再びあたりを包んだ沈黙は、先ほどまでのものとは、明らかに質が違っていた。
先ほどまでの沈黙が、水面下での探り合いだったとすれば、今の沈黙は全てが終わった後の拒絶だった。
大野は、床に座り込んだまま動かなかった。
その顔は青ざめ、まだ荒い呼吸を繰り返している。
僕に向けられる視線には、先ほどまでの親しげな色はなく、純粋な恐怖と、そして、わずかな諦めのようなものが浮かんでいた。
これで話は終わりだ。
もう、ここにいる理由はない。
そう思うと、一刻も早く立ち去りたかった。
だが、彼の考えは違ったようだ。
「……待ってくれ」
声の主は、大野だった。
「まだ……頼みたいことが、あるんだ」
この状況で。
まだ、何か用があるというのか。
「……もう一つ、頼みがあるって言ってたね」
僕は、冷たく言い放った。
「断るよ。どんな内容だろうと、引き受ける気はない」
僕の言葉に、大野は力なく首を振った。
「いや……これは、部隊とか、そういう話じゃないんだ」
彼は、ゆっくりと壁に寄りかかりながら、体を起こした。
その動きは、ひどくぎこちない。
思ったよりも脆いな。戦いに身を置いていたのだから、もう強いと思っていた。
すこし、ダメージを与えすぎたかもしれない。
「……七瀬にしか、頼めないことなんだ」
彼の声は真剣だった。
その瞳には、先ほどの恐怖とは違う切実な光が宿っている。
僕は、ため息をつきたいのをぐっと堪えた。
どうして、こうも面倒なことばかり起こるのだろう。
「……聞くだけ聞いてあげるよ」
僕は椅子に深く座りなおすと、彼を促した。
それを聞いた大野は、一度、深く息を吸い込んだ。
「……真理のことなんだ」
その名前が、彼の口から放たれた瞬間。
僕は、帰ろうと思っていた気持ちを少しだけ修正した。
新井真理。
僕の幼馴染。
忘れていたわけではない。
だが、この異世界で、彼女の名前を聞くことになるとは、思ってもみなかった。
いや、避けていたのかもしれない。
クラスメイトが転移し、大野も見た後では、彼女もこの世界に来ている可能性を十分考慮できたはずだ。
僕の心の動きを、彼は見て取ったのだろうか。
彼は、さらに言葉を続けた。
「真理は……今もまだ西部にいる。ロミスト王国っていう、西の端にある国だ」
西部。
先ほど、彼が語っていた戦乱に明け暮れる場所。
なんだか、頼みごとの内容が透けてきた。
「真理は、元気にしてるの?」
思わず、そんな言葉が僕の口から漏れていた。
自分でも、驚くほど自然に。
僕の問いに、大野は苦々しい表情で首を振った。
「……分からない。不定期で連絡はしてる。だが、それもいつまで続くか……」
彼の言葉が、既に重かった部屋の空気をさらに重くする。
「西は、もう……めちゃくちゃなんだ。さっきも言ったけど、国同士の戦争に転移者が駆り出されてる。真理がいる国も、なんどか戦争を引き起こしていたはずだ……正直、いつ死んでもおかしくない」
彼の声には、深い憂いと無力感が滲んでいた。
「俺は……あいつを、ここにラモスに連れてきたい。ここなら、少なくとも西よりは安全だ。領主にも顔が通っているから、無意味な戦争に駆り出されることもない」
その言葉は、彼の偽らざる本心なのだろう。
愛する人を、危険な場所から救い出したい。
「だが……俺は、今の立場上この国を長く離れるわけにはいかない。本当はここに来るときに、連れてくる予定だったんだ。でも、戦力が足りなくて失敗した」
彼は、悔しそうに拳を握りしめた。
「だから……頼む七瀬。真理を、ここまで連れてきてはくれないか」
その瞳は、真っ直ぐに僕を射抜いていた。
そこには、懇願とわずかな希望の色が浮かんでいる。
「もちろん、報酬は払う。お前が人探しをしてるっていうなら、そのための資金にだってなるはずだ」
彼の言葉が、僕の頭の中で反響する。
新井真理を連れてくる。
僕は何も答えず、ただ黙って彼の顔を見つめていた。
頭の中が、少し混乱していた。
感情が思考の渦を巻いている。
真理。
彼女の顔が、僕の脳裏に鮮やかに蘇る。
泣き虫で、それを克服して強くなった女の子。
『あの子』が、いなくなってから。
僕たちの間に、見えない壁ができてしまってからも。
彼女は、ずっと僕のことを、気にかけてくれていた。
ちょっと不器用で、少しお節介だったけれど。
――死ぬはずがない。
僕はそう思った。
あの真理が。
あんなに、生命力に満ち溢れた奴が。
ちょっとやそっとのことで、死ぬはずがない。
きっと、今も、誰かに怒鳴り散らしながら、たくましく生きているに違いない。
だが――。
万が一、という言葉が僕の頭をよぎる。
そうだ。この世界に絶対的な安全など無い。
もし、彼女の身に何かがあったら。
僕は、それを後から知ることになったら。
心のどこかで、無視できない小さな棘がちくりと痛んだ。
僕は今の旅の目的を考える。
ロマナちゃんたちを探すこと。
それが、僕の優先事項だ。
そのためには、人探しの魔術を求めて、北にあるソノミスへ向かわなければならない。
西へ向かうなど、完全な寄り道だ。
「……その、ロミスト王国というのは、どこにあるの?」
僕は低い声で尋ねた。
「大陸の最西端だ。ここからだと……数ヶ月はかかる……と思う」
数ヶ月。
その言葉が、僕の決断をさらに鈍らせる。
あまりにも、遠く長い。
ソミノスを経由できるが、その後が問題だ。
それに、彼女を連れてくるとなると、またこのラモスまで、戻ってこなければならない。
往復で、一年以上かかるかもしれない。
それは、簡単には承諾できないほどの、時間のロスだった。
――断る。
僕は、そう言いかけた。
だが、その言葉は喉の奥でつかえて、出てこなかった。
だから、僕はもう一度考え直した。
現状、僕には人探しのための具体的な手段は何もない。
ソノミスへ行けば、何かが見つかるかもしれない、という、漠然とした期待があるだけだ。
もし、ソノミスで、何も手がかりが見つからなかったとしたら?
その時、僕はどうする?
真理を、大野の元へ連れてくること。
人探しの手段を探すこと。
この二つは、二者択一の問題ではないのかもしれない。
西へ向かう旅の途中で、何か新しい情報が手に入るかもしれない。
大野が言っていた、『予知』のスキルを持つ、転移者の噂。
それも、気になっていた。
僕は、腕を組み目を閉じた。
頭の中で、大陸の地図を広げる。
現在地。北のソノミス。西部。南部。
何が最短なのかはわからない。でも、ここで頼みを承諾したら、時間を使うことは確実だ。
長い長い、沈黙の後。
僕はゆっくりと目を開けた。
「……分かった」
僕のその一言に、大野の顔がはっと上がった。
「とりあえず、一度、様子を見に行ってみる。それから考えるよ」
僕は釘を刺すように言った。
「彼女自身が、ここへ来たいと望んでいるのか。それを、確かめるだけだ。連れて帰る約束はできない」
大野の依頼を真理本人に伝えたら、絶対に連れてけと言われる気もする。
いや、長い遠距離恋愛で、愛想をつかしている可能性もあるか?
そんあ淡い期待を、僕は頭に浮かべた。
「……ああ。それだけで、十分だ。ありがとう……七瀬。本当に」
彼は何度も頭を下げた。
連れてきたわけでもないのに、そこまで頭を下げられると、なんだか居心地が悪い。
僕は、そんな彼に背を向けた。
これ以上、彼の顔を見ていると、余計な感情が湧いてきそうだったから。
「……じゃあね」
僕はそれだけを言い残し、立ち上がると、個室の扉に手をかけた。
話を終え、酒場を出る。
外は、すっかり日が暮れていた。
ランプの明かりが、石畳の道をぼんやりと照らし出している。
酒場の前で、僕たちは無言で別れようとした。
もう、互いに交わす言葉はなかったからだ。
だが、僕がその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「――七瀬」
大野が僕を呼び止めた。
振り返ると、彼はこれまでに見せたことのない、真剣な、そして、どこか追い詰められたような顔をしていた。
「……早めに、この街を出た方がいい」
その言葉は静かだったが、確かな重みを持っていた。
「……どういう意味?」
「いいから。できるだけ、早く……できれば、今夜のうちにでも」
彼はそれだけ言うと、僕に背を向け、足早に夜の闇の中へと消えていった。
その背中は、何かから逃れるようにも見えた。
後に残された僕は、ただその場に立ち尽くしていた。
その言葉の意味を、測りかねていた。
早めに街を出ろ。
それは、単なる親切心からの忠告なのだろうか。
それとも――。
僕の心の中に、わずかな違和感が芽生えていた。
まるで、小さな石ころが、靴の中に入り込んだような不快な感覚。
僕はその違和感を、振り払うように首を振った。
そして、今夜泊まる宿を探すために足を動かした。
考えすぎだ。
そう、自分に言い聞かせながら。
その日の夜。
僕は、宿屋の硬いベッドの上で横になっていた。
だが、どうしても落ち着けなかった。
大野の言葉が繰り返される。
胸騒ぎがする。
本当に彼と会ったのは偶然だったのだろうか?
理由はないが、無視できない嫌な予感。
アルシオンの暗部で、鍛えられた警鐘がチリチリと鳴っていた。
――よし、移動しよう。
僕は、ベッドからゆっくりと身を起こした。
窓の外は、完全な闇に包まれている。
街は静まり返り、人々の営みは完全に消えている。
僕は音を立てないように、慎重に部屋の扉を開けた。
そして、猫のように静かな足取りで廊下を抜け、階段を降りる。
僕は、そっと宿の扉を開け、外へ出た。
ひやりとした、夜気が肌を撫でる。
どこへ行く?
街の外へ出るか?
いや、夜間の門は固く閉ざされているだろう。
無理に、突破すれば騒ぎになるかもしれない。
いや、僕の予感が正しければ、すでに街の壁には警備網が敷かれているはずだ。
とりあえず、朝まで身を隠して、様子をみよう。
――地下水道。
身を隠すには、うってつけの場所だ。
このラモスの街の地下にも、他の街と同じような水路が、張り巡らされているはずだ。
僕はフードを、深く被り直し、夜の闇に身を溶け込ませるようにして、歩き始めた。
人通りのない裏通りを選び、地下へと続く施設を探す。
幸いにも、それはすぐに見つかった。
僕は、周囲に人の気配がないことを念入りに確認すると、音を立てずに鉄の扉をずらした。
そして、その暗い穴の中へと、躊躇なく身を滑り込ませる。
扉を元の位置に戻すと、僕の世界は完全な闇と静寂に包まれた。
鼻をつく澱んだ水の匂い。
遠くから聞こえる、水が流れるかすかな音。
僕はその暗闇の中で、壁に背中を預け、静かに座り込んだ。
そして、朝が来るのを待つことにした。
水に意識を同化させるのはやめておいた。
人間の体へ戻った時の感覚器官の低下は、もしかしたら不利になる可能性がある。
僕の予想が正しければ、相手は転移者なのだから。