いつからか空は作り物になり、太陽は映像にすり替えられた。
高層ドーム《暁光殿》の中で人々は生き、命令と規範の中で笑い、泣き、死んでいった。
感情は“管理されるもの”となり、激情は罪とされた。
涙を流すことすら選別の理由となるこの時代で、一人の少年兵が「泣かない」と心に決めた。
だが、嵐は来る。
それは空の裂け目か、心の亀裂か。
少年は走り、叫び、跳び、泳ぎ続ける。
この世界で“太陽”に手を伸ばすことが、どれほどの反逆かも知らずに――。
低軌道上に浮かぶ人工天幕《暁光殿》。
それは、かつて地上が「空と呼んでいたもの」を天上に再現した、高貴なる支配層の居城。
無数の電子灯が空の色を模し、昼夜の概念すらプログラムで制御されるこの殿上では、誰もが人間らしさを失いながらも、なお「感情」に縋っていた。
少年兵ケンも、その一人だった。
「また来るぞ、嵐が」
彼はそう呟き、義肢の指先を鳴らした。
関節がわずかに軋む音。
それは感情を押し殺すための、自分への警告。
「……来いよ。泣く暇なんか、最初からねぇさ」
肩にかかるのは、戦闘情報を即時共有する神経接続式の外骨格。
精密な神経接続により、痛みも感覚もほぼ生身と同じ。
だが、それが逆に「ケンという存在」に境界を与えてくれる。
痛みが、ここに自分がいるという証明だった。
「ケン、また前衛に出るのか」
声をかけたのは、装束のような戦装に身を包んだ年若い軍師。
表情はあくまで冷ややかに、だが目の奥にはかすかな憐憫が滲んでいる。
「またも、か……? おれは“ずっと”だ。変わったのは戦況とお前の立場だけさ」
軍師は目を伏せる。
貴族階級に列せられた彼は、今や殿上での発言権を持つ。
だがケンにとって、その地位も肩書も意味をなさなかった。
「太陽に届くと思うか?」
ケンが訊いた。
戦火を超え、幾度も死線を越えてもなお、少年の瞳は空を見上げていた。
「届くさ。届かせるために、俺は走る」
「……まだそんな夢を見ているのか?」
軍師の口調には揶揄が混じる。
だがケンは怒らない。
夢を見ることすら、今のこの時代では贅沢なのだと知っているから。
「夢じゃない。あの炎の中で見たんだ。 “本物の空”ってやつをな。……触れた気がした。あのときだけは」
人工の空には決して宿らない、熱と光。
ケンが唯一涙をこぼしたのは、全身を焼かれたあの夜。
敵機の残骸とともに墜落した時、彼の心は確かに“何か”に触れた。
「なぁ……」
ケンはふと、誰に向けるでもなく口を開いた。
「おれ、泣かねえよ。あの日から、ずっとな。泣くと……終わっちまう気がして」
言葉が揺れた。
感情の振幅に、義肢のセンサーが一瞬反応する。
軍師はそっと目を閉じ、短く息を吐いた。
「泣くことが終わりじゃない。……だが、終わりを恐れる奴が前に立つな。迷いは、味方を殺す」
「上等だ。殺せるもんなら、殺してみな」
それは挑発でも強がりでもない、ただの「在り方」だった。
ケンは自身の存在理由を、痛みと戦火の中で見つけ出した。
泣かないこと、倒れないこと。
進み続けること。
「さぁ、嵐だ。今度はどんな風が吹く?」
言うが早いか、警報が天幕を揺るがす。
敵襲。
数は不明。情報は錯綜する。
ケンは、太陽を掴むように拳を握った。
警報が鳴り止むことはなかった。
光と音が交錯する殿上の回廊を、ケンは駆ける。
だがそれは戦闘という名の「式典」だった。
──敵襲は偽報。いや、演出だ。
全ては、上位宮廷派閥による「浄化作戦」
──心の揺らぎを見せた兵士たちを排除するための選別装置。
ケンのように“激情を制御できない者”は、殿上に置いておけない。
感情こそが、支配構造の亀裂を生む。
「やっと来たな。処分対象001、少年兵ケン」
ケンの前に立ちはだかったのは、仮面をつけた刺客。
いや、かつての“兄弟”だ。
名も番号も忘れたが、記憶の底に残るぬくもりだけは、まだ生きている。
「それで……おれをどうする? 壊すか?」
「選べるとでも?」
仮面の声は、冷たくも哀しげだった。
「泣かないのは美徳じゃない。むしろ罪だ。 “泣かぬ者”こそ、この空では異端とされる」
ケンはふと、立ち止まる。
「……ならお前は、泣いたか?」
沈黙。
だがその刹那、仮面の奥で小さく歯が軋んだ。
「泣いたさ。泣いて、泣いて、泣き尽くして……そして、お前のことを忘れた」
「嘘だな」
静かにケンは言い放った。
「おれは忘れてねぇ。泣いた日も、空を見上げた日も、全部。そうやって“忘れること”が、泣くことより怖ぇんだよ」
その瞬間、空が開いた。
──人工天幕が崩壊を始めたのだ。
誤作動か、反乱か。
理由は分からない。
ただ、空の裂け目から差し込んだ一条の光が、ケンの頬を焼く。
「太陽、だと……?」
かつて誰かが夢に見た“本物”の光。
作られた空では再現できない熱。
その輝きが、ケンと仮面の男の間に落ちた。
「走るぞ」
ケンが言った。
泣いてはいない。
だが瞳の奥で、何かがきらめいた。
「おれは走る。叫んで、泳いで、飛んで……それでもまだ届かないなら、この手で空をぶち破る」
仮面の男はゆっくりと手を下ろした。
武器を持ったその手を、地に落とす。
「……ずるいな、お前は」
「知ってる」
ケンは微笑んだ。
感情が、はじめて熱を帯びた。
殿上の支配者たちは動揺していた。
空が割れ、太陽が露わになった今、彼らの「世界の模型」は崩れつつある。
心を制御するための“嵐”は、もはや彼ら自身をも呑み込もうとしていた。
「見ろよ、兄貴。星はまだ、おれたちの手にある」
その手は震えていた。
感情に、希望に、あるいはまだ知らない“未来”に向けて。
──ケンは泣かなかった。
けれどその涙なき決意が、やがてこの空の色を変えるだろう。
嵐は過ぎた。
空には、ひび割れたドームの向こうに、かすかに陽が差し込んでいた。
まだ世界は変わっていない。
支配も、分断も、感情への抑圧も、何一つ解けてはいない。
だが、それでも誰かが空を見上げた。
太陽を掴もうと、星を放さなかった少年の名を、誰かが口にした。
ケン。
泣かぬ者。
走り続けた狼のような少年。
彼の走った道にだけ、風が吹いていた。
その風は、まだ遠い未来の希望の匂いがした。
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主題歌『狼少年ケン』より
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