クリスマスの定番料理、皆さんは何ですか?
私はチョコケーキです。
2015年12月25日
釧路近郊にある東堂家の屋敷は、今年も雪の中にあった。
庭には白い雪が積もり、縁側の向こうに見える林は、去年と同じように静まり返っている。
遠くの道路を走る車の音も、雪に吸われるようにして小さくなり、屋敷の中にまで届く頃には、かすかな気配だけになっていた。
去年の大晦日と、よく似た光景だった。
だが、同じではない。
今日はクリスマスだった。
和室の隅には、妖精たちが張り切って飾りつけた小さなクリスマスツリーが置かれている。
障子と畳とこたつのある部屋に、きらきらとした飾りが揺れている光景は、少し不思議だった。
それでも、妖精たちは満足そうに胸を張っていた。
広間には、零がいた。
その近くには、希空。
士と加奈。
そして、“阿武隈”。
去年の年末、この屋敷はもっと賑やかだった。
洋平と“鳳翔”がいて、穂乃果と凛がいて、“川内”“神通”“那珂”もいた。
さらに、横須賀から来た空母艦娘たちが加わり、広間は小さな宴会場のようになっていた。
今年は違う。
洋平と“鳳翔”は横須賀を離れられない。
去年この屋敷を賑わせた空母艦娘たちも、それぞれ訓練と調整がある。
“川内”“神通”“那珂”も、今年から本格的な訓練のため横須賀へ移っていた。
だから、去年よりも少し静かだった。
けれども、“阿武隈”だけはここにいた。
「阿武隈は横須賀、行かなくてよかったの?」
零が聞く。
“阿武隈”はこたつに入ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「……いいの」
「いいの?」
「うん。あたしは、こっちでいい」
「訓練は?」
「ちゃんとやる。あとでいっしょに」
「俺と?」
「うん」
希空が端末から顔を上げる。
「本当は、川内ちゃんたちと一緒に横須賀に行く案もあったんだけどね」
“阿武隈”の肩が少しだけ揺れた。
加奈が苦笑する。
「阿武隈、絶対に嫌だって顔してたもんね」
「……顔に出てた?」
“阿武隈”が小さく聞く。
士が短く答えた。
「出てた」
「う……」
“阿武隈”は少し赤くなって、こたつ布団を引き寄せた。
零は首を傾げる。
「どうして嫌だったの?」
“阿武隈”は、しばらく答えなかった。
外では、雪が静かに降っている。
広間の中では、妖精たちが小さな皿を運び、クリスマス用の菓子を並べていた。
やがて、“阿武隈”は小さく言った。
「零と離れるの、嫌だったから」
零は瞬きをした。
「俺?」
「うん」
“阿武隈”は視線を合わせないまま続ける。
「川内たちと一緒に訓練するのも大事だって分かってる。でも、あたしは……まだ、こっちがいい」
それは、わがままに近い言葉だった。
けれど、誰もそれを責めなかった。
“阿武隈”は呉で零に助けられた。
あの時、零が来なければ、彼女はおそらく生きていなかった。
その記憶は、まだ彼女の中に深く残っている。
零の近くにいたい。
零から離れたくない。
それは、幼い依存でもあり、心の傷でもあり、同時に彼女なりの安心でもあった。
零は少しだけ考えた。
そして、言った。
「じゃあ、一緒にいればいい」
“阿武隈”は顔を上げる。
「いいの?」
「うん」
零は当然のように頷いた。
「嫌じゃない」
その言葉に、“阿武隈”は少しだけ笑った。
「……うん」
希空は、その様子を見て柔らかく目を細めた。
「零も、そういうこと言えるようになったね」
「そういうこと?」
「うん。そういうこと」
零にはよく分からなかった。
だが、“阿武隈”が少し嬉しそうだったので、それでいいのだと思った。
こたつの向こう側では、士が小さな包みを確認していた。
加奈がそれを覗き込む。
「それ、何?」
「クリスマスプレゼント」
「士が?」
「俺が」
「珍しい」
「珍しくない」
「珍しいよ」
加奈は少し楽しそうに笑う。
士は表情を変えずに包みを置いた。
「必要だと思っただけ」
「誰に?」
士は、零の方を見る。
零もその視線に気づいた。
「俺?」
「そうだ」
士は短く答える。
「何?」
「あとで渡す」
「今じゃない?」
「今じゃない」
「どうして?」
「雰囲気がある」
加奈が思わず笑った。
「士が雰囲気って言った」
「言うだろ」
「言わないと思ってた」
「失礼だな」
士は少しだけ眉を寄せた。
それを見て、零は小さく笑った。
笑った。
ほんの少しだけ。
希空はそれを見逃さなかった。
零は少しずつ変わっている。
戦闘の中で強くなっただけではない。
こういう場所で、こういう会話の中で、少しずつ人として表情を増やしている。
その変化が、希空には何よりも大切だった。
「零」
希空が声をかける。
「何?」
「今日は楽しい?」
零は少し考えた。
「うん」
「去年より?」
「去年も楽しかった」
「じゃあ、今年は?」
「少し静か」
零は正直に答えた。
希空は笑う。
「確かに。去年はすごかったもんね」
“阿武隈”が頷く。
「龍驤さんと凛ちゃんが、ずっと言い合いしてた」
加奈も笑う。
「赤城ちゃん、食事のところで目が輝いてたよね」
「加賀ちゃんは、ずっと零を見てた」
“阿武隈”が少しだけ不満そうに言う。
零は首を傾げた。
「見てた?」
「見てたよ」
「どうして?」
「零が珍しかったんじゃない?」
希空が答える。
「第二世代艦娘の長兄に当たる存在で、しかも上位個体を倒した子。横須賀の子たちからすると、気になるのも当然だよ」
零は少しだけ黙った。
「俺、珍しい?」
「かなり」
希空が即答する。
士も頷いた。
「珍しい」
加奈も続く。
「珍しいよ」
“阿武隈”も、小さく頷いた。
「珍しい、かな」
零は、少しだけ考え込んだ。
珍しい。
それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
ただ、今日の零は戦場にはいない。
研究所の実験室にもいない。
こたつに入って、クリスマス飾りを見て、菓子を食べている。
それだけで、少し不思議だった。
その時、屋敷の外から車の音が聞こえた。
“出雲”と“磐手”はまだ来ていない。
海斗と美香も、到着は夕方頃だと聞いていた。
“阿武隈”が顔を上げる。
士も立ち上がりかけた。
希空が端末を確認する。
「登録車両。予定通りだね」
「海斗兄さんたち?」
加奈が聞く。
「うん。お父さん、お母さん、出雲、磐手」
そこで希空は、少しだけ首を傾げた。
「……あと、同乗者がいる」
零が顔を上げる。
「誰?」
「……さて、誰でしょう」
希空は少しだけ楽しそうに笑った。
その笑みで、零は何かを隠しているのだと分かった。
玄関へ向かうと、去年と似た光景があった。
雪の中に車が停まっている。
運転席に座っていたのは、人間ではない。
等身大になった艦載機パイロット妖精だった。
小さな飛行帽。
真面目な顔。
ハンドルを握っていた妖精は、車を止めると、こちらに向かってぴしりと敬礼した。
零はそれを見て言った。
「去年もいた」
妖精は少し誇らしげに頷いた。
助手席から降りてきたのは、海斗だった。
黒いコートについた雪を軽く払う。
「待たせたな」
「待ってた」
零が言う。
海斗は一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その声は少し柔らかかった。
続いて、美香が降りてくる。
「零!」
彼女は雪を気にせず、零の前まで来ると、そのまま抱きしめた。
「寒くなかった? ちゃんと食べてる? 怪我してない?」
「怪我してない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、よし」
美香は零を抱きしめたまま、満足そうに頷いた。
零は少しだけ苦しそうにしたが、逃げなかった。
希空が横から笑う。
「お母さん、到着して一秒で確認全部やるのすごいね」
「大事なことだから」
美香は当然のように答えた。
「零、また少し大きくなった?」
「分からない」
「大きくなってるよ。お母さんには分かる」
「昨日もビデオ通話で言ってなかった?」
希空が言う。
「毎日大きくなってるからいいの」
美香は胸を張った。
海斗が静かに言う。
「毎日は大きくならないだろ」
「なるの。気持ちの問題」
「……そういうもんか」
海斗はそれ以上言わなかった。
零は、美香の腕の中から海斗を見る。
「お父さんも、そう思う?」
海斗は少しだけ考えた。
「……少しは、大きくなったな」
美香が勝ち誇ったように笑う。
「ほら」
「少しだ」
「少しでも大きくなってるなら同じ」
「違う」
「同じ」
そのやり取りに、加奈が笑った。
士も、口元だけわずかに緩める。
零は、少しだけ不思議だった。
海斗と美香が来ると、空気が変わる。
希空がいる時とも、士や加奈がいる時とも違う。
何かが少し柔らかくなる。
それが何なのか、零にはまだはっきりとは分からなかった。
けれど、嫌ではなかった。
後部座席のドアが開く。
“出雲”が降りてきた。
続いて、“磐手”も車から降りる。
二人とも普段着に近い姿だったが、去年と同じように、視線の動きは護衛のそれだった。
屋敷の周囲。
林の方。
道路。
雪に残った轍。
それらを短く確認してから、“出雲”は零たちを見る。
「異常なし」
“磐手”が少し笑う。
「今のところはね」
「お疲れ様」
希空が言う。
“磐手”は肩をすくめた。
「去年よりは静かでしょ?」
「人数はね」
「その分、何か起きたら目立つけど」
“出雲”が短く言った。
「警戒はする」
「お願い」
希空は素直に頭を下げた。
そこで、運転席の妖精が後部座席の奥を振り返った。
まるで、まだ降りていない乗客へ合図するように。
零はそちらを見る。
海斗が言った。
「鳳翔から預かってきた」
「預かった?」
「正確には、この妖精が任されたらしい」
妖精はまた敬礼した。
美香が笑う。
「鳳翔、来られない代わりに、お守りを任せたんだって」
「お守り?」
零が首を傾げた。
その時、車のドアから一人の少女が降りてきた。
白い髪。
落ち着いた雰囲気。
六歳ほどの見た目。
寒さに少し肩を縮めながらも、動作は静かで、丁寧だった。
彼女は雪の上に立つと、まず“出雲”と“磐手”に軽く会釈し、それから零たちへ向き直った。
「初めまして。翔鶴です」
柔らかい声だった。
その後ろから、もう一人が顔を出した。
灰色の髪。
五歳ほどの見た目。
落ち着いた“翔鶴”とは対照的に、車の中から外を覗いた瞬間、ぱっと目を輝かせる。
「雪! ほんとにすごい!」
そう言って、彼女は勢いよく外へ降りようとした。
だが、足元の雪に少し滑りかける。
「瑞鶴、危ない」
“翔鶴”が慌てて手を伸ばす。
「大丈夫、大丈夫!」
灰色髪の少女はそう言ったが、少しだけ体勢を崩した。
その直前、零が前に出て、彼女の腕を支えた。
彼女───“瑞鶴”は目を瞬かせる。
零も、彼女を見た。
その瞬間。
零は、なぜか動きを止めた。
初めて会うはずだった。
少なくとも、零の記憶の中に、彼女の顔はない。
声も知らない。
名前を聞いたことはあっても、直接話したことはない。
それなのに、何かが引っかかった。
嫌な感じではない。
怖い感じでもない。
戦場で感じる敵意でも、研究所で感じる機械の気配でもない。
もっと遠くて。
もっと近い。
雪。
墓石。
加奈の声。
古い記憶。
光。
初めて口にした言葉。
その全てが形になる前に、零の中で淡く揺れた。
“瑞鶴”もまた、零を見ていた。
「……あんたが、零?」
「うん」
零は頷く。
「零」
“瑞鶴”は、じっと零を見る。
「ふーん」
「……何?」
「なんか、変な感じ」
「変?」
「うん。初めて会った気がしない、かも」
零は少しだけ黙った。
そして言った。
「俺も」
その言葉に、士と加奈が反応した。
希空も、静かに目を細める。
三人は、かつてのことを覚えていた。
まだ零が言葉を持たなかった頃。
東堂家の敷地内にある墓地。
神崎洋一の墓。
そこに刻まれた空母「瑞鶴」の名。
光。
そして、零が初めて発した言葉。
おじいちゃん。
ずいかく。
だが、それを今ここで口にする者はいなかった。
零本人も、目の前の“瑞鶴”も、その理由を知らない。
知らないままでいい。
少なくとも、今は。
“翔鶴”が、少し困ったように微笑んだ。
「妹が失礼なことを言っていたら、ごめんなさい」
零は首を横に振る。
「失礼じゃない」
「本当ですか?」
「うん。……瑞鶴、面白い」
“瑞鶴”がすぐに反応した。
「面白いって何よ!」
零は少し考える。
「元気」
「それならまだ分かるけど」
“瑞鶴”は腕を組んだ。
「というか、あんた、あたしと同い年なんでしょ?」
「同い年?」
“翔鶴”が説明する。
「瑞鶴は建造から一ヶ月ほどです。見た目の年齢は、零さんと同じくらいですね」
「同じ」
零は“瑞鶴”を見る。
“瑞鶴”も零を見る。
「じゃあ、あたしが年上とか年下とかじゃないってことね」
「そう」
「でも、第二世代艦娘の長兄なんでしょ?」
「そうらしい」
「そうらしいって、自分のことでしょ」
「うん。でも、年は同じ」
“瑞鶴”は少し考え込んだ。
「ややこしいわね……」
「うん」
零も頷いた。
その様子を見て、加奈が小さく笑った。
「何だか、すぐ仲良くなりそう」
士が静かに言う。
「そうだな」
希空も頷いた。
「たぶんね」
“阿武隈”だけが、少し複雑そうな顔をしていた。
零と“瑞鶴”が、初対面なのに自然に話している。
そのことが、なぜか胸の奥を少しだけちくりとさせた。
“阿武隈”はそれを自分でもうまく説明できなかった。
嫌なわけではない。
“瑞鶴”が悪いわけでもない。
零が楽しそうにしているのは、きっと良いことだ。
でも。
「……零、楽しそう」
小さく呟いた声に、希空が気づいた。
「阿武隈ちゃん?」
“阿武隈”は慌てて首を横に振る。
「な、何でもない」
希空は少しだけ笑う。
「そっか」
その笑い方が、何かを分かっているようで、“阿武隈”は少しだけむっとした。
美香はその様子を見て、にこにこしていた。
「阿武隈ちゃん、こっちおいで」
「え?」
「寒いから。ほら、零も瑞鶴ちゃんたちも、みんな中に入りなさい」
美香は自然に場をまとめた。
海斗が車から荷物を下ろす。
士がそれを受け取り、加奈が玄関を開けたまま待つ。
“翔鶴”は“瑞鶴”の雪を払ってやり、“瑞鶴”は少し不満そうにしながらもされるがままだった。
零はそれを見ていた。
“翔鶴”は姉のようだった。
“瑞鶴”は、よく動く。
そして、どこか懐かしい。
理由は分からない。
だが、それは零にとって嫌な感覚ではなかった。
広間へ戻ると、去年より少ない人数のはずなのに、部屋はすぐに賑やかになった。
“翔鶴”は丁寧に挨拶をし、こたつに入る時も少し遠慮がちだった。
“瑞鶴”は最初こそ落ち着きなく部屋の飾りを見て回っていたが、すぐに零の近くへ戻ってきた。
「これ、何?」
“瑞鶴”がツリーを指差す。
「クリスマスツリー」
零が答える。
「それは分かる。なんで畳の部屋にあるの?」
「妖精が置いた」
「理由になってる?それ」
“瑞鶴”はツリーの飾りを眺める。
「でも、悪くないわね」
「うん」
零は頷く。
「きらきらしてる」
「そうね」
“瑞鶴”は少しだけ笑った。
“翔鶴”はその様子を、静かに見ていた。
「瑞鶴が、初対面の相手とこんなにすぐ話すのは珍しいです」
“翔鶴”が言う。
“阿武隈”が少し反応する。
「そうなの?」
「はい。落ち着きはありませんが、意外と相手を見ます」
「落ち着きがないって言わないでよ!」
“瑞鶴”が振り返る。
“翔鶴”は微笑む。
「では、元気がいい」
「それならいい」
“瑞鶴”は満足した。
“阿武隈”は、少しだけ“瑞鶴”を見る。
元気がいい。
落ち着きがない。
零と同い年。
初対面なのに、どこか零に近い。
“阿武隈”は、こたつ布団を少しだけ握った。
零がそれに気づく。
「阿武隈?」
「何?」
「寒い?」
「寒くない」
「じゃあ、どうしたの?」
“阿武隈”は少しだけ迷った。
そして、言った。
「……別に」
零は分からない顔をした。
美香が横から言う。
「零、阿武隈ちゃんにもお菓子渡してあげて」
「うん」
零は素直に皿を取り、“阿武隈”へ差し出した。
“阿武隈”はそれを受け取る。
「ありがと」
「うん」
それだけだった。
だが、“阿武隈”の表情は少しだけ戻った。
希空はそれを見て、小さく笑う。
「零、こういうところはちゃんとできるんだよね」
「こういうところ?」
「うん」
零にはやはりよく分からなかった。
その後、クリスマスの時間はゆっくりと流れていった。
食事時、食卓に並ぶ七面鳥を見て“瑞鶴”が顔を顰めたが、結局は零と一緒に美味しそうに食べていた。
美香は、零の隣に座って何度も話しかけた。
「零、これ食べる?」
「食べる」
「こっちも?」
「それは、さっき食べた」
「じゃあ、もう一回」
「いいの?」
「いいの。今日はクリスマスだから」
海斗が静かに言う。
「食べさせすぎるな」
「少しだけ」
「美香の少しは信用ならない」
「ひどい」
美香は笑う。
「ねえ、零。お母さん、ひどい?」
零は少し考えた。
「ひどくない」
「ほら」
美香は嬉しそうに海斗を見る。
海斗は小さく息を吐いた。
「零は優しいからな」
「優しいのはいいこと」
「そうだな」
海斗は認めた。
その声は穏やかだった。
希空は、そんな三人を少し離れた場所から見ていた。
海斗。
美香。
零。
そして希空自身。
零にとって、希空は姉であり、先生であり、ある意味では母親に近い存在でもある。
だが、零には、そしてもちろん希空にも、海斗と美香がいる。
父と母がいる。
そのことが、希空には嬉しかった。
零が兵器ではなく、誰かの息子としてそこにいる。
誰かに抱きしめられ、食べ過ぎを心配され、少し大きくなったと言われる。
そんな当たり前のことが、艦娘にとっては当たり前ではない。
だから、希空はその光景をできるだけ覚えておこうと思った。
「希空」
海斗が声をかけた。
「何?」
「お前も食べろ。さっきから見てばかりだ」
「見てるのが楽しいの」
「食べながらでも見られる」
「お父さんって、そういうところ細かいよね」
「食事を抜く奴に言われたくない」
希空は苦笑した。
「ばれてた?」
「ばれる」
美香も振り返る。
「希空、ちゃんと食べないと駄目だよ」
「お母さんまで」
「零も心配するよ?」
零が希空を見る。
「食べないの?」
希空は少しだけ固まった。
「……食べる」
加奈が笑う。
「零に言われると弱いんだ」
「弱いね」
希空は素直に認めた。
零は、なぜ自分が言うと希空が食べるのか分かっていなかった。
それでも、希空が皿を受け取ったので満足した。
しばらくして、士が置いていた包みを持ってきた。
「零」
「何?」
「渡しとく」
士は小さな包みを差し出した。
零はそれを受け取る。
「開けていい?」
「おう」
包みを開くと、中には手袋が入っていた。
黒に近い色で、動きやすそうな薄手の手袋だった。
子供用にしてはしっかりしていて、細かな滑り止めもついている。
「手袋」
「外に出る時に使え」
士は言う。
「研究所の備品よりは、普通に見えるものを選んだ」
加奈が隣で補足する。
「士、結構悩んで選んでたんだよ」
「余計なこと言うな」
「いいじゃない」
零は手袋を見つめる。
「ありがとう」
士は少しだけ視線を逸らした。
「必要だと思っただけだ」
加奈が笑う。
「照れてる」
「照れてない」
「照れてるよ」
「……照れてない」
“瑞鶴”がそのやり取りを見て、零に小声で聞いた。
「士って、いつもあんな感じ?」
「うん」
「分かりにくいわね」
「でも、優しい」
零は言った。
“瑞鶴”は、少しだけ士を見る。
「ふーん」
その隣で“翔鶴”が微笑んだ。
「素敵な贈り物ですね」
零は頷く。
「うん」
彼は手袋をつけてみた。
少しだけ指を曲げる。
動きやすい。
零は士を見る。
「ちょうどいい」
士は短く頷いた。
「そっか」
それだけだった。
だが、少し嬉しそうだった。
夜になる前に、子供たちは庭へ出た。
雪はまだ降っている。
去年よりも静かで、人数も少ない。
それでも、庭に出れば、すぐに足跡が増えていった。
“瑞鶴”は雪の上を駆け回り、“翔鶴”が慌てて追う。
「瑞鶴、転ぶわよ」
「大丈夫!」
言った直後、“瑞鶴”は少し滑った。
零がまた手を伸ばす。
今度は転ぶ前に、彼女の腕を掴んだ。
“瑞鶴”は少し驚いた顔で零を見る。
「また?」
「また」
零は頷いた。
「雪、滑る」
「知ってる」
「でも滑った」
「それは、ちょっとだけ」
“瑞鶴”は頬を膨らませる。
零は首を傾げた。
「ちょっとだけなら、いいの?」
「よくはないけど、転んでないからいいの」
「そうなんだ」
零は納得したように頷いた。
“翔鶴”がその横でほっと息を吐く。
「ありがとうございます、零さん」
「零でいい。敬語もいらない」
「……では、零」
“翔鶴”は少しだけ微笑んだ。
「“瑞鶴”を支えてくれて、ありがとう」
“瑞鶴”が不満そうに言う。
「支えられなくても大丈夫だったし」
“翔鶴”はにこりと笑う。
「そういうことにしておくわ」
「信じてない!」
零は、その二人を見ていた。
姉妹。
穂乃果と凛にも似ている。
けれど少し違う。
“翔鶴”は静かで、“瑞鶴”はよく動く。
でも、二人の間には自然な距離があった。
零は“瑞鶴”を見る。
「瑞鶴」
「何?」
「雪、好き?」
“瑞鶴”は少し考える。
「好き。まだ慣れてないけど」
「俺もまだそこまで慣れてない」
「今も?」
「うん」
「じゃあ、あたしがあんたよりも先に慣れる」
“瑞鶴”はそう言って、雪を軽く蹴った。
その仕草に、零はまた少しだけ不思議な感覚を覚えた。
昔から知っていたわけではない。
なのに、知らないとは言い切れない。
彼女の名前───瑞鶴。
その響きが、胸の奥で静かに揺れる。
「零?」
“瑞鶴”が顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「分からない」
「分からないって何よ」
「瑞鶴を見ると、変な感じがする」
“瑞鶴”は少しだけ目を丸くした。
「……それ、あたしが言ったやつ」
「うん」
「真似?」
「違う」
「じゃあ、同じ?」
「たぶん」
“瑞鶴”は、少しだけ黙った。
それから、笑った。
「変なの」
「うん」
「でも、嫌じゃない」
「俺も」
その会話を、少し離れた場所で士と加奈が見ていた。
加奈は、手袋をした手を胸の前で握る。
「やっぱり、何かあるのかな」
士は雪の庭を見たまま言った。
「あるんだろうな」
「士も、そう思う?」
「あの時のことを考えればな」
加奈は目を伏せる。
東堂家の墓地。
神崎洋一。
空母「瑞鶴」。
まだ言葉を話せなかった零が、初めて口にした言葉。
その記憶は、加奈の中にも残っている。
「でも、今は言わなくていいよね」
「ああ」
士は短く答えた。
「今は、あいつらのものだ」
加奈は少しだけ笑った。
「そうだね」
庭の向こうでは、“阿武隈”が雪玉を作っていた。
だが、その視線は時々、零と“瑞鶴”の方へ向いている。
希空がそっと隣に立つ。
「気になる?」
“阿武隈”は驚いて雪玉を落としかけた。
「気になってない!」
「そっか」
「本当に!」
「うん」
「その顔、絶対分かってる顔!」
希空は笑った。
“阿武隈”は少しだけ赤くなりながら、雪玉を丸め直す。
「……別に、零が誰と仲良くしてもいいけど」
「うん」
「でも、なんか……早い」
「早い?」
「会ったばっかりなのに、もう普通に話してる」
“阿武隈”は小さく言った。
「零、あたしたちには最初、もっとこう……分からない感じだったのに」
希空は少しだけ考える。
「たぶん、瑞鶴ちゃんとは、何か引っかかるものがあるんだと思う」
「何か?」
「うん。でも、それは阿武隈ちゃんとの時間が消えるってことじゃないよ」
“阿武隈”は黙った。
希空は続ける。
「零の中に、大切な相手が増えるだけ」
「増えるだけ」
「そう」
“阿武隈”は、零の方を見る。
零は“瑞鶴”と話している。
“翔鶴”がそれを見守っている。
少しだけ、胸がちくりとした。
けれど、零が楽しそうなのは、やはり嫌ではなかった。
“阿武隈”は雪玉を持ったまま、少しだけ息を吐く。
「……じゃあ、あたしも混ざる」
「それがいいと思う」
希空は笑った。
“阿武隈”は零たちの方へ歩いていく。
「零」
「何?」
「雪玉、作った」
“瑞鶴”が反応する。
「雪合戦?」
“阿武隈”は一瞬だけ迷う。
「……違う。雪だるま」
「なんだ」
“瑞鶴”は少し残念そうにする。
零が言う。
「雪合戦は、神通に止められる」
“阿武隈”が頷いた。
「いなくても止められる気がする」
“翔鶴”が微笑む。
「では、雪だるまにしましょう」
そうして、四人は雪だるまを作り始めた。
零。
“阿武隈”。
“翔鶴”。
“瑞鶴”。
最初は少しぎこちなかった。
“阿武隈”は“瑞鶴”を気にして、“瑞鶴”は雪の扱いに慣れず、零はどこから手を出せばいいのか考え込み、“翔鶴”がそれを穏やかにまとめる。
だが、少しずつ形になった。
小さな雪だるま。
少し歪んだ頭。
不揃いな枝の腕。
“瑞鶴”はそれを見て満足そうに頷いた。
「なかなかいいじゃない」
“阿武隈”も、少しだけ笑う。
「うん」
零は雪だるまを見た。
「四人で作った」
“翔鶴”が頷く。
「はい」
その言葉が、零には少し嬉しかった。
屋敷の中から、美香の声が聞こえた。
「みんな、そろそろ戻ってきなさい! 冷えるよ!」
海斗の声も続く。
「走るな。滑る」
“瑞鶴”は小さく舌を出した。
「走らないって」
言いながら、少し早足になる。
“翔鶴”が慌てて追う。
「瑞鶴」
「走ってない!翔鶴姉は心配しすぎ!」
「ほとんど走っているわ」
零はそれを見て、少し笑った。
“阿武隈”も笑う。
今度は、胸のちくりは少しだけ小さかった。
夜。
広間には灯りがともり、外の雪は暗闇の中で白く浮かんでいた。
食事を終えた後、妖精たちが小さなケーキを運んできた。
美香がそれを見て目を輝かせる。
「すごい、妖精さんたち本気だ」
妖精たちは誇らしげに並んでいる。
希空が笑う。
「去年のツリーから進化してる」
海斗はケーキを見て、少しだけ眉を寄せた。
「甘そうだな」
「そりゃクリスマスケーキだもん」
美香が言う。
「零、食べるよね?」
「食べる」
「瑞鶴ちゃんたちも?」
“瑞鶴”は即答した。
「食べる!」
“翔鶴”は少し控えめに頷く。
「いただきます」
“阿武隈”も小さく手を上げた。
「食べる」
加奈が皿を並べ、士が切り分けを手伝う。
海斗は何も言わずに飲み物を用意し、希空は妖精たちに礼を言う。
美香は零の隣に座り、ケーキの皿を渡した。
「はい、零」
「ありがとう」
「美味しい?」
零は一口食べる。
「甘い」
「甘い以外は?」
「柔らかい」
「美味しい?」
零は少し考えた。
「うん」
美香は嬉しそうに笑った。
「よかった」
海斗がそれを見ていた。
「美香」
「何?」
「零が食べ終わる前に次を勧めるな」
「まだ勧めてない」
「勧める顔してる」
「そんな顔ある?」
「ある」
零は美香の顔を見る。
「勧める顔?」
美香はにこりと笑った。
「もう一口食べる?」
海斗が言った。
「それだ!」
広間に笑い声が広がった。
零も、少しだけ笑った。
希空は、その笑顔を見ていた。
この時間が続けばいいと思った。
研究所の外で。
戦場ではなく。
家族の中で。
零が、ただの子供のように笑う時間。
それが、どれほど貴重なものなのかを、希空は何となく知っている。
海斗も、美香も、士も、加奈も。
きっと、同じように思っている。
だから、誰も口にはしなかった。
この時間を守りたい。
ただ、それだけだった。
やがて夜も更け、雪は少しずつ弱くなっていった。
子供たちは眠気を見せ始める。
“瑞鶴”はまだ起きていると言い張ったが、何度も目をこすっていた。
“翔鶴”が隣で毛布をかける。
「眠いなら寝ましょう」
「眠くない」
「目をこすっているわ」
「雪が入っただけ」
「室内よ」
“翔鶴”が静かに指摘すると、“瑞鶴”は言葉に詰まった。
零はそのやり取りを見ていた。
「瑞鶴」
「何?」
「眠いなら、寝ればいい」
「零も眠そうじゃない」
「少し」
「ほら」
“瑞鶴”はなぜか勝ったような顔をする。
“阿武隈”が横から言う。
「零は眠い時、ぼーっとする」
「そうなの?」
“瑞鶴”が零を見る。
零は否定しなかった。
「たぶん」
「自分のことなのに?」
「分からない」
“瑞鶴”は笑った。
「やっぱり変なの」
「瑞鶴も変」
「どこが?」
「よく動く」
「それは元気ってこと!」
「うん。元気」
零がそう言うと、“瑞鶴”は少しだけ満足したようだった。
夜の広間に、穏やかな空気が流れていた。
美香は零の髪をそっと撫でる。
「眠い?」
「少し」
「じゃあ、今日は早めに寝ようね」
「美香は?」
「お母さんは、もう少し起きてるかな」
「どうして?」
「零の寝顔を見るため」
海斗が静かに言う。
「怖いこと言うな」
「怖くないよ。可愛いんだから」
「本人の前で言うな」
「可愛いものは可愛い」
零は首を傾げる。
「俺、可愛い?」
希空が即答した。
「可愛い」
美香も頷く。
「可愛い」
加奈も笑う。
「可愛いと思う」
士は少し沈黙した後、
「……まあ」
と言った。
海斗は視線を逸らす。
「子供としてはな」
零は少し考えた。
「そうなんだ」
“瑞鶴”が笑う。
「何その反応」
「分からないから」
「可愛いって言われたら、喜べばいいんじゃない?」
「瑞鶴は喜ぶ?」
「まあ、悪くはないわね」
「じゃあ、喜ぶ」
零はそう言った。
美香が口元を押さえる。
「零、今のもう一回」
「もう一回?」
「可愛いから」
「美香」
海斗が止める。
美香は少し残念そうにした。
その夜。
零は布団の中に入りながら、今日会った二人のことを考えていた。
“翔鶴”。
静かで、柔らかくて、姉のような少女。
“瑞鶴”。
同い年で、よく動いて、初めて会った気がしない少女。
なぜそう感じるのかは分からない。
けれど、名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ずいかく。
昔、どこかでその言葉を口にした気がする。
それがいつだったのか。
誰に向けたものだったのか。
零にはまだ分からない。
分からないまま、彼は目を閉じた。
襖の向こうでは、大人たちの小さな声が聞こえる。
美香の明るい声。
海斗の低い声。
希空の軽い声。
加奈の笑い声。
士の短い返事。
それらが混ざって、屋敷の夜を満たしていた。
外では、雪が降っている。
白く、静かに。
その雪の日に、零は“瑞鶴”と出会った。
それはまだ、何かを大きく変える出会いではなかった。
ただ、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしい少女と、同じ雪の上に立っただけ。
けれど、その小さな親近感は、零の中に確かに残った。
戦うためではなく。
守るためでもなく。
ただ、誰かと出会い、名前を覚えるための一日。
零は眠りに落ちる直前、小さく呟いた。
「……瑞鶴」
その声は、誰にも届かなかった。
けれど、雪の夜の中で、確かにそこにあった。
続く
あ と が き
50話にして遂にダブルヒロインが出揃いました。
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