それぞれ違った“姫らしさ”。
それは、ほんの僅かな時間の出来事だった。
つい先ほどまで一方的に追い詰められ、逃げることさえ満足に出来なくなっていたはずの艦娘が、突如として別物のような動きを見せ始めたのである。
白い航跡が海面に幾重もの曲線を描き、砲煙の中を縫うように駆け抜けていく。駆逐艦級の上位個体が照準を合わせれば、その瞬間には射線から消えており、先回りした軽巡級の一体が進路を塞ごうとすれば、今度はその懐へ飛び込んでくる。
「───ッ!」
至近距離で砲声が轟き、直撃を受けた深海棲艦の身体が海面を跳ねた。
「ナニ、コイツ……!?」
「サッキマデト、全然違ウ……!」
“軽巡棲鬼”が驚愕の声を上げ、その隣では“軽巡棲姫”も思わず身を引いていた。
二人とも、目の前で起きていることを理解出来ていなかった。
人類側で最も強い第一世代艦娘。
その存在については、以前から聞かされている。日本の特務艦隊に所属し、長年にわたって数多くの深海棲艦と戦い続けてきた、少々厄介な艦娘なのだという。
実際、先ほどまで戦っていた相手は、その評判に違わぬ実力を見せていた。
攻撃をよく見ている。回避も巧みで、僅かな隙を逃さず反撃してくる。何度負傷しても立ち上がり、味方を逃がすためなら、明らかに不利な状況へも躊躇なく飛び込んできた。
確かに、普通の艦娘とは違う。
しかし、それだけだった。
いくら技量に優れていようと、身体や艤装そのものの性能には限界がある。まして複数の上位個体を同時に相手取って、いつまでも戦い続けられるはずがない。
現に、少し前まではその通りだった。
それなのに。
「コノッ……!」
“駆逐棲姫”の砲口が火を噴く。
狙いは正確だった。直前までの動きから進路を予測し、回避先まで含めて射線に収めたつもりだった。
だが、砲弾が着弾した時には、そこに標的はいなかった。
「ナッ……!?」
ほとんど直角に近い変針。
それも、普通なら速度を大きく失うはずの急旋回を、殆ど減速することなく行っている。
“出雲”は砲撃をかわすと、そのまま“駆逐棲姫”の側面へ回り込み、反撃の砲火を浴びせた。
咄嗟に身を捻った“駆逐棲姫”の艤装を砲弾が掠め、火花と破片が飛び散る。
「……形、変ワッテナイヨネ?」
“水母棲姫”が怪訝そうに眉を寄せた。
姿そのものは、確かに変わっていない。
艤装が新しくなったわけでもなければ、身体が巨大化したわけでもない。むしろ、先ほどまでの攻撃で傷は増え、右側の艤装などは見るからに酷い状態だった。
それなのに、速度も、反応も、砲撃の威力さえも、明らかに先ほどとは異なっている。
深海棲艦にも、形態を変えることで能力を大幅に高める個体は存在する。
身体や艤装を構成する闇を組み替え、より強力な姿へと移行する。それは彼女たちにとって、決して珍しい現象ではなかった。
だからこそ、一部の上位個体は目の前の艦娘にも同じような変化が起きたのではないかと考えた。
人類側にも、そんな能力があるのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
突然現れた未知の力に対し、彼女たちの反応には驚きと警戒、そして少なからぬ興味が混じっていた。
だが、その僅かな戸惑いすら、“出雲”は見逃さなかった。
「私を見てなさい!」
鋭い声と共に、再び砲声が響く。
“重巡棲姫”が砲弾をかわしたところへ、“出雲”が一気に距離を詰めた。
「チィッ……!」
次弾が至近距離で炸裂し、爆炎に押された“重巡棲姫”の身体が大きく後退する。
直後、“出雲”は反転した。
左右から迫っていた“軽巡棲鬼”と“軽巡棲姫”の間を強引に突破し、背後から放たれた“駆逐棲姫”の砲撃を紙一重で回避する。そのまま別の上位個体へ向かい、相手が迎撃態勢へ入るよりも早く主砲を向けた。
砲声が絶え間なく響き、海面が次々と爆ぜていく。
それは、決して一方的な戦いではなかった。
一歩間違えれば、たちまち砲弾を浴びる。実際に幾度も被弾し、その度に身体や艤装から何かが飛び散っていた。
それでも、“出雲”は止まらなかった。
複数の上位個体を相手にしながら、ほんの一時とはいえ、確かに渡り合っていたのである。
そんな光景を、少し離れた場所から眺めている者がいた。
“空母棲姫”。
彼女は既に航空隊への積極的な攻撃命令を止め、周囲に黒い艦載機を待機させながら、“出雲”の動きを目で追っていた。
「……マタ、変ナコト覚エタノネ」
呆れているような、どこか面白がっているような声だった。
彼女は、あの艦娘のことをよく知っていた。
かつて自分が“空母棲鬼”だった頃、一度、真正面から戦ったことがある。
砲撃を防がれても諦めず、それならば直接殴ってやるとでも言わんばかりに突っ込んできた女。
普通、艦娘が空母級の上位個体を相手に、海上で殴り合いなど始めるだろうか。
だが、あの女は実際にやった。
こちらも意地になって応じた結果、随分と珍妙な戦いになったことを覚えている。
あれから何年も経っているのだから、何か新しい技を身につけていても不思議ではない。
とはいえ、だからといって今回も自分が殴り合いに付き合う理由は無かった。
以前は航空隊を潰され、直接戦うほかなくなったが、今回は違う。周囲には接近戦を得意とする者がいくらでもいるし、そもそも今の自分は空母として十分な戦力を保持している。
わざわざ艦載機を放り出し、あの女と拳を交える必要など無い。
それに。
「……ドウスルノカシラネ」
“空母棲姫”は、視線だけを隣へ向けた。
そこには、もう一人。
あの艦娘をよく知る者がいた。
“戦艦棲姫”である。
彼女は先ほどから殆ど動かず、“出雲”の戦いを眺めていた。
初めて見る相手ではない。
何度も戦い、何度も邪魔をされ、その度に生き延びてきた艦娘だった。
特に記憶へ残っているのは、以前、日本の呉を攻撃した際の戦いである。
あの時、自分には明確な役割があった。
日本の艦隊を呉から引き離し、戦力を拘束し、別働隊が軍港を攻撃するための時間を稼ぐ。
そのために、目の前へ現れた敵を相手にした。
“磐手”。
空母艦娘と、その航空隊。
人間の艦隊。
空軍の航空機。
様々な戦力を組み合わせ、ようやく自分の前進を食い止めたあの戦いにも、“出雲”はいた。
刀を構え、砲撃の間を潜り抜け、遂には自分の懐まで入り込んできた。
そして、その刃を確かに装甲へ届かせた。
浅い傷だった。
戦闘能力へ影響するような損害ではなく、まともな痛手と呼ぶことすら難しい。
それでも、届いたのである。
あれほど厄介な第一世代艦娘は、他にいなかった。
無論、あの時の自分が遊んでいたわけではない。
戦闘そのものには真剣だったし、相手の攻撃にも相応の力で応じていた。ただ、あの戦いでは敵を一人残らず殺すことより、作戦目的を達成する方が重要だった。
日本艦隊を呉から遠ざけ、そこへ釘付けにしておかなければならなかったのだ。
だが、今は違う。
既に第二特務艦隊は壊滅し、敵の戦闘艦も遠ざかっている。
目の前に残っているのは、満身創痍の艦娘が一人。
その一人が、突然見せ始めた異常な力。
“戦艦棲姫”は、その動きを暫く観察していた。
速い。
反応も鋭い。
そして何より、今までの戦い方を捨てていない。
単に力任せに暴れているのではなく、長年の実戦で培ってきた技量を、跳ね上がった身体能力によってさらに引き出している。
なるほど、厄介な相手であることに変わりはないらしい。
しかし。
「……何ヲ、遊ンデイルノ?」
低い声だった。
その場にいた上位個体たちの何体かが、思わず振り向く。
“戦艦棲姫”は笑っていなかった。
怒っているわけでもない。
ただ、何故いつまでも一人の艦娘を相手にしているのか、それが理解出来ないとでも言いたげな様子だった。
そもそも、目の前の艦娘がいつまでも戦い続けられるはずがない。
右側の艤装は破壊され、配管から蒸気が噴き出している。全身には無数の傷が走り、機関音も明らかに異常だった。
それどころか、時間が経つにつれて音はさらに甲高く、不規則なものへ変わり始めている。
本来の限界を越えて稼働しているのだろう。
あのまま放っておけば、いずれ自分自身の力に耐えられなくなる。
ならば、待っていればいい。
それだけで、いずれ勝手に倒れるはずだった。
だが、“戦艦棲姫”には待つ理由が無かった。
相手が弱いからではない。
むしろ逆。
あの艦娘は弱くない。
圧倒的に不利な立場にありながら、僅かな隙でも見つければ食らいついてくる。仲間を逃がすためなら自分が壊れることさえ厭わず、今はそのために未知の力まで使っている。
ならば、これ以上好きにはさせない。
“戦艦棲姫”の艤装が、ゆっくりと動き始めた。
その変化に、真っ先に気付いたのは“出雲”だった。
複数の敵の間を駆け抜け、次の攻撃へ移ろうとした、その瞬間。
背筋を冷たいものが這った。
「……っ!」
反射的に視線を動かす。
そこにいた。
“戦艦棲姫”。
こちらへ向けられた砲口。
そして、何より。
その砲口の向こうから感じる、今までとは明らかに違う何か。
“出雲”は咄嗟に進路を変えた。
既に加速していた身体を強引に捻り、さらに速度を上げる。少しでも射線から外れようと、残された力を振り絞って海面を蹴った。
しかし、“戦艦棲姫”の砲口は、その動きに合わせて僅かに向きを変えた。
「……シズミナサイ」
───発砲。
それだけだった。
轟音が海上を叩き、巨大な砲弾が放たれる。
“出雲”は最後まで回避しようとしていた。
だが、間に合わなかった。
砲弾が胴体を捉えた瞬間、凄まじい衝撃が彼女の身体を貫き、周囲の海面が白く弾けた。
爆炎。
衝撃波。
砕け散る艤装。
その中心から、“出雲”の身体が弾き飛ばされる。
先ほどまで海上を縦横無尽に駆け回っていた艦娘は、もはや自分の意思で姿勢を保つことさえ出来なかった。
血と赤黒い油が飛び散り、引き千切られた艤装の破片が海へ降り注いでいく。
やがて、異常な唸りを上げ続けていた機関音も途絶えた。
───静寂。
それまで攻撃を繰り返していた上位個体たちさえ、一瞬だけ動きを止めていた。
その中で、“空母棲姫”だけは特に驚いた様子もなく、静かに光景を眺めている。
やはり、こうなった。
“戦艦棲姫”は、海中へ沈んでいく“出雲”へ追撃しなかった。
既にその必要が無いことを理解していたのである。
「……手間ヲ取ラセタワネ」
勝ち誇るような笑みも、嘲るような言葉も無かった。
第一世代艦娘の最強格を倒したことについて、特別な感慨を抱いている様子すらない。
ただ、邪魔な相手を排除した。
それだけだった。
以前の呉を巡る戦いで、彼女が手を抜いていたわけではない。
あの時も、本気で戦っていた。
しかし、あの時の彼女は戦争をしていた。
敵を拘束し、戦力を引き剥がし、作戦を成功させるために戦っていたのである。
それに対して、今回は違った。
戦線を維持する必要も、相手の攻撃へ付き合う必要も無い。
ただ目の前の一人を、確実に仕留めればいい。
そのためだけに力を使った。
そして、その違いだけで、戦いは一撃で終わったのである。
“戦艦棲姫”は沈みゆく“出雲”から視線を外した。
「……帰ルワヨ」
異を唱える者はいなかった。
既に「建御雷」は遠く、第二特務艦隊へ壊滅的な損害を与えるという目的も達している。
これ以上の追撃は不要だった。
上位個体たちが次々と進路を変え、撤収を開始する。
先ほどまで“出雲”と戦っていた者たちも、その後へ続いた。
そして、さらに離れた場所には、最初から一度も戦闘へ加わらなかった者たちがいる。
後詰めとして待機していた五体の上位個体である。
彼女たちは結局、何もしなかった。
戦う必要が無かったからだ。
十四体もの上位個体を集めた今回の攻勢は、その過半数にあたる前衛九体だけで、第二特務艦隊を壊滅へ追い込んだ。
日本側が長い年月をかけて育て、維持してきた第一世代艦娘たち。
その戦力を、ほぼ一方的に叩き潰したのである。
やがて砲声は消え、北の海には再び静けさが戻っていった。
横須賀。
軍港へ帰投した「建御雷」を迎える空気は、出撃時とはまるで違っていた。
岸壁には衛生兵や整備員、艦娘技術研究所から派遣された技術者たちが集まり、入港と同時に慌ただしく作業を始めている。
損傷した艦体には応急修理の痕跡が残り、甲板上では負傷した艦娘たちが次々と担架へ乗せられていた。
ある者は意識を失ったまま運ばれ、別の者は辛うじて自力で立ち上がり、肩を貸された状態で艦を降りていく。
その誰もが疲れ切っていた。
だが、最も目を引いたのは、そこにいる者たちの姿ではなかった。
空いている場所だった。
出撃した時には確かにいたはずの艦娘たちが、今はもういない。
帰投した艦から降りてくる人数は、明らかに少なかった。
そして、その中には“出雲”の姿も無かった。
“磐手”は、甲板の端に立っていた。
彼女自身も酷い負傷をしていたが、治療を受けることもなく、ただ遠くの海を見つめている。
海斗はその姿を少し離れた場所から見ていた。
何度か声を掛けようとしたものの、その度に言葉を失っていた。
何を言えばいいのか、分からなかったのである。
“出雲”は自分の意思で残った。
そして、“磐手”へ命じた。
「建御雷」を守ること。
生き残った仲間たちを連れて帰ること。
“磐手”は、その命令を果たした。
だから、彼女の判断は間違っていない。
もし“出雲”の命令に背いて戦場へ留まっていれば、今頃は自分も、そして「建御雷」も沈んでいたかもしれない。
海斗も、美香も、それを理解していた。
何より、“磐手”自身が一番よく分かっているはずだった。
だが、理屈で納得出来ることと、感情が納得することは別だった。
「……私だけ」
掠れた声に、美香が顔を上げた。
「私だけ、帰ってきちゃった……」
“磐手”は、海を見つめたままだった。
責めるような声ではなかった。
誰かに聞かせようとした言葉でもない。
ただ、胸の奥に溜まっていたものが、堪えきれずに零れたような声だった。
美香は暫くその姿を見てから、静かに傍へ歩み寄った。
慰めの言葉は掛けなかった。
抱きしめることも、肩へ手を置くこともしない。
今は何をしたところで、“磐手”の心が軽くなるとは思えなかったからだ。
二人は並んで、遠くの海を見つめた。
その向こうには、もう何も見えない。
「……出雲」
“磐手”が小さく名前を呼んだ。
返事は無かった。
その頃、遠く離れた北方海域。
陽光の届かない海中を、一つの小さな影が泳いでいた。
潜水“カ級”。
北方海域方面軍に所属する、潜水艦型の下位個体である。
彼女は周辺海域の哨戒を終え、いつも通り択捉島で休息してから帰投しようとしているところだった。
既に戦闘は終わり、海中へ伝わってきていた激しい砲撃音も聞こえなくなっている。
上位個体たちも撤収を始めており、周囲にはようやく静けさが戻りつつあった。
彼女自身、今回の戦いへ直接参加したわけではない。
任務はあくまでも周辺海域の警戒と情報収集であり、戦闘の結果についても詳しくは知らなかった。
ただ、随分と大きな戦いがあったらしいことだけは分かっている。
そのまま帰投するつもりだった。
しかし、何気なく視線を動かした時、海中を沈んでいく何かが目に入った。
「……?」
最初は、大きな残骸だと思った。
戦闘のあった海域なのだから、壊れた艤装や機械の破片が沈んでいても不思議ではない。
だが、近付くにつれて、その認識は変わった。
白い肌。
千切れた衣服。
水中へ細く広がる、赤黒い液体。
「……エ?」
人の形をしていた。
いや、かろうじて人の形を保っている、と言った方が正しいだろう。
“カ級”は警戒しながら距離を詰めた。
艦娘だった。
人類側の、艦娘。
本来なら敵である。
だが、その艦娘は動かなかった。
攻撃してくる様子もなく、そもそも動けるような状態ではなかった。
両腕は失われ、胸部より下もほぼ残っていない。艤装は跡形もなく、辛うじて残された頭部と胸部にも、目を背けたくなるほど酷い損傷があった。
普通なら、とっくに死んでいる。
“カ級”も、最初はそう思った。
しかし。
「……アレ?」
何かが、おかしい。
彼女はさらに近付き、残された胸部を覗き込んだ。
弱い。
あまりにも弱い。
だが、確かに何かを感じる。
「……イキテル?」
思わず声が漏れた。
当然、返事は無い。
“カ級”は暫くその場で動けずにいた。
人類側の艦娘。……敵。
しかも、これほど酷い状態なら助けられる保証など無い。
見なかったことにして帰る方が、ずっと簡単だった。
まして今回の戦いに参加した上位個体たちは、まだ完全に海域から離れていない。
もし人類側の艦娘を助けているところを見られれば、何を言われるか分かったものではない。
北方海域方面軍の仲間たちまで、面倒なことへ巻き込んでしまうかもしれなかった。
だが。
“カ級”は、もう一度目の前の艦娘を見た。
まだ生きている。
それを知ってしまった。
「…………」
少しだけ迷った後、彼女はそっと手を伸ばした。
沈み続けていた身体を抱え、慎重に支える。
それだけで、艦娘の沈降は止まった。
しかし、問題はここからだった。
「……オモイ」
残された身体だけでも、決して軽くはない。
これを抱えたまま長距離を移動するのは、彼女一人では難しかった。
何より、少しでも乱暴に扱えば、ただでさえ辛うじて繋がっている命が失われかねない。
どうするべきか。
暫く考え込んだ末、“カ級”は通信装置を作動させた。
今なら、まだ近くにいるはずだった。
「……ハァ?」
少し離れた海域。
突然の通信を受けた“潜水棲姫”は、露骨に不機嫌そうな声を上げた。
「人間ノ艦娘……?」
通信の向こうでは、“カ級”が必死に状況を説明している。
沈んでいた艦娘を見つけたこと。
まだ生きていること。
だが、酷い状態であり、自分一人では運べないこと。
どうすればいいのか。
一通り話を聞き終えた“潜水棲姫”は、思わず額へ手を当てた。
「ナンデ拾ウノヨォ……」
呆れた声だった。
だが、そう言いながらも、既に進路を変えていた。
そもそも彼女は、今回の大規模攻勢へ自分も参加するつもりだったのである。
久しぶりに大きな戦いがあると聞き、少しばかり張り切っていたのだが、集められた戦力を見て、その希望はあっさり却下された。
前衛だけで九体。
後詰めに五体。
これ以上、潜水艦を増やして何をするのか。
そんなことを言われ、結局は周辺海域の警戒と情報連絡へ回されてしまった。
正直、不満はあった。
だが、そのおかげで今、こうして“カ級”の救援要請に応じられるのだから、世の中何が幸いするか分からない。
「……マッテナサイ。今、行クカラ」
通信を切ると、“潜水棲姫”は海中へ深く潜り、速度を上げた。
程なくして、彼女は“カ級”の元へ到着した。
まず周辺を確認し、それから抱えられている艦娘へ目を向ける。
「……ウワァ」
思わず、そんな声が漏れた。
「ヒドイワネェ……」
近付いて確認してみれば、確かにまだ生きている。
信じられないほど微弱ではあるものの、残された身体の奥に生命反応がある。
しかし、それだけだった。
今にも消えそうな命が、辛うじて残っているに過ぎない。
「……コレ、ドウスルノォ」
不安そうに見上げる“カ級”へ問い掛ける。
答えは返ってこなかった。
“カ級”自身にも、どうすればいいのか分からないのだろう。
ただ、助けたい。
その気持ちだけは十分に伝わってきた。
“潜水棲姫”は、暫く黙って“出雲”を見つめた。
そして、小さく息を吐く。
「……姫様ニ、見セナキャネ」
その言葉に、“カ級”の表情が僅かに明るくなった。
「ウン……!」
「ハイハイ。連レテ帰ルワヨォ」
そう言いながら、慎重に“出雲”の身体を受け取ろうとした、その時だった。
“潜水棲姫”の動きが止まる。
「……」
上方へ意識を向ける。
遠い。
だが、確かにいる。
撤収途中の上位個体たちだった。
まだこちらに気付いている様子は無い。
しかし、相手も上位個体である。
下手な動きを見せれば、何かを運んでいることくらい簡単に悟られてしまうだろう。
まして、その何かが人類側の艦娘だと知られれば、ただでは済まない。
「……面倒ネェ」
小さく呟いた後、“潜水棲姫”は不安そうな“カ級”へ視線を戻した。
そして、にやりと笑った。
「大丈夫ヨォ。私ニ任セナサイ」
直後、彼女の周囲へ黒いものが広がり始めた。
深海棲艦の身体と艤装を形作るその力が水中へ溢れ出し、“潜水棲姫”の姿を包み込んでいく。
輪郭が揺らぎ、身体と艤装が組み替わっていく。
より鋭く、より大きく。
周囲を満たす青い光が強まり、やがて闇の中で二対の眼が赤く輝いた。
“カ級”が思わず目を丸くする。
やがて闇が薄れ、そこから現れたのは、先ほどまでとは明らかに異なる姿だった。
“潜水棲姫改”。
より強力な形態へと移行した彼女は、自分の身体を軽く確かめるように動かした後、“カ級”へ向かって手を差し出した。
「コッチニ、乗セテ」
“出雲”の残された身体を慎重に受け取り、これ以上損傷させないよう艤装へ固定する。
そして、すぐ傍にいる“カ級”を見た。
「離レナイデネェ」
「ウン!」
次の瞬間、二人の姿は暗い海の中へと消えた。
速い。
しかし、その速さだけなら、他の上位個体にも優れた者はいくらでもいる。
“潜水棲姫改”の恐ろしさは、それだけではなかった。
海水を殆ど乱さず、余計な音を立てることもなく、深い水中を異常な速度で進んでいく。
通常なら高速航行と静粛性は両立し難いものだが、彼女の動きにはその常識が通用しなかった。
しかも、人類側の艦娘を一人抱え、さらに“カ級”のことまで気にしながらの移動である。
上方では、撤収する上位個体たちが次々と海域を離れていった。
だが、誰一人として気付かなかった。
その真下を、自分たちが撃破したはずの艦娘を抱えた“潜水棲姫改”が通り過ぎていることに。
戦艦の姫とは、まるで異なる強さだった。
砲撃で敵を吹き飛ばすこともなければ、海面を割るような破壊力を見せることもない。
しかし、見つからない。
追いつけない。
そして、一度その姿を見失えば、暗い海の底から彼女を捕らえることは極めて難しい。
それもまた、上位個体の中でも「姫」と呼ばれる存在の力だった。
ダッチハーバー。
アリューシャン列島に位置するこの港は、かつてアメリカ軍が北太平洋における重要拠点として使用していた場所だった。
だが、それも既に十年近く前の話である。
ミッドウェー島とほぼ時を同じくして、ダッチハーバーは深海棲艦による大規模攻勢を受け、陥落した。
太平洋の中央部と北端。
二つの重要拠点を立て続けに失ったことはアメリカ軍にとって大きな打撃となり、後には日本国防軍と共同で奪還を目指す反攻作戦も実施された。
第二次AL/MI作戦である。
しかし、作戦は成功しなかった。
ミッドウェーも、ダッチハーバーも、人類側の手へ戻ることは無かったのである。
それから長い年月が経った。
港には、かつてアメリカ軍が使用していた施設が今も残されている。
だが、岸壁へ横付けされた艦艇も、基地内を行き交う者たちも、もはや人類とは異なる存在だった。
破壊された施設は少しずつ補修され、使える建物は再利用されている。新しく造られた構造物には深海棲艦特有の黒い材質が使われ、人類の建築物と奇妙に入り交じっていた。
ここに暮らすのは、北方海域方面軍。
アリューシャン列島からベーリング海、そしてオホーツク海に至る広大な海域を勢力圏とする、深海棲艦の一大集団である。
人類側から見れば、十年近く占領されたままの敵拠点。
しかし、そこに暮らす深海棲艦たちにとっては違う。
彼女たちは長い年月をこの地で過ごし、自分たちで補修し、守り、生活してきた。
今では、ここが自分たちの居場所だった。
そんな基地の一角が、今、少しばかり騒がしくなっていた。
「姫様! 潜水棲姫ガ帰ッテキタ!」
「ナンカ、運ンデキタヨ!」
下位個体たちの声が飛び交い、通路の奥から小さな足音が聞こえてくる。
やがて現れたのは、幼い少女の姿をした一人の深海棲艦だった。
小柄な身体。
あどけない顔立ち。
とても一つの方面軍を率いているとは思えないほど、幼い外見だった。
だが、その姿を見つけた下位個体たちの反応は明らかに違っていた。
道を空ける者。
嬉しそうに駆け寄る者。
何かを報告しようとする者。
誰もが彼女の姿を目で追い、そして自然と声を掛けている。
「姫様!」
「ホッポ!」
彼女こそが、北方海域方面軍を率いる上位個体。
“北方棲姫”である。
その“北方棲姫”は、運び込まれたものを見た瞬間、足を止めた。
「……コレ」
声は小さかった。
“潜水棲姫”が、元の姿へ戻りながら答える。
「人間ノ艦娘ヨォ。カ級ガ拾ッタノ」
「……シッテル」
“北方棲姫”はそう答え、慎重に近付いた。
見覚えがあった。
遠くから、何度か見たことのある艦娘。
日本側にいる、あの少年たちとも関わりの深い存在だった。
だが、今はそのようなことを考えている場合ではなかった。
目の前の艦娘は、あまりにも酷い状態だったのである。
頭部と胸部。
残っているのは、ほぼそれだけだった。
両腕は失われ、下半身も残っていない。胸部には大きな損傷があり、裂けた部分からは血と赤黒い油が僅かずつ流れ出している。
艤装に至っては、殆ど何も残っていなかった。
“北方棲姫”は、そっと顔を近付けた。
そして、暫くの間、何かを確かめるようにじっと見つめていた。
「……イキテル」
「ウン。信ジラレナイケドネェ」
「……マダ?」
「ギリギリ、ネェ」
“北方棲姫”は黙り込んだ。
今にも消えそうな生命反応。
このまま放置すれば、恐らく長くは保たない。
それでも、まだ死んでいない。
彼女は少しだけ考えた後、顔を上げた。
「タスケル」
それだけだった。
だが、その言葉を聞いた途端、周囲の空気が変わった。
「姫様、コッチ空ケル!」
「運ブノ、手伝ウ!」
「アレ持ッテクル!」
下位個体たちが、一斉に動き始めたのである。
誰かが細かく指示を出したわけではない。
ある者は処置を行う場所を空け、別の者は必要そうなものを運び始める。
“カ級”も慌てて走り出し、“潜水棲姫”は“出雲”の身体を慎重に処置台へ移した。
「姫様、コレ使ウ?」
差し出されたものを見て、“北方棲姫”が頷く。
「ウン。アリガト」
それを聞いた下位個体は、少し嬉しそうに笑った。
誰も、何故人類側の艦娘を助けるのかとは尋ねなかった。
この場所にいる者たちは、もう知っているからだ。
姫様が助けたいと言った。
なら、自分たちも助けよう。
それで十分だった。
だが、実際に助けるとなれば、問題は山ほどあった。
この基地には、人類側の医療施設も、艦娘を修理するための設備も存在しない。
そもそも彼女たちは深海棲艦であり、艦娘の身体構造について詳しいわけでもなかった。
それでも、何もしなければ目の前の命は失われる。
ならば、自分たちのやり方を試すしかない。
“北方棲姫”が手を伸ばす。
その周囲へ、黒いものが集まり始めた。
───闇。
深海棲艦の身体と艤装を形作る力である。
彼女たちはそれを使って傷を塞ぎ、時には失った身体さえ再構築する。
だが、それを人類側の艦娘へ使ったことなど、少なくともこの場にいる者たちには無かった。
「……大丈夫ナノォ?」
“潜水棲姫”が不安そうに問い掛けた。
“北方棲姫”は、正直に首を傾げる。
「ワカンナイ」
「ワカンナイッテ……」
「デモ」
“北方棲姫”は“出雲”を見た。
「ヤラナイト、シヌ」
反論する者はいなかった。
闇が、ゆっくりと“出雲”へ触れていく。
傷口を覆い、裂けた組織の隙間へと入り込み、壊れた内部構造を支えるように広がっていく。
ただし、失われた身体を作り直すわけではなかった。
そんなことをすれば、どれほどの闇が必要になるかも分からない。
まして、そのようにして造ったものが本当に艦娘の身体として機能するのか、判断出来る者などいなかった。
だから、今は塞ぐ。
ただ、これ以上壊れないようにする。
血と油が流れ続ける傷口を塞ぎ、破壊された内部を最低限の形で固定する。
出来ることだけを、慎重に行っていく。
「……」
“北方棲姫”の表情は真剣だった。
普段の幼い振る舞いは影を潜め、闇の動きを見つめながら、少しずつ、少しずつ処置を進めていく。
周囲の者たちも、息を潜めるように見守っていた。
そして。
「……アレ?」
“潜水棲姫”が、不思議そうな声を漏らした。
闇が、傷口へ入り込んでいる。
それ自体は、今まさに行っている処置なのだから当然だった。
だが、問題はその先だった。
「……馴染ンデナイ?」
異質なものを押し込まれたはずの艦娘の身体が、それを拒絶していなかったのである。
少なくとも、目に見えるような拒絶反応は起きていない。
それどころか、闇は周囲の組織と結びつき、まるで元からそこへ存在していたかのように、損傷部を塞ぎ始めていた。
“北方棲姫”も、僅かに首を傾げた。
「……ヘン」
本来なら敵同士であるはずの、艦娘と深海棲艦。
その二つを構成するものが、目の前で結びつこうとしている。
誰も、その理由を説明出来なかった。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
処置が出来る。
それが分かれば、十分だった。
「……ツヅケル」
“北方棲姫”が呟き、再び闇を動かし始める。
裂けた組織が塞がれ、内部からの流出も徐々に減っていった。
やがて、辛うじて残されていた生命反応が、それ以上弱まらなくなる。
「……」
“北方棲姫”は暫く様子を見守り、ようやく小さく息を吐いた。
「……デキタ」
周囲にいた者たちの緊張が、僅かに緩んだ。
“潜水棲姫”が身を乗り出す。
「シナナイ?」
“北方棲姫”は少し考えた。
「……多分」
「多分カァ……」
「デモ、サッキヨリ、イイ」
実際、その通りだった。
失われた身体は戻っていない。
意識も無い。
自力で動くことなど、到底出来る状態ではなかった。
それでも、先ほどまで消えかけていた命は、今もそこに残っている。
そして何より、生命反応が僅かながら安定し始めていた。
“潜水棲姫”は安堵したように息を吐き、“カ級”も嬉しそうに表情を綻ばせた。
周囲の下位個体たちも、口々に声を上げている。
「ヨカッタ……!」
「イキテル!」
「姫様、スゴイ!」
“北方棲姫”は、そんな彼女たちを見回した。
そして、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。
「……ミンナ、アリガト」
その一言に、周囲の者たちの表情がさらに明るくなる。
それから“北方棲姫”は、処置台の上に横たわる“出雲”へ視線を戻した。
暫く黙って見つめた後、静かに口を開く。
「……カエス」
“潜水棲姫”が首を傾げた。
「人間ノトコロニ?」
「ウン」
「ココニ置イテオイテモ、イインジャナイ? 姫様ガ助ケタンダシィ……」
“北方棲姫”は、小さく首を横へ振った。
「ダメ」
「……ドウシテ?」
「カエルトコ、アル」
そう言って、もう一度“出雲”を見る。
この艦娘には、帰るべき場所がある。
帰りを待っている者たちがいる。
それなら、そこへ帰してあげるべきだった。
“潜水棲姫”は暫く黙っていたが、やがて諦めたように肩を竦めた。
「……分カッタワヨォ」
それを聞いた“北方棲姫”は、満足そうに頷いた。
「ウン」
そして、“カ級”の方へ向き直った。
「……アリガト」
「……?」
「ヒロッテクレテ」
“カ級”は一瞬きょとんとした後、嬉しそうに笑った。
その様子を見た“北方棲姫”も、また小さく微笑んだ。
それから暫く経った、横須賀近海。
既に日は沈み、遠くの陸地には無数の灯りが見えていた。
暗い海面を、巨大な潜水艤装が静かに進んでいく。
その上には、小さな“北方棲姫”が座っていた。
さらに、その傍には慎重に固定された“出雲”の姿がある。
“潜水棲姫”は周囲を警戒しながら、出来る限り音を立てずに進んでいた。
「姫様ァ。コレ以上ハ、近付クト見ツカルヨォ」
「ウン」
“北方棲姫”は、遠くの陸を見つめた。
横須賀。
人間たちのいる場所。
そして、あの艦娘が帰るべき場所だった。
ここまで来れば、きっと見つけてもらえるだろう。
「……ココデ、イイ」
「ハァイ」
“潜水棲姫”は頷き、慎重に“出雲”を海上へ移した。
処置した部分を傷つけないよう、身体を支えていたものを外し、沈まないよう浮力を確保する。
“北方棲姫”も小さな手を添え、最後にもう一度、“出雲”の顔を覗き込んだ。
「…………」
相変わらず、目を覚ます様子は無かった。
それでも、命は残っている。
“北方棲姫”は暫くその顔を見つめていたが、やがて何かを思い出したように小さく呟いた。
「……ゼロ……マダ、ナイノカ」
「……ゼロ?」
隣にいた“潜水棲姫”が首を傾げる。
“北方棲姫”は頷いた。
「ウン」
しかし、それ以上は説明しなかった。
代わりに、少しだけ空を見上げる。
昔から欲しいと思っているもの。
だが、なかなか手に入らない。
まだ来ない。
まだいない。
そんなことを考えているうちに、少しだけ不満が湧いてきたのか、彼女はぷくりと頬を膨らませた。
「……カエル」
「ハイハイ。姫様、コッチヨォ」
“潜水棲姫”に促され、“北方棲姫”は再び艤装の上へ座った。
そして最後に一度だけ、“出雲”の方へ振り返った。
「……バイバイ」
小さく手を振る。
当然、返事は無かった。
それでも“北方棲姫”は満足したらしく、再び前を向いた。
やがて巨大な潜水艤装がゆっくりと沈み始める。
海面が閉じ、二人の姿は暗い水の中へ消えていった。
後には、僅かな波紋だけが残された。
それから数十分後。
横須賀から出た小型艇が、海上に浮かぶ不審なものを発見した。
「人影!」
「右舷前方!」
見張員の声が飛び、艇の進路が変わる。
探照灯が点灯し、暗い海面を白く照らした。
何かが浮いている。
いや、人間のように見える。
「……誰かいるぞ!」
「艦娘か……?」
艇が慎重に近付いていく。
そして、その姿がはっきりと見えた瞬間、乗員たちは言葉を失った。
あまりにも酷い状態だった。
身体の大部分が失われ、辛うじて残った頭部と胸部にも、見るからに深刻な損傷がある。
普通なら、生きているはずがない。
だが、その顔を見た一人が、突然息を呑んだ。
「……待て」
「どうした?」
「おい、これ……」
声が震えていた。
見覚えがある。
いや、見間違えるはずがない。
「“出雲”……?」
その名前が出た瞬間、周囲の空気が凍りついた。
北方海域で消息を絶った、第二特務艦隊の旗艦艦娘。
生還の見込みは絶望的とされていた、その本人だった。
「……まさか」
誰もが、最悪の結末を想像した。
これほどの状態では、どう考えても助からない。
そう思った。
しかし。
「……待て!」
一人が、携行していた計測器を確認した。
そして、目を見開く。
「生命反応……!」
「何!?」
「ある! 生命反応があるぞ!!」
一瞬の沈黙。
直後、艇内の空気が一変した。
「回収しろ!」
「医療班へ連絡! 急げ!」
「慎重に運べ! 絶対に傷を広げるな!」
乗員たちが一斉に動き始める。
海面に浮かぶ“出雲”の身体を、壊れ物を扱うように慎重に引き上げていく。
その時だった。
「……何だ、これ」
一人の隊員が、傷口を見て眉を寄せた。
本来なら大きく開いているはずの部分が、黒い何かを混ぜ込んだような組織によって塞がれていたのである。
明らかに不自然だった。
国防軍の応急処置でもなければ、艦娘技術研究所で使用されている修復技術とも違う。
そもそも、こんな処置を誰が施したというのか。
疑問はいくつも浮かんだ。
だが、今は考えている場合ではない。
“出雲”が生きている。
それだけで、十分だった。
「建御雷」へ連絡が入ったのは、それから間もなくのことだった。
海斗は、艦内で受話器を取った。
最初、何を言われたのか理解出来なかった。
「……すまない。もう一度言ってくれ」
聞き間違えたのだと思った。
しかし、通信の向こうから繰り返された内容は、先ほどと同じだった。
海斗の表情が止まる。
「…………」
その様子に、美香が顔を上げた。
「海斗?」
返事は無かった。
暫くして、海斗がゆっくりと口を開く。
「……出雲が」
その声は、僅かに震えていた。
美香が息を呑む。
近くにいた“磐手”も、顔を上げた。
「……見つかった」
“磐手”の目が見開かれる。
「……え?」
「出雲が、見つかったんだ」
海斗は一度言葉を切った。
そして、まだ信じられないという表情のまま、続けた。
「生きてる」
その瞬間、“磐手”の動きが止まった。
「…………え?」
意味が理解出来なかった。
いや、言葉の意味は分かる。
分かるのに、頭が追いつかなかった。
「……生きて、る?」
「ああ」
海斗は頷いた。
「まだ生きてる。今、こっちへ運んでるそうだ」
「…………」
“磐手”は口元を押さえた。
そして、力が抜けたように、その場へ座り込んだ。
何かを言おうとした。
だが、言葉にならなかった。
代わりに、涙が溢れた。
一度零れ始めると、もう止まらなかった。
美香がその傍へ膝をつく。
今度は、そっと肩へ手を置いた。
“磐手”は何も言わず、ただ泣き続けていた。
やがて、“出雲”は横須賀へ戻ってきた。
しかし、その姿を実際に見た時、誰もすぐには喜べなかった。
処置台の上に横たわっているのは、頭部と胸部。
ほぼ、それだけだった。
両腕も、下半身も無い。
艤装も殆ど残っていない。
傷口は奇妙な黒い組織で塞がれていたが、その異様さがかえって損傷の凄まじさを際立たせていた。
海斗も、美香も、暫く声を出せなかった。
あの“出雲”が。
長い間、第二特務艦隊を支え続けてきた彼女が。
ほんの少し前まで、あれほど元気に戦っていた彼女が。
目の前では、こんな姿になっている。
“磐手”も、処置台の傍まで歩いてきた。
そして、震える手を伸ばした。
だが、途中で止まった。
どこへ触れればいいのか、分からなかったのである。
身体の殆どが失われ、残された部分にも酷い損傷がある。
下手に触れれば、傷つけてしまうかもしれない。
それが怖かった。
「……出雲」
名前を呼ぶ。
返事は無い。
目も開かない。
普段のように笑い掛けてくれることもない。
それでも。
確かに、そこにいる。
ほんの僅かではあるものの、胸の奥では今も命が動いていた。
“磐手”は、もう一度“出雲”の顔を見た。
そして、漸く声を絞り出した。
「……おかえり」
涙混じりの、小さな声だった。
“出雲”は答えなかった。
それでも、“磐手”は暫くその傍から離れようとしなかった。
彼女が再び目を覚ますのか。
元の身体へ戻れるのか。
そして、また一緒に戦うことが出来るのか。
今は、何一つ分からない。
それでも。
“出雲”は確かに、帰ってきた。
続く
あ と が き
取り敢えず、生存“は”確定。
次回 価値の変化