あなたの能力は時間停止です   作:ハスキー大根

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雪解け水が小川のせせらぎを流れて黒い湖の水量を増やす。そんな春の息吹がラクサ村を優しく包み込む頃、カルロス家から風に乗って朗報が舞い込んできた。

 

マリーさんが出産し、男の子が生まれたのだ。村全体がその誕生を祝福していた。

 

家の扉を開けると、温かい空気と一緒に僕を迎え入れる。家の中は普段は塀の内側にいる村の人々もたくさんいて、誰もが幸せそうな顔をしていた。

 

その中心で、いつもは厳格な猟師の顔つきのカルロスさんが、見たこともないほど柔らかな表情を浮かべていた。

腕の中には、小さな赤子。

 

「カルロスさん、マリーさん、おめでとうございます」

僕が声をかけると、カルロスさんはゆっくりとこちらを向き、ふっと頬を緩めた。

 

「――リンか。来てくれたんだな。ありがとう」

その声は、いつもの力強いものではなく、囁くように優しかった。奥のベッドでは、マリーさんが少し疲れた様子ながらも、満ち足りた微笑みを浮かべていた。

 

「リン君、ありがとう。この子、カルロスにそっくりでしょう?」

そんな和やかな空気の中、小さな旋風のようにセリエちゃんが僕の足元に駆け寄ってきた。

 

「リンお兄ちゃん!見て!見て!弟だよ!」

その目はキラキラと輝き、頬は興奮で上気している。彼女は僕の手をぐいぐいと引っ張り、赤子のそばへと導く。

 

「すっごく小さいの!私ねお姉さんになるの!」

矢継ぎ早に、そして得意げに話すセリエちゃん。弟ができたことが、彼女にとってどれほど大きな喜びであるかが伝わってくる。

 

「大きくなったらね、一緒に森に行くの。秘密基地にある木苺の摘み方を教えるの。それからね、お魚の捕り方も教えてあげるの!」

 

ふと、彼女は何かを思い出したように僕を見上げ、真剣な表情で言った。

「リンお兄ちゃん、今度、弓を教えて! 私、お姉ちゃんになったから、弟を守れるようにならなきゃ!」

 

その真っ直ぐな瞳には、強い決意が宿っていた。以前、僕がカルロスさんと狩りに出かける準備をしている姿を、羨ましそうに見ていたのを思い出す。

カルロスさんの背中を見て育った彼女の中では、弓を引くことが大人になること、そして大切なものを守る強さの象徴になっているのだろう。

 

「わかった。いいよ。でも、お父さんの許可をもらってからね」

僕がそう言うと、セリエちゃんは「うん!」と力強く頷き、ぶんぶんと首を縦に振った。そして、父親の元へと駆け出していく。

 

「お父さん!リンお兄ちゃんが弓を教えてくれるって!いいでしょ?私、お姉ちゃんだもん!」

 

カルロスさんは、仕方ないなというように肩をすくめてみせた。

その微笑ましい光景を、僕は一枚の絵画のように目に焼き付けた。

 

 

 

カルロス家の祝福に満ちた一日から数日後、ラクサ村での生活は、まるで春の小川のように、驚くほど穏やかに過ぎていった。

 

僕と村の人々との関係も、雪解け水が固い土を潤していくように、少しずつ、しかし確実に変化していた。特に、ロマナちゃんの態度の軟化は、如実に表れた。

 

以前のように、僕を見つけるたびに棘のある言葉を投げてくることはなくなり、すれ違う時には気まずそうに、しかし確かに会釈をしてくれるようになった。そしてある日のこと、彼女は意を決したように僕の元へやってきた。

 

「ねぇ、リン」

夕食の準備を手伝っていると、背後から声をかけられた。振り返ると、ロマナちゃんが少し視線を泳がせながら立っている。

 

「明日の昼過ぎ、森に行くんだけど…その、付き合ってくれない? ちょっと奥の方まで行きたいの。春にしか採れない山菜があって」

 

ぶっきらぼうな口調は相変わらずだ。でも、その声には以前のような拒絶の色はなく、むしろ、少しだけ頼りなげな響きが混じっている。僕が驚いて目を丸くしていると、彼女は慌てたように付け加えた。

 

「べ、別に、あんたじゃなきゃダメってわけじゃないんだけど! ほ、ほら、カルロスさんは赤ちゃんから離れられないし、他の人は忙しそうだし…あんた、暇でしょ?」

 

相変わらずの憎まれ口。でも、その頬がほんのり赤いことに、僕は気づいてしまった。きっと、僕を誘うのに、ずいぶんと勇気が必要だったのだろう。

 

僕が黙って頷くと、彼女は「そ、そう。じゃあ、明日の昼過ぎに広場で」とだけ言って、そそくさと踵を返してしまった。その去っていく背中を見ながら、僕は思わず笑みをこぼした。彼女の心の氷が、少しずつ溶け始めている。その変化は、この村での僕の過ごしやすさと直結していうのだ。

 

翌日、僕たちは約束通り森へと入った。春の森は生命力に満ち溢れている。

最初はぎこちない沈黙が僕たちの間を流れていたが、ロマナちゃんが目的の山菜を見つけたのをきっかけに、ぽつり、ぽつりと会話が始まった。

 

「これ、リンドウの根に似てるけど、もっと苦味が強いの。でも、ゆでるととってもおいしいの」

 

「へぇ、詳しいんだね」

「…別に。そんなことない!」

 

そんな風に、ぶっきらぼうな返事をしながらも、彼女は僕が知らない村の話をたくさんしてくれた。

 

「そういえば、聞いた? 雑貨屋のシーちゃん、最近、字の練習を始めたんだって。自分の名前、書けるようになったって、この前、土の地面に何度も書いて見せてくれたわ。可愛かったなぁ」

 

「セリエなんて、もう大変よ。『お姉ちゃんになったから』って、何でも自分でやりたがるの。この前なんて、私がお皿を洗ってたら、『セリエがやる!』って言って聞かなくて。結局、お皿一枚割っちゃったけどね。でも、その後の泣きそうな顔がまた…」

 

セリエちゃんの自慢話とも言える失敗談を、愛おしそうに語る。

そんな他愛もない会話が、森の静寂の中に溶けていく。

 

僕の毎日は、この小さな村の人々との交流を中心に、ゆっくりと、しかし確かに回り始めていた。それは、僕が昔失ってしまったものとよく似ていた。

 

 

 

 

そんな穏やかな日々が続く、ある日の午後。僕はアンお婆さんの家にいた。薬草の独特な匂いが満ちた部屋で、僕は薬草の調合を手伝いながら、薬師としての知識を教わっていた。

 

「ふむ…」

僕が調合し終えた回復薬の小瓶を、アンお婆さんは光にかざし、その色と透明度を確かめるようにじっと見つめている。そして、一口、指先につけて舐めると、満足そうに深く頷いた。

 

「あんたは、本当に筋がいいねぇ」

 

皺の刻まれた顔に、感心したような笑みが広がる。

 

「この精度、この安定感。まるで機械が作ったみたいだ。この調合の腕前なら、もう都市の中級薬師ギルドの資格試験なんて、目をつぶっていても通るだろうよ。すぐにでも推薦状を書いてやるさ」

 

しかし、アンお婆さんの言葉は、そこで終わらなかった。彼女はふっと笑みを消し、真剣な眼差しで僕を見据えた。

「……でも、それだけじゃあ、上級薬師にはなれない。それに…一生かかっても上級にはなれないだろうねぇ」

 

その言葉は、温かい部屋に冷たい水を浴びせかけるように、僕の心を凍らせた。それは叱責というよりも、冷徹な事実の宣告だった。

 

「……どうして、ですか?」

僕は思わず聞き返した。自分では、かなり上達したと思っていた。教えを忠実に守り、どんな薬でもレシピ通りに完璧に調合できる自信があった。機械的な作業であれば、何度でも同じ品質のものを生み出せる。

 

アンお婆さんは、僕の心境を見透かすように、静かに、しかし力強く言った。

「お前さんは、規定通りに調合することはできる。それは、薬師の誰もが羨む素晴らしい才能さ。失敗がないというのは、それだけで多くの命を救うことに繋がるからね。――でもね、それだけじゃぁ、一流の『薬師』にはなれない」

 

彼女はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる雄大な森を見つめながら、言葉を続けた。

 

「一流の薬師の仕事は、患者を診ることから始まる。同じ風邪という病でも、人によって症状は千差万別さね。高熱にうなされている者、止まらない咳に苦しむ者、全身の痛みに呻く者」

 

アンお婆さんの言葉は、僕が今まで考えてもみなかった領域を示していた。

「特に、上級薬師が扱う薬は、その多くが劇薬だよ。使い方を間違えれば、薬は毒に変わる。効果が強い分、副作用も大きい。ある人には特効薬でも、別の人には取り返しのつかない結果を招くこともある。その繊細な匙加減が、あんたには分からない」

 

その言葉は優しかったが、内容は僕の存在そのものを否定するかのように、鋭く突き刺さった。

 

「お前さんにはそれが絶望的に難しい。何しろ、その特殊な身体がね……」

生理現象の停止。

僕がこの世界に来てから得た、この不可解で異常な体質。

 

「熱に浮かされる苦しみも、咳で眠れない夜も、腹を壊した時の不快感も、あんたには分からないだろう? 疲労も、空腹も、痛みさえも、あんたは感じない。自分の身体で、それをわからないんだから」

 

アンお婆さんは、僕の隣に座り、皺の多い手で僕の手をそっと握った。

 

「自分のこともよくわからないやつが、他人のことを本当にわかるはずがないだろう?」

その言葉は、厳しいながらも、紛れもない真実だった。

 

僕は、自分の体のことすら、何もわかっていない。

食事も、睡眠も、排泄も必要としない、この異常な身体。怪我をしても痛みはなく、ただ淡々と治癒が進むだけ。病気になることもおそらくない。

 

僕は、何も言い返すことができなかった。

それは覆すことのできない、世界の理。僕という存在に刻まれた、残酷な真実。

僕にできるのは、ただ、黙って握られた手の温かさを感じることだけだった。

 

 

 

 

 

アンお婆さんに言われた言葉は、重かったが、特段気にする内容じゃなかった。そもそも僕は薬師になりたいわけではないのだから。

 

 

数日後、カルロスさんと一緒に森の奥深くへと狩りに出かけていた。冬眠から覚めた動物たちが活発に動き回り、それを追うように、魔物の気配もまた濃厚になっていた。

 

獲物の気配を探りながら慎重に進むカルロスさんの背中に、僕は思い切って声をかけた。

 

「……カルロスさん」

僕の声に、カルロスさんはぴたりと足を止め、音もなくこちらを振り返る。その動きには一切の無駄がない。

 

「僕、猟師として、どうですか?」

 

アンお婆さんの言葉は、薬師の欠点を指摘するものだった。なら、猟師としてならどうだろうか。この世界での僕の最初の師匠である彼の評価は、僕の現在地を知るための、何よりの指針となるはずだ。

 

カルロスさんはすぐには答えなかった。彼は僕の目をじっと見つめ、しばらく黙っていた。森の静寂が、やけに耳につく。

 

やがて、彼は重々しく口を開いた。

「……リン。お前は…一人の猟師としては、すでに完成されている」

 

その言葉は、僕の予想とは少し違っていた。もっと、未熟さを指摘されると思っていたからだ。

 

「一人で獲物を狩る分には、何の問題もない。むしろ、お前ほどの腕を持つ者は、この村にはいない。いや、おそらく、俺が知る限り、この国中を探してもそうはいないだろう」

 

それは、最大級の賛辞のはずだった。しかし、カルロスさんの表情は晴れない。

「だがな……」

 

彼はそこで言葉を区切り、周囲の木々に視線を走らせた。

「集団での狩りとなると、お前のその才能は、あまりにも欠点が目立ちすぎる」

 

「欠点、ですか?」

「そうだ。お前のその、あまりに自然すぎる気配の消し方。それは、獲物を狩る上では最高の武器だ。だが、味方にとっては脅威にすらなり得る。俺でさえ、ほんの一瞬目を離した隙に、お前がどこにいるのか分からなくなることがあるんだ。それでは連携が取れない」

 

カルロスさんの言葉に、僕は息を呑んだ。確かに。カルロスさん以外の猟師と連携したことはなかったから、そんなこと考えもしなかった。

 

「いつの間にか姿を消し、そして、いつの間にか獲物を仕留めて戻ってくる。それでは、背中を預け合うような集団での狩りはできない。大物の魔物を相手にする時、それは致命的な欠点になりえる」

 

彼の指摘は、僕の核心を正確に突いていた。僕は、他者と協力して何かを成し遂げるという経験が、この世界に来てからほとんどない。常に一人で考え、一人で行動してきた。僕のスキルや能力は、すべて単独での生存に特化している。誰かと連携して獲物を追い詰めるというイメージが、全くと言っていいほど湧いてこなかった。

 

「だが、悲観することはない。それもお前の個性だ。俺から教えることは、もう何もない」

カルロスさんはそう言って、僕の肩を力強く、しかし優しく叩いた。ゴツゴツとした大きな猟師の手。その温かさが、僕の迷いを少しだけ和らげてくれる。

 

「戦争が終わったら、一度、都市へ行ってみるといい。この村は、お前にとっては少し狭すぎるのかもしれん」

 

彼は遠い目をして、森の向こうを見つめた。

「都市には、様々な技術を持つ猟師や冒険者が集まる。中には、お前のように特殊な戦い方をする奴もいるだろう。そこには、お前が知らない世界が広がっているはずだ。そこで、お前だけの狩りの仕方、仲間との連携の仕方を見つければいい」

 

カルロスさんの言葉は、僕の心に、新たな道を指し示してくれた。薬師としても、猟師としても、この村で学び得ることには限界がある。

 

「この村で一生を費やすのは、今のお前にとっていいことか?よく考えてみると言い」

 

その言葉は、僕の心の奥深くに、静かに、そして深く響き渡った。

 

 

 

 

ラクサ村での生活は、僕に多くのものを与えてくれた。

マリア家のような温かい家族の温もり。アンお婆さんやカルロスさんのような、厳しくも優しい師。そして、この過酷な世界で生きていくための術。

 

ここは、僕にとって第二の故郷と呼べる場所になっていた。

しかし、僕は、このままこの穏やかな陽だまりの中にいてはいけないのだと、はっきりと悟った。

 

アンお婆さんの言葉。「自分のこともよくわからないやつが、他人のことをわかるはずがない」。

カルロスさんの言葉。「この村で一生を費やすのは、今のお前にとっていいことか」。

 

それらの言葉は、僕がこの村に安住し、自分の特異性から目を背け続けることへの、愛ある警鐘だったのかもしれない。

 

僕は、もっと強くならなければならない。

それは、単に戦闘能力を高めるという意味だけではない。

自分のこの異常な身体のことを、もっと知らなければならない。そして、他人の痛みや苦しみを、喜びや幸せを、本当に理解できる人間にならなければならない。

 

そのためには、この居心地の良い村を出て、荒波の待つ広い世界へと漕ぎ出さなければならないのだ。

 

ふと、最近一生懸命に文字の練習をしているミトラちゃんの姿が目に浮かんだ。彼女も、いつかはこの村を出て、都市へ行くのだろう。誰もが、自分の世界を広げるために、いつかは故郷を旅立つ。

 

僕も、同じなのかもしれない。

 

このラクサ村が、僕の帰る場所として、いつでも温かく迎えてくれるのであれば。

そう思えた時、僕の心にあった旅立ちへの不安は、未来への期待へと変わっていくのを感じた。

 

春の柔らかな日差しの中で、僕は静かに、しかし強く、新たな決意を固めるのだった。

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