カーン カーン カーン
8月
艦娘技術研究所の夏は、外の世界よりも少しだけ静かだった。
北海道の山中に隠されたその施設は、昼間でも涼しい風が通る。
地上施設の窓から見える緑は濃く、遠くの山肌にはまだ薄い雪の名残さえ見えた。
外の世界では、呉襲撃事件から四ヶ月が経とうとしていた。
ニュースは少しずつ別の話題を扱うようになり、国防軍の責任問題も、新体制の構築という形で日々上書きされていった。
だが、ここにいる者たちにとって、呉の炎はまだ過去になっていない。
それでも、研究所の中には日常があった。
廊下を走る等身大の妖精整備員。
資料を抱えて歩く研究員。
地下区画から聞こえる機械音。
訓練区画で響く足音。
そして、子供たちの声。
「零、そっち行った!」
“川内”が叫んだ。
研究所内の小さな運動室。
訓練用というよりは、艤装を持たない第二世代艦娘たちの身体機能確認と、気分転換を兼ねたスペースである。
床は柔らかい素材で覆われ、壁には衝撃吸収材が張られている。
隅には妖精たちが作ったボールや簡易遊具が置かれ、訓練器具というよりも、どこか子供向けの遊び場に近い雰囲気があった。
その中央を、小さなボールが転がっていく。
“那珂”がそれを追いかけた。
「待って待って、那珂が取るから!」
「那珂、そっちじゃないです。右です」
“神通”が少し慌てた声で言う。
「分かってるってば!」
そう言いながら、“那珂”は見事に反対側へ走った。
“川内”が笑う。
「分かってないじゃん!」
「わ、分かってるもん!」
“那珂”が慌てて向きを変える。
だが、その前に零が軽く足を伸ばし、転がってきたボールを止めた。
普通なら、それで遊びは終わる。
だが、零はそのまま動かなかった。
「はい」
零は足元のボールを“那珂”の方へ軽く蹴った。
強すぎない。
速すぎない。
“那珂”が少し頑張れば取れるくらいの速度。
“那珂”は両手でそれを受け止めた。
「取った!」
「今のは零が取らせてくれたんじゃないかな」
“阿武隈”が小さく笑う。
「いいの! 取ったの!」
“那珂”は胸を張る。
“川内”が零を見る。
「零、本気出してないでしょ」
「出したら遊びにならない」
零が真顔で答える。
「それはそう」
“川内”は納得した。
零が本気で動けば、この部屋の広さでは誰も追いつけない。
そもそも彼は、深海棲艦の下位個体を素手で破壊できる存在である。
そんな相手が本気でボール遊びをすれば、遊具も壁も無事では済まない。
だから、零は手加減していた。
走る速度も。
投げる力も。
受け止める動きも。
それでも、四人にとっては十分に速い。
「次、阿武隈ね!」
“川内”がボールを放る。
“阿武隈”は反応した。
だが、ボールが壁に跳ねた瞬間、彼女の肩が小さく震えた。
ただの反射音だった。
柔らかい素材に当たっただけの、軽い音。
爆発でも、砲撃でもない。
それでも、“阿武隈”の身体は一瞬だけ固まった。
ボールが足元を転がっていく。
「あ……」
“阿武隈”が小さく声を漏らす。
運動室の空気が、少しだけ止まった。
零はそのボールを拾わなかった。
“川内”も、急かさなかった。
“神通”は一歩近づきかけて、そこで止まった。
“那珂”が、ゆっくりと“阿武隈”の横へ行く。
「阿武隈、大丈夫?」
“阿武隈”は目を伏せた。
「……うん。大丈夫」
そう言う声は、少しだけ震えていた。
呉から戻ってきてから、何度かこういうことがあった。
大きな音。
焦げた匂い。
急に開く自動扉。
訓練区画から響く金属音。
それらが、“阿武隈”をあの日へ引き戻す。
瓦礫。
炎。
黒煙。
砲口。
目の前で消えた護衛の艦娘たち。
忘れられるはずがなかった。
小林長官と田村参謀長を喪ったのは、“阿武隈”だけではない。
“川内”も、“神通”も、“那珂”も同じだった。
だが、“阿武隈”はそれに加えて、自分を守ろうとして死んだ先輩艦娘たちを、目の前で見ている。
心の傷が癒えたとは、とても言えなかった。
零はボールを拾い、静かに言った。
「休む?」
“阿武隈”は首を横に振る。
「……もう少し、遊ぶ」
「無理しなくていい」
「無理じゃない」
“阿武隈”は、少しだけ零を見る。
「あたし、動いてた方がいい」
その言葉に、零は小さく頷いた。
「分かった」
遊びは再開した。
けれど、さっきより少しだけ静かになった。
誰も無理に明るくはしない。
だからといって、黙り込むわけでもない。
“川内”がわざと大きく転び、“那珂”が笑う。
“神通”が呆れながら手を貸す。
“阿武隈”が少しずつ表情を戻す。
零は、全員の動きを見ながら、強すぎないように、速すぎないように、ただそこにいる。
しばらくして、妖精が飲み物を持ってきた。
「休憩だって」
“川内”が真っ先に座り込む。
「……はあ、疲れた!」
「一番走り回ってましたから」
“神通”が隣に座る。
“那珂”はボールを抱えたまま、床にぺたりと座った。
“阿武隈”も、その横に腰を下ろす。
零は少し離れた場所に座ろうとしたが、“阿武隈”が袖を掴んだ。
「こっち」
「うん」
零は素直に、四人の近くへ座った。
紙パックの飲み物を受け取り、しばらく誰も話さなかった。
窓の外では、夏の光が揺れている。
遠くから、整備区画の低い機械音が聞こえた。
最初に口を開いたのは、“川内”だった。
「……小林さんさ」
その名前に、全員の視線が向く。
“川内”は紙パックを両手で持ったまま、少しだけ笑った。
「私が夜に訓練したいって言うと、いっつも駄目って言ったよね」
“神通”が頷く。
「まだ早い、と言っていました」
「そうそう。夜戦は大事だって言ったら、まず昼にちゃんと走れるようになれって」
“川内”は口を尖らせる。
「ひどくない?」
「正しいと思います」
“神通”が即答した。
「神通まで!」
“那珂”が少し笑った。
「でも、小林さん、川内のことちゃんと見てたよね。夜戦夜戦って言うと怒るけど、訓練の後はいつも褒めてた」
“川内”は一瞬だけ黙る。
「……うん」
その声は、少しだけ小さかった。
“神通”は紙パックを見つめながら言った。
「田村さんは、予定をよく確認してくれました。訓練が続きすぎていないか、食事は取れているか、眠れているか。私たちが大丈夫と言っても、あまり信用してくれませんでした」
「それ、神通が大丈夫って言いながら無理するからじゃん」
“川内”が言う。
“神通”は否定しなかった。
「……そうかもしれません」
“阿武隈”は、自分の膝を見ていた。
「阿武隈?」
零が声をかける。
“阿武隈”は少しだけ顔を上げた。
「あたし、小林さんに、焦らなくていいって言われたことある」
「焦らなくていい?」
“那珂”が聞く。
“阿武隈”は頷く。
「艤装がまだなくて、みんなより遅れてる気がして……早く実戦に出られるようにならなきゃって言ったら、小林さんが怒った」
“阿武隈”は小さく息を吐く。
「子供が戦場に出ることを急ぐなって。戦う力があることと、戦場に出ていいことは違うって」
零は、その言葉を黙って聞いていた。
胸の奥が、少しだけ痛む。
それは、自分にも向けられているような言葉だった。
“阿武隈”は続ける。
「でも、その後で言ってくれた。阿武隈は阿武隈の速さでいいって。ちゃんと強くなるからって」
そこで、彼女の声が途切れた。
「……あたし、まだ何も返せてない」
誰も、すぐには答えられなかった。
小林はもういない。
田村もいない。
呉のあの日、二人は帰ってこなかった。
返したくても、返せない。
それが、ここにいる全員の胸に残っている。
“那珂”が、膝の上で指を握った。
「那珂はね」
少しだけ、声が明るかった。
けれど、その明るさは作ったものではない。
泣かないために、いつもの調子へ戻ろうとしている声だった。
「小林さんと田村さんに、よく艦の話を聞いた」
“川内”が顔を向ける。
「那珂の話?」
「うん。ミサイル巡洋艦の「那珂」の話」
“那珂”は少し照れたように笑う。
「二人とも、その「那珂」のことが好きだって。愛艦って言ってた」
「だから那珂には甘かったんですね」
“神通”が言う。
「やっぱり?」
“那珂”が目を丸くする。
“川内”は即答した。
「うん。那珂には甘かった」
「そんなことないもん!」
「あるよ。那珂が何かすると、小林さん、顔が緩んでたし」
“阿武隈”も小さく頷く。
「田村さんも、那珂を見る時だけちょっと優しかった」
「ええー……」
“那珂”は困ったように頬を膨らませた。
けれど、嫌そうではなかった。
むしろ、その記憶を大事そうに抱えているように見えた。
「それでね」
“那珂”は少しだけ姿勢を正す。
「二人とも、昔のアイドルの話もしてた」
「アイドル?」
零が聞き返す。
“那珂”は頷いた。
「うん。ソロで歌って踊るタイプの、昔のアイドル。テレビの映像とか、古い録画とか、こっそり見せてくれた」
「こっそり?」
“神通”が眉を寄せる。
「だって、訓練時間じゃなかったし」
“那珂”は少しだけ目を逸らした。
「でも、小林さんが、那珂にはこういうのも似合うかもなって。田村さんも、那珂は人を笑顔にできる子だって言ってくれた」
その言葉を口にした瞬間、“那珂”の表情が揺れた。
人を笑顔にできる子。
そう言ってくれた人たちは、もういない。
“那珂”は、少しだけ目を伏せる。
けれど、すぐに顔を上げた。
「だから、那珂、覚えてる」
そう言って、彼女は立ち上がった。
“川内”が首を傾げる。
「何を?」
「歌と踊り」
“那珂”はボールを床に置き、少し離れた場所に立つ。
「小林さんと田村さんが好きだったやつ。全部は覚えてないけど、ちょっとだけ」
“神通”が少し不安そうに見る。
「無理しなくても」
「無理じゃないよ」
“那珂”は笑った。
その笑顔は、まだ少し頼りない。
けれど、ちゃんと自分で立とうとしている笑顔だった。
「那珂、やる」
そう言って、彼女は両手を胸の前で握った。
最初の一歩は、少しぎこちなかった。
足の向きが違う。
手の角度も曖昧。
リズムも少しずれている。
けれど、“那珂”は真剣だった。
古い映像で見た振り付けを思い出しながら、懸命に身体を動かす。
口元が小さく動く。
歌詞は曖昧で、ところどころ途切れる。
音程も安定していない。
それでも、彼女は歌おうとしていた。
“川内”は最初、笑いかけた。
だが、すぐに笑えなくなった。
“神通”は静かに見ている。
“阿武隈”は、膝の上で手を握っていた。
零も、黙って“那珂”を見ていた。
その歌は、小林と田村が好きだった歌だった。
少なくとも、最初は。
だが、途中から少しずつ違っていった。
“那珂”が覚えていない部分を、彼女自身の言葉にならない音が埋める。
見よう見まねの振り付けが、少しずつ彼女自身の動きへ変わっていく。
誰かの真似だったものが、ぎこちなくても、“那珂”のものになっていく。
零は、その姿を見ながら、ふと思い出した。
“那珂”が建造された時のこと。
正確には、建造されるはずだった最初の時のこと。
……あの時は失敗した。
妖精たちが首を傾げ、希空が記録を見直し、秋吉が眉間に皺を寄せていた。
建造釜から出てきたのは、艦娘ではなかった。
燃料:約2kg。
砲弾:4発。
鋼材:約11kg。
零は、その数字をなぜか覚えていた。
小さな失敗。
誰かが笑って流してもおかしくない記録。
だが、それは“那珂”が生まれる前に残した、最初の痕跡のようにも思えた。
零は、ぼそりと呟いた。
「───2-4-11」
“那珂”の動きが止まった。
「え?」
“川内”が零を見る。
「何それ」
零は少しだけ考える。
「那珂が建造される前に、釜から出てきたもの」
「え、何が?」
“那珂”が聞く。
「燃料約2kg。砲弾4発。鋼材約11kg」
零は真面目に答えた。
“川内”が吹き出した。
「それ失敗じゃん!」
“那珂”の頬が赤くなる。
「失敗じゃないもん!」
「いや、それは失敗だよね?」
“阿武隈”が少しだけ笑った。
“神通”も口元を押さえている。
“那珂”はむっとして零を見た。
「零くん、それ覚えてたの?」
「うん」
「なんで?」
「覚えてたから」
「理由になってない!」
久しぶりに、運動室に笑い声が響いた。
完全な笑いではない。
まだ、どこかに痛みは残っている。
小林と田村のことを思い出せば、胸は締めつけられる。
呉のことは、誰の中でも終わっていない。
それでも、笑えた。
“那珂”はしばらく頬を膨らませていたが、やがて小さく呟いた。
「にー、よん、いちいち……」
零が首を傾げる。
“那珂”は、言い方を変えてもう一度呟く。
「つー、ふぉー、いれぶん」
今度は少しだけリズムがついた。
“川内”が笑う。
「何それ、歌にするの?」
“那珂”は一瞬だけ考えた。
「……できるかも」
「できるんですか?」
“神通”が驚く。
「分かんない。でも、なんか、言いやすい」
“那珂”は指で小さく拍子を取る。
「つー、ふぉー、いれぶん。つー、ふぉー、いれぶん」
それは歌と呼ぶには、まだあまりにも拙かった。
ただの数字。
ただのリズム。
失敗した建造記録を、子供が面白がって口ずさんでいるだけ。
けれど、“那珂”の声には、少しだけ熱があった。
小林と田村が好きだった歌。
二人が笑って見せてくれた古いアイドルの映像。
「人を笑顔にできる子」だと言ってくれた言葉。
そして、自分自身が生まれる前の、小さな失敗の記録。
それらが、少しずつ混ざっていく。
“那珂”は、たどたどしく手を動かした。
さっき真似した振り付けとは違う。
でも、どこか似ている。
誰かの真似から始まった動きが、少しずつ“那珂”自身のものになっていく。
「つー、ふぉー、いれぶん……」
声は小さい。
音程も定まらない。
歌詞と呼べるほどのものもない。
それでも、“那珂”は歌っていた。
“阿武隈”が、目元を拭った。
泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からないような顔だった。
“川内”は膝を抱えて、少しだけ笑っている。
“神通”は静かに、“那珂”を見守っていた。
零は、その場に座ったまま、耳を澄ませる。
“那珂”の歌は、まだ未完成だった。
形もない。
名前もない。
誰かに聞かせるためのものですらない。
けれど、その歌を聞いている間だけ、運動室の空気は少しだけ軽くなった。
小林はいない。
田村もいない。
呉で失われたものは戻らない。
“阿武隈”の目の前で消えた先輩艦娘たちも、帰ってこない。
それでも、そこには歌があった。
失敗の数字から生まれた、たどたどしいリズム。
喪われた人たちの思い出からこぼれ落ちた、小さな声。
それはまだ、誰かを救うには弱すぎる歌だった。
けれど、その日。
“那珂”は初めて、誰かの前で歌った。
続く
あ と が き
まだ“那珂”に持ち歌はありません。
でも、“那珂”ちゃんは、いつか───。
次回 年下の長兄