ラクサ村に、本格的な春が訪れた。
雪解け水が大地を潤し、木々は芽吹き、生命の息吹が村の隅々まで満ち溢れていた。カルロスさんの家に生まれた新しい命も、村の子供たちの元気な声も、すべてが春の訪れを祝福しているかのようだった。
僕の心にもまた、小さな変化の芽が生まれていた。
アンお婆さんとカルロスさんから受けた言葉は、僕がこの村に安住し、自分の特異性から目を背け続けることへの警鐘だった。僕は、もっと広く、深く、世界に身を投じ、どう生きていきたいかを考える必要がある。
そして、まだ、いつこの村を出るかは決めていないけど、そう遠くないうちに一度、都市にはいってみようと思っていた。
そんな漠然とした未来図を描き始めた矢先のことだった。村長から、思いがけない呼び出しを受けたのは。
村長の家は、村の中央広場に面した、一際大きな建物だった。最初にこの村に来た時に一度だけ入ったことがあるが、それ以外で用事がなかったので入るのは二度目である。
中に入ると、村長だけでなく、カルロスさんやアンお婆さん、そしてマリアさんの姿もあった。いつもは穏やかな彼らの顔には、一様に険しい表情が浮かんでいる。ただ事ではない雰囲気に、僕は少しだけ身構えた。
「来たな」
村長が、重々しく口を開いた。皺の刻まれたその顔は、いつになく厳しい。
「実は、お主に頼みたいことがある」
村長の話は、衝撃的な内容だった。
この国の宗主国アルシオン王国と、隣国のガリア帝国との間の戦争で、大きくアルシオン王国が負けたらしい。まだ、決着がつくほどの結果ではないが、戦況は不利状況に立たされているらしい。
「その影響で、この村にも、じわじわと影が差し始めておる。一番大きいのは、行商人がぱったりと来なくなったことだ」
行商人が来ない。それは、この辺境で自給自足に近い生活を送るラクサ村にとっても、死活問題だった。特に、生活必需品である塩や、衣服を繕うための糸、そして薬の材料となる特定の鉱物などが、このままだと無くなってしまうらしい。
「そこで、お主に、森の奥まで物資の調達に行ってほしい」
カルロスさんとアンお婆さんが、広げられた古い地図を指し示しながら説明する。その指が示したのは、村からかなり離れた森の奥に位置する岩塩の洞窟と、南に広がる湿地帯だった。
「岩塩は、この洞窟で採れる。そして糸は、この湿地帯に生息する黒星蜘蛛の巣から採取できる。どちらも危険な場所だが、お前の腕があれば、問題なく行ってこれるだろう」
そうカルロスさんが言いながら、ルートを教えてくれる。
「なぜ、僕が?」
僕の問いに、アンお婆さんが溜息混じりに答えた。
「王国の方でも、いつ徴兵が始まってもおかしくない状況さね。村の若い男たちは、いざという時のために、一人でも多く残しておきたいのさ。森を安全に抜けられる人間を、みすみす村の外に出すわけにはいかんのさ」
つまり、村の猟師たちは、有事の際に村人を連れて森を抜け、安全な場所へ避難させるための案内役として、温存しておく必要があるということらしい。それに、徴兵時に村人として記録されていない僕だけが、自由に動けるらしい。他の村人が徴兵時に不在だと罰則があるらしい。その説明に僕としても異論はなかった。
「それともう一つ。森の各地に点在する、狩猟小屋の様子も見てきてほしい」
村長が、地図上のいくつかの点を指でなぞる。
「それらの小屋は、もともとこの地域の村の猟師たちが長期の狩りに出る際に使うものだが、避難経路上の重要な拠点ともなる。各小屋の状態を確認し、できれば、保存食や道具、薬草などを配備してきてほしいのだ」
そして、追加の依頼は、単なる物資調達の域を超えたものだった。依頼自体に危険度はないが、重要さがうかがえる。
「わかりました。引き受けます」
僕がそう答えると、部屋に満ちていた緊張の空気が、わずかに和らいだ。
調達依頼の準備には、数日を要した。
一ヶ月にも及ぶ長期の森での生活。必要な準備は多岐にわたる。カルロスさんから即席で道具や武器を作る方法を、アンお婆さんからは、即席で調合できる薬の作成方法を教わった。マリアさんはただ微笑んでた。
そして、出発の日の朝。
準備を終えた僕がマリア家の扉を開けると、そこには、頬をぷっくりと膨らませたミトラちゃんが立っていた。
「……ミトラも、行く」
その小さな唇から紡がれたのは、予想外の言葉だった。普段の狩りには決してついて来ようとする素振りなんて見せなかった。幼子特有の異変を感じたのだろうか。
彼女は僕の上着の裾をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で僕を見上げてくる。
「ダメだよ、今回は、ただの狩りじゃないんだ」
「やだ! ミトラも行くの! 」
駄々をこねるミトラちゃんを、マリアさんが優しく、しかし有無を言わせぬ力で引き離す。
「ミトラ。リン君は大切なお仕事をしに行くのですよ。我儘を言って、困らせてはいけません」
「リン、行っちゃやー!」
泣きじゃくるミトラちゃんの声が、僕の背中に突き刺さる。後ろ髪を引かれる思いとは、まさにこのことだろう。ロマナちゃんは、そんな僕たちの様子を、少し離れた場所から、複雑な表情で見つめていた。
「……リン」
僕が村の入り口まで来た時、不意に彼女が声をかけてきた。
「これ、持ってって」
彼女が差し出したのは、手作りの小さな革袋だった。中には、彼女が森で摘んできたという、眠りを誘う効果のあるカモミールの花が詰められている。
「別に… 森で眠れないと、困るでしょ!任務に失敗されたら、迷惑するのはこっちなんだから!」
相変わらずの、素直じゃない物言い。でも、その頬がほんのり赤いことにも、僕はもう気づいている。
「ありがとう、助かるよ」
僕が微笑んで礼を言うと、彼女は「ふん!」とそっぽを向いてしまった。でも、その耳が真っ赤に染まっているのを、僕は見逃さなかった。
温かいものと、少しだけ切ないものを胸に、僕はラクサ村を後にした。
背後で、ミトラちゃんの泣き声が、まだ微かに聞こえていた。
森での生活は、孤独ではあったが、不思議と満ち足りていた。
春の森は、生命の賛歌に満ちている。鳥のさえずりが目覚ましとなり、木々の葉擦れの音が子守唄となった。
僕はまず、地図に示された狩猟小屋を一つずつ巡ることから始めた。小屋の多くは、長年使われていなかったためか、壁が傷み、屋根には穴が空いていた。僕は、持ってきた道具でそれらを丁寧に修繕し、薬草を棚に並べ、周辺で狩った獲物で干し肉を作って吊るした。
それは、まるで自分の秘密基地を作っているような、不思議な高揚感を伴う作業で、少し楽しかった。
小屋の修繕と備蓄を終えると、僕は本来の目的である物資の調達へと向かった。
まずは、黒星蜘蛛の糸が採れるという南の湿地帯。そこは、気味の悪い瘴気が立ち込める、薄暗い場所だった。巨大な蜘蛛の巣が、木々の間に幾重にも張り巡らされている。
黒星蜘蛛は、成人の頭ほどの大きさを持つ、毒々しい斑点模様の魔物だ。その糸は、鋼のように強靭でありながら、絹のようにしなやかで、武具や衣服の素材として、高値で取引されるという。
僕は気配を完全に消し、蜘蛛たちの警戒網をすり抜けて、巣の中心部へと侵入する。目的は、戦闘ではない。あくまで、巣の素材を採取することだ。幸い、僕の謎能力は、魔物に対しても有効だった。蜘蛛たちは、僕の存在に全く気づくことなく、悠々と巣の上を徘徊している。
僕は、巣の一部を慎重に切り取り事前に調合した薬品を振りかけて、革袋に詰めていった。通常の冒険者にとっては、危険度が高い作業も、僕にとっては単純な肉体労働だった。
次に目指したのは、岩塩洞窟。
そこは、森の中の切り立った崖の中腹に、ぽっかりと口を開けていた。洞窟の中は、壁一面が淡い桃色の岩塩で覆われており、差し込む光を乱反射させて、幻想的な輝きを放っていた。
ここでの作業は、比較的単純だった。つるはしで岩塩を砕き、背負ってきた袋に詰めていくくだけだ。しかし、量が量だ。村の皆へいきわたる塩を確保するには、何度も洞窟と狩猟小屋を往復する必要があった。
黙々とつるはしを振る。
もしかしたら、この世界に来てから一番の重労働かもしれない。
森に入ってから、二週間が経った頃だった。
必要な物資は、おおよそ確保できた。あとは帰りながら、各狩猟小屋の点検を終えれば終わりだ。
その日、僕は森の奥深く、これまで足を踏み入れたことのない領域にいた。最後の小屋は、そのさらに奥にある。鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、昼間だというのに、あたりは薄暗い。
ふと、胸騒ぎがした。
それは、明確な危険の予兆というよりも、もっと漠然とした、胸の奥がざわつくような、嫌な感覚だった。
喉が、乾いていた。
僕は、近くを流れる小川で喉を潤そうと、水辺へと向かった。
その時だった。
川面に、黒い靄が立ち上るのが見えた。
それは、ラクサ村のあの黒い湖を覆っていたものと、よく似ている。
靄は、ゆっくりと形を変え、やがて、人影のようなものを成した。
それは、特定の誰かというわけではない。ただ、黒い靄が、僕に向かって、手招きをしていた。
『戻れ』
声が聞こえたわけではない。
だが、その靄が何を伝えたいのか、なんとなくわかった。
『村へ』
靄は、そう訴えかけていた。
手のような形をした靄は、僕が来た道を、ラクサ村のある方向を、繰り返し指し示している。
何か良くないことが起きている。胸騒ぎがする。
僕は、急いで荷物をまとめて、走り出した。
ただひたすらに、村へと向かって。
僕はこのときスキルを使わなかったことを後悔している。
言い訳をすると、ラクサ村の日々は実に平和で、スキルを使う機会なんて無かった。
だから、馴染みがないスキルなんてものをとっさに発動することすらことはできなかった。
それに、このチートスキルのデメリットを僕はいくつか思いついていた。だから、『よくない出来事』の程度がわからないから、使うのを躊躇ってしまった。