森を抜けた先に広がっていたのは、いつもの村の風景ではなかった。
辺りを支配する夜の暗闇の中で、天へと延びる黒煙が目立つ。そして、空気を震わせる怒号。
あの穏やかだったラクサ村は、業火に焼かれていた。
思考が停止する。足が、縫い付けられたように動かない。
胸騒ぎの正体は、これだったのか。あの黒い靄は、この惨状を僕に伝えようとしていたのか。
「……っ!」
我に返った僕は、走り出していた。目的地は、一番森に近いカルロス家だ。
何かあった時は、カルロス家の地下へ避難することになっていると、セリエちゃんが得意げに話していたのを思い出したから。
焦る心臓の鼓動は、これまで走ってきたからなのかわからない。
祈るような気持ちで、湖の畔を走る。
村に近づくと薄い膜のようなものが村全体を囲っていることに気が付いたが、僕に影響を及ぼさないようで、村の中に入ることはできた。
カルロス家の扉を開けると、武装して殺気立った村人たちが僕を見つめる。
「リン!間に合ったか」
僕の姿を認め、最初に声を上げたのはカルロスさんだった。
「カルロスさん……みんなは!?」
「あぁ。地下の避難所に皆いる」
その一言で、やっと一息がつけたことに気が付く。近くのテーブルに背負っていた荷物をほどいて置きながら、カルロスさんの話を聞く。
「ガリアの連中だ。2日前、侵攻が始まった」
カルロスさんの声は、怒りで震えていた。
「マリア様の張ってくださった結界のおかげで、敵はまだ村の中心部には入れていない。だが、それも時間の問題だ。結界は、もう長くはもたない」
彼の視線が、地下へと続く階段へと向けられる。
「これから、俺たちは森を抜けて隣国へ逃げる。リン、お前も一緒に行くぞ」
僕はその言葉にうなずいて、地下の避難所へ進む。
今の時間は夜なので、避難所にいるほとんどの人は眠っているようだった。
部屋の中を見渡すと、ここにいるのは、ほとんどが女子供と若い男性だけで、マリアさんやアンお婆さん、村長の姿が見えない。
「マリアさんたちは……?」
僕の問いに、カルロスさんは苦渋の表情で唇を噛み、僕を肩を叩き外へ連れ出す。家の裏手、森の入り口へと続く薄暗い通路。そこで彼は、声を潜めて語り始めた。
「……ここから先は、過酷な道のりになる。この子たちを連れての避難は、ただでさえ困難だ。ついていけない者、最後まで抵抗する者たちは…村に残る」
その言葉が何を意味するのか、僕は悟ってしまった。
あぁ。全員を助けられるわけではないのだ。
でも、マリアさんは?
「マリア様は……湖の精霊との契約で、この土地から離れられない。アン婆さんや村長も、最後まで村に残ると言っている」
心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃。マリアさんが、残る? あの穏やかで、優しい人が?
ナンデ。ソンナ。
「ロマナとミトラには、このことを知らせないでくれ。『後から来る』と、そう伝えてある」
カルロスさんの声が、やけに遠くに聞こえる。どうして――。
その時だった。
ガラスに罅が入るような甲高い音が、村全体に響き渡った。
結界が、壊れる。そう直感的に分かった。
「行くぞ!」
カルロスさんの声と共に家の中に戻り、地下にいる人たちを起こす。
呆然と立ち尽くすロマナの手を引き、まだ寝ているミトラを背中に担ぎ上げた。
「お母さんは!? お母さんがまだ来てないの!」
ロマナちゃんの声が、僕の心を抉る。僕は、何も答えられなかった。ただ、彼女の手を強く握りしめ、森の中へと駆け込むことしかできなかった。
森の中を、僕たちは無我夢中で走り続けた。
背後からの追手の気配はまだない。
一時間ほど進んだだろうか。カルロスさんが、ようやく休息の合図を出した。村人たちは、皆、疲労困憊で、その場に崩れるように座り込む。
「この先の川は湖の精霊様の力が及ぶ範囲だ。ここを越えれば、追跡はされないだろう」
カルロスさんの言葉に、人々は僅かな希望を見出す。しかし、ロマナの心は、絶望の闇に閉ざされたままだった。
「お母さんが、来ない……」
彼女の瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。その涙は不安からくるものか――
いや、彼女も直感的にわかっているのだろう。マリアさんが後から来ないことを。
でも、その姿はあまりにも痛々しくて、見ていられなかった。
湖に縛られているのであれば、できることなどないのだから。
「……僕が、連れてくる」
でも僕なら、僕ならどうだろうか。
チートスキルがあるんだ。なにかしらの方法で連れて来れるかもしれない。
「え……?」
「先に行ってて」
僕は、背負っていたミトラをそっと地面に下ろし、ロマナちゃんに手を握らせる。そして、ずっと僕の影に潜んでいた臆病な相棒を呼び出す。
「この子を、預けるよ」
僕の影から、ぬるりと姿を現した影蜥蜴。こいつが何なのかいまだに良くわかっていないが、ペットのような立ち位置であることは間違いない。
「それに、僕…体が丈夫だから、簡単には死んだりしないよ。そうでしょ?こいつは臆病だから、追いつくまで預かっておいてくれる?」
ロマナちゃんは、戸惑いながらも、僕の言葉に、そして影蜥蜴の不思議な存在感に、何かを感じ取ったようだった。彼女は、小さく頷くと、彼女の影に影蜥蜴がするすると潜り込んでいく。
僕は、カルロスさんに避難民たちのことを託すと、一人、来た道を引き返し始めた。
森の木々が、僕の視界から急速に遠ざかっていく。
久しぶりに、僕は時間を止めた。
世界から、音が消える。風が止まり、木々の葉も、舞い散る埃さえも、空中に静止する。
僕だけが、この静寂の世界で、自由に動くことができる。
急ごう。
マリアさんの元へ。
もう一度森を抜ける。村を囲んだ結界は完全になくなっており、村の中心部から火が立ち上っている。
湖の淵、かつてマリアさんがよく祈りに使っていた場所。僕が最初にマリアさんと出会った場所でもある。
そこに、マリアさんは倒れていた。
白い巫女服は土と血で汚れ、その顔は、蝋のように白い。
「……マリア、さん……?」
僕は、停止した時間の中で、彼女のそばに膝をついて、時間停止を解除する。
息は――まだ、ある。しかし、その命の灯火は、今にも消え入りそうだった。
「……リン、君……」
マリアさんは、か細い声で僕を呼んだ。
「力…使いすぎちゃ…た……は……」
「喋らないでください! すぐに、逃げましょう……」
「いいの……これが…私…役目だから……」
マリアさんは、穏やかに微笑んだ。その目は、運命を受け入れていた。
「気に…ないで……ミトラと……ロマナを……よ…しく、お…ね……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
僕の手の中で、マリアさんの体から、ゆっくりと力が抜けていく。その瞳から、光が永遠に失われた。
燃え盛る村。腕の中で冷たくなっていく温もり。
僕の中で、何かが、変わった。
時間をもう一度止めて、僕は立ち上がった。
森へ向かおうとしていた兵士たち。村の中で略奪の限りを尽くす兵士たち。
彼らの顔なんて、だれ一人覚えていない。ただ、無防備に存在しているだけのマネキンと同じだ。
僕の影から黒い刃が出て、兵士たちを一突きする。
一人、また一人。
命が刈り取られていく。悲鳴も、抵抗も、何もない。ただ、静かに、無慈悲に、死だけが積み重なっていく。
司令官っぽい人は殺さず、納屋に縛り付けて転がす。それ以外の兵士は等しく心臓を貫く。
そして、僕は村から侵入者を一人残らず消し去った。
生き残っている村人は誰一人いなかった。魔法を使いすぎた疲労からか、ひどく頭痛がする。
夜が明ける頃、僕は村の中を歩いていた。
アンお婆さん、村長、そして、僕が名前を知らない多くの村人たち。彼らは皆、村の中に倒れていた。
僕は、一人一人の亡骸を、湖の畔へと運んだ。
そして、シャベルで穴を掘り、彼らを丁寧に埋葬していく。
誰にも――世界にすら、邪魔されたくなかったので停止した空間の中でひたすら穴を掘る。
マリアさんの亡骸を土に還す時、僕の心は、完全に無になっていた。涙は、一滴も出なかった。
すべての作業が終わって、時間を再開させると、僕は湖の前に呆然と立ち尽くす。
マリアさんが祈りを捧げていた場所だ。どれぐらいの時間、そこにいたのかはわからない。
いつの間にか、あたりにあの黒い靄が立ち込め始めた。
川で見たものよりも、ずっと濃く、深い闇。湖の奥底から這い出てきた暗闇だった。
闇は、やがて湖の中心に集まり、一人の女性の姿を形作った。
黒曜石のような長い髪、夜の闇を溶かし込んだような瞳。その肌は、月光を浴びて青白く輝いている。息を呑むほどに美しく、人間離れした存在。
彼女が、彼女こそがこの湖の精霊。
『この湖も…もう終わり』
その声は、僕の頭の中に直接響いてきた。それは、冬の夜風のように冷たい声だった。
『人の血と憎しみで汚された。――我は古い盟約によって、この湖に縛られている』
精霊は、その黒い瞳で、僕を射抜くように見つめた。
「…そう」
僕は少しだけ苛立っていた。超常の存在であるのは承知しているが、村人が全員いなくなった今の今まで、何をしていたんだと。
『ふむ…
お前が我を憎む気持ちも、長きにわたって人と共にあった我は理解できる。
しかし、この小さな水に縛られていても、神の身を分けた我らは人の営みに干渉できぬ。それが古き神々との誓いでもある。』
「それで?今更出てきて僕に何を望む」
世の中には覆しがたい理がある。それは運命とか理不尽と呼ばれるもので、僕はずっと前から知ってる。だから、こいつがラクサ村の人々を救わないのも、納得はできないがわかる。
「――我と契約をせよ」
「……断る。お前と契約して、僕に何の得がある。この湖と彼らと共に永遠に眠ってしまえばいい」
僕は、即座に答えた。そんな気持ちにはなれなかった。それに、ロマナちゃんは、清らかな心の持ち主が巫女となると言っていた。僕の心はそれほど落ち着いてはいなかった。
だけど、その続きの言葉は僕をその気にさせるには十分だった。
『……そうか。だが、あの娘を巫女にできるのであれば、話は別ではないか?』
精霊の言葉に僕は顔を上げた。ロマナちゃんを、巫女に?
『お前のその体…ヒトのものではあるまい。実に都合がよいが、湖の身代と成りえる」
つまり、どういうこと?
『つまり貴様が精霊と成るのだ。
さすれば、あの娘とお前が巫女契約を結べばよかろう』
精霊の提案は、悪魔の囁きのようだった。しかし、絡まった思考の糸には、一筋の希望の光のようにも思えた。
マリアさんの最後の願い。僕はどうすれば――
「……わかった。契約しよう」
僕がそう答えると、精霊は満足げに微笑んだ。
『だが、代償は大きいぞ。我はお主の魂で、その中で眠りにつく。そして、お前は……』
精霊は、そこで言葉を切った。
『お前は、人ならざる者となる。我と共に、新たな精霊として、この世界を生きることになるのだ』
どういうことかと聞き返す間もなかった。
精霊の体が、黒い靄となって崩れ、巨大な奔流となって僕の胸の中へと流れ込んでくる。
意識が、遠のいていく。
僕という存在が、黒い何かに塗りつ潰されていく感覚。
最後に聞こえたのは、精霊の、囁くような声だった。
『やはり――』
そして、僕は精霊と成った。