分かっているのに、動けない。
2016年6月
横須賀 艦娘母艦「建御名方」
「……これで、全部か」
神崎洋平は、机上に並べられた報告書へ目を落とした。
紙媒体の書類だけではない。卓上端末にも、同じような数字が幾つも表示されている。北方海域での戦闘結果をまとめた損害報告、負傷者の容態、艦艇の修理見積もり、そして、今後の作戦行動に投入可能な戦力の一覧。
喪失、重傷、中破、大破、長期修理、戦力外。
第二特務艦隊が北方海域から持ち帰ったものは、既にそうした文字と数字へ置き換えられていた。
だが、その一つ一つには名前がある。顔があり、声があり、何年も共に戦ってきた者たちがいる。
それを、洋平は誰よりもよく知っていた。
北方海域へ出撃した第二特務艦隊は、壊滅的な損害を受けた。
「建御雷」は辛うじて帰投したものの、所属艦娘の多くを失い、生き残った者たちもほとんどが重傷を負っている。艦隊としての戦闘能力は、もはや以前とは比較にならなかった。
そして、その報告書の中には、他の誰とも違う意味で洋平の目を引く名前があった。
───“出雲”。
生存。
肉体の再生は可能。
しかし、艤装のほぼ全損により、現状での戦闘復帰は不可能。
新たな専用艤装を製造すれば、復帰の可能性は残されている。だが、そのためには事実上、新造に近い規模の設計と製造、そして試験が必要だった。
必要となる予算、資材、設備、人員。
それらを、旧式装甲巡洋艦を基礎とする第一世代艦娘一人へ投入する許可は下りなかった。
結果として、戦力評価書の最後には、ただ一言。
『再起不能』
そう記されていた。
「……随分と、便利な言葉ですね」
少し離れた場所に立っていた“鳳翔”が、静かに呟いた。
「人一人を、紙一枚で終わらせるには」
洋平は、その言葉に苦笑することさえ出来なかった。
「再起不能、か……」
椅子の背へ身体を預け、天井を仰ぐ。
「身体は生きてる。本人だって、簡単に諦めるような奴じゃない。それで再起不能ってのも、随分な話だな」
「軍にとっては、戦えるかどうかが重要なのでしょう」
「……分かっちゃいるけどな」
洋平は、それ以上言葉を続けなかった。
分かっている。
軍隊とは、そういう組織だ。
戦力として使えるのか、使えないのか。何を守るために、どこへ、どれだけの戦力を投入するのか。その判断から、軍人である以上、完全に逃れることは出来ない。
洋平自身、必要なら同じような判断を下してきた。
一人を救うために、十人を危険に晒すわけにはいかない。目の前の損害を惜しんで戦力を温存した結果、さらに大きな犠牲を出すようなことも許されない。
そうした現実を、知らないわけではなかった。
ただ、それと同時に、艦娘たちを可能な限り人間として扱おうとしてきたのも事実だった。
艦娘は兵器である。
その事実は否定出来ない。
しかし、彼女たちは意思を持ち、感情を持ち、時には命令に悩み、仲間を案じ、戦場で傷つく。
それを単なる装備品として扱えば、運用上の問題が生じるというだけではない。
洋平自身が、そうした扱いを認めたくなかった。
海斗も、美香も、研究所の者たちも同じだったはずである。
だからこそ、何年も掛けて制度を整え、現場での扱いを変え、艦娘たちが一人の人間として暮らせる環境を少しずつ築いてきた。
それなのに。
「……昔より、難しくなってる気がするな」
洋平は、再び書類へ視線を戻した。
“鳳翔”は何も言わなかった。
ただ、机の上に並んだ名前の一つを見つめていた。
彼女にとっても、“出雲”は長年の戦友だった。
戦闘能力だけではない。
共に笑い、悩み、若い艦娘たちを見守ってきた仲間である。
その彼女が生きて帰ってきたことは、何より喜ばしい。
だが、その生還に対して軍が下した評価が「再起不能」だったという事実には、どうしても割り切れないものがあった。
そんな時だった。
「長官」
執務室の扉が開き、司令部要員が一人入ってきた。
「統合作戦司令部より通達です」
「……またか」
洋平が顔を上げる。
「今度は何だ?」
「今回の北方海域戦に伴う、特務艦隊運用体制の見直しについてです」
その言葉を聞いた瞬間、洋平の表情が僅かに変わった。
運用体制の見直し。
再編でもなければ、解体でも、処分でもない。
何かを変える必要がある時、軍隊では珍しくもない表現だった。
だが、今回ばかりは妙な引っ掛かりがあった。
「……見せてくれ」
差し出された端末を受け取り、内容を確認する。
最初の数行だけなら、特に問題は無かった。
北方海域における第二特務艦隊の壊滅的損害。
第一世代艦娘の戦力減少。
第二世代艦娘の実戦配備遅延。
通常部隊との連携強化。
全軍的な戦力配分の効率化。
どれも、紛れもない事実だった。
現在の艦娘戦力が以前とは大きく異なっていることも、洋平自身が誰より理解している。
第二特務艦隊は壊滅状態にあり、第一特務艦隊も十分な戦力を保持しているとは言い難い。
第二世代艦娘の育成は進んでいるものの、実戦部隊として本格的に運用出来るようになるまでには、まだ時間が必要だった。
だからこそ、通常部隊との連携を強化し、限られた艦娘戦力を効率的に配分する必要がある。
そこまでは、洋平も同意見だった。
しかし。
「…………」
読み進めるにつれ、眉間の皺が深くなっていく。
やがて、洋平は小さく息を吐いた。
「……なるほどねぇ」
その声音に、“鳳翔”が顔を上げた。
「何か問題が?」
「問題……というより、随分と器用なことを考えたもんだ」
洋平は端末を少し持ち上げる。
「俺たちの首は切らないらしい」
「……はい?」
「俺は引き続き特務艦隊司令長官。お前もそのまま。一特艦も残るし、建御名方も今まで通り使っていい」
「それは……」
「その代わり」
洋平が画面を指で送った。
「実際に出来ることが、ほとんど無くなる」
“鳳翔”の表情が変わった。
彼女は端末を受け取り、表示された文章へ目を通す。
そして、僅かに眉を寄せた。
これまで、特務艦隊司令部には大きな裁量が認められていた。
そもそも艦娘という存在自体が、従来の軍制から大きく外れた兵器だったのである。
個々の戦闘能力は極めて高く、即応性にも優れ、通常の艦艇とは比較にならない機動力を持つ。
その一方で、精神状態や個人ごとの適性が戦闘能力へ直結し、艤装との同調や修理、部隊内の人間関係に至るまで、通常兵器とは異なる配慮が必要だった。
何より、敵が現れてから悠長に複数の司令部へ伺いを立てていては、間に合わない場合がある。
だからこそ、特務艦隊司令部が設けられた。
統合作戦司令部の指揮下に置かれながらも、艦娘の運用に関しては大幅な裁量を与えられ、現場の判断で部隊を動かせるようにしていたのである。
艦娘の出撃、配備の変更、作戦立案、研究所との直接調整。
必要に応じて通常部隊との協同を要求することも、特務艦隊司令部の重要な役割だった。
先の北方海域への出撃も、その一例である。
戦場全体を統括していたのは統合作戦司令部だったが、第二特務艦隊を実際に動かす判断を下し、海斗へ命令を送ったのは洋平だった。
それは、特務艦隊司令部が持つ独自の裁量によって成立した行動だったのである。
だが、今回の通達は違った。
「……特務艦隊の出撃には、原則として統合作戦司令部の承認を必要とする」
“鳳翔”が、記載された内容を読み上げる。
「広域作戦における戦力配置の最終決定権は、統合作戦司令部が保持する。通常部隊との共同作戦では、中央の作戦指揮を優先……」
「まだあるぞ」
洋平が言った。
「独自作戦の発令権も縮小。情報も中央で一元管理。補給と整備の優先順位も、向こうが決める」
「……これでは」
“鳳翔”は、そこで言葉を切った。
その先を口にする必要は無かった。
洋平は頷く。
「そういうことだ」
一つ一つだけ見れば、おかしな規定ではない。
むしろ、軍全体を効率的に運用するという観点からは、理に適っている部分さえあった。
壊滅的な損害を受け、以前ほど豊富な戦力を持たなくなった特務艦隊。
その司令部へ、従来と同じ独立裁量を与え続ける必要があるのか。
艦娘だけを特別扱いするのではなく、通常部隊と同じ指揮系統へ組み込むべきではないか。
そう問われれば、反論は難しい。
だが、問題はそこではなかった。
個々の規定には合理性がある。
それらを組み合わせると、どうなるか。
「……司令部そのものは、残るんですね」
“鳳翔”が、静かに確認した。
「ああ」
「人員も、設備も」
「そのままだ」
「……しかし、実際の作戦を決める権限は」
「ほとんど中央へ持っていかれる」
洋平は、自嘲するように笑った。
「見事だろ?」
特務艦隊司令長官という役職は残る。
幕僚もいる。
通信設備も、情報端末も、今まで通り使える。
「建御名方」も変わらず横須賀にあり、艦娘たちも引き続き所属する。
何も奪われていないように見える。
だが、実際には違った。
出撃するにも承認が要る。
戦力を動かすにも中央の判断を待たなければならない。
研究所との調整も、補給も、整備も、必要な情報を得ることさえ、今まで通りには出来なくなる。
最後に命令を決める権限だけが、巧妙に削り取られていたのである。
「……司令部を残したまま、司令部としての意味を無くすわけか」
洋平は端末を机へ戻した。
「随分と器用なことをしてくれる」
“鳳翔”は、暫く黙っていた。
それから顔を上げる。
「……抗議なさいますか?」
「する」
即答だった。
「しない理由が無い」
その日のうちに、洋平は統合作戦司令部との通信回線を開いた。
画面に現れた将官の顔には、これといった敵意は無かった。
むしろ終始事務的で、こちらが何を問題視しているのかも、最初から理解しているように見えた。
それが、洋平には余計に腹立たしかった。
『今回の措置は、あくまで国防軍全体の戦力運用効率化を目的としたものです』
「第二特務艦隊が壊滅した直後に、現場から指揮権を引き剥がす。それが効率化だと?」
『壊滅的損害を受けたからこそ、指揮系統の整理が必要なのです』
「だからこそ、現場判断が必要になる。残った戦力は少ないんだぞ。敵が現れる度に中央の承認を待っていられると思うか?」
『特務艦隊司令部を廃止するわけではありません』
「看板だけ残せばいいって話をしてるんじゃない」
洋平の声が低くなった。
相手の将官は、僅かに姿勢を正す。
『神崎長官』
「何だ」
『現在の艦娘戦力は、特務艦隊司令部創設当初とは大きく異なります。第一世代は著しく減少し、第二世代はいまだ本格的な実戦配備に至っていない。それにもかかわらず、特定の司令部が広範な独立裁量を保持し続けることが適切なのか』
一度、言葉が切られる。
『今回の措置は、その検討結果です』
「……随分と立派な理屈だな」
『軍組織として、当然の判断です』
洋平は、奥歯を噛み締めた。
否定出来ない。
それが、一番厄介だった。
目の前の男が、露骨に敵意を剥き出しにしているのなら、まだ話は分かりやすい。
お前たちが邪魔だから権限を奪う。
神崎家が艦娘戦力を握っているのが気に入らない。
そう言われた方が、よほど戦いやすかった。
だが、相手は正論の形をしている。
第二特務艦隊は壊滅した。
一特艦の戦力も十分ではない。
第二世代が未成熟なのも事実である。
だから、限られた戦力を中央で一元管理する。
文章だけを読めば、何もおかしくない。
だが洋平は、その理屈によって何が失われるのかを理解していた。
艦娘は、命令書一枚で全てを動かせる兵器ではない。
戦場の状況によっては、数分、数十秒の判断の遅れが致命的になる。
現場を知らない者が、書類上の数字だけで戦力を配置すれば、取り返しのつかない結果を招きかねない。
それを避けるために、特務艦隊司令部は存在していたはずだった。
「……だったら、一つ聞かせてくれ」
洋平は、画面の向こうの将官を見据えた。
「今後、現場で緊急事態が発生した場合、誰が責任を取る?」
『作戦指揮上の責任は、規定に従って処理されます』
「違う。俺が聞いてるのは、命令を待ってる間に誰かが死んだ場合だ」
相手は、一瞬だけ黙った。
だが、すぐに元の表情へ戻る。
『必要な緊急対応についても、所定の手続きに従って判断されます』
「……そうかよ」
洋平は、それ以上追及しなかった。
これ以上何を言っても、返ってくる答えは同じだろう。
『これまで特務艦隊司令部に認められていた特例措置を、現在の情勢に合わせて整理する。それ以上でも、それ以下でもありません』
「……分かった」
『ご理解いただけたのであれば』
「理解はした」
洋平は、相手の言葉を遮った。
「納得したとは言ってないがな」
そう告げると、通信を切った。
執務室に、静寂が戻った。
「…………」
洋平は椅子に座ったまま、暫く動かなかった。
“鳳翔”も、何も言わずに傍へ立っていた。
やがて、彼女が静かに口を開く。
「……提督」
「分かってる」
洋平は、画面の消えた端末を見つめたまま答えた。
「ここで暴れたら、向こうの思う壺だ」
“鳳翔”は小さく頷いた。
「……はい」
「統合作戦司令部の命令を拒否する特務艦隊司令長官。軍中央の統制に従わない艦娘部隊。神崎一族による特殊戦力の私物化……」
洋平は、吐き捨てるように続けた。
「好きなように書けるな」
どれも、少しばかり事実を捻じ曲げるだけで成立する批判だった。
特務艦隊司令部に与えられた裁量は、確かに大きい。
神崎家の人間が、その中枢へ深く関わっているのも事実である。
さらに、艦娘技術研究所を事実上支えているのは希空であり、零という存在もまた、通常の軍制では扱い切れない特殊な立場にある。
事情を知らない者から見れば、どう映るか。
艦娘という強大な戦力と、その開発技術を、特定の家系が囲い込んでいる。
そう主張することは、決して難しくなかった。
「……研究所にも、影響が出ますね」
“鳳翔”が静かに言った。
「ああ」
洋平は頷く。
「査察だの、予算の見直しだの、管理体制の適正化だの……いくらでも理由は付けられる」
その先にいるのは、希空だった。
零だった。
まだ十分に育ちきっていない第二世代艦娘たち。
そして、長年戦い続けてきた第一世代艦娘たち。
守らなければならない者が、多すぎた。
だからこそ、動けない。
洋平は、今の状況がどれほど厄介なのかを理解していた。
正面から戦えば、負けるとは限らない。
だが、戦った瞬間に失うものがある。
そもそも今回の通達にしたところで、軍中央の判断として正式に下されている以上、単純に無視するわけにはいかない。
それを拒否すれば、今度は自分たちが軍の規律を破った側になってしまう。
「……見え透いてるんだがな」
洋平は、低く呟いた。
「だからって、引っ掛からずに済むわけじゃない」
何かを仕掛けられている。
少なくとも、そう疑うだけの理由はあった。
だが、相手が何を狙っているのかまでは、まだ分からない。
ただ権限を奪いたいだけなのか。
特務艦隊そのものを無力化したいのか。
それとも、さらに別の目的があるのか。
いずれにせよ、今ここで感情に任せて動けば、相手へ都合の良い口実を与えるだけだった。
洋平は深く息を吐いた。
「……親父なら、どうしたんだろうな」
不意に漏れた言葉だった。
“鳳翔”が、僅かに顔を上げる。
しかし、答えようとはしなかった。
洋平自身、薄々分かっていたからである。
救えるものには、限界がある。
どれほど優秀な指揮官であろうと、どれほど強大な戦力を持っていようと、全てを守ることなど出来ない。
一人を救おうとした結果、十人を失うこともある。
目の前のものを手放せず、結果として本当に守るべきものまで失ってしまうこともある。
ならば、時には割り切らなければならない。
何を守り、何を諦めるのか。
その判断を、指揮官は下さなければならない。
かつて、小林から聞かされた父の言葉。
今は亡きその小林もまた、父がどのような考えで戦い、何を選び取ってきたのかを洋平へ伝えていた。
当時は、頭では理解しているつもりだった。
だが、今になって思う。
本当に理解するというのは、こういうことなのだろう。
「……嫌になるな」
洋平は、机の上で拳を握った。
「こういう時だけ、親父の言ってたことがよく分かる」
“鳳翔”は、静かに彼の傍へ歩み寄った。
そして、肩へそっと手を置く。
「……提督」
「ん?」
「今は、無理に結論を出さなくてもいいと思います」
洋平が、僅かに顔を上げた。
「少なくとも、まだ守れるものは残っていますから」
「……そうだな」
“鳳翔”は、それ以上何も言わなかった。
大丈夫だとは言わない。
何とかなるとも言わない。
そんな保証は、どこにもない。
洋平も、それを求めてはいなかった。
ただ、自分が今守ろうとしているものを、“鳳翔”も同じように守ろうとしている。
それだけで、十分だった。
7月4日
その日は、驚くほど普通の日だった。
少なくとも、艦娘母艦「建御雷」の一室では。
「零ー! ちょっと待ちなさい! まだだから!」
「もういいだろ!」
「駄目!」
美香の声が飛び、零は机の上に置かれた箱を気にしながら、不満そうに頬を膨らませた。
「さっきからずっと待ってるんだけど」
「十分も待ってないでしょうが」
「もう六歳になったんだから、十分くらい待てる!」
「だったら、もう少し待ちなさい」
「それとこれとは別!」
「どっちなのよ……」
美香が呆れたように肩を落とす。
その様子を見ていた海斗が、とうとう吹き出した。
「ははっ! 零、お前、六歳になっても全然変わらないな」
「今日六歳になったばっかりなんだから、変わるわけないだろ」
「……そりゃそうか」
「海斗、そこで納得しないの」
「いや、正論だろ?」
「そういう問題じゃない」
いつものやり取りだった。
テーブルには料理が並び、その中央には小さなケーキが置かれている。
派手な飾り付けをしたわけではない。
だが、家族で誕生日を祝うには十分だった。
今日、2016年7月4日。
神崎零は、六歳になったのである。
普段は研究所で生活している零だったが、今日は希空を連れて「建御雷」へやってきていた。
もちろん、普通に移動してきたわけではない。
いつものように、ワープである。
今ではすっかり慣れたものだったが、考えてみれば、家族に会うために瞬間移動を使う六歳児というのも、相当に無茶苦茶な話だった。
もっとも、その本人はそんなことを気にしていない。
今の関心は、ひたすら机の上に置かれた箱へ向いている。
「……ねぇ、姉さん」
「なぁに?」
希空が、楽しそうに顔を上げた。
「アレ、何?」
「プレゼント」
「それは見れば分かる」
「じゃあ、中身を当ててみたら?」
「分かるわけないだろ」
「じゃあ、開けるまで我慢だね」
「姉さんまで……」
零は、ますます不満そうな顔になった。
希空はそれを見て、くすくすと笑う。
「六歳なんだから、我慢出来るでしょ?」
「……それ、便利な言葉みたいに使うなよ」
「だって、今日から六歳なんでしょ?」
「そうだけど!」
「じゃあ、頑張ろうね」
「何をだよ!」
どうにも話が噛み合わない。
というより、希空が明らかに面白がっていた。
零もそれは分かっているのだが、だからといって上手い反撃が思い浮かぶわけでもなかった。
そんな弟の姿に、希空はますます楽しそうな笑みを浮かべる。
その様子を、少し離れた場所から眺めている者がいた。
“出雲”である。
以前のような艤装姿ではなく、今日は普通の服を着ていた。
海上を走るための装備も、砲塔も、機関も無い。
その姿は、艦娘というより、どこにでもいる一人の少女に近かった。
北方海域での戦いから、既にある程度の時間が経過している。
研究所での再生処置は順調に進み、失われた身体もかなりの部分が戻っていた。
まだ完全な回復には至っておらず、長時間の活動には注意が必要だったが、今では自分の足で歩くことも、食事をすることも、普通に会話を楽しむことも出来る。
少なくとも、外から見ただけなら、少し長く療養していた少女にしか見えなかった。
ただし、艤装だけは違う。
戦闘艤装の再建には、依然として見通しが立っていなかった。
それでも、今の“出雲”は笑っていた。
六歳になったばかりの少年が、姉にからかわれている。
その様子が、どうにも微笑ましかったのである。
「……ふふっ」
「……出雲まで笑うなよ」
零が振り向いた。
「ごめんなさい、零。でも、あまりにも嬉しそうだから」
「別に、そこまでじゃ……」
「プレゼント、そんなに楽しみなのね」
「……楽しみだけど」
零は、少しだけ視線を逸らした。
“出雲”の笑みが、さらに深くなる。
「そっか。六歳になったのね」
「……その言い方、何か子供扱いしてない?」
「六歳でしょう?」
「六歳だけど!」
今度は、海斗まで笑い出した。
「はははっ! 駄目だ、零。今日ばっかりは勝ち目が無いぞ」
「何でだよ!」
「六歳だからな」
「父さんまで……!」
それを聞いていた美香も、とうとう笑ってしまった。
零だけが納得していなかったが、そんなことは誰も気にしていない。
むしろ、本人が少しむきになればなるほど、周囲の笑い声が増えていった。
そして、その光景を見ている“出雲”自身も、自然と笑っていた。
以前なら、こうして皆と同じ場所に立つことさえ出来なかった。
あの北の海から、頭部と胸部だけの状態で帰ってきた時には、二度と目を覚まさない可能性すらあったのである。
だが、今は違う。
身体は確かに戻り始め、こうして皆と同じテーブルを囲んでいる。
海斗も、美香も、希空も、零も。
それを、心から喜んでいた。
“出雲”にとっても、そのことは何より嬉しかった。
軍の状況が変わりつつあることは、彼女たちも知っていた。
特務艦隊司令部の権限が縮小され、今まで当たり前に出来ていたことが、少しずつ難しくなっている。
自分たちが何者かに目を付けられている可能性も、薄々感じていた。
だが、今日くらいは。
せめて、零の誕生日くらいは。
そんな話を持ち出す必要は無かった。
「……ほら、零」
美香が、ケーキをテーブルの中央へ寄せた。
「そろそろ始めるわよ」
「やっと?」
「……あんたねぇ」
再び呆れた声が上がる。
だが、美香の手は既に蝋燭を取り出していた。
一本、二本、三本、……全部で六本。
それらをケーキへ立て、一つずつ火を灯していく。
やがて、小さな炎が六つ、並んだ。
「……零」
海斗が、少しだけ声を落とした。
「何か願い事でもするか?」
「願い事?」
「ほら、蝋燭を消す前にするだろ。そういうの」
零は、少し考えた。
そして、首を傾げる。
「……別にいい」
「無いの?」
希空が尋ねた。
「あるけど」
「じゃあ、すればいいじゃない」
「……言って叶わなかったら嫌だろ?」
その言葉に、希空が目を丸くした。
それから、笑う。
「誰も言えとは言ってないよ」
「……そうなの?」
「うん。心の中でお願いすればいいの」
隣では、“出雲”も微笑んでいた。
「目を閉じて、心の中で。そうしたら、吹き消すんですよ」
「……ん」
零は素直に頷いた。
そして、小さく目を閉じる。
ほんの数秒。
先ほどまで賑やかだった部屋が、少しだけ静かになった。
六つの炎が、僅かに揺れている。
零は、そのまま何かを考えていた。
やがて目を開き、息を吸う。
そして、一息に、蝋燭の火を吹き消した。
「おおっ!」
海斗が声を上げる。
続いて、皆の拍手が響いた。
「誕生日おめでとう、零」
「おめでとう!」
「六歳のお誕生日、おめでとう」
美香も、希空も、“出雲”も笑っている。
零は少し照れ臭そうに頬を掻いた。
「……ありがと」
六歳になったばかりの少年は、家族に囲まれながら、嬉しそうに笑った。
それは、何も特別なことのない、普通の誕生日だった。
同じ頃。
横須賀から少し離れた場所では、別のやり取りが行われていた。
「……対象群、予定通り接触」
無機質な声と共に、端末へ報告が表示される。
画面には、複数の名前が並んでいた。
神崎海斗。
神崎美香。
JK-X-00“ノア”。
JK-2-X-00“ゼロ”。
そして、JK-01“出雲”。
「……“出雲”も確認されたのか」
「はい。肉体の再生は相当進んでいるようですが、艤装の再建は確認されていません」
「そうか」
男は、特に感慨も無さそうに頷いた。
「他の関係者は?」
「引き続き照合中です。各人の接触状況についても、継続して確認しています」
「研究施設との移動経路は?」
「監視を継続しています。ただし、全てを把握出来ているわけではありません」
「……例の移動能力か」
「その可能性があります」
男は、暫く画面を見つめていた。
神崎家。
艦娘。
艦娘技術研究所。
そして、零。
それぞれの繋がりは、以前からある程度把握されていた。
だが、実際に誰が誰と接触し、どこへ移動し、どのような関係を保っているのか。
その全てが明らかになっているわけではない。
特に研究所周辺は、通常の軍施設とは事情が異なっていた。
表向きの出入口だけを調べても、実際の人員移動を完全には把握出来ない。
何より、そもそも通常の移動手段を必要としない存在がいる。
だからこそ、直接追い掛けるよりも、関係者の動きを継続的に観察した方が得られる情報も多かった。
「……しかし」
報告を行っていた男が、僅かに首を傾げた。
「随分と自由にさせましたね」
「何がだ?」
「神崎家の者たちです。今のうちに身柄を確保するという方法もあったでしょう」
その問いに、別の男が小さく笑った。
「……それでは、繋がりが分からん」
「繋がり、ですか」
「ああ。こちらが無理に動かなくとも、泳がせておけば、自分から会うべき相手のところへ行く」
男は、画面へ目を向けた。
そこには、先ほど確認されたばかりの名前が並んでいる。
神崎海斗。
神崎美香。
神崎希空。
神崎零。
そして、“出雲”。
「誰と誰が会い、どこへ戻り、何を守ろうとしているのか。それを知ることには意味がある」
「……なるほど」
「それに、今動かして余計な騒ぎを起こす必要も無い」
男の言葉は、あまりにも事務的だった。
誰かの誕生日であることも、そこで家族が集まっていることも、彼らにとっては単なる観察対象の行動に過ぎない。
そこにあるのは、家族団欒などという感情的な意味ではなかった。
対象者同士の接触。
関係性の確認。
行動傾向の把握。
そして、必要な時に利用出来る情報の収集。
それだけだった。
「……まあ」
先ほどの男が、少しだけ口元を緩めた。
「最後に家族と会わせてやったと思えば、悪くもないだろう」
その場にいた者たちのうち、何人かが小さく笑った。
冗談として受け取った者もいた。
だが、男自身がどこまで本気でそう言ったのかは、分からなかった。
少なくとも、その言葉を咎める者はいなかった。
会話は、そのまま次の話題へ移っていく。
「統合作戦司令部側の処理は?」
「問題ありません」
「特務艦隊司令部の権限縮小も?」
「既に発効しています」
「神崎洋平は?」
「正式な抗議はありましたが、それ以上の行動は確認されていません」
「……賢明だな」
男は、満足そうに頷いた。
神崎洋平。
現役の特務艦隊司令長官であり、長年にわたって艦娘戦力の運用を担ってきた人物。
彼が今回の通達へ不満を抱いていることは、容易に想像出来た。
だが、だからといって何が出来るというのか。
通達は正式な軍の命令として下されている。
内容も、表向きは合理的だった。
統合作戦司令部による一元的な戦力管理。
限られた艦娘戦力の効率的な運用。
指揮系統の整理。
いずれも、それ自体は軍組織として十分に成立する理由である。
それを拒否するなら、今度は拒否した側が問題になる。
特務艦隊司令部そのものを廃止したわけでもない。
神崎洋平を更迭したわけでもない。
艦娘たちを一斉に拘束したわけでもない。
ただ、今まで認められていた権限を、少しばかり中央へ戻しただけ。
少なくとも、公式な説明はそうなっていた。
「……今のところ、余計なことはしていないようだな」
「はい」
「なら、予定通り進めればいい」
男は、端末を操作した。
画面が切り替わる。
そこには、今後の艦艇運用に関する資料が表示されていた。
作戦区域、配備計画、艦艇の稼働状況、人員の配置、任務の優先順位。
一見すると、どこにでもある軍の作戦資料だった。
その中に、一隻の艦名があった。
艦娘母艦「建御雷」。
男は、暫くその文字を眺めていた。
それから、無言で画面を閉じた。
続く
あ と が き
何もかも、もはや止められない。
次回 主文後回し