国境の門をくぐり抜けた先は、白銀の世界だった。
ひやり、と頬を撫でる空気は、これまで僕が吸い込んできたどの土地の空気よりも澄み渡り、冷たかった。
まるで、世界の不純物を全て凍らせてしまったかのような、絶対的な純度。
それが、魔法国家ソノミスの空気だった。
目の前には、どこまでも続く雪原が広がっている。
太陽の光は弱々しく、空は薄い水色に染まっている。
風が吹くたびに雪が舞い、幻想的な光景を作り出していた。
僕はその場に立ち尽くし、しばらくの間、向こう側の景色を眺めていた。
アルシオンを離れてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろう。
川に流され、ノーリンの街で冒険者になり、タザニアでエリアナと出会い、ヤランの音楽に心を癒され、ラモスで大野と再会した。
長い、長い旅だった。
その一つ一つの出来事が、この冷たい空気の中で、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。
僕は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
ソノミスの空気が、僕の肺を満たしていく。
僕はまず、補給用の村へと向かうことにした。というより、そこ以外への道は完全に雪に覆われていて、選択肢などなかった。
しばらく雪を踏みしめて進むと、検問所から数百メートルほど離れた場所に、その村はあった。
雪原の中にぽつんと浮かぶ、小さな集落。
十数軒ほどの質素の建物が、身を寄せ合うようにして建っている。
屋根には分厚い雪が積もり、煙突からは白い煙が細く長く空へと昇っていた。
村の入り口には、古びた木の看板が立っているが、氷と雪で覆われて文字は見えない。
ここが、実質的なソノミスの最前線の村だった。
村の中は、ひっそりと静まり返っていた。
村人たちは、外に出ず、家の中に籠っているのだろうと推測する。
時折出てくる人々も、寒そうに身を縮こませながら、足早に建物の中へと消えていく。
僕はまず、村で唯一の宿屋に部屋を取った。こんな時期に人が来るのが珍しいらしく、なんでボーダズで冬を越さないのかと首を傾げられる。
それから、小さな冒険者ギルドへと足を運んだ。
この村のギルドは、村の規模にしては大きいが、それでも都市国家群のギルドと比べると随分と小さかった。
まるで田舎の集会所みたい。
そんな感想を胸にしまう。
分厚いドアを押しのけて中に入ると、カウンターの内側で、一人の若い女性が手持ち無沙汰に爪を磨いている。
僕の姿を認めると、彼女は驚いて顔を上げた。
「用件は?」
その声には、どこかぶっきらぼうな響きがあった。
「リトスへ行きたいんだけど、道を教えてほしい」
――リトス。それは、僕が目的地としている魔術学院がある都市の名前だ。
本当は、この村へも寄るつもりは無かったのだけど、雪で道が閉ざされており、リトスへの道がよくわからなかったのだ。
僕がそう言うと、彼女は信じられないものを見るかのように、目を丸くした。
「はぁ? リトス? あんた、正気?」
彼女は、呆れたように深いため息をついた。
「こんな時期に、国境を越えてくるだけでも、どうかしてるってのに……見て分からない? もう、道は完全に雪で埋まってるわよ」
彼女は、窓の外を親指で指し示した。
そこには、僕が先ほどまで歩いてきた、白銀の世界が広がっている。
「春が来るまで、リトスへは行けないわ。諦めて、この村で大人しく冬を越すことね。まあ、宿代は高いけど」
「……勝手に行くことも、禁止されてるの?」
僕の問いに、彼女はさらに呆れたような顔をした。
「禁止はされてないわよ。死にに行く自由まで、私たちは止めないわ。時々、あんたみたいな無謀な奴が挑戦するけどね。誰一人としてたどり着いたってやつはいないけど」
彼女は吐き捨てるように言った。
「リトスまでは、ここから普通に歩いても、一か月以上はかかるのよ。それが、この雪の中じゃ、どれだけかかるか、分かったもんじゃない。食料は尽きるし、吹雪にでも巻き込まれたら一巻の終わり。運良く生き延びたとしても、雪山に潜む、飢えた魔物の餌食になるだけよ」
その言葉は、脅しでも何でもなくただの事実なのだろう。
だが、僕の決意は揺らがなかった。
無駄に足を止めるのは、性分じゃないから。
ロマナちゃんたちを探すためにも、大野との約束を果たすためにも、僕は一刻も早く進みたかった。
それに、僕の体は寒さも食料の問題も何も関係が無かった。ただ、歩けばいいだけなのだから。
「……分かった。ありがとう」
僕は彼女に礼を言うと、カウンターを離れようとした。
「……ちょっと、待ちなさいよ」
彼女が僕を呼び止めた。
「まさか、本当に行く気じゃないでしょうね?」
「そのつもりだよ」
「……馬鹿じゃないの」
彼女は心底、信じられないといった表情で、僕の顔をじろじろと見つめた。
「あんた冒険者でしょ? ランクは?」
「……下級」
「下級冒険者が、単独で冬のソノミスを踏破するなんて、自殺行為よ。せめてパーティを組むとか……」
そういう彼女の言葉は、虚空に消えていった。
パーティーを組むほどの人材は、今この村にいない。
「一人で大丈夫だから」
僕のそのきっぱりとした言葉に、彼女は何かを言うのを諦めたようだった。
彼女は深いため息をつくと、カウンターの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。
「……これ、写しなさい」
それは、リトスまでの簡易的な地図だった。
「気休めにしかならないだろうけど、ないよりはマシよ。それと、このソノミスの魔物に関する資料なら、そこの棚にあるから、見ていってもいいわ。どうせ、誰も読まないし」
彼女はぶっきらぼうにそう言うと、再び爪磨きを始めてしまった。
その横顔は、まだ不機嫌そうだったが、その瞳の奥にはわずかな心配の色が浮かんでいるように見えた。
「……ありがとう」
僕は彼女に礼を言うと、地図を受け取り、資料が置かれている棚へと向かった。
資料はひどく古びていた。
羊皮紙には雪国に生息する、特有の魔物たちの生態が詳細に記されている。
僕は魔物に襲われた経験がない。だが、一応は目に通しておくことにした。
雪の中に身を潜め、獲物を待ち伏せる、雹狐。
吹雪を操り、旅人を惑わす、白昼妖精。
巨大な体で、雪崩を引き起こす、雪土偶。
どれも僕がこれまで、出会ったことのない魔物ばかりだった。
僕はその資料を、一枚一枚丁寧に読み込み、頭の中に入れておく。
一時間ほど、そうしていただろうか。
ギルドを出ると、空はいつの間にか、重い鉛色に変わっていた。
資料を片付け、地図を映し終わると、ギルドの外へ出る。
外は、粉雪が静かに舞い始めていた。
僕は外に出て、村で唯一の雑貨屋で、雪山を越えるための最低限の装備を買い揃えた。
丈夫なロープやピッケルなどだ。さすがに、クレパスなどに落ちて春まで待つのは御免だった。
それらを、背負子に括り付ける。
準備は整った。
僕は次の日の朝、誰に告げるでもなく静かに村を後にした。
リトスへと続く雪に覆われた道を、ただ一人歩き始める。
雪中の旅は僕が想像していた以上に、過酷――というより面倒なものだった。
一歩足を踏み出すごとに、膝まで埋まるほどの深い雪。
体力を容赦なく奪っていく。
精霊と化した僕の体は、疲労を感じにくい。だが、それは肉体的に疲れないというだけで、精神的な疲労は溜まっていった。
寒さによる問題は起きていない。
だが、吹き付ける風は一緒に雪を運んできて、僕の体を覆い隠そうとする。放っておくと、雪玉となってしまい、足が埋もれてしまう。
世界は、白と灰色だけで構成されていた。
どこまでも続く雪原。
時折、姿を現す枯れ木のシルエット。
空はほとんどの時間、重い雲に覆われ、太陽の光が地上に届くことは無い。
僕が雪を踏みしめる音だけが、この広大な静寂の中で唯一の音だった。
時折、魔物の声が聞こえることがあった。
彼らが僕に敵対的だとは思っていないが、どういう影響があるかわからなかったから、気配を消してやり過ごす。
無用な事態は体力を消耗させるだけだ。
夜は雪洞を掘り、その中で過ごした。
冷たい雪に囲まれた、狭い空間。
だが、なんとなく安心できる場所。
孤独な旅が続いた。
この絶対的な静寂と孤独の中、僕はいろいろなことを考えた。
魔法のこと、精霊のこと。
魔術のこと、魔術学院のこと。
転移者のこと、ユニークスキルのこと。
そして、この世界で出会った人々のこと。
アルシオンで出会った、クロウ、ゼス、ミラ、そして、王女タリア。
彼らは今どこで、何をしているのだろうか。
僕は彼らの運命に、少しでも影響を与えることはできたのだろうか。
タザニアで出会った、エリアナ。
彼女は今頃、新しい魔術の研究に没頭しているだろうか。
いつか、彼女が完成させた魔術を見る日が来るのだろうか。
ヤランで出会った、シスター・テレジア。
彼女は自分の信じる道を、見つけ出すことができたのだろうか。
あの、音楽の街は今も自由な音色で、満ち溢れているだろうか。
ラモスで再会した、大野。
そして、彼の口から語られた、真理の存在。
僕は、他の転移者にどう関わればいいのか。
出会いと別れの繰り返し。
マリアさんとの、最後の約束。
僕は何かを探している。
この旅の果てに、何か答えが見つかるような、そんな気がしていた。
失われた、僕自身の何かを。
旅を始めてから、二か月が過ぎた頃。
僕は、ついにその光景を目の当たりにした。
吹雪が止んだ朝だった。
視界を遮っていた、雪のカーテンがゆっくりと開けていく。
そして、その向こう側に、それは姿を現した。
雪に覆われた、巨大な盆地のその中央。
天を突くように、そびえ立つ、無数の塔。
それらが、朝の弱い日差しを浴びて、虹色にきらきらと輝いている。
街全体が、まるで巨大な作品のようだった。
「……リトス」
僕の唇から、かすれた声が漏れた。
魔法国家ソノミスの、魔術都市リトス。
アルシオンを離れてから、僕がずっと目指してきた場所。
そのあまりにも、幻想的で美しい光景に僕はただ息を呑んだ。
長い旅だった。
だがそれは、まだ終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだった。
僕は安堵と、これから始まるであろう新たな物語への、確かな予感を胸にその街への一歩を踏み出した。
雪の上には、僕の足跡がまっすぐ続いていた。