ダリウスのキャラバンと共に旅を始めてから、二週間ほどの時間が流れた。
時折目に入る灰色の髪も、すっかり見慣れたものになっていた。
旅は、驚くほど穏やかだった。
焚き火を囲んで交わされる、他愛もない会話。ゴードンが語る過去の武勇伝。ダリウスが夢見る大聖人への道
それらは、寒くなってきた空気とは違って、温かい時間が流れていた。
孤独な旅もいいが、良い仲間との旅も悪くないと思えた。
そして、旅路の果てに、僕たちはついに目的の街へとたどり着いた。
「――見えてきたぜ、あれがボーダズだ」
ゴードンが、前方を指さしながら野太い声を上げた。
その声に、キャラバンの誰もが安堵の表情を浮かべる。
僕も荷馬車の幌の隙間から、その街の姿を眺めた。
地平線の彼方に、巨大な城壁がまるで黒い線のように横たわっている。
都市国家群の最北端に位置する、国境の街ボーダズ。
ソノミスへと至る、最後の街だ。
街に近づくにつれて、これまでとは違う光景が僕の目に飛び込んできた。
街道を行き交う人々の中に、ひときわ目立つ一団がいる。
彼らは、一様に紫色のローブをその身に纏っていた。
フードを目深に被り、その手には杖のようなものが握られている。
その姿は、タザニアの魔術ギルドで見た魔術師たちよりも、ずっと知的な雰囲気を放っていた。
「ソノミスの魔術師たちだ」
僕の視線に気づいたのだろう。隣にいたダリウスが、声を潜めて教えてくれた。
「ソノミスへ向かう道は、もう雪でほとんど通れなくなっていらしい。だから、あいつらはこのボーダズの街で、春が来るのを待つつもりなのさ。まあ、魔術師ってのは旅や野宿には慣れてねえからな」
ダリウスは、やれやれと肩をすくめる。
「そんな魔術師たちを相手に、商売をしようってのが、俺たちみたいな商人なのさ。あいつらは金払いがいいからな」
なるほど。この街はソノミスという巨大な魔術国家の玄関口であると同時に、その恩恵を受けている都市らしい。
やがて、僕たちはボーダズの街の門をくぐった。
街の中は、冬支度を急ぐ人々の活気で満ち溢れていた。
石畳の道には、雪を溶かすための魔法の跡が、うっすらと残っている。
建物の屋根には、雪下ろしをする人々の姿が見えた。
既に季節は11月を回っていた。
僕たちは、街の中でキャラバンを解散することになった。
「リン、世話になったな。お前さんのおかげで、ずいぶんと楽ができた」
ダリウスが僕の手を固く握りしめた。
その顔には、無事にボーダズへつけた安堵の色がにじみ出ていた。
「約束の報酬だ。少し色をつけといたからな」
彼が手渡してきた革袋は、約束の銀貨三十枚よりも、だいぶ重かった。
「……ありがとう」
「礼を言うのは、こっちの方さ。もし、ソノミスでの用事が済んだら、またどこかで会おう」
ダリウスは、そう言ってにっと笑った。
ゴードンや他の護衛たちも、口々に僕に別れの言葉を告げ、肩を叩いていく。
「達者でな」
「あんたほどの腕があれば、ソノミスでもやっていけるさ」
僕は彼らの温かい言葉に、少しだけ戸惑いながらも静かに頷いた。
そして、彼らの背中が雑踏の中へと消えていくのを、しばらくの間見送っていた。
再び、一人になった。
だが、その孤独は以前感じていたものとは、少しだけ質が違っているように思えた。
それが何なのかは、言葉にすることま難しかったが。
僕はまず、この街の冒険者ギルドへと向かった。
ソノミスへの入国に関する、より正確な情報を手に入れるためだ。
ボーダズの冒険者ギルドはタザニアほどではないが、それでもノーリンのギルドよりはずっと大きく活気があった。
僕は情報提供のカウンターで、入国審査について尋ねる。
対応してくれたのは、人の良さそうな年配の職員だった。
彼は僕がソノミスへの入国を希望していると知ると、少し驚いたような顔をした。
「この時期にソノミスへ? よほど、急ぎの用事か?」
「……ええ、まあ」
「そうか……まあ、事情は聞かんが、覚悟はしておいた方がいい」
彼は深いため息をつくと、入国審査の詳細について、説明を始めた。
「ソノミスへの入国審査は、三段階に分かれている。第一に、身元の確認。第二に、渡航目的の聴取。そして、第三に、魔術の才能を示す必要がある」
やはり、ダリウスたちが言っていた通りだった。
「特に、三つ目が重要だ。そこで審査官に、魔術師としての才能を認められなければ、問答無用で、追い返されることになる。どんなに、身元が確かで、渡航目的が正当なものであっても、な」
「……どんな内容を見られる?」
「それは、審査官次第だ。簡単な魔術の発動を求められることもあれば、魔術に関する、高度な知識を問われることもある。こればかりは、運としか言いようがない。何にせよ、相当な魔術の知識がないと通れないことだけは確かだ」
職員は同情するような目で、僕を見つめる。
「それに……」
彼は、言葉を続けた。
「仮に審査を通過できたとしても、その先へ進めるかどうかは分からないぞ」
「……どういう意味です?」
「ソノミスの街道は、既に深い雪に覆われている。人も馬も進むことはできん。検問所のすぐそばに、補給施設を兼ねた小さな村がある……そこで、春が来るまで、足止めを食らうことになるだろう。雪が溶けるまでな」
春までの、足止め。
その言葉が、重く僕の心にのしかかる。
だが、僕の決意は揺らがなかった。
「……渡航目的は、どうすれば?」
「ふむ……一番、無難なのは、『魔術学院への入学』だろうな。才能ある若者をソノミスは常に求めている。お前さんくらいの年頃なら、不自然ではあるまい」
魔術学院への入学。
なるほど。それなら、僕が魔術を使えることも、自然に説明できる。
「……分かりました。色々と、ありがとうございます」
僕は職員に礼を言うとギルドを後にした。
外はいつの間にか、粉雪が舞い始めていた。
空は重い鉛色に閉ざされ、太陽の光はどこにも見えない。
本格的な冬の到来を告げる空模様だった。
僕はその日の宿を取り、部屋の中で一人、これからのことを考えた。
ソノミス。
そこへ行けば、何か変わるかもしれない。
ロマナちゃんたちを探す手がかりが。
もしくは、真理の安否を確かめるための何かが。
だが、その道は僕が想像していた以上に、険しいものになりそうだ。
厳しい入国審査。
雪による足止め。
それでも、僕は行く必要がある。
それに一人なら、雪で閉ざされた道だろうと進むことはできる。
数カ月も立ち止まっているほど、暇ではない。
僕は窓の外で静かに舞い落ちる雪を、ただぼんやりと眺めていた。
その白い結晶は僕の心を静かに、そして、冷たく支配していくようだった。
翌朝僕は、まだ薄暗い中、宿を出た。
街は深い静寂に包まれている。
夜の間に降り積もった雪が、音という音を、全て吸い込んでしまっているかのようだ。
僕はソノミスへと続く、北門へと向かった。
薄い雪で覆われた道は、ソノミスへ行くにつれて段々と深くなっていく。
国境の検問所は、街からさらに北へ、数キロほど離れた場所にあるという。
僕は雪を踏みしめながら雪が少し積もった道を歩き続けた。
吹き付ける風は、刃物のように冷たく僕の頬を切り裂く。
僕の体は、寒さによって体が動かなくなることはない。。
精霊と化したこの体は、外部の温度変化にほとんど影響されないから。
やがて、前方に巨大な壁と物々しい監視塔が見えてきた。
あれが、ソノミスの国境検問所だろう。
検問所の前には入国審査を待つ人々のための、簡素な待合所が設けられていた。
だが、そこに人影はほとんどなかった。
ダリウスやギルドの職員が言っていた通り、この時期に国境を越えようとする者は、ほとんどいないらしい。
数人の僕と同じような旅人たちが、寒さに身を縮こまらせながら、自分の番が来るのをじっと待っているだけだった。
僕はその短い列の、最後尾に並んだ。
すぐに、僕の番が来た。
「次の方、こちらの建物へ」
紫色のローブを纏った若い兵が、僕を冷たい声で促した。
僕は黙って頷き、彼が示した石造りの窓のない建物へと足を踏み入れた。
内部は薄暗く、ひどく静かだった。
ランプの頼りない光が、壁際に並べられた本棚をぼんやりと照らし出している。
空気は古い紙の匂いと、微かなインクの香りで満たされていた。
部屋の中央に、一つの大きな机が置かれている。
そして、その向こう側に一人の老人が静かに座っていた。
彼が審査官なのだろう。
年の頃は七十代だろうか。長く白い髭を蓄え、その顔には深い皺が年輪のように刻まれている。
彼もまた紫色のローブを身に纏っているが、その生地は、他の人たちのものよりも明らかに上質で、そして、古いもののように見えた。
だが、何よりも僕の目を引いたのは、彼のその瞳だった。
深淵を覗き込むような、どこまでも深い瞳。
まるで、全てを見透かしてしまうかのような、探るような光を宿している。
長年の経験と知識に裏打ちされた、賢者の瞳だ。
僕はその瞳に見つめられた瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この老人はただ者ではない。
これまでに会った魔術師とは、比べ物にならないほどの圧倒的な存在感を放っていた。
「……ふむ」
老人は僕の姿を認めると、その鋭い瞳をわずかに細めた。
「こんな時期にこちらへ来るとは……よほどの事情があるか、ただの愚か者か」
その声は低く重かった。
長い年月を経て、磨き上げられた深みのある声。
「……どちらでしょうね」
僕は静かに、そう答えた。
彼のその圧倒的な存在感に、気圧されてはいけない。
対等に渡り合わなければ、取り込まれるような気がした。
僕の答えに老人は、ふん、と鼻を鳴らした。
「口だけは、達者なようだな」
彼は机の上に置かれた、一枚の羊皮紙を僕の方へと滑らせた。
「そこに、名前と渡航目的を記せ」
僕は差し出された羽ペンを手に取り、そこに、「リン」、そして、「魔術学院への入学」と、書き込んだ。
老人は僕が書き終えるのを待って、その羊皮紙をじっと見つめた。
そして、再び、その鋭い視線を僕へと向ける。
「……まず、初めに言っておくことがある」
彼の声が、静まり返った部屋に響き渡った。
「この審査に落ちた者は、二度と、ソノミスの地へ、足を踏み入れることはできん。それは、絶対の規則だ」
その言葉には、一切の情状酌量の余地も感じられなかった。
「今ならまだ、引き返しても良い。だが一度、審査を始めれば、もう、後戻りはできん……どうする?」
彼は僕の覚悟を、試しているのだ。
「……結構です。審査をお願いします」
僕は迷いなく、そう答えた。
僕の言葉に、老人は満足げに小さく頷いた。
「よろしい。では、始めよう」
彼は机の引き出しから、一つの水晶玉を取り出した。
それは、いつかの詰所で見た『真実の灯火』よりも、さらに大きく、そして、純度の高い水晶のように見えた。
「これに手を置け。そして、魔力を込めろ」
魔力を込める。
その言葉に、僕は内心、戸惑いを覚えた。
タザニアの魔術ギルドで読んだ、初級の魔術書にはその方法が書かれていた。
体内のマナを、意識的に練り上げ、外部へと放出する。
だが、僕はそんなことをしなくても、魔術を使うことができた。
僕の力は、もっと、感覚的で直感的なものだ。
意識して魔力を込める、という行為に、僕は全く心当たりがなかった。
僕が躊躇していると、審査官の老人が再び口を開いた。
その声には、わずかな嘲りの色が混じっている。
「どうした? やはり、やめるか? それとも、初歩の初歩すらできんのか?」
その挑発的な言葉が、逆に僕の心を落ち着かせた。
――やるしかない。
僕は意を決して、その冷たい水晶玉の上に、そっと右手を置いた。
そして、目を閉じ意識を、自分の内側へと集中させる。
魔力とは、何だ?
僕の中に眠る、この、精霊の力。
それを、どうすれば、外部へと、放出できる?
分からない。
だから、僕はただ、念じた。
僕の力が、この水晶に伝わるように。
僕という存在が、この水晶に刻み込まれるように。
すると、どうだろう。
僕が、そう念じた瞬間。
僕の手のひらの下で、水晶玉が静かに光を放ち始めた。
それは淡い光ではなかった。
まるで、夜の闇そのものを凝縮したかのような、深く、そして、どこまでも純粋な黒い光。
その光は静かに、しかし、力強く脈動し部屋全体を不気味な輝きで満たしていく。
「――ほぅ」
僕の目の前で、審査官の老人が息を呑むのが分かった。
彼の顔に、初めて純粋な驚愕の色が浮かんでいる。
彼は椅子から、身を乗り出すようにして、黒く輝く水晶玉を食い入るように見つめている。
その鋭い瞳が、新しいおもちゃを見るように、大きく見開かれていた。
やがて、黒い光はゆっくりとその輝きを収束させていく。
そして、水晶玉は元のただの透明な球体へと、その姿を戻した。
部屋に、再び静寂が訪れる。
だが、その静寂は先ほどまでのものとは、明らかに質が違っていた。
審査官の老人はしばらくの間、言葉を失ったように、僕と水晶玉とを、交互に見比べていた。
その顔には、驚愕と困惑と、そして、わずかな畏怖のような感情が、複雑に入り混じっている。
やがて、彼は深いため息をつくと、ゆっくりと椅子に深くもたれかかった。
「――」
彼の唇から感嘆とも、呆れともつかない声が漏れた。
「……お主は……随分と、特殊な魔力性質を持っているようだな……」
彼の僕を見る目が、数分前までとは変わっていた。
先ほどまでの、値踏みするような視線ではない。
まるで、未知の極めて希少な何かを発見したかのような、熱を帯びた視線。
「……よろしい。入国を許可しよう」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
「……あの」
僕は思わず、聞き返した。
「魔術は、よろしいのですか?」
僕の問いに老人は、ふん、と再び鼻を鳴らした。
「よい。必要ない」
彼はきっぱりと、そう言い切った。
「息をするように、魔力を込められる者が、魔術を使えんはずがなかろう。それも、あれほど、純粋で濃密な闇の魔力をな」
彼はそう言うと、机の上の新しい羊皮紙に、何事かを素早く書きつけ始めた。
そして、それに自らの印章を押すと、僕に手渡した。
「魔術学院へ着いたら、これを受付に見せよ。面倒な手続きを省略してくれるであろう」
それは推薦状のようなものらしかった。
「……ありがとうございます」
僕はその羊皮紙を、静かに受け取った。
「勘違いするな。これは、お主のためではない。お主のような、得体の知れん才能を、野放しにしておくわけにはいかん、という我々の都合だ」
老人はぶっきらぼうに言った。
だがその声には、どこか楽しそうな響きが混じっているように、僕には聞こえた。
「行け。そして、リトスの地で、その力が何をもたらすのか、我々に見せてみよ」
僕は彼に深く一礼した。
そして、部屋を後にする。
建物の外へ出ると、雪はいつの間にか、止んでいた。
鉛色の雲の切れ間から、冬の弱い日差しが、差し込んでいる。
僕は目の前にそびえる、巨大な門を見上げた。
門の向こう側が、魔法国家ソノミス。
僕は、ゆっくりとその門をくぐり抜けた。
ソノミスの冷たい澄み切った空気が、僕の肺を満たしていく。