大野たちとの戦闘から、すでに半日が経過している。
追手の気配は感じられない。
僕はひたすらに森の中を歩き続けていた。
ざわざわと、木々の葉が風に揺れる音だけが僕の耳に届く。
木漏れ日が、僕の進む道をまだらに照らし出していた。
僕は、歩きながら、先ほどの出来事を反芻していた。
大野昇との、予期せぬ再会。
そして、真理の安否確認という、新たな目的。
「……面倒なことになったな」
思わず、独り言が漏れる。
その声は、誰に聞かれることもなく、森の静寂に吸い込まれていった。
人探しの旅。
その旅に、新たな分岐点が生まれてしまった。
だが、その答えはまだ出せそうにない。
今はただ、このラモスの影響圏から一日でも早く、離れることだけを考えていた。
ふと、大野が言った言葉が、僕の脳裏に蘇る。
――その黒髪は、まずい
黒髪。
東部や西部では珍しい髪色。南部には、黒い髪の人々がいるという噂を聞いたことがあるが、定かではない。
僕は、自分の肩まで伸びた髪を一房、指でつまんでみた。
日の光をすべて飲み込むような漆黒。
タザニアでは、この髪の色を隠すために、新しい外套を買った。
だが、それだけでは、不十分なのかもしれない。
いつ、どこで、フードが外れないとも限らない。
「……色を、変えるか」
魔法を使えば、髪の色を変えることくらい、造作もないはずだ。
僕は、そう考え足を止めた。
そして、自分の髪に、意識を集中させる。
魔法は世界の理と繋がり、その一部を書き換える力を持つ。
髪の色を変えるなど、本来なら簡単なことのはずだった。
だが――。
「……あれ?」
何度か試してみるが、僕の髪の色は、黒からほんの少しだけ、色褪せるだけだった。
まるで、古い写真が陽の光に焼けて、セピア色に変わっていくように。
しかも、すぐに元の色に戻ってしまう。
「……どうして?」
僕は眉をひそめた。
もっと、こう――なんというか、簡単に変えられると思っていたのに。
目立たなそうな茶髪か、赤髪に帰ることなんて造作もないことだと思っていたのに。
僕は、もう一度魔法を試みる。
今度は、以前の僕の髪色を再現するように。
――白。
雪のような純粋な白。
すると、僕の髪はゆっくりと、その色を失っていった。
黒いインクが、水に溶けていくように、色素が抜け落ちていく。
そして、数秒後には、僕の髪は月光を浴びたような、幻想的な白銀へとその姿を変えていた。
「……なるほど」
変えられる色と変えられない色を比較し、考察してみた。
どうやら、僕が持つ精霊としての属性に、強く影響されるらしい。
黒、白、水色、灰色、そして、……金色。
何度か試してみた結果、僕が変化させられるのは、その五色だけだということが分かった。
「……まあ、これなら十分か」
僕はその中から、一番目立たなさそうな色を選ぶことにした。
白や金は、いないこともないだろうが、幻想的な色は少し人目を引くだろう。
水色でもいいが、あんまり好きな色じゃない。
となると、残るは灰色。
色を決めると、僕はすぐに自分の髪をくすんだ灰色へと変化させた。
まるで、燃え尽きた薪の灰のような色。
これなら、街の雑踏に紛れても、誰の記憶にも残らないだろう。
僕は自分の新しい髪の色に、満足すると再び森の中を歩き始めた。
どれくらい、歩き続けたのだろうか。
太陽が西の空に傾き始め、森全体が夕暮れの茜色に染まり始めた頃。
僕はすっかり森の奥深くまで来ていた。このまま、森を縦断し、次の街の近くまで行く予定だった。
いつの間にか、周囲は不気味なほど、静まり返っている。
鳥の声も、虫の音すらも聞こえない。
ただ、風が木々の間を吹き抜ける、寂しい音だけが響いていた。
僕はここら辺の地図を思い出していた。
ラモスの北にある森は、いくつかの区域に分類されている。
その中でも、中心部は、古くから『嘆きの森』と呼ばれ、危険な場所だと記されていたのを思い出す。
もしかしたら、僕はその区域へと、足を踏み入れてしまったのかもしれない。
――まあ、いいか。
危険は魔物が出たところで、今の僕の敵ではない。
そもそも、前に大森林にいた頃は、魔物は一匹も敵視してこなかったから、問題にすらならないかもしれない。
それに、この静けさはむしろ心地よかった。
僕は特に気にするでもなく、森の奥へとさらに歩みを進めた。
今夜はこの森のどこかで、野宿をすることになるだろう。
やがて、森の奥深くで、僕は小さな湖を見つけた。
それは、森の中にぽっかりと空いた、空の欠片のようだった。
周囲の木々が、水面にその影を落とし、神秘的な雰囲気を醸し出している。
水はどこまでも澄み渡り、湖の底にある、白い砂まではっきりと見ることができた。
僕は、その美しさに思わず足を止めた。
そして、湖のほとりにゆっくりと腰を下ろす。
水面に映る、自分の顔をぼんやりと眺める。
灰色の髪をした、見慣れない青年がそこにいた。
「……」
僕は、静かに目を閉じた。
水のせせらぎ。
風の囁き。
森の匂い。
それらが、優しく満たしていく。
このまま、水に溶けて消えてしまえたら、どんなに楽だろうか。
そんな、とりとめのない感傷に浸っていた、その時だった。
――そこの方。
声が風にのって僕の耳に届いた。
それは、男性とも女性とも言い難い、中性的で透き通るような美しい響きを持つ声だった。
僕はゆっくりと瞼を開く。
そして、声がした方へと視線を向ける。
湖の中央。
水面が、静かに波紋を広げている。
そして、その中心からゆっくりと何かが、姿を現そうとしていた。
それは最初、光の粒子だった。
無数の青白い光の粒子が、水面から湧き上がり、螺旋を描きながら集まっていく。
やがて、それは人の形を取り始めた。
透き通るような水の体。
揺らめく光の髪。
そして、その顔には目も鼻も口もない。
ただ、二つの、深い蒼い光が、静かに僕を見つめていた。
――精霊。
僕は、その存在を一目で理解した。
精霊を、実際にその目で見るのは、これが二度目だった。
一度目はラクサ村の湖で。
あの時は、もっと巨大で圧倒的な存在だった。
見た目も、人間に近かったと思う。
だが、目の前にいる精霊の存在感は、もっと小さく、そして人とは少し容姿が違っていた。
『――どうかしましたか?同胞よ』
精霊は、再び語りかけてきた。
その声には、純粋な好意が乗っている。
僕は何も答えず、ただ黙ってその姿を観察していた。
僕の体は精霊そのもの。
だが、僕はそれと同時に人間でもある。
目の前の、存在とは明らかに違う。どう対応するのが良いのだろう。
僕が黙っていると、精霊は不思議そうにその頭を傾けた。
『……? あなた……人間……?』
その声に、戸惑いの色が混じる。
『……いえ、でも……あなたからは、我々と同じ気配がする……それに、懐かしい水の匂い……』
精霊は、ふわりと浮くと、僕の周りをゆっくりと旋回し始めた。
その蒼い目が僕の体を隅々まで、探るように見つめている。
『……不思議。あなたは……何者ですか?』
その問いに、僕はどう答えるべきか少し迷った。
どう、説明すればいいのだろうか。
「……僕はリン。人間だよ」
僕は結局、当たり障りのない答えを口にした。
『リン……』
精霊は僕の名前を口の中で繰り返した。
そして、僕の目の前に着地する。
『リン。あなたは、どこから来たのですか? そして、どこへ行くのですか?』
その問いは、まるで、無邪気な子供の質問みたいだった。
その純粋な好奇心は、僕の心を少しだけ和ませる。
「……僕は南からきた。そして今は、北へ向かってる。ソノミスという国へ」
「南から……随分と遠くから来たのですね。そして、さらに北へと行く……おもしろい。なぜ、そんなに移動するのですか?」
「……人を探しているんだ」
僕の口にする言葉の何がそんなに面白いのか、精霊は興味深そうに耳を傾けていた。
それから僕たちは、しばらくの間言葉を交わした。
僕は、タザニアの魔術ギルドで読んだ、古代の魔術や神々についての話を、彼に語って聞かせた。
精霊とは、世界の理そのものである、という記述についてどう思うか、と。
『ふふ。それはあなたも既にご存じなのではないですか?』
精霊は楽しそうに笑った。
『我々はただ在るだけです。風が吹くように、水が流れるように。そこに理由などありません』
その答えは、シンプルで本質的なものだった。
人は、あらゆる物事に、意味や理由を求めてしまう。
だが、自然の摂理に、そんなものは存在しない。
ただ、在るがままに。
一方、精霊は様々なことを尋ねてきた。
『リン。どうして、あなたは人間の体をしているのですか?』
「……僕は、もともと人間だったからだよ」
『人間……? でも、あなたの中には、我々と同じ水の力が有る……人の身ではそのようなことはできないでしょう』
精霊は納得がいかないようだった。
僕が人間である、という事実を信じることができないらしい。
まぁ、僕も、自分の体が人間だとは、断定できないのだけど。
僕は、自分が異世界から来たこと、そして、ある出来事をきっかけに、精霊の力を受け継いだことを、かいつまんで、説明した。
もちろん、時間停止のスキルや、詳しい経緯については伏せて。
僕の話を、精霊は静かに聞いていた。
そして、全てを話し終えると、精霊はぽつりと呟いた。
『……なるほど。もしかしたら、世界を跨いだときに、体がズレてしまったのかもしれませんね。人で在りながら、人の身有らず、ということでしょうか』
僕の存在を、そんな風に表現されたのは初めてだった。
そうか……この体質は、世界を移動した影響なのか。
――でも、大野や他の転移者は、どうなのだろう。食事を共にしたり、戦った感じでは、普通の人間の体に見えた。だとしたら、僕だけがこの体を持っている理由は……?
それから、僕と精霊は人間の暮らしについて、夜が深まるのを気にせず話をした。
様々な国、文化、食事、生活。
ここへ来る人間など、久々で、精霊にとっては、すべてが興味深いものらしかった。
僕は自分の経験の中から言葉を選び、一つ一つ丁寧に答えてた。
一通り、話し終えたところで、精霊は、ふと何かを思い出したように、僕に尋ねた。
『―――リン。あなたは、ここから南へ行ったところにある、大きな湖を知りませんか?』
「……南の湖?」
『はい。夜になると水面が月光を浴びて、銀色に輝くとても、美しい湖だと聞いています』
その言葉に僕は、はっとした。
夜に銀色に輝く、湖。
その特徴は、僕がかつて身を寄せていた、ラクサ村のあの湖を思い起こさせた。
『その湖には、我々の同胞の中でも、特に古い力のある精霊が眠っていると、風の同胞に聞きました。私は、いつか、その方にお会いしてみたいと、ずっと思っているのですが……移動できないので、お話だけでもお聞きしたいのです』
精霊は憧れるように、そう語った。
その声には、子供のような純粋な夢が満ち溢れている。
僕は――その夢を壊したくなかった。
あの湖の主が消滅し、今は僕という不完全な形でここにいる、などという残酷な真実を告げることはできなかった。
「……知らないな。でも、きっと素敵な場所なんだろうね」
僕はそう答えるのが精一杯だった。
僕の言葉に精霊は、嬉しそうにその光の体を揺らめかせた。
『はい。きっと、そうです』
やがて、長い夜が明け、東の空が白み始めてきた。
『……もう朝になってしまったのね』
精霊は名残惜しそうにそう呟いた。
『リン。あなたと話せて楽しかったです。ありがとう』
「……僕もだよ」
『また、いつか会えますか?』
「……さあ、どうだろう。僕は旅人だから」
僕の答えに、精霊は少しだけ寂しそうに光を揺らめかせた。
そして、すっと僕の目の前に近づくと、その光の指先で、僕の頬にそっと触れた。
ひんやりとした感触。
『―――あなたの旅に祝福がありますように』
その言葉を最後に、精霊の体は再び無数の光の粒子となって、霧散し湖の中へと静かに消えていった。
後に残されたのは、朝靄に包まれた静かな湖と、僕一人だけ。
僕はしばらくの間、その場から動かなかった。
精霊が触れた頬が、まだ微かに、冷たさを帯びている。
そして、湖に一礼すると再び北へと歩き始めた。
灰色の髪を、朝の光になびかせながら。
僕は静かに森を歩き続けた。