あたしの日常に、異物が混入したのは、秋の匂いが深まり始めた頃だった。
その日、あたしが家に帰ると、そこに見知らぬ男がいた。
「…誰?」
自分の家の窓越しから男を観察して、突如現れた不審者をどうするか考えていた。
そうしたら、いつの間にか隣にいたはずのミトラがいなくなっていて、気が付いたら男によじ登って遊んでいた。
とっさに、家に入り、ミトラと男を引き離すと、母さんが帰ってきて、一晩泊まることになったとか言い出した。
母さんは「あらあら」と困ったように笑うだけで、あまり深く事情を話そうとはしない。ただ、「困っているようだったから」とだけ。
その男、リンと名乗ったその人は、結局その晩、あたしたちの家に泊まることになった。
母さんは少し変わっているところがあったけれど、見ず知らずの、それも素性の知れない男を、簡単に家に上げるなんて!
その夜、あたしは自分の部屋のベッドで、なかなか寝付けずにいた。
家の中にあの男がいる。それだけで、家の空気がいつもと違うものに感じられた。まるで、静かな水面に、一滴のインクが落とされたような、不穏なざわめき。
しかも、その日から、リンと名乗る男はあたしたちの家に住み着いた。
不快。
感情を一言で表すとすれば、それだけだった。
彼は、何をするでもなく、一日中、父さんが使っていた(らしい)部屋に籠もっているか、ぼんやりと過ごしているだけ。それなのに、夕食の時間になると、当たり前のように食卓についている。
「毎日暇そうで、いい御身分ね」
ある日、あたしは嫌味を抑えきれずにそう言った。
リンは、あたしの言葉に少しだけ驚いたように目を丸くしたけれど、何も言い返えさず、さっとその場から退いた。
「ロマナ。そんな言い方をするんじゃありません」
リンがいなくなると、母さんに静かに、でも有無を言わせない口調で窘められる。
「だって、お母さん! あの人、何もしないじゃない! ただ飯食らいよ!」
「リン君は、御使い様なの。私たちが、敬意を払うべきお方なのよ」
御使い様。
母さんの口から出たその言葉に、あたしは耳を疑った。
「……御使い様って、湖の精霊様の?」
「湖の精霊様ではないけれども、何処かの精霊様だと思うわ」
馬鹿げてる。あたしは心の中で吐き捨てた。
あたしが幼い頃、一度だけ、湖の精霊様の姿を見たことがある。それは、月が湖面を銀色に染める夜だった。水面から現れたその姿は、神々しくて、清らかで、触れることすら許されないような、絶対的な存在。
それに比べて、あの男はなんだろう。
人間離れしていると言われれば、そうかもしれない。あの雪のような髪も、感情の機微を感じさせない静かな佇まいも、普通の人間とはどこか違う。
でも、精霊様のような神聖さなんて、微塵も感じられない。
むしろ、あまりに静かすぎて、まるで空っぽの器みたいだ。
「あんなのが、御使い様なわけないじゃない!」
あたしは、思わず叫んでいた。
母さんは、悲しそうな顔であたしを見つめるだけだった。その視線が、あたしには自分を責めているように感じられて、たまらなく苦しかった。
その日を境に、あたしは母さんとも、どこかギクシャクするようになってしまった。
あたしの心に燻る不満とは裏腹に、リンは少しずつ村に溶け込んでいった。
最初は、カルロスさんの狩りの手伝い。あたしは、どうせすぐに音を上げるだろうと高を括っていた。あのカルロスさんの訓練は、村の男たちでさえ根を上げるほど厳しいのだから。
それに、私も弓を習ったことがあるからわかるけど、すぐに狙った所に当たるようなものではない。ましてや、動いてる獲物なんて、無理に決まってる。
でも、リンは違った。
数日後には、カルロスさんと並んで森を歩き、一ヶ月も経つ頃には、一人で森の奥深くまで入って、誰も見たことのないような獲物を仕留めてくるようになった。
彼の狩りの腕前は、もはや人間業ではないらしい。カルロスさんが奥さんのマリーさんに言っているのを聞いてしまった。
カルロスさんでさえ気配を辿れないという。森に溶け込み、風のように獲物に近づき、音もなく仕留める。
「さすがはマリアさんが拾ってきた男なだけはある」とか言っていたけど、私は認めてないからね!
次に、アンお婆さんの薬作りを手伝えば、複雑な調合も、一度で完璧にこなしてしまう。その手際は、まるで都市の薬師ギルドに設置された機械のようだと、アンお婆ちゃんは舌を巻いていた。
なんと、私が前に教えてもらってもできなかった薬の調合にも成功したらしい。そんなことってある?
そして、何よりあたしを苛立たせたのは、妹のミトラが、すっかり彼に懐いてしまったことだった。
「リン、見て」
ミトラは、リンの前で、覚えたての水の魔法を嬉しそうに披露する。リンは、そんなミトラを、本当に優しい顔で見守っていた。その眼差しは、まるで兄のような温かさに満ちていた。
わたしの妹なのに!
村のみんながリンを認めていく中一方で、私だけは彼を認められないでいた。
そして、形容しがたい感情は、あたしの心をじわじわと蝕んでいった。
決定的な出来事が起きたのは、冬の寒い夜だった。
その日、あたしはミトラが、あたしよりもずっと巧みに水の魔法を操るのを見てしまった。水が鳥の形になり、部屋の中を自由に飛び回る。それは、あたしには到底できない、美しい光景だった。
いつもなら素直に褒められた。でも、その日はなんだか素直に褒められなかった。
溜まっていたヘドロのような感情が噴出しそうで、胸が張り裂けそうだった。
あたしは、ずっと巫女になるために頑張ってきた。母さんの跡を継いで、この湖の精霊様にお仕えするために。
でも、精霊様は、最も清らかで誠実な人を巫女に選ぶという。
妹に嫉妬してしまうような、こんな汚れた心のあたしが、巫女になれるはずがない。
そんな思いがぐるぐると渦巻いて、頭を支配していく。
ろくに食事もとれずに部屋に戻るけど、ぜんぜん寝付けない。
だから、あたしは夜に家をでた。
向かったのは、黒い湖。母さんが、精霊様と話せるという場所。
「精霊様…わたしは、巫女にはなれないのでしょうか…」
凍てつくような空気の中、私は湖に向かって問いかけた。でも、返ってくるのは、冷たい風の音だけ。
母さんにも酷いことを言ってしまった。ミトラにも、優しくしてあげられない。私は、なんてダメな姉なんだろう。
涙が、次から次へと溢れてきて、止まらなかった。
「ロマナちゃん。どうしたのこんな夜に」
その声に、あたしは心臓が凍りつくかと思った。
よりにもよって、今一番会いたくない人。
最悪だ。こんな惨めな姿、絶対に見られたくなかったのに。
でも、彼は何も言わずに、あたしの隣に座ると、持っていた毛布をそっとあたしの肩にかけてくれた。そして、近くの小屋に誘って、温かい薬草茶を淹れてくれた。
彼の前で、あたしは堰を切ったように、自分の気持ちを吐き出していた。
ミトラへの嫉妬。巫女になれないかもしれないという不安。母さんへの罪悪感。リンへの不満。
彼は、ただ黙って、あたしの話を聞いてくれた。
何かを諭すでもなく、慰めるでもなく。ただ、静かに、そこにいてくれた。
その沈黙が、どんな言葉よりも、あたしの心を温めてくれた。
その夜、あたしは彼の隣で、久しぶりに深く眠った。
彼が、ただの「得体のしれない男」ではないのかもしれないと、初めて思った。
あの日を境に、あたしはリンのことを、ちゃんと見るようになった。
それまでは、彼の存在を認めたくなくて、意識的に視界から外していたのかもしれない。
ちゃんと見てみると、彼は母さんの言う通り、人間離れした所業をいくつも当たり前のようにこなしていた。
カルロスさんも敵わないという狩りの腕前。
アンお婆さんも驚く薬師の才能。
そして、森の動物たちが、彼を恐れることなく、まるで仲間のようにそばに寄ってくる不思議な光景。
ほとんど寝ていないようだし、食事も一食しか食べていない!
あたしが、春の山菜を採りに行きたいと、勇気を出して誘った時も、彼は黙って頷いて、森の奥深くまで付き合ってくれた。道中、あたしが知らない村の話をすると、彼は静かに、でも楽しそうに相槌を打ってくれた。
彼は、いつだって静かで、穏やかで、まるで凪いだ湖面のようだった。
でも、その奥には、あたしたちには計り知れない、深い何かを湛えているような気がした。
もしかして、本当に。
母さんの言う通り、彼は、御使い様なんじゃないだろうか。
まだ、半信半疑だけど、すこしだけ信じてもいいかもしれない。
そう思うと、彼のあの雪のような髪も、感情を映さない瞳も、すべてが神聖なもののように思えてくるから不思議だ。
あたしの考えすぎだろうか。
でも、もしそうだとしたら。
あたしは、御使い様に対して、なんて失礼な態度をとってきたんだろう。
不快感は無くなり、悩み事が消えたけど、新しい悩み事が一つ増えてしまった。
でも、彼の隣で無邪気に笑うミトラは、もしかしたら、あたしには見えない何かを、とっくに見抜いているのかもしれない。
あたしは、まだ、彼のことを何も知らない。
もっと、知りたい。
春の柔らかな日差しが、湖畔の小屋を照らす。
あたしは、窓の外でミトラと魔法の練習をする彼の姿を、静かに見つめていた。
その横顔は、やっぱりどこか寂しそうで、なぜか胸が締め付けられるのを感じた。