間章突入。
(そんなに長くはならない)
46. 戦火の爪痕
2014年5月下旬
ゴールデンウィークが終わってから、既にしばらく経っていた。
大学の構内には、初夏の気配が漂い始めている。
講義棟の窓から差し込む光は少しずつ強くなり、昼休みの中庭には学生たちの声が溢れていた。
何も知らなければ、それはいつも通りの大学だった。
講義に向かう学生。
友人と笑いながら歩く学生。
スマホを見ながら昼食の相談をする学生。
掲示板の前で課題の提出日を確認する学生。
どこにでもある、普通の大学の風景。
けれど、神崎加奈には、その全てがひどく遠いものに見えていた。
彼女がこの大学に来るのは、ゴールデンウィーク明け以降、初めてだった。
呉襲撃事件。
今ではそう呼ばれているあの戦闘の後、加奈は「雪風」に乗り、士や零たちと共に艦娘技術研究所へ向かった。
そこで、燃えた呉のことを聞いた。
小林のことを聞いた。
田村のことを聞いた。
“阿武隈”たちのことを見た。
そして、零が上位個体を撃沈したという、普通なら信じられないような戦果を知った。
その全てを抱えたまま、加奈は大学へ戻ってきていた。
理由は二つある。
一つは、手続きのため。
加奈は今学期限りで、この大学を辞めることを決めていた。
秋吉から、加奈自身が監視されている可能性を指摘されたからである。
呉襲撃事件の前、自分が大学の学食で話していたこと。
ゴールデンウィークに江田島へ行くこと。
士に会いに行くこと。
その情報が、敵に拾われていた可能性が高い。
そして実際に、江田島は襲撃された。
ならば、自分はもう、普通の大学生としてここにいていい人間ではない。
それは、加奈にも分かっていた。
もう一つの理由は、友人たちに会うためだった。
すぐに辞めれば、会わずに済む。
会わなければ、余計なことを言わずに済む。
大学からも、友人たちからも、黙って離れればいい。
そう考えなかったわけではない。
けれど、加奈はそれができなかった。
もう一度だけでいい。
顔を見たかった。
心配をかけたことを謝りたかった。
士が無事だったことだけでも伝えたかった。
そして、ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ、またあの普通の会話に戻れるかもしれないと思っていた。
1ヶ月前のあの日。
ゴールデンウィーク直前の講義室で、士からのメッセージを見られて、友人たちにからかわれた。
婚約者。
江田島。
海軍兵学校。
家柄。
少女漫画みたいだと笑われた。
あの時は恥ずかしかった。
困った。
でも、楽しかった。
自分は普通の大学生としてここにいる。
そう思えていた。
だが、今は違う。
加奈が構内へ入ると、いくつもの視線が向けられた。
最初は気のせいだと思った。
だが、違った。
すれ違った学生が、一瞬だけ会話を止める。
廊下の端にいた数人が、こちらを見て小声で何かを囁く。
掲示板の前にいた男子学生が、スマホの画面と加奈の顔を見比べる。
「……あれ、神崎さんじゃない?」
誰かの声が聞こえた。
「呉に行ってたって噂の?」
「国防軍関係の家なんでしょ」
「婚約者が海軍の人とか言ってた子?」
「艦娘とも関係あるって、本当なのかな」
声は小さい。
だが、聞こえないほどではなかった。
加奈は足を止めなかった。
止まれば、もっと見られる気がした。
講義室へ向かう。
以前と同じ場所。
以前と同じ時間。
以前と同じ大学。
けれど、扉の前に立った時点で、加奈はそこへ入ることを少しだけ躊躇した。
中から、聞き慣れた声がした。
「加奈!」
次の瞬間、友人の一人が駆け寄ってきた。
「加奈、やっと来た!」
「連絡、返事遅いし、大学にも来ないし、本当に心配したんだから!」
「大丈夫だったの? 怪我とかしてない?」
「呉にいたんでしょ? ニュースで見た時、ほんとに心臓止まるかと思った」
何人もの声が重なる。
その瞬間、加奈の胸に詰まっていたものが、少しだけ緩んだ。
友人たちは、変わっていなかった。
少なくとも、最初に向けられたのは好奇心ではなく、心配だった。
「……ごめん。連絡、あんまり返せなくて」
加奈は頭を下げた。
友人の一人が、むっとしたように眉を寄せる。
「謝るのは後。まず、生きてるかどうか」
「見れば分かるでしょ」
「分かるけど、本人の口から聞きたいの」
そう言われて、加奈は少しだけ笑った。
「生きてる。怪我もないよ」
「婚約者さんは?」
別の友人が、遠慮がちに聞いた。
以前なら、きっともっと軽い言い方だった。
「例の婚約者は?」とか、「東堂士くんは?」とか、からかうように聞いてきたはずだった。
だが、今の声には冗談がなかった。
士が江田島にいたことを、彼女たちは覚えていた。
呉と江田島が襲撃されたことも、ニュースで知っていた。
だから、笑えなかった。
加奈は小さく息を吸う。
「士も生きてる」
友人たちの表情が、目に見えて緩んだ。
「よかった……」
「本当に?」
「うん。無事。怪我は……少しはあったけど、命に関わるようなものじゃない」
正確には、士も加奈も、無傷とは言えない。
「雪風」に乗って戦った。
砲撃を受けた。
死にかけた瞬間もあった。
だが、それをここで言うわけにはいかなかった。
友人の一人が、加奈の手を握った。
「よかった。本当に」
その手は少し震えていた。
加奈は、その震えを見て、喉が詰まった。
友人たちは優しかった。
優しいままだった。
だが、講義室全体はそうではなかった。
加奈の周囲だけ、明らかに空気が違っていた。
近くの席に座る学生たちが、こちらを見ている。
遠くの席からも視線を感じる。
聞こえるか聞こえないかの声が、少しずつ混じる。
「国防軍の関係者ってこと?」
「じゃあ、内部のこと知ってるのかな」
「呉って、結局守れなかったんでしょ」
「艦娘って、本当に役に立ってるの?」
「ていうか、なんで普通に大学来てるの」
その言葉に、友人の一人が振り返った。
「ちょっと」
声は低かった。
周囲の学生たちは、慌てて視線を逸らす。
だが、一度向けられたものは消えない。
加奈は、友人の袖を軽く引いた。
「いいよ」
「よくない」
「いいの」
加奈は小さく首を振る。
怒ってくれるのは嬉しかった。
けれど、その怒りすら、今は怖かった。
自分のために友人が誰かと衝突する。
それだけで、加奈の胸の奥が冷たくなる。
講義は、ほとんど頭に入らなかった。
教授の声が聞こえる。
黒板に文字が書かれる。
学生たちがノートを取る。
だが、加奈の耳には、別の音ばかりが残っていた。
砲声。
爆発。
「雪風」の機関音。
燃える軍港。
泣いていた“阿武隈”。
そして、ニュースの中で何度も流れた呉の映像。
講義が終わると、友人たちは加奈を囲むようにして教室を出た。
以前なら、そのまま学食へ行っていた。
ゴールデンウィークの予定を話し、士のことをからかい、服装や髪型の話で盛り上がった。
今日も、彼女たちは学食へ向かおうとしていた。
「何か食べよ。加奈、ちゃんと食べてる?」
「顔色悪いよ」
「ていうか痩せた?」
「言い方」
友人たちの声に、加奈は曖昧に笑う。
そのまま学食へ入った。
だが、そこにもテレビがあった。
壁際に設置された大型のテレビ。
普段なら、ニュースや天気予報が流れていても、誰も大して見ていない。
食堂のざわめきに埋もれて、ただの背景音になっている。
今日だけは違った。
画面には、燃えた呉軍港の映像が映っていた。
ヘリから撮影されたものだろう。
黒く焼けた施設。
倒れたクレーン。
炎上した燃料タンクの跡。
煙の上がる港湾区画。
字幕には、大きくこう表示されている。
呉襲撃事件から三週間。
国防軍上層部、相次ぐ辞任。
アナウンサーの声が、学食に流れていた。
「呉軍港および呉鎮守府に甚大な被害をもたらした今回の深海棲艦襲撃を受け、国防軍上層部では責任を取る形で複数の高官が辞任を表明しました」
画面が切り替わる。
記者会見。
国防軍の制服を着た男たちが頭を下げている。
加奈は足を止めた。
「加奈?」
友人の声が遠く聞こえる。
「辞任を表明したのは、長年にわたり艦娘運用体制の構築に関わってきた重鎮たちで、関係者によれば、今後は新たな指揮体制のもとで深海棲艦への対応を見直す方針です」
長年にわたり艦娘運用体制の構築に関わってきた重鎮たち。
その言い方で、加奈には分かった。
艦娘派の古くからの上層部だ。
“鳳翔”たちが、人々の信頼を得るためにどれほど努力してきたか。
洋平たちが、艦娘を単なる兵器として扱わせないためにどれほど奔走してきたか。
それを加奈は知っている。
だが、テレビはそれを映さない。
映すのは、燃えた呉。
頭を下げる国防軍幹部。
被害を受けた施設。
泣く遺族。
怒る評論家。
「今回、艦娘部隊は一定の迎撃効果を示したとされていますが、呉軍港の機能喪失を防ぐことはできませんでした。専門家からは、艦娘戦力への過度な依存を問題視する声も上がっています」
別のコメンテーターが映る。
「これまで艦娘は国民の間でも比較的好意的に受け止められてきました。しかし、今回のように本土の重要拠点が甚大な被害を受けた以上、運用体制そのものを見直す必要があるでしょう」
好意的に受け止められてきた。
その言葉が、加奈の胸に刺さった。
確かにそうだった。
“鳳翔”がいた。
洋平がいた。
小林がいた。
田村がいた。
艦娘たちを人として扱おうとした人たちが、時間をかけて、一般社会との間に橋をかけてきた。
艦娘は怖い存在ではない。
艦娘は自分たちを守ってくれる存在だ。
艦娘もまた、人間と同じように笑い、悩み、傷つく存在だ。
その印象を、少しずつ積み重ねてきた。
だが、燃えた呉の映像は、それを簡単に揺らしていた。
「ねえ、これってさ」
近くの席の学生が言った。
「結局、艦娘いても防げなかったってことだよね」
別の学生が答える。
「まあ、そう見えるよね」
「国防軍も情報隠してそうだし」
「上位個体? みたいなのがいたって話もあるし」
「でも倒したとかは言ってないよね。撃退って言い方ばっかり」
「じゃあまた来るんじゃないの?」
加奈は拳を握った。
違う。
零が倒した。
“重巡棲姫”を撃沈した。
人類が初めて上位個体を殺した。
けれど、それは言えない。
言ってはいけない。
言えるわけがない。
ニュースの中で、零の名は出ない。
タキオンブラスターも出ない。
“阿武隈”が救われたことも、“川内”たちが生き残ったことも、士と加奈が「雪風」に乗って戦ったことも出ない。
マスコミのフィルターを通した呉襲撃事件は、ただこう見えていた。
国防軍は呉を燃やされた。
艦娘は守りきれなかった。
古い上層部は責任を取って辞める。
新体制が必要だ。
そこに、加奈の知る現実はほとんどなかった。
「加奈」
友人の一人が、テレビと加奈の間に立つようにして声をかけた。
「行こ。ここ、やめよう」
加奈は頷いた。
「うん」
だが、学食を出る直前、また誰かの声が聞こえた。
「神崎さんって、国防軍に近いんでしょ?」
「じゃあ、こういうのどう思ってるんだろ」
「責任取る側じゃないの?」
「身内が守られてるからいいよね」
その言葉に、加奈の足が止まる。
友人たちの表情が変わった。
今度は、加奈が先に歩き出した。
「行こう」
声が震えないようにするだけで、精一杯だった。
食堂を出て、少し離れた廊下まで来たところで、加奈は言った。
「私、今日、手続きしてくる」
友人たちが一斉に加奈を見る。
「手続きって?」
「退学」
言葉にした瞬間、自分でも胸が痛んだ。
「今学期で辞めることにした。今日は、その相談と書類を出しに来たの」
友人たちは黙った。
驚いている。
でも、完全には意外ではない。
そんな沈黙だった。
「なんで」
一人が聞く。
「危ないから」
加奈は正直に答えた。
「私がここにいると、たぶん迷惑がかかる。大学にも、みんなにも」
「迷惑って、そんな」
「呉の前から、私は見られてたのかもしれない」
加奈は、できるだけ言葉を選んだ。
本当なら、言うべきではないのかもしれない。
でも、黙って消える方が、もっと卑怯に思えた。
「ゴールデンウィークに私が江田島へ行くこと。士に会いに行くこと。そういうことが、誰かに知られてた可能性があるの。軍も、そう見てる」
「誰かって……」
「分からない。でも、普通じゃない」
友人たちは、また黙った。
あの時と同じだった。
あの時も、友人たちは少しだけ静かになった。
加奈が海軍兵学校に行きたかったこと。
士や親戚に止められたこと。
それを話した時、彼女たちは一瞬だけ茶化すのをやめた。
けれど、今回は違う。
沈黙の重さが、まるで違った。
「手続き、付き合う」
友人の一人が言った。
「え?」
「一人で行くの、嫌でしょ」
「でも」
「でもじゃない」
別の友人も頷いた。
「どうせ今日、講義もうないし」
「あるけど、まあ一回くらいサボっても死なない」
「いや出席大事だけど」
「今それ言う?」
そのやり取りは、以前の彼女たちに少しだけ近かった。
加奈は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
学生課の窓口は、学食とは別の建物にあった。
そこへ向かう間も、視線は消えなかった。
廊下。
階段。
中庭。
どこへ行っても、誰かがこちらを見ている気がした。
学生たちの視線は、まだ分かりやすい。
好奇心。
不安。
噂への便乗。
深く考えていない軽さ。
それは不快ではあっても、まだ幼いものだった。
だが、手続きの窓口にいた大人たちの視線は違った。
加奈が名前を告げると、職員の表情がわずかに変わった。
「神崎加奈さん、ですね」
その一瞬の間。
それだけで十分だった。
職員はすぐに事務的な表情へ戻った。
書類を出し、必要事項を説明し、退学手続きの流れを伝える。
丁寧だった。
失礼ではなかった。
むしろ、表面上はとても親切だった。
だが、視線の奥に別のものがあった。
警戒。
遠慮。
そして、関わりたくないという薄い拒絶。
「現在の状況を鑑みますと、ご本人とご家族でよく相談された上で……」
職員はそう言った。
現在の状況。
便利な言葉だった。
呉襲撃事件。
神崎家。
国防軍。
艦娘。
責任問題。
監視の可能性。
それら全てを、曖昧に包んでしまえる言葉。
途中、担当教授にも確認が必要になった。
加奈は小さな応接スペースで、教授と向かい合った。
教授は優しい人だった。
少なくとも、加奈がこれまで受けてきた講義では、学生に対して丁寧に接する人だった。
だが、その教授でさえ、今の加奈を見る目には距離があった。
「神崎さんの事情について、私たちが深く聞くことはできません。ただ……」
教授は一度言葉を切った。
「今は、大学としても慎重にならざるを得ません」
慎重。
また、便利な言葉だった。
「ご友人との関係もあるでしょうから、急に環境が変わるのはつらいと思います。ですが、安全を優先するという判断は、間違いではないと思います」
間違いではない。
つまり、ここに残ることは危険だと、大人たちも思っている。
加奈は、はっきりと理解した。
自分はもう、この場所に歓迎されていない。
悪意ではない。
嫌悪でもない。
ただ、危険物に近づかないようにするような、距離。
その方が、かえって堪えた。
手続きが一段落した頃には、午後の日差しが少し傾いていた。
友人たちは、建物の外で待っていた。
「終わった?」
加奈は頷く。
「完全にじゃないけど。書類は出した。あとは何回か連絡が来ると思う」
「そっか」
誰も、すぐには次の言葉を出さなかった。
中庭のベンチに座る。
あの頃なら、ここでまた士の話に戻ったかもしれない。
江田島の話。
ゴールデンウィークの話。
服装やお土産の話。
だが、今は何も出てこなかった。
加奈は、自分の手を見つめた。
「私ね」
声が、思ったより小さくなった。
「みんなと一緒にいるの、危ないかもしれない」
友人たちが顔を上げる。
加奈は続けた。
「私が監視されてるなら、今日、みんなと一緒にいたことも見られてるかもしれない。前だって、学食で話してたことが……たぶん、使われた」
友人たちは、何も言えなかった。
本当は否定してほしかった。
そんなわけない。
考えすぎ。
ドラマじゃないんだから。
私たち普通の大学生だよ。
そう笑ってほしかった。
だが、誰もすぐには否定できなかった。
それが答えだった。
彼女たちは優しい。
加奈のことを心配してくれている。
友達でいようとしてくれている。
でも、呉襲撃事件を見てしまった。
加奈の周りにあるものが、自分たちの日常とは違うことを知ってしまった。
そして今、加奈本人から「危ないかもしれない」と言われた。
怖くないはずがない。
その沈黙が、加奈には痛かった。
「ごめん」
加奈は立ち上がろうとした。
「やっぱり、今日はもう───」
その手を、友人の一人が掴んだ。
「怖いよ」
正直な声だった。
加奈は動けなくなる。
「正直、怖い。呉のニュース見たし、加奈の話も、よく分からないけど普通じゃないって分かる。私たち、何もできないし、巻き込まれたらたぶんどうしようもない」
加奈は目を伏せる。
「だから───」
「でも」
友人は、手を離さなかった。
「それで加奈が一人で消えるのは違うでしょ」
別の友人も言った。
「危ないかもしれないって言われて、全然怖くないって言えるほど強くはないよ」
「でも、友達やめる理由にはならない」
「勝手に遠くに行かないでよ」
「大学辞めても、連絡くらいできるでしょ」
加奈の喉が震えた。
「でも、連絡したら」
「危ないかもしれない?」
「うん」
「じゃあ、気をつける」
「そういう問題じゃ───」
「そういう問題にする」
友人の一人が、少しだけ笑った。
無理をしている笑顔だった。
怖くないわけではない。
でも、怖いまま笑っていた。
「加奈が変な世界の人なのは、まあ前から薄々思ってたし」
「変な世界って」
「婚約者が海軍で、家が軍人で、親戚が国防軍の偉い人っぽくて、ゴールデンウィークに江田島行って、その直後に襲われて、それでも生きて戻ってくる子、普通ではないでしょ」
以前なら、もっと軽く笑えた言葉だった。
今は、少しだけ痛い。
それでも、その友人は言った。
「でも、加奈は加奈でしょ」
別の友人が頷く。
「また会おう」
加奈は顔を上げる。
「いつになるか分からないよ」
「それでも」
「大学じゃなくてもいいし」
「連絡できる時でいい」
「士くんとの話も、まだ全部聞いてないし」
最後の一言だけ、少しだけ以前の調子だった。
加奈は、泣きそうになるのを堪えた。
「……うん」
声が震えた。
「また、会おう」
その約束をして、加奈は友人たちと別れた。
駅へ向かう道で、何度も振り返りそうになった。
だが、振り返らなかった。
振り返れば、本当に戻りたくなる気がしたからだ。
加奈は、まだ思っていた。
いつか、また普通の生活に戻ってこられるかもしれない。
大学は辞める。
今は離れる。
けれど、友達でいることまで諦めなくていい。
そう思おうとしていた。
だが、その考えは甘かった。
加奈が大学を去った後。
構内の少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
学生ではない。
職員でもない。
だが、大学の中にいても不自然ではない格好をしている。
男はスマホを操作していた。
その画面には、加奈と友人たちが並んで歩く写真が表示されている。
別の画面には、学食の映像。
さらに別の画面には、学生課の建物へ入っていく彼女たちの姿。
男は短い文章を入力した。
神崎加奈、大学離脱手続き開始。
周辺接触者、複数名確認。
前事案時の接触者と一致する可能性高。
心理的影響、および情報経路遮断のため、回収対象に指定。
送信。
画面の先に表示された組織名は、表向きには存在しないものだった。
RBD。
男はスマホをポケットへしまうと、何事もなかったかのように歩き出した。
数日後。
艦娘技術研究所の休憩室で、加奈はテレビを見ていた。
正確には、見るともなく眺めていた。
研究所に戻ってからも、加奈の心は落ち着かなかった。
呉のこと。
大学のこと。
友人たちのこと。
退学手続きのこと。
考えないようにしても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
休憩室には、士もいた。
離れた席で資料を読んでいる。
兵学校が再開する見込みはない。
加えて、士はなし崩し的に卒業扱いとなっていた。
だからこそ、ここにいる。
加奈が一人になりすぎないよう、さりげなく近くにいてくれているのだと分かった。
テレビでは、昼のニュースが流れていた。
呉襲撃事件の続報。
国防軍の人事。
艦娘運用体制の見直し。
深海棲艦への警戒レベル。
それらが一通り流れた後、画面が切り替わった。
「続いて、都内で発生した大学生数名の行方不明事件についてです」
加奈は、最初、反応しなかった。
どこかで誰かが行方不明になった。
ニュースではよくある言い方。
痛ましいが、自分とは関係がない。
そう思おうとした。
だが、次の瞬間、画面に映った大学の門を見て、加奈の手が止まった。
自分の通っていた大学だった。
「行方が分からなくなっているのは、都内の大学に通う女子学生数名で、警視庁は事件に巻き込まれた可能性もあると見て捜査を進めています」
アナウンサーの声が、急に遠くなった。
画面に、写真が映る。
名前は一部伏せられていた。
顔にもぼかしが入っていた。
だが、加奈には分かった。
分かってしまった。
あの日、自分を待っていてくれた友人たちだった。
手からカップが滑り落ちる。
床に当たって、軽い音を立てた。
中の飲み物がこぼれる。
士が顔を上げた。
「加奈?」
加奈は答えなかった。
テレビ画面を見つめたまま、動けなかった。
「関係者によれば、行方不明となった学生たちは同じ友人グループに属しており、事件当日も大学周辺で目撃されていたとのことです。警視庁は防犯カメラの映像を解析し───」
……違う。
解析しても、たぶん分からない。
分かるような相手なら、こんなことはしない。
加奈の頭の中で、あの日の会話が蘇る。
また会おう。
大学じゃなくてもいい。
連絡できる時でいい。
友達やめる理由にはならない。
あの言葉が、胸を刺した。
「……私のせいだ」
声が漏れた。
士が立ち上がる。
「加奈」
「私といたから」
違う、と言ってほしかった。
だが、加奈自身が一番分かっていた。
どう考えても、偶然ではない。
自分が大学へ戻った。
友人たちと再会した。
一緒に歩いた。
退学手続きにも付き合ってもらった。
その数日後、彼女たちが一斉に消えた。
理由は一つしかない。
加奈と友達だったから。
そして、それは同時に、秋吉の指摘が正しかったことを示していた。
加奈は監視されていた。
大学での交友関係も把握されていた。
自分と接触した者たちが、敵にとっての対象にされた。
「私が、会いに行ったから……」
士が加奈の肩を掴む。
「加奈のせいじゃない」
「でも!」
加奈は叫びかけて、声を詰まらせる。
違う。
自分のせいではない。
理屈では分かる。
悪いのは、友人たちを連れ去った者たちだ。
監視していた者たちだ。
加奈の周囲を利用しようとする者たちだ。
だが、心が納得しなかった。
自分が普通の生活に戻りたいと思ったから。
もう一度だけ友達に会いたいと思ったから。
そのせいで、彼女たちは消えた。
加奈の中で、何かが折れた。
普通の生活に戻れるかもしれない。
その希望が、音を立てて崩れた。
同じ頃
都内某所 地下施設
薄暗い部屋の中で、複数のモニターが光っていた。
その一つには、ニュース映像が映っている。
大学生数名の行方不明事件。
警察の捜査。
不安げにコメントする近隣住民。
別のモニターには、監視カメラの映像。
大学の廊下。
学食。
学生課。
そして、加奈と友人たちが別れる瞬間。
白衣を着た男が、端末へ入力する。
対象周辺接触者、回収完了。
報道誘導、想定範囲内。
対象への心理的影響、観測継続。
神崎家および艦娘派の反応を監視。
別の男が言った。
「対象本人は?」
「今はまだ手を出さない。神崎家に近すぎる。研究所側の警戒も上がっている」
「全く、悪運が強い女だ」
「深海棲艦め、あれだけお膳立てしたと言うのに抹殺に失敗するとは……」
「プラン変更は当然として、今は周辺を削るだけか」
「十分だ。普通の生活へ戻る選択肢を消せればいい」
男は、淡々と言った。
「彼女が神崎家と艦娘側へ深く戻れば、それだけ利用価値も増す。孤立は制御の前段階だ」
モニターの中で、加奈の友人たちが笑っている。
数日前の映像。
また会おうと約束した時の映像。
それを見ても、男たちの表情は変わらなかった。
そこに人を見る目はなかった。
あるのは、対象。
接触者。
心理的圧迫。
情報経路。
利用価値。
RBDにとって、彼女たちは友人ではなかった。
ただ、神崎加奈を普通の生活から切り離すための材料だった。
研究所の休憩室で、加奈はテレビの前に立ち尽くしていた。
士が何かを言っている。
誰かが職員を呼んでいる。
こぼれた飲み物が床に広がっていく。
だが、加奈の耳にはほとんど届かなかった。
あの日、友人たちは言ってくれた。
また会おう、と。
加奈も、そう約束した。
けれど、もう分かってしまった。
自分が戻りたいと願った日常は、自分が触れた瞬間に壊れてしまう。
戦火は、呉だけを焼いたのではなかった。
続く
あ と が き
生々しさ重視の回。
次回 戦闘報告