を育む文化が生まれたのさ」

 

主人はそう話しながら、昼の食事の仕込みをする。

 

「それに、このヤランはどこの国にも属さない、自由な都市国家だからな。他の国じゃ、音楽を奏でるのに王様や貴族の顔色を窺う必要があるって聞いたことがあるぜ?威厳だとか歴史だとか、そんな小難しい話よりもいい演奏が聴けるかの方が、よっぽど大事なのさ。この街の連中にとっては」

 

主人はあっけらかんと笑った。

その言葉には、この街の人々の気質がよく表れていると思った。

自由で奔放で、そして、今を生きることを何よりも大切にしている。

 

「もし、旦那が音楽に興味があるんなら、一度、その音楽院に行ってみるといい。あそこは、いつでも見学できるはずだからな」

 

謎の肉を切りながら主人は見学を勧めてきた。

 

「……見学?」

「ああ。授業を受けるのは、金もかかるし、予約も必要だが、コンサートホールを見て回るだけなら、誰でも自由に入れるはずだ。中には、でっかいコンサートホールもあって、運が良ければ、腕のいい学生たちの練習風景を聴けるかもしれねえぜ」

 

それは……いいことを聞いた。

どうせ、三日間はこの街に滞在するつもりだ。

その音楽院とやらを覗いてみるのも、悪くないかもしれない。

 

「ありがとう。行ってみるよ」

「おう、楽しんでこいよ!」

 

僕は主人に礼を言い、食事を済ませると宿を出た。

ヤランの街は、朝の光を浴びてさらに輝きを増している。

僕は、さっそく音楽院を目指して歩き始めた。

 

 

音楽院へと向かう道すがら、僕は改めてこの街を観察した。

 

昨日、マルコさんと一緒に門をくぐった時は、街全体の雰囲気に圧倒されて、気づかなかったこと。

それは、この街が音楽家だけの街ではない、ということだった。

 

確かに、楽器を手に楽しげに語り合う人々の姿は、他のどの街よりも多い。

だが、それ以外にも、様々な人々がこの街で生活を営んでいる。

 

僕のような、物珍しげに街を眺める、旅人。

マルコさんのような、大きな荷物を背負い足早に行き交う、商人たち。

屈強な体つきをした、冒険者風の一団。

質素だが、清潔なローブを身に纏い、静かに歩く教会の関係者らしき人々の姿も、ちらほらと見受けられた。

 

この街の自由な空気は、音楽家だけでなく、様々な目的を持つ人々を、惹きつけているのかもしれない。

あるいは、この陽気な街は、あらゆる人々を分け隔てなく受け入れる、懐の深さを持っているのか。

 

僕は、そんなことを考えながら、石畳の道を歩き続けた。

街は、中心部から離れるにつれて、次第にその様相を変えていく。

喧騒は少しずつ遠のき、代わりに落ち着いた雰囲気が漂い始めた。

 

そして、ついにその建物は僕の目の前に、その巨大な姿を現した。

 

「……ここが、音楽院」

 

思わず声が漏れる。

そこにあったのは、僕が想像していた「異世界の学校」という言葉のイメージを、遥かに超える、壮大な建築物だった。ギルドホール程度の大きさを想像していたから、これには驚いた。すくなくとも、地方の大学くらいの大きさはあるように見えた。

 

広大な敷地は、美しい庭園といくつもの校舎で構成されている。

中心にそびえるのは、白い石で造られた巨大なコンサートホールらしき建物。そのドーム状の屋根は、太陽の光を浴びて、まばゆく輝いていた。

その周りには、練習棟や講義棟らしき建物がいくつも並んでいる。

それぞれの建物が集まり、一つの巨大な複合体を形成していた。

 

まるで、街の中にある街のようだ。

まさしく、音楽のための理想郷なのだろう。

 

僕はその圧倒的な威容に、しばらくの間立ち尽くしていた。

もし、ミラがこの光景を見たら、どんな顔をしただろうか。

きっと、目を丸くしたに違いない。

 

 

しばらく、その大きさを堪能した僕は、正門へとゆっくりと歩を進めた。

門の前には、警備員らしき男が立っていたが、僕が「見学したい」と告げると、特に咎めることもなく、中へと通してくれた。

 

「見学は、あの建物の受付で手続きできる」

 

教えられた通りに、手前の大きな建物のエントランスホールへと入る。

内部は外観以上に豪華で、洗練された空間だった。

高い天井。磨き上げられた大理石の床。壁には、この街の有名な音楽家だろうか。肖像画がいくつも飾られていた。

 

僕は受付で、見学の申し込みをした。

宿の主人が言っていた通り、見学は無料らしい。

受付の女性は、僕に見学許可証を渡すと、地図を見せながら簡単な説明してくれた。

 

「一般の方は、こちらのコンサートホールと、中庭、それから、あちらの展示室に、ご自由にお入りいただけます。ただし、練習棟や講義棟への立ち入りはご遠慮ください」

「はい」

 

この学校の卒業生なのだろうか。凛とした声は実に耳に届きやすかった。

 

「また、一部の公開授業は、一般の方も聴講可能ですが、こちらは予約が必要となります。大変人気ですので、今からご予約いただいても、数日お待ちいただくことになりますが……」

 

さすがに、数日は待てないな。僕自身、音楽をしに来たわけでもないので授業の見学は断る。

 

僕は彼女に礼を言うと、簡単な地図を片手に、コンサートホールへと向かった。

 

大きな建物の、重厚な扉を開けるとそこは音の聖域だった。

 

客席は赤いビロードで覆われ、ステージは磨き上げられた木でできている。

天井はドーム状になっており、音響効果を最大限に高めるための、緻密な計算がそこには見て取れた。

 

幸運なことにステージの上では、ちょうど学生らしき一団が練習を行っていた。

弦楽器、管楽器、打楽器。

地球の楽器とは、すこし形が違うように見えるが、同じようなものも多々ある。

物理法則は変わらないのだから、音を出す形状も自然と収斂するのだろうか。

 

様々な楽器が、一つの曲を紡ぎ出していく。

 

僕は、客席の一番後ろにそっと腰を下ろした。

そして、目を閉じて、その音楽に身を委ねた。

 

それは、僕が知らないクラシック音楽のようなものだった。

一つ一つの音が緻密に絡み合い、壮大な物語を描き出していく。

 

僕は、時間を忘れて演奏に聴き入っていた。

どれくらいの時間が、経っただろうか。

演奏が終わり、ホールが静寂に包まれた時、僕は自分が深く息をしていたことに気づいた。

 

 

その後も、僕はホールに留まり続けた。

次々と、様々な学生たちがステージに現れ、それぞれの音楽を奏でていく。

 

軽快な民族音楽のようなアンサンブル。物悲しい独奏。情熱的な二重奏。

時には、口論や、やり直しもあったが、それすらも美しかった。

 

僕が持ち得ていない、魂の叫びのようなものを彼らが持っていたから。

 

その意味を、僕は考えながら、じっと耳を傾けていた。

 

 

その日は、一日中僕は音楽を聴いて過ごした。

空腹も喉の渇きも関係ない。

ただ、純粋な音を浴び続けていた。

 

やがて、太陽が西に傾き、ホールに夕暮れの光が差し込み始めた頃。

 

僕は、ようやく、重い腰を上げた。

これ以上は、本当に根が生えてしまいそうだ。

 

僕は名残惜しさを感じながらも、音楽院を後にした。

 

 

 

帰り道、僕は来た時とは違う道を、ふらふらと歩いていた。

夕暮れのヤランの街は、昼間とはまた違う、ロマンチックな雰囲気を纏っている。

生活音に混ざって、ゆっくりとした曲がどこからともなく流れてくる。

 

そんな、穏やかな街並みの中を歩いていた、その時だった。

ふと、一際大きく、荘厳な建物が僕の目に留まった。

 

それは教会だった。

 

夕日に照らされた、白い壁。

天を突くように、そびえ立つ、尖塔。

そして、壁一面に嵌め込まれた、巨大なステンドグラス。

 

僕がこれまで、他の街で見てきたどの教会とも違う、圧倒的なまでの存在感を放っていた。

 

「……ジャクサラ神教の教会か」

 

僕は小さく呟いた。

ジャクサラ神教。

大陸北東部に位置する、神聖国が広めている、この東部では最大級の宗教組織。

唯一神タロスへの厳格な信仰を説き、人々を幸せへと導くこと活動をしているらしい。

 

アルシオン王国の方では、精霊信仰の力が強かった。教会は設置されていたが、小規模なものしか見かけたことは無く、あまり、その影響力を感じることはなかった。

だが、このあたりの地域では、こんな建物が建つくらいには、絶大な力を持っているらしい。

 

それにしても、このヤランの街に、これほどまで立派な教会が建てられているとは。

 

音楽と自由を愛するこの街の気風と、厳格な信仰はどこか相容れないような気もする。

 

僕は、そのちぐはぐな印象に興味を引かれた。

そして、吸い寄せられるように、その教会の重厚な扉へと足を向ける。

 

 

扉を開けると、ひんやりとした、厳かな空気が僕の肌を撫でた。

外の喧騒は完全に遮断され、そこは静寂と祈りの空間だった。

 

内部は外観以上に広大で、豪華絢爛だった。

高いアーチ状の天井。

そこから吊り下がる、いくつもの巨大なシャンデリア。

床には、青い絨毯が敷き詰められ、僕の足音を静かに吸い込んでいく。

 

そして、何よりも、僕の目を引いたのは、壁一面を飾るステンドグラスだった。

西日が、その色とりどりのガラスを透過し、幻想的な光の帯となって、聖堂の内部を美しく照らし出している。

それは、人の手によるものとは思えないほどの、神々しいまでの、美しさだった。

 

僕はその光景に、ただ息を呑んだ。

 

聖堂の奥には、巨大な祭壇が設けられ、その中央には巨大な神像が鎮座している。

その前では、数人の信者が、深く頭を垂れ、祈りを捧げていた。

 

僕は、彼らの邪魔をしないように、壁際をゆっくりと歩き始めた。

信仰心など、僕は持ち合わせていない。なんなら、ここの教義とは相反する精霊そのものでもある。

 

だが、この建物が持つ、荘厳な美しさには素直に心を動かされた。

 

しばらく、そうやって聖堂の中を見て回っていた、その時だった。

ふと、一角から人の声が聞こえてきた。

説法だろうか。

 

僕は声がする方へと、目を向けた。

そこでは、初老の神父が、十数人の信者を前に熱心に何かを語っていた。

 

僕はその話の内容に耳を傾けてみる。

 

「―――いいですか、皆さん。 神タロスは、我々に秩序と、規律をお与えになったので。 それこそが、人が人として、正しく生きるための、道となるのです」

 

神父の声は、朗々と聖堂に響き渡る。

 

「しかし、このヤランの街ではそれが破られています。 秩序を忘れ去らた人々は、刹那的な快楽にその身を溺れさせています。 彼らの音楽は、神の教えに背く堕落した娯楽です」

 

神父は、この街の音楽を否定する考えを述べている。

その顔と声は落ち着いたものだったが、内容は嫌悪と怒りの色が浮かんでいる。

 

彼の周りに集まる信者たちは、その言葉を聞き入っている。

中には深く、頷いている者もいた。

 

――堕落した娯楽。

 

馬鹿げている。

僕は、そう判断した。

彼らが何を思い、何を奏でるかは自由だ。

 

それに僕が知る限り、ジャクサラ教の教義には音楽の自粛を求める内容は無かったように思う。

 

僕は、彼らの話を聞く気をなくした。

そして、再び、ステンドグラスが作り出す、美しい光の芸術に意識を戻す。

そこに映し出された繊細な軌跡は、何事にも代えられないものだと思ったから。

 

どれくらいの時間、そうやって建物を見物していただろうか。

ふと、人の気配をすぐ傍に感じた。

 

「―――どうか、されましたか?」

 

静かで、透き通るような声。

僕はゆっくりと、そちらを向く。

 

そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。

清潔なシスター服にその身を包んでいる。

 

切りそろえられた青く長い髪。

その顔立ちは、まだ、あどけなさを残しているが、彼女の瞳はどこまでも澄み切っていた。

まるで、静かな湖の水面のように。

 

「……いや」

僕は短く、答えた。

「この建物が、珍しかったから見ていただけだよ」

 

僕の素っ気ない返事に、彼女は気を悪くした様子もなく、小さく微笑んだ。

その笑みは、どこか神々しくさえ見えた。

 

「そうですか。もし、よろしければ、お話などいかがですか?」

 

彼女はそう言って、僕の隣に静かに立った。

その瞳は、僕の心の奥底まで見透かしてしまいそうなほど真っ直ぐだった。

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