英雄譚の始まり。
「これ以上、手を出すな!」
爆炎に灼かれる呉軍港に、零の声が響いた。
“阿武隈”の前に立つ小さな背中。
青白く輝く身体。
左腕から零れ落ちる光。
その姿を見て、“重巡棲姫”は足を止めていた。
ほんの一瞬だけ。
だが、それは確かに、足を止めさせたのだ。
開戦以来、国防軍の通常兵器を、艦娘の砲撃を、陸軍の防衛線を踏み潰してきた上位個体。
その“重巡棲姫”が、目の前に現れた少年を見て動きを止めた。
「オマエ……艦娘カ?」
“重巡棲姫”の赤い瞳が、零を見下ろす。
その周囲では、“ル級”や“リ級”が砲を向けていた。
“砲台小鬼”たちも、瓦礫と炎の間に陣取り、照準を零へ合わせている。
elite個体を先頭に、じりじりと包囲を狭めていた。
威圧。
包囲。
数の圧力。
それは、未艤装の“阿武隈”を恐怖で縛りつけるには十分すぎるものだった。
だが、零は振り返らなかった。
「……姉さん」
零が小さく呟く。
その声は、頭部CIWSポッドを通じて星雲へ届く。
《聞こえてる》
希空の声が返る。
星雲は、呉上空を大きく旋回していた。
雲と煙の上。
対空砲火の届きにくい高度を維持しながら、希空は星雲のセンサーと零の頭部CIWSポッドを接続し、戦場の情報を処理している。
《周囲にル級二、リ級三。砲台小鬼複数。elite個体も混じってる。上位個体はまだ動かない。先に周囲を潰して》
「分かった」
《ワープは使わないこと。燃費が悪すぎる。使うなら、本当に必要な時だけ》
「大丈夫。使わない」
零は、左腕の光───タキオンウォールを弱めた。
“阿武隈”を守るために集中していた光が、身体全体へ薄く広がる。
青白い光が皮膚の上を流れ、足元の瓦礫を淡く照らした。
“重巡棲姫”が、わずかに目を細める。
次の瞬間、“砲台小鬼”が発砲した。
至近距離からの砲撃。
普通の艦娘なら、避けるには近すぎる。
受ければ、ただでは済まない。
だが、砲弾が零へ届く前に、タキオンウォールがそれを砕いた。
続いて、頭部CIWSポッドが起動する。
耳元で、短い駆動音。
次いで、細い光線が走る。
パルスレーザー。
それは迎撃するためだけのものではなかった。
零の視線に連動して、頭部CIWSポッドが“砲台小鬼”を捉える。
次の瞬間、連続した光が“砲台小鬼”の正面装甲を焼いた。
表面が赤熱する。
分厚い装甲が削れていく。
まるで刃物で削り取るように、真正面から装甲が剥がされていく。
“砲台小鬼”が悲鳴のような音を上げた。
その直後、零が動いた。
消えたように見えた。
少なくとも、“阿武隈”にはそう見えた。
青白い光が瓦礫を蹴る。
地面が砕ける。
次の瞬間、零の拳は“砲台小鬼”の装甲を貫いていた。
爆発。
“砲台小鬼”が内側から弾ける。
「一つ」
零は呟いた。
“リ級”が主砲を向ける。
その砲口が火を噴くより早く、零はその懐へ飛び込んでいた。
拳が突き刺さる。
黒い装甲が裂ける。
軟質化した艤装のような部分を、零の腕が深々と貫いた。
“リ級”が身体を震わせる。
零は腕を引き抜くのではなく、そのまま横へ振った。
裂けた。
“リ級”の身体が、艤装ごと引き裂かれ、黒い液体と破片を撒き散らして崩れる。
二体目の“リ級”が距離を取る。
三体目が側面へ回る。
“ル級”の砲塔が零を狙う。
包囲しようとしていた。
だが、遅い。
零の身体が、あり得ない角度で跳ねた。
足場にしたのは、崩れた鉄骨の端。
蹴った瞬間、鉄骨がひしゃげ、零の身体は砲弾のように宙を走る。
ワープではない。
ただの跳躍。
ただの加速。
ただの身体能力。
だが、それが人間のものでも、従来の艦娘のものでもなかった。
“ル級”が主砲を撃つ。
零は空中で身体を捻り、砲弾の軌道から外れる。
次の瞬間、彼の手刀が“ル級”の砲塔基部へ叩き込まれた。
青白い光を纏った手刀が、装甲を裂く。
砲塔が根元から斬り飛ばされた。
“ル級”が後退しようとする。
零はその胸部へ掌を押し当てる。
掌に、光が灯った。
陽電子砲。
零の掌から放たれた白い光が、“ル級”を内側から撃ち抜く。
黒い艦影が膨らみ、次の瞬間、爆散した。
「……何、あれ」
瓦礫の陰で、“阿武隈”が掠れた声を漏らした。
恐怖が消えたわけではない。
目の前で起きていることが、理解できないだけだった。
さっきまで、自分たちを追い詰めていた下位個体たち。
護衛の第一世代艦娘を一方的に殺した、恐ろしい存在たち。
それが、零の前では次々と壊れていく。
一撃。
また一撃。
撃たれる前に懐へ入り、撃たれても避け、避けられない砲撃は光で受け流す。
距離を取れば、掌の光に撃ち抜かれる。
近づけば、拳で貫かれ、手刀で斬り裂かれる。
“リ級”が悲鳴を上げた。
“砲台小鬼”が砲身を向ける。
elite個体が赤いオーラを揺らめかせる。
だが、零は止まらない。
《右、砲台小鬼。俯角が間に合ってない》
希空の声が飛ぶ。
零は反応するより早く動いた。
頭部CIWSポッドの照準補助が視界の端で標的を捕捉し、零の身体がそれに合わせて加速する。
パルスレーザーが走る。
“砲台小鬼”の装甲が焼ける。
そこへ零が突っ込む。
膝蹴りが砲身をへし折り、続く掌部陽電子砲が本体を撃ち抜いた。
《後方、“リ級”二。距離を取ってる》
「見えてる」
零が右手を向ける。
掌に光が生まれる。
収束。
射出。
白い光が、逃げようとした“リ級”を背中から貫いた。
もう一体の“リ級”が反撃しようとする。
零は地面を蹴り、視界から消える。
次の瞬間、真上から落下してきた零の踵が“リ級”の艤装を叩き潰した。
黒い破片が飛び散る。
残っていた“ル級elite”が、初めて後退した。
その動きには、明確な恐怖があった。
従来の艦娘ではない。
国防軍の戦車でもない。
艦載機でも、砲撃でも、ミサイルでもない。
目の前の小さな少年は、深海棲艦を素手で破壊している。
「ニゲ───」
“ル級elite”が言葉にならない音を漏らす。
零はその前に立っていた。
「逃がさない」
掌が、黒い装甲へ押し当てられる。
発光。
爆発。
最後の下位個体が崩れ落ちた。
戦場が、一瞬だけ静かになった。
炎の音。
遠くの砲声。
崩れる鉄骨の軋み。
そして、零の足元から立ち上る黒煙。
“重巡棲姫”の周囲にいた随伴は、全て沈黙していた。
わずかな時間だった。
国防陸軍を後退させ、未艤装の艦娘たちを追い詰め、軍港を蹂躙していた下位個体群が、零一人によって消えた。
“重巡棲姫”は、その光景を見ていた。
赤い瞳に、初めて別の色が混じる。
警戒。
そして、わずかな興味。
「オマエ……何ダ」
零は答えなかった。
ただ、彼女へ向き直る。
《零。ここからが本番》
希空の声が、少しだけ低くなる。
《相手は上位個体。下位個体と同じにはいかない》
「分かってる」
零は足を開き、構えた。
“重巡棲姫”が艤装をうねらせる。
軟体状の白い艤装が背後で広がり、複数の砲口が零を向いた。
上位個体。
開戦以来、人類が一度も撃沈できていない存在。
下位個体なら撃沈できる。
いくら数が多くても、戦術次第で撃破できる。
だが、上位個体は違った。
“空母棲鬼”。
“戦艦棲姫”。
そして、この“重巡棲姫”。
彼女たちは、ただ強いだけではない。
戦場そのものを歪める存在だった。
艦隊を押し返す。
防衛線を砕く。
人類側の計算を、その一体だけで狂わせる。
人類はまだ、一度も上位個体を撃沈していない。
その事実が、今、零の前に立っていた。
“重巡棲姫”が動く。
速い。
巨体と艤装の質量に見合わない速度で、彼女は零へ肉薄した。
細くも力強い腕が振るわれる。
零は跳んだ。
瓦礫を蹴り、横へ滑る。
だが、“重巡棲姫”の砲口が追ってくる。
発射。
零は左腕を上げた。
青白い光が盾のように広がり、砲弾の軌道を逸らす。
弾かれた砲弾が背後の倉庫跡へ突き刺さり、爆発した。
爆風を背に、零は前へ出る。
拳が“重巡棲姫”の艤装へ叩き込まれた。
重い音。
装甲が歪む。
だが、抜けない。
“リ級”を貫いた拳が。
“ル級”を砕いた手刀が。
“砲台小鬼”を正面から破壊した出力が。
“重巡棲姫”の装甲を、浅く凹ませるに留まっていた。
「っ……!」
零は続けて肘を入れる。
膝を叩き込む。
手刀で可動部を狙う。
艤装の表面が裂ける。
装甲片が飛ぶ。
軟体状の艤装の一部が千切れる。
傷はつく。
だが、沈まない。
軟体状の白い外殻がうねり、その裂け目から黒い内部と赤い光が覗く。
“重巡棲姫”が笑った。
「軽イ」
その瞬間、艤装の副砲が至近距離で動いた。
《零、左!》
希空の声より早く、零は身体を捻っていた。
だが、完全には避けきれない。
砲撃。
爆風が零の身体を叩き、小さな身体が瓦礫の上を滑る。
「零!」
“阿武隈”が叫んだ。
零は片手を地面に突き、すぐに起き上がる。
「大丈夫」
そう答えた直後、彼は再び加速した。
今度は正面からではない。
側面。
背後。
上空。
零は“重巡棲姫”の周囲を、常識外れの速度で動き回る。
ワープではない。
瞬間移動でもない。
慣性制御。
異常な身体能力。
そして、タキオンドライヴが四肢へ伝える異常な出力。
それだけで、零は砲撃の間隙を縫っていた。
“重巡棲姫”の砲口が追いつかない。
軟体状の艤装がうねり、零を捕まえようとする。
だが、零はその隙間をすり抜ける。
右手が“重巡棲姫”の肩口へ向く。
掌部陽電子砲。
白い光が撃ち込まれ、艤装が血を吹くように弾けた。
“重巡棲姫”の身体が揺らぐ。
零は間髪入れずに肉薄し、手刀を叩き込んだ。
青白い光を纏った手刀が、艤装の基部を裂く。
黒い液体のようなものが飛び散る。
“重巡棲姫”が初めて後退した。
一歩。
たった一歩。
それでも、彼女は後退した。
《効いてる。でも足りない》
希空が言う。
《そのままじゃ表面を削るだけ。上位個体を沈めるには、絶対的な火力が足りない》
「なら、もっと深く入る」
零は地面を蹴った。
瓦礫が砕ける。
青白い光が走る。
次の瞬間、零は“重巡棲姫”の懐へ潜り込んでいた。
“重巡棲姫”の赤い瞳が零を捉える。
「近イ」
艤装が閉じる。
まるで巨大な顎のように、左右から艤装が零を挟み込もうとした。
零は左腕を突き出す。
青白い光が爆ぜ、迫る艤装を一瞬だけ押し止めた。
その隙に、右拳を叩き込む。
一撃。
二撃。
三撃。
同じ箇所へ、同じ角度で、連続して。
装甲が割れる。
亀裂が走る。
白い表面の奥に、赤い光が見えた。
「そこ!」
零は掌を押し当てた。
掌部陽電子砲。
至近距離で放たれた白い光が、“重巡棲姫”の内部へ突き刺さる。
爆発。
“重巡棲姫”の身体が大きく仰け反った。
艤装の一部が吹き飛び、破片が炎の中へ散る。
“阿武隈”は息を呑んだ。
倒せる。
そう思った。
今の一撃は、確かに深く入った。
さっきまでとは違う。
“重巡棲姫”が明確に揺らいだ。
だが。
「……痛イ」
爆炎の向こうから、声がした。
“重巡棲姫”が立っている。
砕けた艤装が、うねっていた。
裂けた装甲が、歪に形を戻していく。
完全に元通りではない。
応急的な再構成。
傷は残っている。
機能も落ちている。
だが、戦闘不能には程遠い。
上位個体はこうした高いダメコン能力も厄介だった。
「痛イナ。ケド、ソレダケダ」
“重巡棲姫”の砲口が、零へ向く。
零は目を見開く。
発射。
至近距離。
避けきれない。
零は左腕を交差させ、青白い光を集中させた。
砲弾が防壁へ叩き込まれる。
光が軋む。
衝撃が零の身体を押し潰そうとする。
足元が砕けた。
膝が沈む。
背後の地面に亀裂が走る。
それでも、零は倒れなかった。
「ぐ……っ!」
《零、防壁を右に流して! 真正面から受けすぎ!》
希空の指示が飛ぶ。
零は歯を食いしばり、左腕を斜めへ振った。
砲弾の力が逸れる。
爆発が横へ流れ、港湾施設の残骸を吹き飛ばした。
その隙を逃さず、“重巡棲姫”が踏み込む。
真上から腕が振り下ろされた。
零は跳んだ。
だが、遅い。
艤装の先端が零の身体を掠める。
小さな身体が弾かれ、地面へ叩きつけられた。
「零!」
“阿武隈”の声が悲鳴に変わる。
零は転がりながら、すぐに体勢を立て直した。
膝をつき、片手で地面を支える。
青白い光が揺らぐ。
《零、無理に押し切らないで。出力差じゃなくて、構造を狙って》
「分かってる……!」
零は息を荒げながら立ち上がる。
“重巡棲姫”は歩いてくる。
下位個体とは違う。
速いだけではない。
硬いだけでもない。
倒れない。
削っても、砕いても、押し返しても、まだ立ち上がる。
上位個体とは、そういう存在だった。
零は右手を握る。
このまま殴り続けても、いつかは削り切れるかもしれない。
だが、その前に“阿武隈”たちが巻き込まれる。
呉の防衛線が持たない。
自分の体力も、無限ではない。
《零》
希空の声が、静かに響いた。
《今ので分かった。通常打撃と陽電子砲だけじゃ足りない》
「じゃあ、どうする?」
零は“重巡棲姫”から目を離さずに聞いた。
“重巡棲姫”の砲口が再び開く。
艤装の傷は残っている。
だが、彼女はまだ笑っていた。
「次ハ、潰ス」
零は構え直す。
《あれを使う》
希空が言った。
零の表情がわずかに変わる。
「あれって……」
《ちょっと前に教えたでしょ。掌に集めて、撃つやつ》
「まだ練習してない!」
《だから、私が手順を言う。零はその通りにやって》
希空の声は揺れていなかった。
《今しかない。上位個体を撃沈できる火力は、それしかない》
零は“重巡棲姫”を見る。
傷ついている。
だが、まだ倒れない。
まだ進む。
まだ撃てる。
ここで止めなければ、“阿武隈”たちも、呉も、守れない。
零は小さく頷いた。
「分かった」
《まず、もう一度あいつをダウンさせる。完全に倒せなくていい。一瞬、動きを止めればいい》
「やる」
零は地面を蹴った。
“重巡棲姫”が主砲を撃つ。
零は真正面からは受けない。
左腕の光で砲弾の軌道を逸らし、爆風を身体の横へ流す。
同時に、右へ跳ぶ。
“重巡棲姫”の副砲が追う。
頭部CIWSポッドが警告を鳴らす。
《下、砲口二つ!》
零は空中で身体を捻った。
砲弾が足元を掠める。
熱が皮膚を焼く。
だが、止まらない。
零は港湾施設の崩れた支柱を蹴った。
角度を変える。
さらに加速。
“重巡棲姫”の背後へ回る。
掌部陽電子砲。
一発目は肩口。
二発目は艤装の接合部。
三発目は、先ほど亀裂を入れた箇所。
白い光が連続して突き刺さる。
“重巡棲姫”の艤装が大きく揺らいだ。
「ッ……!」
零はそこへ飛び込む。
右拳。
左肘。
膝。
手刀。
全てを同じ亀裂へ叩き込む。
装甲が限界を迎えた。
割れる。
“重巡棲姫”の身体が傾いた。
零は最後に、青白く輝く左腕を押し当てる。
防壁ではない。
押し潰すための光。
「倒れろ!」
衝撃。
“重巡棲姫”の身体が、瓦礫の海へ叩きつけられた。
地面が震える。
《今》
希空の声が飛ぶ。
《零。距離を取って。右腕を使う》
零は後方へ跳んだ。
瓦礫の上に着地し、“阿武隈”を背にしない位置へ移動する。
“重巡棲姫”は倒れている。
だが、もう動き始めていた。
時間はない。
《足を開いて。半身。右腕を前へ》
零は言われた通りに構えた。
両脚を開く。
左足を引く。
身体を半身にし、右腕を前へ突き出す。
《腕を砲身だと思って。肩から肘、肘から手首、手首から掌まで、軸を一直線にする》
零は右腕に意識を集中する。
掌が熱を持つ。
《タキオン粒子を掌へ。集めて。逃がさない》
青白い光が、零の右腕へ集まっていく。
それは陽電子砲の光とは違った。
もっと深い。
もっと重い。
見ているだけで空間そのものが歪むような光。
《圧縮。まだ撃たない。掌の中で潰して。もっと小さく。もっと重く》
「っ……!」
零の表情が歪む。
掌の中で、何かが暴れている。
集めたエネルギーが、外へ逃げようとする。
右腕が軋む。
足元の瓦礫が震える。
空気が鳴る。
“阿武隈”は、その光を見て息を呑んだ。
怖い。
さっきまで自分を守ってくれた光なのに、今は違う。
あまりにも大きすぎる。
あまりにも眩しすぎる。
けれど、零はそれを敵へ向けていた。
自分ではなく。
守るべきものではなく。
目の前の“重巡棲姫”へ。
そして“重巡棲姫”もまた、それが危険だと理解した。
倒れていた身体が動く。
内部が露出した艤装が瓦礫を砕きながら持ち上がる。
赤い瞳が、零の右掌に集まる光を睨んだ。
「撃タセナイ!」
“重巡棲姫”が立ち上がる。
その姿は既に傷だらけだった。
艤装の一部は砕け、装甲は裂け、黒い煙を上げている。
だが、まだ動く。
まだ進む。
まだ殺しに来る。
零は構えを崩さない。
《いい。もう少し》
希空の声が、わずかに震えていた。
恐怖ではない。
興奮。
確信。
そして、設計者だけが理解している現象への高揚。
《そのまま。まだ撃たない。零、撃つ瞬間まで右腕の軸をずらさないで》
「分かってる……!」
“重巡棲姫”が突進した。
白い艤装が前面へ集まり、盾のように重なる。
砲口が開く。
肉薄しながら撃つつもりだった。
零は右腕を動かせない。
身体に纏う光を前方へ広げる。
青白い壁が広がった。
“重巡棲姫”の砲撃が防壁へ叩き込まれる。
衝撃が走る。
零の足元が砕ける。
それでも、零は下がらない。
タキオンウォールで防ぎ、右腕に収束を続ける。
「止まれ……!」
“重巡棲姫”の艤装が防壁を押し潰そうとする。
零の身体が小さく震える。
右掌の光が暴れ、空間が歪む。
あと一瞬。
その一瞬が、遠い。
《零、耐えて!》
希空が叫ぶ。
零は歯を食いしばった。
「止まれええええっ!」
集中展開した光が強くなる。
“重巡棲姫”の突進が、ほんの一瞬止まった。
それで十分だった。
《今!》
希空の声が響く。
《最後は、自分の意思で撃って!》
零の右掌に、光が集まりきる。
空間が歪む。
音が消える。
零の右腕の軸線上に、黒い点が無数に生まれた。
黒い点は一瞬だけ世界を飲み込み、直後に青白い奔流へ変わる。
零は叫んだ。
「発射!!」
その瞬間、光が解き放たれた。
右掌から放たれたのは、ただのビームではなかった。
青白い軸線が空間を穿ち、その上に生まれた無数の微小な闇が、一斉に崩壊する。
次の瞬間、膨大なエネルギーの奔流が“重巡棲姫”へ叩き込まれた。
“重巡棲姫”が叫ぶ。
艤装を前へ出し、防ごうとする。
軟体状の白い装甲が重なり、盾のように広がる。
だが、その全てが白い光に焼かれていく。
表面が消える。
内部が露出する。
露出した内部も、次の瞬間には光に呑まれる。
「ア、アアアアアアアッ!」
“重巡棲姫”は抗った。
足を踏みしめる。
艤装を前面に集め、防ごうとする。
砲口を零へ向けようとする。
だが、遅い。
光の奔流は、彼女の抵抗ごと押し潰した。
“重巡棲姫”の身体が浮く。
地面から引き剥がされる。
艤装が千切れ、赤い光が散り、彼女の身体は瀬戸内海の空へ押し上げられていく。
零は右腕を突き出したまま、歯を食いしばっていた。
反動が身体を押し戻す。
足元の瓦礫が砕ける。
右腕が焼けるように熱い。
それでも、彼は撃ち続けた。
「う、ああああああっ!」
白い光が、さらに強まる。
“重巡棲姫”の輪郭が崩れた。
上空で、黒い影が膨らむ。
次の瞬間。
爆散。
瀬戸内海上空に、巨大な光の花が咲いた。
黒い破片が燃えながら散り、赤い光が風に溶けて消えていく。
雲が裂け、煙が吹き飛び、呉軍港を覆っていた黒煙の一部が円形に押し開かれた。
静寂が落ちた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
国防陸軍の兵士たちも。
退避していた整備員も。
瓦礫の陰にいた“川内”たちも。
そして、“阿武隈”も。
彼らは見ていた。
開戦以来14年間、一度も撃沈されたことのなかった上位個体が、たった今、撃沈された瞬間を。
零は右腕を下ろした。
身体の青白い光が薄れる。
膝が少しだけ揺れる。
《零!》
希空の声が飛ぶ。
「大丈夫……」
零は息を吐いた。
「ちょっと、疲れた」
《当たり前だよ。今の、普通なら一発で倒れてる》
希空の声には、呆れと安堵と、抑えきれない高揚が混ざっていた。
零は振り返る。
瓦礫の中で、“阿武隈”が座り込んでいた。
まだ震えている。
まだ言葉が出ない。
それでも、零を見ていた。
零は彼女の元へ歩く。
「阿武隈」
彼が名前を呼ぶと、“阿武隈”の目が揺れた。
零は膝をつき、彼女の肩へ手を伸ばす。
「もう大丈夫」
その一言で、限界だった。
“阿武隈”の顔が歪む。
次の瞬間、彼女は零へしがみついていた。
「こわ……こわかった……!」
堰を切ったように、涙が溢れる。
「死ぬかと思った……みんな、いなくなって……護衛の人たちも……あたし、何もできなくて……!」
零は何も言わなかった。
ただ、“阿武隈”を抱きしめた。
小さな身体が震えている。
恐怖と安堵と、遅れてきた涙で、彼女は子供のように泣いていた。
零は、その背をゆっくりと撫でる。
「間に合ってよかった」
その声は、さっきまで上位個体を撃ち抜いていた少年のものとは思えないほど、静かだった。
「阿武隈!」
声がした。
“川内”だった。
“神通”と“那珂”もいる。
護衛の第一世代艦娘たちに連れられ、瓦礫の間を抜けて走ってくる。
“阿武隈”は零にしがみついたまま、顔を上げる。
“川内”が泣きそうな顔で駆け寄った。
「生きてる……! 阿武隈、生きてる!」
“那珂”も涙を浮かべている。
“神通”は唇を噛みしめながら、それでも崩れそうな表情を必死に抑えていた。
零は少しだけ身体をずらし、“阿武隈”を彼女たちの方へ向ける。
四人は、瓦礫と炎の中で抱き合った。
零はその隣で、静かに息を吐く。
《……成功した》
希空の声が、頭部CIWSポッド越しに届いた。
零は空を見上げる。
「姉さん?」
《今の技。成功した》
星雲のコクピットで、希空は計器を見つめていた。
上位個体撃沈。
実戦環境下での発射成功。
右腕への負荷は大きい。
エネルギー消費も尋常ではない。
だが、成立した。
理論上の必殺技が、現実に上位個体を撃ち抜いた。
希空は、息を吐く。
《名前、決めた》
「名前?」
《うん。今の技の名前》
零は少しだけ眉をひそめる。
《タキオンブラスター》
希空は、はっきりと告げた。
《零の、必殺技の名前》
零は右手を見る。
まだ熱が残っている。
掌の奥に、さっきの光の感覚が残っている。
「タキオンブラスター……」
零は小さく繰り返した。
その名が、呉軍港の炎の中で、初めて生まれた。
その頃、瀬戸内海東部。
“戦艦棲姫”は、動きを止めていた。
“出雲”と“磐手”が、荒い息をつきながら彼女を見据えている。
“鳳翔”の航空隊も、上空で旋回していた。
第二艦隊も、特務艦隊も、なお戦線を維持している。
だが、その均衡が崩れる前に、“戦艦棲姫”の表情が変わった。
「……沈ンダ?」
それは疑問ではなかった。
感知したのだ。
呉方面に展開していた“重巡棲姫”の反応が、消えたことを。
上位個体が撃沈された。
開戦以来、一度も起きなかった事態。
“戦艦棲姫”の笑みが消える。
同じ頃、豊後水道方面に展開していた“空母棲鬼”もまた、空を見上げていた。
「……馬鹿ナ」
その声には、初めて明確な動揺があった。
“重巡棲姫”が沈んだ。
それはつまり、人類側に上位個体を撃沈し得る未知の戦力が存在するということだった。
“戦艦棲姫”は一瞬だけ沈黙した。
眼前には、“出雲”と“磐手”。
上空には“鳳翔”。
周囲には国防軍の艦隊と航空隊。
ここで戦い続ければ、勝てるかもしれない。
だが、呉で何が起きたのか分からないまま続けるには、危険が大きすぎる。
「……撤退スル」
“戦艦棲姫”が告げた。
同時に、深海棲艦の動きが変わる。
押していたはずの水上打撃部隊が、徐々に後退を始める。
空母棲鬼の機動部隊も、豊後水道方面から距離を取っていく。
呉周辺に残っていた下位個体も、統制を失ったように動きを鈍らせ、やがて退き始めた。
追撃する余力は、人類側にもなかった。
第二艦隊は傷つきすぎていた。
特務艦隊も、“戦艦棲姫”を止めるので限界だった。
陸軍も、呉軍港も、既に大きすぎる被害を受けている。
それでも。
戦闘は終わった。
呉は、守られた。
数十分後。
焦げた軍港に、一つの機関音が近づいてきた。
「雪風」である。
呉襲撃の混乱の中、江田島から士と加奈を乗せて戦っていたその艦は、今度は救助と回収のために軍港へ入ってきた。
傷だらけだった。
船体には焦げ跡があり、上部構造物にも損傷が残っている。
それでも、「雪風」は沈んでいなかった。
「零!」
甲板から士が叫ぶ。
隣には加奈がいた。
二人とも疲れ切っている。
だが、零の姿を見つけた瞬間、その表情に安堵が浮かんだ。
零は“阿武隈”たちと共に振り返る。
「士。加奈」
士は言葉を探すように零を見た。
加奈も、未だ燃え盛る軍港と、零の周囲にいる“阿武隈”たちを見て、何が起きたのかを悟る。
「……生きてるな」
士が言った。
零は頷く。
「うん」
それだけで十分だった。
その時、頭部CIWSポッドに通信が入る。
《零、聞こえる?》
希空だった。
「聞こえる」
《秋吉所長から連絡。あなたたちを「雪風」に回収させる。そのまま艦娘技術研究所へ戻るように、って》
零は「雪風」を見上げる。
《ただし、表向きは違う》
「違う?」
《「雪風」は、いったん「建御雷」「建御名方」と合流して横須賀へ向かうように見せかける。途中で離脱して、北海道方面へ向かって》
希空の声が少しだけ硬くなる。
《何者かの監視があるかもしれない。所長は、そう見てる》
零は、少しだけ目を細めた。
呉で何が起きていたのか。
なぜ“阿武隈”たちがあの位置で“重巡棲姫”に捕捉されたのか。
まだ分からないことは多い。
だが、今はここを離れるべきだった。
零は「雪風」の甲板に飛び乗り、士と加奈の元へ行く。
「聞こえた?」
士が頷く。
「だいたいはな。横須賀へ行くふりをして、途中で離脱。北海道方面だな」
加奈も頷いた。
「分かった。雪風なら、まだ動ける」
《お願い。零と阿武隈たちを乗せて。私は星雲で研究所へ戻る》
「了解」
士が答える。
「こっちは任せろ」
零は“阿武隈”たちを振り返る。
「行こう」
“阿武隈”はまだ目を赤くしていたが、小さく頷いた。
“川内”“神通”“那珂”も、それぞれ互いの手を握っている。
彼女たちは「雪風」へ乗り込む。
燃えた軍港。
砕けた防衛線。
倒れた戦車。
折れたクレーン。
黒煙の向こうで、まだ消火活動が続いている。
零は最後に一度だけ、呉軍港を振り返った。
ここで多くのものが失われた。
それでも、守れたものもあった。
「雪風」の機関音が高まる。
やがて、その艦は呉を離れた。
表向きは、特務艦隊と合流し、横須賀へ向かうために。
本当は、零たちを北海道の艦娘技術研究所へ戻すために。
上空では、星雲が針路を変えていた。
希空はコクピットから、遠ざかる呉を見下ろす。
「……勝った、とは言えないね」
彼女は小さく呟いた。
上位個体を撃沈した。
零の必殺技も成功した。
阿武隈たちも救えた。
けれど、呉は燃えている。
この戦いは、完全な勝利ではなかった。
呉襲撃事件。
それは、人類にとって初めて上位個体を撃沈した戦いとして記録されることになる。
撃沈したのは、まだ4歳にも満たない少年だった。
零。
艦娘技術研究所が生み出した、第二世代艦娘の試作個体。
自我を持つ兵器。
人類の希望。
そして、誰かにとってのヒーロー。
彼の活躍によって、呉市街への深海棲艦侵攻は辛うじて阻止された。
西日本方面への侵攻路も、開かれることはなかった。
だが、代償は大きかった。
呉軍港の機能は、致命的な損害を受けた。
呉鎮守府もまた、指揮機能と施設の多くを失った。
警備艦隊は壊滅的打撃を受け、第二艦隊も大きく損耗した。
そして何より。
艦娘派は、小林と田村という二人の後ろ盾を失った。
彼らは、ただの将校ではなかった。
艦娘を兵器としてだけでなく、人として扱おうとする者たちにとって、現場と政治を繋ぐ貴重な存在だった。
その二人が、呉で戦死した。
深海棲艦は退いた。
呉は守られた。
零は上位個体を撃沈した。
それでも、戦いは終わっていない。
この日、人類は初めて上位個体を殺す力を得た。
同時に、その力を巡る新たな戦いの幕も上がった。
第一章 完結
あ と が き
これにて第一章は完結。
第二章に入る前に、間章を挟みます。
次回 戻らない日常