幼い“阿武隈”も、髪はあんな感じなんだろうか?
少し時を戻して、2011年4月。
東堂士は、江田島の海軍兵学校へ入学した。
最初のうちは、流石の士も、慣れない集団生活や兵学校独特の規律に苦労したらしい。
しかし、それも僅かな間だった。
元々持っている身体能力に加え、神崎家の分家として幼い頃から叩き込まれてきた戦闘術や軍事知識、さらに本人の頭の良さと何事にも真正面から取り組む性格。それらが環境へ馴染み始めると、成績は一気に伸びた。
座学、体力、射撃、戦技、指揮。何をやらせても上位で、むしろ次第に教官側が、
『こいつを何処まで伸ばせるか』
を考え始めるような状態になっていた。
このまま何事も無ければ、主席卒業。それも、かなり大きな差を付けて。
そんな評価を受けるようになるまで、それほど時間は掛からなかった。
それから、およそ九ヶ月後。
2011年12月下旬、年末年始の休暇を利用して、士は江田島を離れていた。
ただし、本人にとっての『帰省先』は、既に普通の実家とは少し違う。
艦娘技術研究所。
ここには希空がいる。零もいる。神崎家や東堂家の人間が日常的に出入りしており、士にとっては、実家とは別の意味で帰ってくる場所になりつつあった。
そして今回は、高校が冬休みに入った加奈も一緒だった。
二人とも希空から、
『ちょっと助けて』
と連絡を受けている。
何を手伝わされるのか、その答えは、研究所へ入ってから数十秒でほぼ分かった。
「ふぇぇぇぇぇ……!」
「うぁぁぁぁん……!」
二つの泣き声が、廊下の奥から重なって聞こえてきた。妙に綺麗なステレオである。
加奈が足を止める。
「……赤ちゃん?」
士も耳を澄ませた。
「第二世代艦娘じゃないか?」
「やっぱり?」
「希空のメッセージにも、『産まれたばっかりの子がいる』って書いてあったし」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に、少し嫌な予感がした。
『助けて』という言葉の意味が、研究ではなく、もっと物理的なものだったのではないか、と。
希空の研究室へ向かう途中、二人は廊下の向こうから歩いてくる秋吉と出会った。
「……ん?」
秋吉が顔を上げる。
「ああ、士。加奈。久しぶり……」
「久しぶりっす、所長」
士は返事をした後、少し首を傾げた。
「……っていうか、秋吉所長、何か凄い疲れてません?」
「そう?」
「疲れてます」
加奈が即答した。
目の下には僅かに隈があり、白衣もいつもより少し乱れている。何より、普段なら研究の話を始めれば何時間でも動き続けそうな秋吉から、妙な生活疲れのようなものが漂っていた。
「何かあったんですか?」
加奈に聞かれ、秋吉は少し遠い目をした。
「……育児って、大変なんだなぁって」
「あぁ……」
士と加奈が同時に納得した。泣き声は、まだ聞こえている。
「まあ、それだけじゃないけどね」
秋吉は苦笑しながら続ける。
「第二世代艦娘用の装備も、一通り揃え始めないといけない。身体だけ造って終わりじゃないからな」
「艤装とかですか?」
「ああ。軽巡なら軽巡、駆逐なら駆逐、空母なら空母で、それぞれ必要なものが違う。第一世代用をそのまま持たせれば良いわけでもないし、これから量産するなら規格も考えないといけない」
「来年から、かなり増える予定なんすよね?」
士が聞くと、秋吉は頷いた。
「本格量産は2012年から。最初は比較的造りやすくて数も必要な駆逐艦を中心にする予定だ。ただ、大型艦もそう遠くないうちに始める」
「大型艦って、空母も?」
「勿論」
加奈の質問に、秋吉は答えた。
「空母については、“鳳翔”の方へもう話を通してある。第二世代空母をどう育てるか、訓練課程を作り始めてもらってるところだ」
「訓練課程……」
加奈は少し考える。
「知識を最初から入れられるのに?」
「知識は、ね」
秋吉はそこを強調した。
「発艦の手順を知っていることと、何十機も同時に動かせることは違う。砲撃理論を知っていることと、海が荒れてる中で動きながら命中させられることも違う」
「……ああ」
士には、良く分かる話だった。
兵学校へ入ってから、何度も実感している。
教本を読んで、頭では理解した。だから出来る、とは限らない。むしろ、その間にあるものの方がずっと大きい。
「第二世代は、知識を持った状態で生まれられる」
秋吉は続ける。
「でも、経験まで生まれた瞬間から持てるわけじゃない。身体の使い方も、艤装の扱いも、結局は本人が覚えなきゃならないんだ」
その説明をしているうちに、三人は希空の研究室前まで来ていた。
扉は開いている。そして、先ほどより明らかに大きな泣き声が聞こえていた。
「やっぱりここか……」
士が呟く。
加奈は少し笑った。
「誰が泣いてるんだろ」
その瞬間、何かが部屋の中から飛び出してきた。
「わっ」
小さい。明らかに赤ん坊である。
歩き方もまだ危なっかしい。というより、ほとんど走れていない。それなのに速度だけは妙にある。足運びが安定していない分を、第二世代艦娘としての身体能力だけで強引に補っているのだ。
結果、当然のように転ぶ。
「あぶなっ……!」
前のめりになったところを、士が片手で受け止めた。
「っと……」
そのまま抱き上げる。
「うわぁ」
加奈が一気に笑顔になった。
「赤ちゃんだ」
そして髪と服を見る。
「えーっと……」
少し考えた後、首を傾げた。
「……阿武隈ちゃんじゃない」
阿武隈なら金髪だからすぐ分かる。だが、士が抱いている少女は違った。
「川内と神通じゃないよ」
秋吉が教える。
「二人は、まだ歩けないから」
ならば、残るのは一人。
士の腕の中にいる少女の頭頂部で、一本のアホ毛が妙な存在感を放っている。
「この子は、“那珂”」
「お前が那珂か」
士が顔を覗き込む。
那珂も大きな目で、じっと士を見る。
「かわいい……」
加奈が頬を緩ませる。
「まんまるなお目目」
知らない人間に突然抱き上げられたにもかかわらず、特に泣き出す様子もない。ただ、興味深そうに士の顔を見ている。
「随分人懐っこいな」
「その子、わりと物怖じしないんだよ」
秋吉が答えた。
そんな会話をしていると、研究室の中から声が響いた。
「ちょっと那珂ちゃーん! どこ行ったのー!?」
聞き慣れた声、希空である。
ただし、妙に大人っぽい。
少なくとも士と加奈は、今まで希空から、こんな『子供を追い掛けている母親』のような声を聞いたことが無かった。
「那珂ちゃーん!?」
希空が扉から顔を出す。
そして士の腕の中にいる那珂を見て、その次に士と加奈を見る。
「……あっ!」
表情が一気に明るくなった。
「士! 加奈!」
「よっ」
士は片手を上げる。
「ヘルプに来たぜ」
「久しぶり、希空ちゃん」
加奈も笑う。
「……本当に大変そうだね」
その言葉に、希空は力の抜けた笑みを浮かべた。
「あはは……」
それから那珂を見て、研究室の奥を見る。
泣いている二人。どこかへ遊びに行っている一人。さらに零。
「まさか、こんなに早く『ママ』みたいなことするとは思わなかったよ……」
その表現は、あながち間違っていない。
現在、希空の日常は、研究、第二世代量産化準備、装備開発、各種技術研究、零の成育と訓練、そして四人の第二世代艦娘の育児で出来ている。
仕事をしながら赤ん坊を育てる、まさしく働く母親のような生活だった。
ただし、致命的な問題が一つある。
希空自身も、まだ子供なのだ。
「でも、これでちょっと楽になるな」
秋吉が言う。
「うん」
希空は士と加奈を見る。
「よろしくね、二人とも!」
「おう」
「任せて」
希空が育児だけで一日の大半を潰していては、研究所全体が止まる。何しろ、今後の第二世代計画の中心人物本人なのである。
そのため、とりあえず冬休みの間だけでも、士と加奈に四人の世話を手伝ってもらうことになった。
根本的な解決ではない。人員体制そのものを、いずれ作り直さなければならない。
だが、今はそれで良い。
何しろ、小学校低学年相当の少女に四人の赤ん坊を育てさせながら、次世代兵器研究までさせている。冷静に考えれば、状況そのものがおかしい。
『老老介護』ならぬ、『幼幼育児』。
いくら希空でも、流石に無理があった。
三十分後
「……寝た」
士は声を潜めた。
隣で、加奈が大きく息を吐く。
「何とかなった……」
先ほどまであれほど賑やかだった研究室が、嘘のように静かになっている。
ベッドでは、“川内”と“神通”が眠っていた。研究所へ入った瞬間から聞こえていた、ステレオ泣き声の発生源である。
何が嫌なのか、抱き方が悪いのか、腹が減ったのか、眠いのか、それとも単純に泣きたいだけなのか。士と加奈は、ひたすら試行錯誤した。
兵学校の訓練より難しい、と士は思った。
高校の試験より答えが分からない、と加奈は思った。
何とか二人を寝かせる頃には、来たばかりなのにかなり消耗していた。
希空と秋吉は、その隙にそれぞれ研究へ戻っている。元々ここは希空の研究室なので、いずれ戻っては来るだろうが、暫くは士と加奈、そしてもう一人、小さな協力者だけだった。
「……助かった」
士はそちらを見る。
「ありがとな、零」
「うん」
零は小さく頷いた。
「慣れてるから、大丈夫」
現在の零は一歳と五ヶ月ほど。阿武隈が生まれた三月から九ヶ月、零もかなり成長していた。
歩くことについては、もうほとんど問題ない。言葉もかなり話せる。そして何より、四人の妹達と毎日のように過ごしている。
どうすれば川内が落ち着くか、神通はどんな抱かれ方を嫌がるか、那珂が何をやらかすか、阿武隈が何処へ行きたがるか。士や加奈よりも、よほど良く知っていた。
一歳児が赤ん坊四人の扱いに一番慣れている。やはり、意味の分からない光景だった。
「士、加奈」
零が聞く。
「いつまでいるの?」
「年始くらいまでかな」
士が答える。
「俺はそのあと江田島に戻る」
「私も学校が始まるまではいるよ」
加奈も続けた。
「学校……」
零がその単語を繰り返した。
少しだけ考える顔をする。
士はそれを見て、思い出した。
「そういえば」
「ん?」
「零って、学校行くのか?」
「たぶん、行かない」
「やっぱり?」
「希空姉さんが、普通の学校で習う知識は大体入れてあるって」
加奈が零の隣へ座る。
「どのくらい?」
「平均すると……高校くらいまで、って言ってた」
「一歳で?」
「うん」
即答だった。
士は少し顔を引き攣らせる。
「平均すると、ってことは」
「全部同じじゃないよ」
零は説明する。
「普通の勉強は高校くらいまで。でも軍事とか、戦うための知識は、もっとたくさん」
「そっちに偏らせたのか」
「うん」
それは、当然と言えば当然だった。
零は普通の子供として学校へ通わせるために造られた存在ではない。戦場へ出す、そのために希空は彼へ必要な知識を極端な速度で与えている。
海軍兵学校の教育課程、軍事史、戦術、航海、兵器、部隊運用、世界各国の軍用格闘技、拳法、剣術、槍術、その他の武器術。
ただし、ここで重要なのは、『知っている』ことと『出来る』ことは同じではない、という点だ。
「格闘技も全部使えるの?」
加奈が聞く。
零は少し考えた後、首を傾げた。
「やり方は分かる」
「やり方?」
「映像とか、動きとか、身体をどう動かすかとか。でも、本当に出来るかは……分かんない」
士は、その答えに少しだけ安心した。
「そりゃそうだ」
知識として正しい拳の握り方を知っている。人体の急所も知っている。相手を投げる原理も知っている。
だが、実際に自分より大きな人間へそれを成功させられるか、恐怖の中で使えるか、連続して使えるか、疲労しながら出来るか。それは別の話だ。
零には膨大な知識がある。しかし、彼自身の経験は、まだ一年と少ししかない。
「……変な感じだな」
士が呟く。
「うん」
加奈も同じことを感じていた。
零は海の名前を知っている。世界地図も知っている。艦艇の種類も、航空機も、戦車も、国の名前も、戦争も知っている。
だが、その大半を実際には見たことが無い。
言葉が先にある。意味も先にある。知識だけが、世界を見るより先に頭へ入っている。
ある意味では、とても歪だった。
希空が零へ大量の情報を与えられた理由の一つは、その脳の構造にある。
零の脳は、人間の脳を基礎としながら、情報記録能力そのものが大幅に強化されていた。
単純な意味で、コンピューターの記憶装置になっているわけではない。感情もあるし、忘れることもある。理解には本人の思考が必要だ。
だが、必要な情報を高い精度で記録し、後から取り出す能力は、普通の人間を遥かに越えている。
希空は、そこにも最初から軍事利用を考えていた。
零が将来、戦場を見る。敵を見る。戦う。
その時、本人の視覚、聴覚、各種感覚、戦闘中の判断、それらを出来る限り記録し、後から解析する。
第二世代艦娘の教育、戦術研究、対深海棲艦戦の資料として使う。
人間型兵器、その目そのものをガンカメラのように使う。そんな発想だった。
だからこそ、零には戦場へ出る前から大量の知識が与えられている。
知識が無ければ、見ても判断出来ない。判断出来なければ、正しい戦闘記録も残らない。
しかし、それはあくまで準備である。
知識があれば経験が要らない、というわけではない。むしろこれから、実際の訓練で零自身が一つずつ、『知っている』を『出来る』へ変えていかなければならない。
「……なあ、零」
士が机へ教本を広げた。
「これ、分かる?」
「どこ?」
「ここ」
江田島へ戻れば、すぐ訓練と授業が始まる。少し空いた時間に勉強しておこうと、持ってきた資料だった。
零はページを覗き込む。
「ああ。それは───」
説明を始める。
士が聞く。
「あー……そういうことか」
その光景を見た加奈が、数秒黙る。
そして、耐え切れなくなった。
「あはっ……!」
「おい」
「あははははっ!」
「加奈!」
「だって!」
加奈は腹を押さえて笑う。
「赤ちゃんが、海軍兵学校の学生に家庭教師してる……!」
「俺だって好きで教わってるわけじゃねぇよ!」
「聞いたのお前じゃん」
零が冷静に突っ込んだ。
「うっ」
加奈がさらに笑う。
だが、それから少し後。
「……零、これなんだけど」
「ん?」
「この問題、どうやるの?」
「加奈も聞くんじゃねぇか!」
今度は士が笑った。
高校の課題を一歳児へ教えてもらう。加奈は顔を赤くした。
「だ、だって分かるんだもん!」
「俺のこと笑ったよな?」
「それとこれは別!」
「同じだろ!」
零は二人のやり取りを見て、少しだけ楽しそうに笑った。
知識の入り方は異常だった。
だが、こうして使っている時だけ見れば、普通に少し頭の良い弟と、年上の親戚達が一緒に勉強している。そんな風にも見えなくはなかった。
約二時間後
三人で勉強したり、那珂の相手をしたり、寝た子を起こさないように小声で遊んだりしていると、希空が戻ってきた。
その隣には、“阿武隈”もいる。
「……零っ」
部屋へ入った瞬間、阿武隈は零を見つけた。
そして走った。
「阿武隈?」
零が立ち上がる。
その身体へ、阿武隈が勢い良く抱きついた。
「わっ」
零は少しよろめきながらも、しっかり受け止める。
普段から、阿武隈は零によく懐いている。
兄という言葉をどの程度理解しているかは別として、零のそばにいると安心するらしい。
ただ、今日はいつもと違った。
腕に妙に力が入っている。離れようとしない。
「どうしたの?」
零が聞く。
阿武隈は暫く顔を埋めていた。
そして、小さく尋ねた。
「……バイバイするの?」
「え?」
零の動きが止まる。
「バイバイ?」
「うん……」
阿武隈は顔を上げる。明らかに不安そうだった。
零は意味が分からず、希空を見る。
希空も少し困った顔をした。
そして士と加奈へ説明するように、同時に零へ教えるように、ゆっくり話し始めた。
「阿武隈ね」
「うん」
「もう少ししたら、研究所から別の場所へお引っ越しするの」
「…………」
零の顔から表情が消えた。
「……え?」
士と加奈は、その反応を見た。
これまで兵学校の問題を教え、世界中の戦闘術を知り、高校生級の知識を持っている。そんな、年齢から大きく外れた零が、初めてかなり年齢相応に見えた。
仲の良い子が遠くへ行ってしまう。大切な友達が転校する。
子供にとって、それは理屈ではどうにもならない大事件である。
希空は、ベッドで眠っている“川内”と“神通”、その近くでいつの間にか起きてごろごろしている“那珂”も指した。
「正確には、阿武隈だけじゃないよ。この子達も一緒」
「……みんな?」
「うん」
「いつ?」
「今年度末くらいかな」
零は何も言わなかった。
士が代わりに尋ねる。
「前から決めてたのか?」
「うん」
希空は頷く。
「来年から、第二世代はもっと増えるでしょ?」
「ああ」
「ずっと全員ここで育てるのは無理だよ」
それは、あまりにも正論だった。
今でさえ、四人に加えて零、希空、秋吉、研究員達まで、研究所全体が振り回されている。
これから駆逐艦、軽巡、重巡、戦艦、空母と建造数が増える。その全員を秘密研究所の中で生活、教育、訓練させるなど、不可能だった。
「それで、どこに?」
士が聞く。
「呉」
希空は答える。
「元々、神通が歩けるくらいまで育ったら、四人を呉へ送るつもりだった」
「呉鎮守府……」
加奈が言う。
士もすぐ理解した。
「小林長官のところか」
「うん」
「なら、安心ではあるな」
呉には国防海軍の大きな施設がある。海上訓練も出来るし、生活環境も研究所より遥かに大量の人員を受け入れやすい。
そして何より、信用出来る人間がいる。
「一特艦からも、何人か瀬戸内海方面へ回す話があるみたい」
希空は続けた。
「その人達に、第二世代の教官役もやってもらう予定」
「なるほど」
士は納得する。
実戦経験のある第一世代艦娘が幼い第二世代を教える。身体能力、艤装、海上航行、戦い方。知識だけでは埋められない部分を、先輩達が教える。
合理的だった。
加奈も同じ結論に至った。
「……良いんじゃないかな」
止める理由が無かった。
だから二人とも頷いた。
ただしその間、零の顔がどんどん曇っていくのを、横目で見ながら。
希空が再び研究へ戻った後、士は非常に困っていた。
「……その」
隣を見る。
零がいる。その腕の中に阿武隈がいる。
零は阿武隈を、かなり強く抱きしめていた。
「元気出せよ」
「……うん」
返事は小さい。明らかに元気は無い。
泣いてはいない。ただ、今にも泣きそうだった。阿武隈を抱いているから、辛うじて我慢しているようにも見える。
加奈は阿武隈の方へ聞いた。
「阿武隈ちゃんは、寂しい?」
「……うん」
阿武隈も悲しそうだった。
ただ、零ほど状況を深く理解しているわけではない。まだ、研究所から呉へ行くということが具体的に何を意味するのか、完全には分かっていない。
その差だった。
「俺、江田島にいるから」
士が言う。
零が顔を上げる。
「呉なら近い。たまに様子見に行けると思う」
「……ほんと?」
「ああ。阿武隈のことも、川内達のことも見とくから」
「……うん」
少しだけ顔が上がる。
しかしすぐ、阿武隈を抱く腕に力が戻った。
加奈はその様子を見ながら、何とも言えない気持ちになった。
一歳児が、大切な人との別れを知って曇っている。
言葉だけなら、普通のことなのかもしれない。
だが、この一歳児は世界中の兵器を知っている。軍事理論を知っている。人間を殺す技術まで知っている。
その一方で、大切な子と離れること、その寂しさへの耐え方は知らない。
「……零」
「なに?」
加奈は少し迷った。
そして、頭を撫でた。
「寂しい時は、寂しいって言って良いんだよ」
零は少しだけ目を伏せた。
「……うん」
その時だけ、年齢相応の小さな子供だった。
三ヶ月後、2012年3月17日。
“神通”が歩けるようになったのは、三月上旬だった。
当初の予定なら、その時点で四人は呉へ移るはずだった。
しかし、士と加奈から一つの提案が出た。
せめて阿武隈の最初の誕生日までは、研究所で過ごさせてやってほしい。
3月16日。
一年前、最初の量産型第二世代艦娘、“阿武隈”が生まれた日。
その日を零達と一緒に過ごし、翌日、3月17日に四人は研究所を離れることになった。
移動を担当したのは士だった。
江田島から近いという事情もある。さらに輸送任務そのものを海軍兵学校側で『実地訓練』として扱えるよう、話が通された。
勿論、単に子供四人を連れて行くだけではない。
第二世代艦娘は、国防軍にとって極めて重要な存在である。護衛、引き渡し、移動計画、その全てが正式な任務だった。
“川内”。
“神通”。
“那珂”。
そして、“阿武隈”。
四人が呉へ行く。
出発直前。
「───阿武隈っ」
零が阿武隈へ駆け寄った。
そして抱きしめる。
阿武隈もすぐ抱き返す。
「……零」
二人は小さな声で何か話していた。近くにいる大人達にも、ほとんど聞こえない。
何を言ったのか、誰にも全部は分からなかった。
ただ、一つだけ、はっきり聞こえた。
零が阿武隈の肩を抱いて、顔を見る。
一歳とは到底思えない。けれど、この時だけは、何処か、子供が憧れるヒーローのような顔だった。
「───俺が守るから」
阿武隈は少しだけ目を見開いた。
そして、笑った。
それがただの格好付けだったのか、希空からヒーローというものを教わった零が、妹へ言ってみたかっただけなのか。
あるいは、もっと単純に離れたくなかったから、何か約束を残したかったのか。
この時の零自身にも、多分分かっていなかった。
ただ、『守る』という言葉だけは、彼の中に残った。
研究所を出ていく車両が見えなくなるまで、零はその場から動かなかった。
続く
あ と が き
気付いたら零の曇らせが書かれていた件。
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