ラモスの夜は、静かだった。
僕が身を潜めた地下水路には、地上から漏れ聞こえてくる喧騒も、虫の音すらも届かない。
ただ、遠くで水が流れるくぐもった音だけが、この完全な暗闇と静寂の中で、僕の聴覚を支配していた。
壁に背を預け、僕は膝を抱える。
ひんやりとした石の感触が、外套越しに伝わってきた。
僕は、ゆっくりと目を閉じて周囲を警戒しながら、時間が過ぎるのを待つ。
この地下水路の暗闇は、僕にとって慣れ親しんだ場所だった。
アルシオンの暗部時代、僕らは何度も息を潜め朝を待ったから。
あの頃と今とで、何が違うのだろうか、とふと考え込む。
僕は相変わらず暗闇の中にいる。
いや、誰かを追う役目から、誰から追われる役目になった。
そんな違いが、すこしだけ可笑しかった。
長い時間をじっと体を丸めて過ごすと、やがて遠くから、街が目覚める気配が伝わってきた。
地上から、微かな物音が響き始める。荷馬車の車輪が石畳を転がる音。
人々のざわめき。
僕は、ゆっくりと立ち上がった。
外套のフードを深く被り直し、地上へと続く、鉄の扉に手をかける。
朝一で街から出る行商人たちに紛れて、さっさと出よう。
地上に出ると、朝の冷たい空気が、僕の肺を満たした。
街は、既に多くの人が行き来している。
人々は足早に行き交い、露店の商人たちは、威勢のいい声を張り上げていた。
僕は、人波に紛れるようにして、街の門へと向かった。
心臓は落ち着いていた。
面倒ごとにならなければいいと、期待する自分がいる。
門の前には、街を出ようとする人々の列ができていた。
警備の兵士たちの数も、特に増えているようには見えない。
あまりにも、普通すぎて、逆に、不気味なくらいだった。
考えすぎだったかな?
絶対に、何かひと悶着あると思っていたのだけど。
やがて、僕の番が来た。
兵士は、僕のギルド証を手早く確認すると、無言でそれを返してきた。
その顔は、雑務に疲れているただの1人の人間にしか見えない。
「……よし、通れ」
その言葉に僕は黙って頷き、巨大な門をくぐり抜けた。
街の外へ出ると、広大な平原が広がっていた。
ソノミスへと続く街道が、地平線の彼方まで、まっすぐに伸びている。
僕は、その街道をゆっくりと歩き始めた。
結局、思い過ごしだった……ってことかな。
暗部を離れてから、だいぶ時間が経ったし、もしかしたら、感覚がバグっているのかも。
そう思いながら、僕は五感を最大限に研ぎ澄ませ、周囲の気配を探る。
風の音。草の揺れる音。遠くで鳴く、鳥の声。
周囲を警戒しながら、街道を歩く。
街から、数百メートルほど離れただろうか。
道の両脇に、鬱蒼とした森が迫る、その場所で。
僕は、ふと足を止めた。
――来た。
僕の直感が、鋭く警鐘を鳴らす。
空気の流れが、変わった。
複数の人間から僕に向けて放たれる、意識が僕の肌をぴりぴりと刺した。
次の瞬間。
森の中から、数人の人影が一斉に飛び出してきた。
彼らはあっという間に、僕の前後左右を完全に包囲する。
数は十人ほど。
全員が戦闘服に身を包み、その手には様々な武器が握られている。
動きに無駄がない。
盗賊などではない。明らかに、手練れの集団だった。
そして、その中心からゆっくりと歩み出てきたのは。
「……悪いな、七瀬」
苦渋に満ちた表情で、そう呟く、大野昇の姿だった。
彼の背後には、いかにも腕が立ちそうな、屈強な男たちが僕を睨みつけていた。
その中には、黒髪の人間が、数名混じっている。
彼らが、ラモスが集めているという、異世界人部隊なのだろうか。
彼らの視線は、好奇とわずかな警戒の色を帯びて、僕に突き刺さる。
「やっぱり、こうなったか」
僕はフードの下で、小さくため息をついた。
「領主様の命令だ。お前ほどの力を持つ異世界人を、野放しにはできない、とさ」
大野は、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「大人しく、俺たちと一緒に来てくれ。危害は加えない。ただ、ラモスに仕えてもらう。それだけだ」
その言葉は空虚に響いた。
その言葉に嘘は無いだろう。ただ、彼の願いは別にあることが、その瞳の奥の揺れからなんとなく伝わってきた。
「へっ。こいつが、例の? 大野がやけに、ご執心だったっていう」
大野の隣に立っていた男が、嫌な笑みを浮かべて、僕を嘲った。
「見たところ、ただの、ひょろっとしたガキじゃねえか。こんなのにビビってたのかよ、大野」
男の挑発に、幾人かの転移者たちが、同調するように笑う。
しかし、笑いながらも、その目はじっと僕の手足を観察している。
「やめろ、木下」
大野が低い声で男を制した。
「こいつは、お前らが思っているような、甘い相手じゃないぞ」
「ああ? なんだよ、まだ、そんなこと言ってんのか。いいぜ、俺が、上下関係ってもんを、きっちり教えてやるよ」
木下と呼ばれた男は、そう言うと、腰に差していた剣を、ゆっくりと抜き放った。
他の者たちもそれに倣い、一斉に武器を構える。
空気が、一気に張り詰めた。
「……最後の警告だ、七瀬」
大野の声が、震えていた。
「俺たちの下に就け」
その言葉は、薄暗い森に消えていった。
僕は何も答えなかった。
この茶番に、付き合う義理はない。
だが、大野の真意を完全に見極めるまでは、殺すわけにもいかない。
「ッチ、舐めやがって!」
木下の舌打ちと共に、ラモスの異世界人部隊が一斉に僕に襲いかかってきた。
先陣を切ってきたのは、木下だった。
彼の剣が鋭い軌跡を描き、僕の首筋へと迫る。
速い。だが、所詮数年の経験しかない剣筋だった。
ノーリンで見た、バルガスの剣に比べれば、ずいぶんと浅い。
僕は最小限の動きで、その剣をかわす。
同時に、背後から迫っていた、槍の一突きを身を捻って回避した。
あまり、躊躇が無いな。捕えるにしては、ずいぶんと急所を狙ってくる。
もしかしたら、回復手段があるのかもしれない。
次々と、繰り出される、連携攻撃。
彼らは、個々の戦闘能力もさることながら、集団での戦闘にも、慣れているようだった。
一人が攻撃を仕掛け、僕がそれを回避したその一瞬の隙を、別の者が的確に突いてくる。
なるほど。これが西部で生き残った転移者か。
だが、その全てが僕には、手に取るように分かった。
彼らの動き、呼吸、視線の先。
彼らがこの世界に来て成長したように、僕もまた成長していたから。
僕はその攻撃の嵐の中を、すり抜けていく。
集団戦では、味方に当たらないように武器を動かす必要がある。
つまり、周囲に目を向けられるのであれば、体を逸らす先はいくらでもあった。
「ちっ、ちょこまかと動きやがって!」
木下が苛立ちを隠せない様子で、悪態をついた。
彼らの攻撃は、僕を掠めることすらできていない。
その事実が、彼らの自尊心をひどく傷つけているのだろう。
僕は戦いの最中、ずっと大野の様子を観察していた。
彼は戦闘には加わらず、少し離れた場所で、戦況を見守っている。
スキルが鑑定系であれば、もしかしたら戦闘は不得意なのかもしれない。
もしくは、昨日叩きのめしたのが、ずいぶんと効いているのかも。
時折、僕の死角から致命的な一撃が迫ると、彼の肩がわずかに揺れる。
その瞳に一瞬だけ、動揺の色が走るのを、僕は見逃さなかった。
――やはり。
彼は、僕を捕えることに消極的だ。
この戦闘自体が、領主の命令に従ったという形式だけのものなのだろう。
実際、何人かの転移者は手を抜いているように見えた。
だが、その茶番も、そろそろ限界を迎えようとしていた。
数人の転移者は攻撃が当たらず、苛立ちが頂点に達しようとしている。
彼らは、大野の意図など知る由もないのだろう。
ただ、目の前の獲物を、仕留めることしか考えていない。
「――もう、いいだろ、大野!」
木下が叫んだ。
「ただの、すばしっこいだけのザコじゃねえか! スキルを使えば一発だ!」
「待て、木下」
大野が鋭く制止する。
「スキルの使用は、今回の任務では禁止だ。事前にそう言ったはずだ」
「ちっ、うるせえな! こいつを捕まえりゃ、文句はねえだろ!」
木下は、大野の制止を完全に無視した。
彼は僕から、大きく距離を取ると、その手に眩い光を集中させ始めた。
「食らいやがれ! 」
彼のスキルだろう。
その手から、光でできた、無数の矢が放たれた。
回避は不可能に見える。
大野の顔が暗くなり、木下の顔が得意げになる。
でも、この程度の攻撃は、僕にとって何の脅威にもならない。
僕はその場から一歩も動かなかった。
そして、僕の足元から、じわりと影が滲み出す。
それは、一瞬にして僕の目の前に、巨大な黒い水の壁を作り出した。
「―――なっ!?」
木下の顔が、驚愕に歪む。
彼が放った光の矢は、僕が作り出した黒い水の壁に、音もなく吸い込まれていく。
ただ、静かに闇の中へと消えていくだけ。
――もう、いいだろう。
僕も木下と同じようにそう思っていたところだった。
この茶番に、付き合うのはここまでだ。
僕は大野の方を、ちらりと見た。
彼の顔には、わずかな安堵の色が浮かんでいる。
僕は黒い水の壁をすっと消した。
そして、反撃に転じる。
殺すのは簡単だ。
この黒い水で、彼らの体を包み込んでしまえば、一瞬でその命を奪うことができる。
だが、僕はそれを選ばなかった。
もしも、真理をここへ連れてきたときに、余計な禍根が残っていると困るから。
だから、彼らには眠ってもらうことにした。
僕は影から、無数の黒い触手を放った。
それは、蛇の群れのように、音もなく転移者たちに襲いかかる。
「―――うわっ!?」
「な、なんだ、これ!?」
彼らは、突然足元から伸びてきた黒い触手に次々と絡め取られていく。
抵抗しようにも、斬っても切れぬ実体になすすべはない。
触手は彼らの体を、決して逃れられない力で締め上げる。
そして、僕はその意識を刈り取った。
月が眠りを誘うように、その気配を濃くしていく。
それは、深い深い眠りへと、彼らを誘う。
一人、また一人と、転移者たちがその場に崩れ落ちる。
まるで、糸の切れた人形のように。
あっという間にその場に立っているのは、僕と、そして、その光景を見つめる大野だけになっていた。
静寂が戦いの後を支配していた。
風が倒れた男たちの髪を静かに揺らしている。
大野は仲間たちが、ただ眠っているだけで、死んではいないことを確認すると、安堵の息を漏らした。
そして、ゆっくりと僕の方へと、向き直る。
その顔には純粋な畏怖と感謝の色が浮かんでいる。
「すまない……手加減してくれて助かったよ、七瀬」
彼は深々と僕に頭を下げた。
その言葉に僕は何も答えなかった。
ただ、彼に背を向ける。
もう、ここに用はない。
「――真理のこと、頼んだぞ」
背後から、彼の声が風に乗って耳へと届く。
僕は振り返らなかった。
ただ、小さく頷くだけで、それに応えた。