全ての始まり。
7月4日
まだ朝日も昇り切らない早朝、艦娘技術研究所の一角に設けられた展望台に、希空は一人で立っていた。
「……ふぅ〜」
山の稜線から顔を覗かせ始めた太陽が、研究所を覆う森と、その向こうに広がる空を淡く照らしている。
両親に抱かれて眠ったあの日から、五日が経っていた。その後も希空はまともに休もうとはせず、最後の調整や建造シーケンスの再確認、生命維持系、制御系、身体構造、そして誰にも全貌を見せていない“ゼロ”の心臓部まで、何度も確認を繰り返していた。
一つでも不安が残れば、そこを直す。直せば別の場所が気になり、また確認する。そうして再び何日も働き続けた結果、昨夜とうとう限界が来た。希空は研究室のモニターを点けたまま、机へ突っ伏すように眠ってしまったのである。
数時間後、目を覚ました彼女は、眠気を覚ますついでにここまで上がってきた。早朝の冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「……やるだけのことは、やったよね」
誰へ問い掛けるでもなく、希空は呟いた。珍しく、その顔には不安が浮かんでいる。
無理もない。これまで何年も積み重ねてきた研究、妖精技術の解析、第二世代艦娘の構想、物質縮小、新しい動力、そして自分が初めて、本当に『妹』として迎えようとしている存在。今日、その全てが一つになる。
失敗すれば、研究計画の遅延程度では済まない。“ゼロ”という一人の生命そのものを失うかもしれない。世界中から集められた期待も、対上位個体用の新しい戦力という希望も、第二世代艦娘へ繋がる未来も、その多くが今日一日に懸かっていた。
「今日、この日から……」
希空は朝日に目を細める。
「世界は変わる」
自分へ言い聞かせるように、もう一度、言葉を重ねた。
「希望の光が、未来を照らす」
それが、希空の望みだった。
“ゼロ”には、誰かを殺すためだけの存在になって欲しいわけではない。誰かを支配するためでも、ただ強さを誇るためでもない。人類が、艦娘が、家族が、明日も笑っていられるように、そのための力になって欲しい。
「次元さえ震わす波動が……」
研究所の奥で、今はまだ眠るように沈黙している新しい機関を思い浮かべる。
「世界を救うと信じて」
少女は朝日に願った。
今日、あの太陽が再び地平線へ沈むまでには、生まれているはずの新しい命。自分の妹となるはずの子。そしていつか、人類の前へ立つことになるかもしれない、“約束された英雄”。
その子が、いつの日か、この世界へ平和を取り戻してくれることを。
正午過ぎ。指定されていた集合時刻には、まだ少し早かったにもかかわらず、関係者はほとんど全員が既に揃っていた。誰も落ち着かないのである。
応接室で待機している洋平、海斗、美香、士、加奈には話題もあり、言葉も交わしている。だが、どうにも会話が長続きしない。誰かが時計を見れば、別の誰かが立ち上がり、また座る。そんなことを繰り返しているうちに、扉が開いた。
資料端末を抱えた秋吉と、その隣を歩く希空だった。
「お待たせ」
秋吉が言う。
「準備完了だよ。工廠へ行こうか」
その一言で、全員の表情が変わった。
第二世代建造用工廠の中央には、数か月前に穂乃果と凛を生み出した密閉型建造装置───通称『釜』が鎮座していた。
前回と同じ装置、同じ工廠。しかし、雰囲気はまるで違う。周辺には大量の妖精達が走り回り、幾つもの端末と計測装置が追加されている。生命反応、温度、圧力、内部位相、電力、機関出力、空間状態。前回には無かった種類のモニターまで並び、まるで工廠全体が巨大な一つの実験装置へ変わったようだった。
「この前受け取った受精卵は、もう釜の中にセットしてあるよ」
希空が説明する。
「建造方法の基本部分は穂乃果ちゃんと凛ちゃんの時と同じ。詳しい説明、いる?」
そう言いながら、明らかに説明したそうな顔で海斗を見る。
「ああ、いや」
海斗は即座に答えた。
「大丈夫だ」
「本当に?」
「問題ない」
(どうせ聞いても分からん)
少し前、同じように気軽な気持ちで『どうやって造るんだ?』などと尋ねた結果、何十分にもわたり、専門用語や数式、生体情報、艦魂、次元、その他諸々について、およそ人間の会話とは思えない説明を受けた。海斗は学習していた。見えている地雷を、わざわざ踏む必要はない。
「ふーん」
希空は少し残念そうだった。
その横で、美香が工廠を見渡す。
「でも、前の時より何だか物々しくない?」
「!」
希空の目が輝いた。海斗は嫌な予感がした。
「何か違うの?」
「あっ、それはね!」
(うわっ)
踏んだ。別の地雷を。
「この前の穂乃果ちゃんと凛ちゃんは、あくまで新しい建造方式が成立するか確かめるための実証個体だったの。もちろん身体形成とか艦魂との接続とか色々試してて、その時の新技術っていうのが、まず受精卵から───」
始まった。
「───で、そっちは建造技術側の研究者が中心で良かったんだけど、今日は違うの。“ゼロ”は最初から実戦投入可能な個体として設計してあるから、建造後は身体能力、戦闘技能、兵装適応、出力制御、艤装じゃないけどそれに相当する装備との連携、それから模擬戦データを取って───」
希空は止まらない。
「場合によっては実戦データも取る予定で、それを後続の第二世代にフィードバックするの。あ、もちろんそのままコピーじゃなくて、性能差があるから標準化して───」
海斗の理解が少しずつ失われていく。美香の目も泳ぎ始め、士と加奈はかなり早い段階で理解を諦めていた。
それでも説明はさらに続き、数分後、ようやく希空が一息ついた。
「───だから、今日は建造担当だけじゃなくて、機関、艤装、兵装、制御系、生体工学、色んな部署が関わってるの!」
「……なるほど」
美香が頑張って頷く。
「まあ、要するに、“ゼロ”は本格的に戦うことを想定した試作機……じゃなくて、試作艦娘ってことよね?」
「うん! そういうこと!」
(今までの説明、何だったんだ)
海斗は何も言わなかった。結局、それだけ理解出来ていれば、現時点では充分だった。
もっとも、これだけ喋っておきながら、希空は本当に隠したい部分を一切口にしていない。“ゼロ”の最新設計、真の機関出力、バイタルパート内部、そしてそこへ仕込んだ幾つかのブラックボックス。それらについては、秋吉にすら全貌を知らせていなかった。
暫くして、全準備完了の報告が入った。一同が『釜』の周囲へ集まると、秋吉がふと思い出したように尋ねた。
「そういえば希空ちゃん」
「何?」
「前回みたいに、建造用の融合炉を立ち上げなくていいの?」
「ああ」
希空は何でもないことのように答えた。
「融合炉じゃ足りないから」
「……え?」
「電力」
秋吉が黙る。希空は続けた。
「今回は必要電力量が前よりかなり多いの。だから、BHエンジンを先に起動してある」
「……」
「多分それで足りると思うけど」
少し考えてから、希空は付け加えた。
「もし足りなかったら、試作の対消滅エンジンも回すよ」
一瞬、静かになった。
「「……ん?」」
海斗と美香。
「「……はぇ?」」
士と加奈。
「……今、何か聞いちゃいけない単語が混ざってなかったか?」
洋平。
三者三様の反応だったが、秋吉だけは違った。顔から、少しだけ笑みが消える。
(……そこまで必要なのか)
ただ身体を造るだけなら、こんな電力は要らない。穂乃果と凛で、既に証明されている。なら今日、余分な電力を何に使うのか。答えは一つしかない。
“ゼロ”の内部、希空が隠してきた何かを、誕生と同時に起動させるためだ。
(やっぱり……)
秋吉は『釜』を見る。
(心臓か)
その予想は正しかった。
希空は、誰にも気付かれないように小さく息を吐いた。
(これだけは)
建造装置内部、まだ生命と呼ぶにはあまりにも未完成な“ゼロ”。その中心、バイタルパートへ組み込んだ新型機関については、今日に至るまで、まだ名前すら誰にも教えていなかった。
反物質、マイクロブラックホール、余剰次元、希式物質縮小、タキオン粒子。そして、それらを単なる寄せ集めではなく、一つの機関体系へ繋げる理論。希空がこれまで行ってきた動力研究の集大成に、彼女はタキオンドライヴという名を付けた。
発想の原点は、幼い頃から好きだった一隻の宇宙戦艦、その心臓である。ただし、希空が造ったものはフィクションの機関をそのまま再現したものではない。出来なかったというより、現実の物理で成立させようとした結果、似ている部分と異なる部分が生まれたのだ。
だから、借り物の名前をそのまま付けることはしなかった。自分が現実の世界で、妖精技術、人類物理学、物質縮小、反物質、ブラックホール、そしてタキオン粒子、その全てを使って造った別の機関。それがタキオンドライヴであり、“ゼロ”へ搭載されたものが、その第一号だった。
一度、安定状態まで立ち上がれば、機関は自ら膨大なエネルギーを扱える。問題は、最初の点火だった。
未起動の機関へ外から一気にエネルギーを叩き込み、位相を揃え、タキオン粒子系を励起させ、縮小状態で存在する巨大な内部機構を一斉に噛み合わせる。そのため、初回だけは異常な量の外部電力を必要とする。
(融合炉一基じゃ、絶対足りない)
だから研究所にあるBHエンジンを起動した。それでも不足する可能性があるなら、対消滅機関も使う。必要なら融合炉も、全部使う。
妹を生むためだけに、今日、人類が持つ世界最高峰の機関を三種類、同時に叩き起こす。希空にとっては、それが当然だった。
研究所深部では、BHエンジン内部のマイクロブラックホール生成系が稼働を始め、各種数値が立ち上がっていく。電力網が建造工廠側へ接続されると、妖精が報告した。
「ブラックホール生成、安定。出力上昇中」
希空がモニターを見る。数値に問題はない。
「……うん。BHエンジン、出力安定」
工廠中の視線が希空へ集まる。
「建造、行けるよ!」
秋吉が一歩前へ出た。
「よし!」
声を張り、妖精達へ指示する。
「釜を炊くぞ!」
妖精達が一斉に配置へ付き、装置が動き始めた。
「JK-2-X-00───建造開始!」
───グツグツ。
───ゴトゴト。
そんな音が本当にしているわけではない。それでも、巨大な密閉容器が振動し、冷却系が唸り、配管を液体が駆け、外部装置が忙しく動く様子を見ていると、『釜を炊く』という表現が妙に似合っていた。
内部では、受精卵を基礎とした人体形成が進んでいる。細胞が増殖、分化し、身体構造が形成されると同時に、普通の人間には存在しない各種機能が組み込まれていく。さらに内部へ巨大な装置群が、希式物質縮小技術によって多次元的に折り畳まれ、収められていく。
秋吉、希空、妖精達は休む暇なく動き続けた。特に冷却、生命維持、空間位相の三系統は、一瞬たりとも監視を外せない。
建造開始から暫くは順調だった。だが、数時間が経過したところで、妖精が声を上げた。
「BH出力、低下!」
希空が振り返る。
「どのくらい!?」
「必要量、割りそう!」
「安定化処理して! 無理に出力上げなくていい!」
BHエンジンは、まだ試作段階であり、連続高負荷には完全対応していない。希空は迷わなかった。
「対消滅エンジン、接続!」
秋吉が振り向く。
「本当に使うの!?」
「使う!」
研究所の別区画で、希空が習作と称して造った試作対消滅機関が起動する。反物質が供給され、制御場が展開されると、発電出力が上昇し、新たな電力が建造工廠へ流れ込んだ。
それでも終盤に差し掛かると、必要出力はさらに跳ね上がった。希空は数値を見つめ、一度息を吸う。
「……あと少し。融合炉も最大出力!」
「了解!」
ついに、BHエンジン、対消滅エンジン、核融合炉の三系統が同時稼働し、研究所の持つ動力設備が総動員された。
秋吉は各計器を見ながら、半ば呆然としていた。一人の赤ん坊を生むために、世界のエネルギー技術史を何段階も飛び越えた機関が三種類、同時に動いている。
「……とんでもない出産だな」
誰にも聞こえないほどの声で、彼は呟いた。
建造開始から約五時間。総力戦の様相を呈した作業も、ようやく終盤へ入っていた。
一度応接室へ戻っていた洋平達も、連絡を受けて工廠へ戻っている。
「建造終了予定時刻まで、あと十分」
担当妖精が秋吉へ報告する。
「了解」
海斗は、何度目か分からない時計の確認をしていた。
「……ドキドキしてきたな」
「今更?」
美香が言う。しかし、その声も落ち着いてはいない。
「だって」
海斗は苦笑する。
「あと十分で、本当に娘が生まれるんだぞ」
「……うん」
美香も『釜』を見る。数日前まで、まだ受精卵だったものが、今日、一人の子供になる。その実感が、今になって急速に押し寄せていた。
少し離れた場所では、希空が何も言わず、胸元で両手を組み、目を閉じている。科学者として出来ることは、全部した。あとは待つしかない。
お願い、無事に生まれて。
お願い、ちゃんと動いて。
お願い、私の妹になって。
そして、その時が来た。
「建造終了予定時刻です」
妖精の声とほぼ同時に、『釜』の振動がゆっくりと止まった。冷却系の音が弱まり、各モニターが安定を示す。
「生命反応、正常」
「機関反応……安定」
「身体形成、完了」
建造が完了した。
洋平、海斗、美香、士、加奈、秋吉、希空、そして周囲にいる数百の妖精達。その全員が、閉ざされた扉を見つめている。誰も喋らない。
やがてロックが解除され、重い扉が左右へ開き始めた。内部から白い蒸気が溢れ、圧力差による風が工廠内を吹き抜ける。視界が真っ白になり、数秒の間、誰も動かなかった。
やがて蒸気が薄れ、内部が見えてくる。
そこに、小さな赤ん坊がいた。
何も身に着けず、身体を丸め、穏やかな顔で眠っている。美香の面影が確かにあり、希空ともどこか似ていた。明るい茶色い産毛も、設計時に思い描いた姿とほぼ同じだった。
その姿を見て、希空の顔が一気に明るくなる。
「……」
海斗も美香も、言葉が出なかった。本当に生まれた。その事実を飲み込むまでに、数秒を要した。
そして、最初に異変へ気付いたのは誰だったのか、分からない。
「……あれ?」
誰かが言った。
美香が目を凝らし、海斗も、希空も、秋吉も赤ん坊を見る。一同の視線が、少しずつ同じ場所へ集まっていく。
「…………」
長い沈黙の後、声が響いた。
「──────男の子……!?」
予定では女児だった。少なくとも設計上はそうであり、希空は美香に似た女の子としてJK-2-X-00を組んでいた。穂乃果と凛も同じく女児として生まれている。だから今回も当然そうなると、皆が思っていた。
だが、目の前の赤ん坊は、どう見ても男の子だった。
「…………」
秋吉は数秒固まった。それから急いで端末を確認する。
「遺伝情報……正常」
希空も操作を始めた。
「身体形成も正常。異常分化じゃない。染色体……」
表示を見て、彼女の手が止まる。
「……XY」
「普通に男の子?」
美香が尋ねる。
希空は頷いた。
「……普通に男の子」
つまり、建造事故ではない。生命体として何かに失敗したわけでもなく、単に性別が男だったのだ。
「でも」
希空は混乱しながら過去データを呼び出す。
「ちゃんと女の子になるよう設定したはずなんだけど……」
秋吉も穂乃果と凛の建造記録を開いた。そして暫く二人で画面を睨み、やがて一つの答えへ辿り着く。
「……艦魂か」
秋吉が言った。
「え?」
海斗が聞き返す。
秋吉はゆっくり説明した。
「僕達は、穂乃果ちゃんと凛ちゃんの時点で性別固定が出来たと思ってた。でも、多分違う」
端末を示しながら続ける。
「二人は“鳳翔”の艦魂を使って建造している。これまでの艦娘も、艦魂を人体へ定着させると基本的に女性として成立してきた」
「つまり?」
美香が尋ねる。
希空が理解した。
「……私達の性別固定技術だけで、女の子に出来てたんじゃない」
「そう」
秋吉が頷く。
「艦魂側の性質に助けられてたんだ」
だが、“ゼロ”には艦魂がない。対応する過去の艦艇も存在せず、あくまで人間側から一から作った特殊技術実験個体である。だから、今まで見えなかった問題が、そのまま表に出た。
当時の技術では、受精卵段階から性別を完全に固定出来ていなかった。設計上は女性を指定したものの、実際に成立する段階で最後に残った確率は半分。そして今日、その五十パーセントのうち、男児側を引いたということだ。
ただ、秋吉は赤ん坊を見ながら言った。
「……まあ、技術的には致命的な失敗じゃない」
「そうなの?」
士が聞く。
「うん」
秋吉は頷いた。
「この子には、そもそも対応する艦魂も史実艦もない。狭い意味で言うなら、『過去の艦艇の魂を持つ人間』としての艦娘ではないんだ」
“ゼロ”専用の身体、専用機関、専用装備。その全てが、最初からこの一個体を前提に作られている。過去の艦艇へ適合する必要も、特定艦種を再現する必要もない。なら、女児でなければ成立しない技術的理由はなかった。
「性能には?」
加奈が尋ねる。
希空が即座に確認する。
「……影響ない」
設計値、身体機能、生命反応、機関、その全てが正常だった。
「男の子でも、全部ちゃんと動く」
「じゃあ」
美香が少し笑う。
「元気に生まれてくれたなら、それで良いじゃない」
その一言で、空気が一気に柔らかくなった。海斗も頷く。
「そうだな」
想定とは違った。だが、それだけだった。娘ではなく、息子だった。家族が増えたという事実は、何も変わらない。
そして、ここで誰も予想していなかった本当の問題が発生した。
「……どうしよう、海斗」
美香が真顔になる。
「何が?」
「名前」
「……」
海斗の動きが止まる。
「…………あ」
そう、彼らは完全に女の子が生まれると思っていた。だから何週間も考えていた名前の候補は、全て娘用だった。
「男の子の名前……」
海斗が額を押さえる。
「考えてねぇ……」
「私も……」
先ほどまで人類科学史に残る大問題である性別固定の解析をしていたとは思えない、困り方だった。
洋平が腕を組む。
「何かないか?」
「急に言われてもなぁ……」
士も考える。
「神崎家っぽい名前って……」
加奈が首を傾げた。
「そもそも神崎家っぽいって何?」
「知らん」
五人が真剣に考え込む。生まれたばかりの赤ん坊を前にしているとは思えない顔だった。
その空気を感じ取ったわけではないだろうが、黒い金属の建造装置内部で、赤ん坊が少し顔を歪めた。
そして、
「……ふぇ」
全員が止まる。
次の瞬間、
「おぎゃあっ! ふぎゃあぁぁっ!」
元気な産声が工廠に響いた。
「あっ」
美香が我に返り、慌てて妖精から布を受け取ると、赤ん坊を包み、慎重に抱き上げた。
泣いている。小さくて、温かい。自分の子供だ。
「よしよし、大丈夫よ」
美香が揺らす。
「ごめんね。お父さんとお母さん、名前決めてなかったの」
「それ赤ん坊に謝ることか?」
海斗が言いながら、すぐ隣から顔を覗き込む。すると赤ん坊は少し泣き止んだ。
「……」
海斗の表情が変わる。
「俺達の息子か」
初めて、その言葉が現実味を持った。美香も笑う。
「うん」
洋平、士、加奈も自然と周囲へ集まった。その少し外側で、希空はじっと弟を見ている。
弟だった。妹になると、ずっと思っていた。一緒に遊ぶところ、研究を教えるところ、お姉ちゃんと呼ばれるところ、その全てを女の子の姿で想像していた。
でも、不思議と落胆は無かった。むしろ産声を聞いた瞬間、そんなことはどうでもよくなった。ちゃんと生まれた。生きている。機関も動いている。身体も正常。それだけで充分だった。
そして、両親達が名前に困っている姿を見て、希空はふと思う。
名前なら、ある。
既に何年も呼んできた名前。本当は型式、開発コード、特殊技術実験個体の仮称に過ぎない。それでも今日までずっと、この子を指してきた言葉は、もうただの記号ではない。希空にとって、この子の名前も同然だった。
「ねえ」
希空が声を掛ける。
「ん?」
海斗が振り返る。
「私が決めても良い?」
「希空が?」
美香も希空を見る。
希空は少しだけ申し訳なさそうに、それでも笑った。
「うん」
美香の腕の中にいる赤ん坊を見つめる。ずっと“ゼロ”と呼んできた。始まり、零、何もないところからの出発。そして型式番号、JK-2-X-00。その最後の二桁、00。ダブルオー。ゼロ。
「この子の名前は……」
希空はゆっくりと言った。
「零」
海斗が瞬く。
「ゼロ?」
「うん」
希空は頷く。
「ずっと“ゼロ”って呼んできたでしょ?」
特殊技術実験艦“ゼロ”。その艦名から取った名前だった。
「だから」
希空は弟へ笑い掛ける。
「零」
美香が腕の中の赤ん坊を見る。
「神崎……零」
海斗も口にする。
「神崎零、か」
暫くその名前を噛み締め、やがて笑った。
「良いじゃん」
「うん」
美香も頷く。
「この子は、零」
その名が決まった。
JK-X-00、特殊技術実験艦“ノア”から始まった艦娘開発、その一つの到達点。
型式番号、JK-2-X-00。
特殊技術実験艦“ゼロ”。
2010年7月4日。
その日、最初に与えられたものは、兵器としての称号でも、英雄としての使命でもない。家族から贈られた、一つの名前だった。
神崎
続く
あ と が き
遂に0話の登場キャラが本格的に出て来ました。
次回 希空と零、姉弟の一日