――お話などいかがですか?
その声は、聖堂の静寂に溶け込むように、優しく、そして凛として響いた。
簡素で飾り気のない清潔な修道服にその身を包み、僕を静かに見つめていた。
彼女の背後には、この聖堂が誇る壮麗なステンドグラスが広がっている。傾きかけた西日がその色とりどりのガラスを透過し、彼女の輪郭を縁取っていた。
僕がこの壮麗な聖堂に足を踏み入れてから、すでに一時間は経っただろうか。
彼女が僕に声をかけたのは、単なる親切心からか。それとも、信仰心とは無縁の顔で長居する僕を、不審に思ったからだろうか。
僕は、努めて素っ気ない口調で答えた。
「神や祈りに興味があるわけじゃないんだ」
特に、このステンドグラスが、と僕は付け加えた。
そこには、ジャクサラ神教による創世記が描かれているのだろう。神が光と闇を分かち、大地と海を創造し、最後に人間を形作るまでの物語。その一つ一つの場面が、職人の執念ともいえる精緻さで表現されている。
僕の、正直で信仰心のかけらもない、むしろ不遜とさえ言える言葉。
眉をひそめるか、あるいは呆れたような顔を向けられても、おかしくはない。
だが、彼女は違った。
僕の言葉を聞くと、彼女は少しだけ驚いたように目を丸くした。その深い色を映す瞳が、刹那、揺らめいたように見えた。
そして、次の瞬間、その唇にふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「そうですか」
その笑みはまるで、陽だまりのようだった。
「美しいと感じるその心はきっと、神様もお喜びになりますよ。芸術は、神が与え給うた才能の顕現ですから」
そして、彼女の言葉は、僕の予想とは全く違うものだった。
もっと、教義的な、堅苦しい言葉が返ってくると思っていた。それがこの世界で出会ったジャクサラ教徒に持つ、僕の画一的なイメージだったから。
彼女の言葉には、そんなものは一切なかった。
「私は、テレジアと申します。この教会で、神に仕える身です。よろしければ、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
彼女は、胸の前でそっと手を組み、丁寧に、そして流れるような所作で自己紹介をした。その指先まで、彼女の清廉な人柄が表れているようだった。
「リン」
僕も、名前を短く名乗る。
彼女は、僕の名前を口の中で小さく繰り返した。
「リンさん。あなたは、旅の方ですか?」
「……まあ、そんなところ」
「このヤランの街は、初めてでいらっしゃいますか?」
「ああ。昨日着いたばかりだよ」
僕たちの間に、ぎこちない会話が続く。
聖堂の中は、夕暮れの祈りの時間が近いのか、人の姿はまばらだった。僕たちの声は、高い天井に吸い込まれては、消えていく。
元来、人との会話はあまり好きじゃない。特に、腹の内を探り合うようなやり取りは、疲れるだけだ。
彼女のように、相手の心を見透かしてくるような、澄んだ瞳を持つタイプは、なおさら苦手だった。自分の内にある澱んだ部分を、全て暴かれてしまうような気がして。まるで、昔のあの子を見ているようだった。
だが、彼女の纏う清らかな空気が、そうさせるのか。あるいは、この聖堂の持つ荘厳な雰囲気が、僕の警戒心を鈍らせているのか。
その静かな佇まいは、この場所と完璧に調和していて、一枚の宗教画のように美しいと思えた。
「この街の音楽は、もう、お聴きになりましたか?」
テレジアが、ふと、話題を変えた。
その声には、先ほどまでの落ち着いた響きに加えて、どこか誇らしげな、弾むような色が混じっている。
「今日は音楽院で、一日中聴いていたよ」
「まあ、それは……」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「楽しんでいただけたのなら、何よりです。ヤランの音楽は、私たちの誇りですから」
その反応は、彼女がこの街の音楽を、心から愛していることを示していた。
僕が音楽院の感想を述べると、彼女は一層、嬉しそうに頷いた。
「ええ、ええ。分かります。彼らの音楽には、人の心を奮い立たせる力がありますよね」
だが、その輝くような表情は、まるで夕暮れの光が陰るように、ふっと曇った。
彼女は、ステンドグラスから差し込む最後の光を、どこか遠い目で見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……このヤランの街は、自由で素晴らしい場所です。いつも、音楽と笑顔に満ち溢れています。私自身、この街で生まれ育ち、この街を心から愛しています」
その声には、先ほどとは打って変わって、深い愛情と共に、絞り出すような痛みが込められていた。
「ですが……」
彼女は、そこで言葉を切った。
そして、何かをためらうように俯く。長い睫毛が、その白い頬に影を落とした。
「……この教会の教えと、この街の自由な気風との間で、私たちは、少しずつ、浮いた存在になりつつあるのです」
その告白は、ひどく痛切な響きを持っていた。
僕は、先ほど聖堂の片隅から聞こえてきた、神父の説法を思い出していた。
『神の教えに背く、堕落した娯楽です』
あの、嫌悪に満ちた言葉。
「教会の中には……特に、新しく赴任された上層部の方々には、この街の音楽を『堕落』と断じ、快く思わない方々が、少なくありません。神タロスが与え給うた、厳格な秩序と規律こそが絶対であり、それにそぐわない自由な表現は、排除すべきだと考えているようです」
テレジアは、まるで懺悔するように、言葉を続ける。
「私には……その答えが、どうしても分からないのです」
彼女の声は、か細く震えていた。
それは、彼女が抱える、深い葛藤の表れだろう。信仰と、己の感性の間で、引き裂かれそうになっている魂の悲鳴。
「私自身、この街に流れる音楽を、とても美しいと感じてしまいます。人々の心を豊かにし、笑顔にする、素晴らしい力を持っていると信じています。ですが、それは本当に、神の教えに背くことなのでしょうか……」
彼女は、胸の前で組んだ手に、ぐっと力を込めた。その指先が白くなっている。
「神は本当に、この街から音楽を奪うことを、お望みなのでしょうか……」
その問いは、僕に向けられたものではない。
それは、彼女自身に向けられた、切実な問いかけだろう。
神に問いかけ、自身の中の矛盾と対峙する。それこそが、誠実な聖職者が生涯をかけて挑む、試練なのかもしれない。
僕は何と言うべきか、分からなかった。
この街に来てまだ二日の僕が思いつくような、安易な慰めや、浅薄な答えは、きっと彼女には導かない。彼女はもう、何百回、何千回と、その問いを自分自身に繰り返してきたに違いないのだから。
だから、僕はただ黙って、彼女の言葉の続きを待っていた。
沈黙が、僕たちの間に横たわる。
長い――本当に、長い沈黙が流れた。
やがて、テレジアはふっと、長い息を吐き顔を上げた。
その顔には、先ほどの苦悩の色はもう見えなくなっていた。
代わりに、最初に僕に向けたのと寸分違わぬ、穏やかで、全てを受け入れるかのような微笑みが浮かんでいる。
「申し訳ありません、リンさん。見ず知らずのあなたに、このような愚痴を……どうか、お忘れください」
「……別にいいよ」
僕は短く答えた。彼女の強さに少しだけ感心していた。
それから僕らは、他愛もない話題について、ぽつりぽつりと話した。
僕が北方の国アルシオンの出身だと話せば、彼女は目を伏せ、かの地で続く戦争の現状について、心を痛めていると語った。
彼女が若い頃、神学を学ぶために神聖国へ留学したことがあると話せば、僕はその厳格な文化や、独特の建築様式について質問した。
僕がこれまでの旅で見てきた風景のことを話せば、彼女はこの街の歴史や、隠れた名所について教えてくれた。
会話は、決して弾むものではなかったけれど、不思議と苦ではなかった。
互いの背景にある、戦争、信仰、旅、故郷。それらが、言葉の端々から滲み出し、僕たちの間の見えない溝を、少しずつ埋めていくようだった。
そして、日が落ち、聖堂の中に蝋燭の明かりが灯された頃、彼女は、パン、と軽く手を叩いた。
「そうだわ。リンさん。もし、よろしければ、お布施をしていただけませんか?」
唐突な、しかし聖職者としては当然の申し出だった。
お布施。つまりは、寄付のことだろう。
「教会の活動への、ご理解と、ご協力のしるしとして。そして、何よりも、あなたをヤランの街へ、そして、この教会へと導いてくださった、神への感謝の気持ちとして」
彼女は、にこやかにそう言った。
その瞳には、一点の曇りも私利私欲の色も感じられない。
ただ純粋に、神への感謝と教会の活動への協力を求めているだけなのだろう。
だが、僕は、その申し出を素直に受け入れる気にはなれなかった。
精霊である僕が、一神教の崇拝するジャクサラ教に感謝を示すことなど偽善が過ぎる。
そんなことを考えたら、ふと、この完璧に見える彼女の、困った顔が見てみたい、という悪戯心が鎌首をもたげた。
一応、言い訳をしておくと、普段はそんな意地の悪い指向を僕は持っていない。
「神への感謝を、人間の通貨で測るのはどうして?」
僕の子供じみた屁理屈。
案の定、テレジアは「うっ」と、言葉に詰まった。その整った眉がわずかにひそめられる。
「そ、それは、言葉の綾です……!ですが、この教会の維持管理にも、お金は必要なんです…… そ、それに、リンさんが見てくださっていた、このステンドグラスの修繕にも、お金は使われているのですから…」
彼女は、必死に言葉を紡いで反論してくる。
その姿は、問答に挑む神学生のようでもあり、なんだか微笑ましかった。もしかしたら、普段はこんなに面倒なことを尋ねる不信心者は、わざわざ教会の中にまでやって来ないのかもしれない。
「なるほど。つまりは運営費としての資金がいると。つまり、神は関係ないように思えるけど」
「そ、そんな言い方は……ですが、その……現実問題として、はい……」
彼女の必死さが、なんだか愛らしく思えてきて、僕は思わずくすりと笑ってしまった。
僕の笑い声に、テレジアは耳を赤く染めた。
「な、何がおかしいのですか!私は、真剣に……!」
「……ごめん、すこし揶揄っただけだよ」
僕は、降参するように両手を上げた。
僕は、懐を探るふりをして、数枚の銅貨を取り出した。
そして、それを、テレジアの前に差し出す。
「……これで、勘弁して」
テレジアは、僕の手のひらの上にある銅貨を、じっと見つめていた。
やがて、深いため息をつくと、諦めたようにそれを受け取った。
「……ありがとうございます。リンさんのお気持ち、確かに神様へお伝えします」
その声は、少しだけ疲れているように聞こえた。僕の意地悪が成功した証拠だろう。
お布施を、彼女の手に渡しながら、僕は、ふと根本的な疑問を口にしていた。
それは、この教会に足を踏み入れた時から、ずっと僕の心の中にあった素朴な疑問だった。
「……そもそも、どうしてこの教会はこんなに煌びやかなの? ジャクサラ神教の教えは、質素と堅実を重んじるものだと聞いていたけど」
僕の問いに、テレジアはきょとんとした顔で、僕を見つめ返した。
「それは……神の偉大さを、人々が目で見て感じられるようにするためです。この荘厳な空間に身を置くことで、人々は神の存在をより身近に感じることができる……というのが、建前でしょうか」
彼女は、教会の教義に基づいた模範的な答えと、それが必ずしも本質ではないことを正直に話した。
「本当のところを申しますと……以前の領主様が大変熱心なジャクサラ教徒でして……私財を投じて、この教会を改築されたのです。もっとも、そのおかげで領地の財政は傾いてしまったのですが」
その言葉の裏には、彼女の複雑な思いが隠れているような気がした。
煌びやかな教会は、信仰の象徴であると同時に、民を苦しめた過去の遺物でもあるのだ。
「それに、この教会も、改築されてから随分と変わってしまいました。以前は、もっと貧しい人々や旅人を受け入れる、開かれた場所だったのです。ですが今は、権威を示すばかりで……熱心に布教活動をするでもなく、挙句の果てには、街の音楽への反対活動に力を入れている始末です」
そう零す彼女の顔は、この街の教会の未来を、心から嘆いているようだった。
その姿を見て、僕は、少しだけ彼女の背中を押してやりたい衝動に駆られた。
「もしも――もしも、本気で変わってほしいと願うのなら……いや、変えたいと望むのなら、君が上に立つしかないんじゃないか」
この世界では、力が全てを決める。武力でも、知力でも、権力でもいい。
変えたいのならば、変えられるだけの力を持たなければならない。祈りや願いだけでは、現実は動かない。
「君が……本当にこの教会を、この街と共にあるべき姿に戻したいのなら、ただ祈っていても何も変わりはしない。――神は人の営みに興味無いよ」
そう言いながら、僕はごく微量の精霊の気配を、意識してあたりに漂わせる。
神の奇跡と似た、根源的で原初的な力の奔流。
その異質な空気を感じ取ったのだろう。彼女ははっと息を呑み、僕の顔を驚愕の色で見つめた。そして、何かを悟ったように小さく、しかし強く頷いた。
僕は、それ以上何も言わず彼女に背を向けた。
そして、聖堂の重厚な扉へと、向かって歩き出す。靴音が静まり返った聖堂にこだまする。
「あ、あの……!」
背後から、テレジアの引き留めるような声が聞こえた。
だけど、僕は振り返らなかった。
これ以上、彼女と関わるべきではないし、格好つけた手前、ちょっと恥ずかしかった。
扉を開け、外に出る。
ひんやりとした夜気が、火照った肌に心地よかった。
すっかり暗くなった街が、僕を包み込む。聖堂の中の静謐な空気とは全く違う、人々の生活の匂い、ざわめき、そして遠くから聞こえてくる音楽。生々しい現実がそこにあった。
振り返ると、闇の中に巨大なシルエットが浮かび上がっていた。
内側から漏れる蝋燭の光が、ステンドグラスをぼんやりと照らし出し、幻想的な姿を夜空に描き出している。
それは相変わらず、美しい姿でそこに建っていた。
聖堂に残された、テレジア。
彼女は、リンが去っていった扉を、ただ、じっと見つめていた。
彼の放った最後の言葉と、あの得体の知れない気配が、彼女の心の中で、何度も反芻される。
『神は人の営みに興味無い』
その言葉は、彼女の信仰を激しく揺さぶった。
では、自分は何のために、何を祈ってきたのか。
神とは一体何なのか。人間を救うための存在なのか。それとも、もっと別の理なのか。
リンという、一人の旅人が投じた、小さな波紋。
それは、テレジアという名の修道女の心という水面に、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
やがて、その波紋が、彼女自身の運命を、そして、この音楽の街ヤランの未来を、大きく変えていくことになるのは、まだ、誰も知らない。