いつかの予告の回収。
艦娘技術研究所 戦闘指揮所
瀬戸内海での状況をリアルタイムで把握するべく稼働していた指揮所に、緊急通信の受信音が響いた。
「緊急電です。発信元、艦娘母艦「建御名方」。特務艦隊司令部より、最優先扱い」
通信卓に座っていた等身大の妖精が対応する。
艦娘技術研究所では、人間の職員ではなく、多くの妖精が研究員、整備員、通信員として働いている。
通常の艤装担当としての妖精ではない。
人間と同じ大きさになり、機材を扱い、管制を担い、時には艦娘母艦の乗組員としても勤務する存在。
それは単に便利だからではなかった。
艦娘技術研究所も、
「建御雷」も、
「建御名方」も、
存在そのものが国家機密の塊だった。
関係者は少なければ少ないほどいい。
ならば、妖精たちに任せられる部分は妖精たちに任せる。
それが、この施設と艦娘母艦における基本方針の一つだった。
「読み上げてくれ」
秋吉が言った。
通信担当の妖精は頷き、受信した電文を表示する。
「呉方面防衛線、未知の上位個体により突破の恐れあり。市街地被害拡大、ならびに西日本方面への侵攻拡大を警戒。即応可能な対上位個体戦力の緊急派遣を要請する」
指揮所の空気が、わずかに止まった。
文面そのものは、ただの救援要請だった。
どこにも、特定の個人名は書かれていない。
誰を出せとも、誰を送れとも書かれていない。
だが、秋吉も、彼のやや後方に立っていた希空も、すぐに理解した。
即応可能。
対上位個体戦力。
呉方面へ、今すぐ投入可能な存在。
その条件を満たす戦力など、この研究所には一人しかいない。
「……駄目だ」
最初にそう言ったのは、秋吉だった。
指揮所の空気が、再び止まる。
希空が秋吉を見る。
入口にいた零も、秋吉を見た。
「この状況で出せる戦力が零しかいないことは分かっている。分かっているけど……まだ早い」
秋吉の声は低かった。
判断を放棄した声ではない。
状況を理解していない者の声でもない。
それは、まだ幼い少年を戦場へ送り出すことへの、どうしようもない抵抗だった。
「零はまだ子供だ。いくら性能が高いと言っても、上位個体相手に実戦投入は───」
「勝てるよ」
秋吉の言葉を遮ったのは、希空だった。
あまりにも自然に。
あまりにも迷いなく。
十歳の少女は、力強く言う。
「零なら勝てる」
秋吉が振り返る。
「希空」
「私は零のお姉ちゃんだよ」
希空は、零の方を見た。
「それに、零の本当の性能を知っているのは私だけ。だから言える。あの子なら、上位個体を止められる」
その言葉に、迷いはなかった。
慢心ではない。
願望でもない。
設計者として。
姉として。
零という存在を誰よりも知る者としての確信だった。
「所長が心配する気持ちは分かる。でも、ここで零を出さなかったら、呉が焼かれる。阿武隈たちも死んじゃう」
その名に、零の表情が動いた。
「阿武隈たちは?」
零が問う。
「川内、神通、那珂は? 阿武隈は無事なの?」
秋吉は一瞬だけ目を伏せた。
「現時点では不明だ。呉鎮守府所属の護衛艦娘部隊は、新型上位個体と強襲上陸部隊の襲撃で分断されてる。川内型3人と阿武隈の通信も、一部途絶している」
「……そう」
零は短く答えた。
その声に震えはない。
だが、指先だけがわずかに握り込まれていた。
“川内”。
“神通”。
“那珂”。
そして、“阿武隈”。
彼女たちはまだ、正式な艤装を持っていない。
第二世代艦娘として建造され、訓練を受けてはいるが、実戦用の艤装を受領する前の段階だった。
今の彼女たちは、戦うための艦娘ではない。
守られるべき少女たちだ。
その誰かが、今、呉で追い詰められているかもしれない。
零は秋吉を見た。
「俺が行く」
迷いはなかった。
出撃命令を待つ前から、彼はそう言うつもりでいた。
いや、この電文を見た時点で、答えは決まっていた。
「俺が行かなきゃ、間に合わない」
秋吉は、零を見つめた。
その小さな身体を。
まだ大人になり始めてもいない顔を。
それでも、すでに戦場へ向かう者の目をしている四歳にもなりきっていない少年を。
出したくない。
送りたくない。
まだ早い。
その全てが、正しい。
だが、正しいだけでは守れないものがある。
希空が静かに言った。
「零はもう決めてる」
秋吉は、しばらく黙っていた。
そして、深く息を吐く。
「……零」
「うん」
「出撃するんだ。呉方面へ急行し、上位個体の進撃を阻止。可能なら、孤立した第二世代艦娘、および護衛艦娘を救出するんだ」
「分かった」
零は即答した。
秋吉はCICの管制卓へ向き直る。
「地下格納庫、発進準備。電磁カタパルトを起動。地上発進ゲートの偽装を解除。全区画、非常発進手順へ移行」
等身大の妖精たちが、一斉に動き出す。
「地下格納庫、応答あり」
「第二カタパルト、充電開始」
「地上発進ゲート、隠匿ロック解除準備」
「周辺監視網、警戒レベル最大へ移行」
研究所の地下深くで、巨大な機械が目を覚ましていく。
秋吉は背を向けたまま言った。
「零」
「うん」
「……帰ってこい」
命令ではなかった。
それは、秋吉という大人が、零という少年へかけた言葉だった。
零は少しだけ目を見開く。
そして、小さく頷いた。
「……行ってきます」
希空は、迷いなく零の手を取った。
「行こう!」
二人は、戦闘指揮所を出た。
地下格納庫へ向かう通路は、普段よりも冷たく感じた。
白い照明が床を照らし、壁面に並ぶ警告灯が赤く点滅している。
その横を、希空と零が走る。
途中、何人もの妖精整備員が敬礼した。
零はそれに返礼しながら、先へ進む。
やがて、厚い隔壁の前に到着した。
「格納庫、開放!」
希空が端末を操作する。
重い音を立てて、隔壁が左右へ開いていく。
その奥に、二機の機体が眠っていた。
一機は、震電七八型。
震電保存会から、さらなる発展研究のために預けられた機体である。
震電の夢を、艦娘の技術でさらに先へ進めるため。
ここにあること自体が、艦娘技術研究所と震電保存会の繋がりを示していた。
そして、もう一機。
細身の機体。
高高度偵察機を思わせる長い胴体。
機体下部には、偵察装備とウェポンベイが備えられている。
星雲。
アメリカのSR-71に似たコンセプトを持つ機体。
希空が個人的に所有し、改修を続けてきた機体だった。
ただし、星雲そのものは特別な超兵器ではない。
機体性能だけで見れば、国防空軍が保有する一般機と大きく変わらない。
速度も、上昇力も、航続距離も、既存の仕様を大きく逸脱しているわけではない。
ただ、一つだけ違うものがあった。
制御システム。
希空が独自に換装したそれは、「雪風」に搭載した半自動制御系の派生だった。
操縦補助。
自動航法。
緊急回避。
機体姿勢制御。
人間単独では完璧には処理しきれない情報を自動制御が補助することで、星雲は極めて安定した高速飛行を可能にしている。
「ただの実験用だったのに、こんなことに使うなんて」
希空が呟く。
今日の星雲の役目は、ただ飛ぶことではない。
零を、呉へ運ぶ。
そして、戦場の真上へ落とす。
成層圏から、パラシュート無しでの空挺投下。
「通常の輸送機じゃ遅い。呉の滑走路も使える保証がない。空軍機を回しても、投下位置の自由度が足りない」
希空は星雲を見上げる。
「でも、星雲なら呉上空まで突っ込める。零なら、そこから落としても壊れない」
「落としてもって言い方、どうにかならない?」
零が少しだけ眉を寄せる。
希空は笑った。
「だって、本当に落とすんだもん」
その軽口に、零の表情もわずかに緩んだ。
だが、それも一瞬だった。
「姉さん」
「何?」
「阿武隈たちは、まだ生きてるよな」
希空は、すぐに答えた。
「生きてる」
確証はない。
通信は途絶している。
上位個体に捕捉されていれば、第二世代艦娘といえども未成熟かつ艤装無しではどれだけ持つか分からない。
それでも、希空は迷わず言った。
「だから、間に合わせるよ」
「……うん」
二人は星雲へ乗り込む。
その直前、希空は零を呼び止めた。
「待って、零。これだけは付けていって」
希空が妖精整備員から受け取ったのは、小型の頭部装着ユニットだった。
頭部CIWSポッド。
現時点で、零が戦場へ持ち込む唯一の外部装備である。
形状は、頭部側面から後頭部にかけて固定する追加装備に近い。
小型ながら、内部にはタキオンドライヴから直接エネルギー供給を受ける高出力レーザー発振器が組み込まれている。
つまり、零の頭部に装着する近接防御用パルスレーザーCIWSだった。
だが、その役割は単なる迎撃兵装に留まらない。
零自身の照準補助。
周辺情報の統合。
敵弾道の演算。
そして、希空が乗る星雲とのデータリンク。
零の感覚と機体側の管制情報を接続し、戦場での判断を補助するための、FCS拡張ユニットでもあった。
「外部装備はこれだけ?」
零が確認する。
「うん。今の零なら、下手に武器を持つよりその方が早い」
希空は迷わず答えた。
「CIWSポッドは、迎撃と照準補助。それから、私との通信中継にも使う。投下後も星雲からできる限り支援するから、通信は切らないで」
「分かった」
零は頷き、頭部CIWSポッドを受け取る。
装着すると、ユニットが短く駆動音を鳴らした。
固定具が頭部に合わせて締まり、内蔵センサーが零の視界と同期する。
視界の端に、星雲とのリンク表示が淡く浮かんだ。
《接続確認。感度良好》
希空の声が、ポッド越しに聞こえる。
零は軽く息を吐いた。
「聞こえる」
「よし。これで、離れてても私の声は届く」
希空はそう言って、笑った。
「だから、ちゃんと聞いてね。お姉ちゃんの言うこと」
「内容による」
「こういう時だけ生意気」
その軽口に、零も少しだけ笑う。
だが、次の瞬間には表情を引き締め、星雲の機体下部へ向かった。
希空はコクピットへ。
零は機体下部のウェポンベイへ乗り込む。
ウェポンベイは狭かった。
偵察用途の機材を積み込むことを想定されたスペースであり、人間が長時間待機するには向かない。
床下には分厚いハッチ。
その先には空がある。
零は壁面のハンドグリップを握り、固定ベルトを装着する。
通信が開いた。
《零、聞こえる?》
「聞こえる」
《投下直前まで、そこで待機。姿勢制御は自分でやることになる》
「分かってる」
《高度も速度も普通じゃない。着地の衝撃も、従来の艦娘なら身体が壊れる》
零は少しだけ笑った。
「俺なら大丈夫」
《うん。知ってる》
希空は、当然のように答えた。
秋吉なら、ここでまだ心配しただろう。
だが、希空は違った。
彼女は零を心配していないわけではない。
ただ、それ以上に知っているのだ。
零がどれほどの存在なのかを。
零に何ができるのかを。
そして、零が何のためにその力を使うのかを。
《零》
「何?」
《ちょっと前に一緒に観たアニメの台詞、覚えてる?》
「……どれ?」
《その力は、神にも悪魔にもなれる》
零の表情が、わずかに変わった。
それは、ただの引用だった。
少し前、希空が零に見せた古いアニメ。
無敵の力を持つ兵器が、正義の心で戦う物語。
けれど今、その言葉は冗談ではなかった。
《零の力は、本当にそういう力だよ。使い方を間違えれば、何もかも壊してしまう》
希空の声は優しかった。
だが、甘くはなかった。
《───だから、零の思うままに使いなさい》
零は目を見開く。
「姉さん」
《あなたが守りたいと思ったものを守って。助けたいと思った子を助けて。邪魔する敵は、全部叩き潰していい》
それは忠告だった。
同時に、鼓舞でもあった。
そして何より、希空の自慢だった。
自分が生み出した弟。
自分が育てた兵器。
自分が誰よりも信じている、優しい少年。
《行ってきなさい、零》
希空は告げる。
《人類の希望。正義の魔神》
零は一瞬だけ黙った。
そして、笑った。
「……うん。行ってくる」
その返答と同時に、星雲の機体がわずかに震えた。
格納庫床面の接続アームが、機体をカタパルトへ固定する。
電磁加速用のレールが発光し、機体下部のロックが順番に噛み合っていく。
《カタパルト接続確認》
《主電源、外部供給へ接続》
《星雲、発進シーケンス開始》
《地上発進ゲート、開放します》
研究所の地表。
雪と岩肌に偽装されていた一角が、ゆっくりと割れた。
山肌の一部が左右へ滑り、内部から長大な発進レーンが姿を現す。
吹き込む外気が、地下の空気を震わせた。
秋吉の声が通信に入る。
《星雲、発進を許可する》
希空が操縦桿を握る。
「星雲、出るよ」
電磁カタパルトが唸りを上げた。
次の瞬間、星雲は地下から射出された。
機体が凄まじい加速度で発進レーンを駆け抜ける。
暗い地下空間が一瞬で後方へ流れ、白い外光が視界を焼く。
山肌から飛び出した星雲は、そのまま空へ突き上がるように上昇した。
零の身体に、強烈な加速度がかかる。
それでも、彼は動かなかった。
固定ベルトとハンドグリップに身体を預け、ただ前を見ている。
呉へ。
“阿武隈”たちのいる場所へ。
少女と少年は飛ぶ。
星雲は南へ向かった。
呉軍港は、燃えていた。
市街地そのものへの被害は、まだ限定的だった。
国防陸軍と呉鎮守府の部隊は、辛うじて市街中心部への侵入を防いでいる。
避難誘導も続いている。
まだ、完全には崩れていない。
だが、軍港としての呉は、既に致命的な損害を受けていた。
燃料タンクが炎を上げている。
整備棟の一部が崩落している。
大型クレーンが折れ、赤熱した鉄骨が海面へ突き刺さっている。
弾薬庫の一角では誘爆が起き、黒煙が空へ伸びていた。
消火車両が走る。
まだ無事な者が負傷者を運ぶ。
国防軍の兵士が怒号を飛ばし、退避する整備員を誘導する。
その全ての中心に、“重巡棲姫”がいた。
白い肌。
黒い艤装。
重巡級でありながら、通常の艦艇とは比較にならない存在感。
彼女は、砲煙の中を歩いていた。
急ぐ必要などないと言わんばかりに。
誰にも止められないと知っている者の歩調で。
10式戦車が、砲塔を旋回させる。
「撃て!」
主砲が火を噴いた。
120mmAPFSDS-ASが、“重巡棲姫”へ向かって飛ぶ。
命中。
黒い艤装の一部で火花が散る。
だが、“重巡棲姫”は止まらなかった。
傷はついた。
装甲表面は削れている。
それでも、貫徹には至らない。
彼女の歩みは変わらない。
「効果、限定的!」
「次弾装填完了!」
「舐めるな、このヒトマルの装填速度は───」
二発目を撃つより早く、“重巡棲姫”の艤装が動いた。
砲口が、戦車へ向く。
一瞬。
それだけだった。
発射音と同時に、10式戦車の砲塔が吹き飛んだ。
車体が横転し、炎を上げる。
近くにいた装甲車が後退する。
歩兵たちが建物の陰へ飛び込む。
対戦車ミサイルが発射される。
ロケット弾が飛ぶ。
いくつかは命中した。
爆炎も上がった。
しかし、上位個体を止めるには足りない。
“重巡棲姫”は、ただ腕を振るうように艤装を動かした。
次の瞬間、港湾区画の一角が爆ぜる。
国防陸軍の防衛線は、少しずつ後退していた。
敗走ではない。
まだ戦っている。
だが、下がらされていた。
その後方、燃え盛る倉庫街の陰を、数人の少女たちが走っていた。
“川内”。
“神通”。
“那珂”。
そして、彼女たちの護衛として同行していた、呉鎮守府配備の第一世代艦娘たち。
“川内”たちは艤装を持っていない。
まだ、実戦に出るための艤装を受領していない状態だった。
訓練は受けている。
身体能力も、普通の人間とは違う。
それでも、上位個体が暴れる戦場で身を守る術はほとんどない。
だから、護衛が付けられていた。
ただし、その護衛艦娘たちも、他の日本の第一世代艦娘と比べれば旧式に属する。
初期に建造され、改修を重ねながら呉で任務を続けてきた艦娘たち。
経験はある。
責任感もある。
だが、性能は足りない。
小林の命令により、彼女たちは直接戦闘ではなく、幼い艦娘たちの護衛に専念するよう指示されていた。
それは正しい判断だった。
旧式の第一世代艦娘が、上位個体と正面から戦う。
そんなことは、本来なら自殺に等しい。
「こっち!」
“神通”が先導する。
冷静だった。
まだ幼い身体でありながら、彼女は誰よりも早く周囲を見ていた。
「那珂、足を止めないで!」
「分かってる、けど!」
“那珂”は息を切らしながらも走る。
背後で爆発が起きるたびに肩を震わせるが、それでも止まらない。
“川内”は最後尾に近い位置を走っていた。
武器はない。
艤装もない。
それでも、彼女は何度も振り返っていた。
「阿武隈は!?」
「通信、まだ繋がらない!」
護衛の第一世代艦娘が答える。
少し前まで、“阿武隈”は近くにいた。
別の護衛艦娘たちと共に、彼女たちと同じ退避経路を走っていたはずだった。
だが、港湾施設の崩落と爆発で部隊は分断された。
通信は混線し、煙と炎が視界を塞ぐ。
その隙に、彼女たちははぐれた。
「戻る!」
“川内”が叫んだ。
“神通”が即座に振り返る。
「駄目です!」
「でも、阿武隈が!」
「今戻っても全滅します!」
“神通”の声は震えていなかった。
けれど、その顔色は真っ青だった。
戻りたいのは彼女も同じだ。
“那珂”も、泣きそうな顔で歯を食いしばっている。
それでも、戻れば死ぬ。
上位個体がいる。
下位個体もまだまだ残っている。
今の自分たちでは、出会った時点で終わる。
「くそっ……!」
“川内”は奥歯を噛みしめた。
その時、遠くで主砲の音が響いた。
一発。
二発。
三発。
その方向に、誰がいるのか。
誰も口にはしなかった。
少し離れた高台。
崩れかけた監視塔の内部に、二人の男がいた。
国防軍の制服ではない。
呉鎮守府の職員でもない。
RBD。
彼らは、携帯端末に映る映像を確認していた。
港湾区画に設置していた監視装置。
民間インフラへ仕込んだ小型カメラ。
深海棲艦侵攻に紛れて展開した無人機。
そこに映っているのは、逃げ惑う艦娘たちの姿だった。
「川内型三名、北東へ移動。阿武隈と思われる個体は南側へ分断」
「重巡棲姫の進路と交差するな」
「誘導できるか?」
「既に十分だ。あとは向こうが勝手に見つける」
一人が淡々と言った。
彼らは深海棲艦を完全に操っているわけではない。
だが、監視し、情報を流し、ほんのわずかに状況を整えることはできる。
幼い艦娘たちを上位個体の進路上へ追いやる。
たったそれだけでいい。
「第二世代初期個体の実戦時反応が取れる。死んでも構わん」
「むしろ、死んだ方が都合がいい。艦娘派の連中に揺さぶりをかけられる」
男たちは、画面の中で走る少女たちを見ていた。
そこに人間を見る目はなかった。
ただの駒。
ただの実験材料。
ただのデータ。
その画面の中で、“阿武隈”が転んだ。
“阿武隈”は、息ができなかった。
煙を吸ったからではない。
走り続けたからでもない。
恐怖で、肺がまともに動かなくなっていた。
「こっち、早く!」
護衛の第一世代艦娘が叫ぶ。
“阿武隈”は必死に立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。
周囲は瓦礫だらけだった。
崩れた倉庫。
焼け落ちた車両。
赤く燃える燃料。
黒煙。
火の粉。
砕けたコンクリート。
さっきまで一緒にいたはずの“川内”たちの声は、もう聞こえない。
通信も繋がらない。
どこへ逃げればいいのかも分からない。
その時、地面が震えた。
重い足音。
“阿武隈”は振り返る。
炎の向こうに、“重巡棲姫”がいた。
護衛とばかりに“ル級”や“リ級”、“砲台小鬼”などを引き連れている。
燃え盛る炎に紛れるようにして赤いオーラも見える。
どうやら一部はelite個体らしかった。
それは、完全な威圧だった。
そして、その効果は十分すぎるほどにあった。
黒煙を裂くようにして、彼女は歩いてくる。
その姿を見た瞬間、“阿武隈”の身体から力が抜けた。
「……っ」
声が出ない。
護衛の艦娘が前へ出た。
「下がって!」
もう一人も並ぶ。
「ここは私たちが止めるから!」
二人の第一世代艦娘は、恐怖を押し殺して艤装を構えた。
古い砲。
薄い装甲。
何度も改修され、それでも今の上位個体相手にはあまりにも足りない装備。
それでも、彼女たちは立った。
“阿武隈”を守るために。
砲撃。
二人の艦娘が同時に撃つ。
砲弾は“重巡棲姫”の艤装に命中した。
爆炎が上がる。
だが、“重巡棲姫”は止まらない。
彼女は少しだけ首を傾げた。
まるで、今何か当たったのかと確認するように。
次の瞬間、彼女の副砲が動いた。
「避け───」
言葉は最後まで続かなかった。
爆発。
一人目の艦娘が炎に呑まれた。
砕けた艤装片が、火の粉に混じって飛び散る。
彼女が立っていた場所には、黒く焼けた破片と、何か白い布の切れ端だけが残った。
二人目が叫び、前へ出る。
再び主砲を放とうとする。
だが、その前に“重巡棲姫”に肉薄され、腕を力任せに振るわれた。
衝撃。
艦娘の身体が、瓦礫の壁へ叩きつけられる。
激突音と同時に、壁面が大きく砕けた。
彼女の艤装は原形を失い、身体はひしゃげながら炎と煙の向こうへ消えた。
一瞬だった。
戦闘と呼ぶには、あまりにも短い。
抵抗と呼ぶには、あまりにも一方的。
“阿武隈”は、それを見ていた。
見ていることしかできなかった。
「……あ」
喉が震える。
立たなければいけない。
逃げなければいけない。
助けに行かなければいけない。
そう思うのに、身体が動かない。
腰が抜けていた。
膝が震え、手が瓦礫を掴む。
掌に破片が刺さる。
痛みはある。
けれど、それすら遠い。
“重巡棲姫”が、彼女を見た。
赤い瞳。
そこに怒りはなかった。
憎しみもない。
ただ、目の前にあるものを撃つだけの冷たい視線。
軟体状の艤装がうねり、主砲が動く。
砲口が、“阿武隈”へ向いた。
「……いや」
声にならない声が漏れる。
逃げられない。
立てない。
戦えない。
今の自分では、何もできない。
砲口の奥に、光が宿る。
“阿武隈”は目を見開いた。
時間が遅くなったように感じた。
主砲が火を噴く。
空気が裂ける。
音よりも速く、死が迫ってくる。
音は遅れて聞こえた。
迫ってくる砲弾。
それが自分へ向かっていることを、彼女は理解していた。
怖い。
ただ怖かった。
先輩たちのように前へ出ることもできない。
護衛の艦娘たちのように誰かを守ることもできない。
“川内”たちのところへ戻ることもできない。
ただ、瓦礫の中で座り込んで、死を待っている。
“阿武隈”は、目を閉じた。
その瞬間。
何かが、空から落ちてきた。
地面が砕ける。
爆風が、彼女の髪を揺らした。
だが、痛みは来なかった。
代わりに聞こえたのは、金属が砕けるような音だった。
いや、違う。
砲弾を弾く音。
“阿武隈”は、恐る恐る目を開けた。
目の前に、誰かが立っていた。
同い年くらいの男の子。
まだ大人ではない。
大きすぎる背中ではない。
それでも、その背中は、今まで見た何よりも大きく見えた。
左腕が、青白く光っていた。
光を纏ったその腕が、音速を超えて飛んできた砲弾を弾いていた。
弾かれた砲弾は軌道を逸らし、港湾区画の外れへ飛んでいく。
一拍遅れて、爆発。
炎が夜のように暗い煙を照らす。
“重巡棲姫”が、初めて足を止めた。
「オマエ、何処カラ───」
「……黙れ」
“阿武隈”は、目の前の少年を見上げる。
その背中を知っている気がした。
その声を、聞いたことがある気がした。
研究所で。
訓練場で。
何度も顔を合わせた、あの少年。
でも、今そこに立っている彼は、ただの知り合いではなかった。
炎の中に降り立ち、砲弾を弾き、自分の前に立ちはだかる存在。
それは、物語の中にしかいないと思っていたもの。
ヒーローだった。
少年が、わずかに振り返る。
青白い光が、彼の左腕からまだ淡く零れている。
「大丈夫?」
その声を聞いた瞬間、“阿武隈”の胸の奥で何かが焼けた。
恐怖で凍っていた心に、熱が戻る。
震えていた身体に、痛いほど強い鼓動が戻る。
“阿武隈”は答えようとした。
けれど、声が出ない。
ただ、見上げることしかできなかった。
爆炎に灼かれる軍港で。
瓦礫と黒煙の中で。
誰も間に合わないはずだった場所で。
彼は、間に合った。
“重巡棲姫”が、ゆっくりと砲口を向け直す。
少年は前を向いた。
その身体を、青白く輝かせながら。
「これ以上、手を出すな!」
その瞬間、“阿武隈”は理解した。
目の前に立つ少年は、紛れもなくヒーローだった。
続く
あ と が き
小ネタもまあまあある回。
頭部CIWSポッドのデザインイメージは、RX-178のバルカンポッド。
次回 第一章完結