神よ。
神よ。
私を、殺してください。
朝起きた時、私は自らの意識が再び眠りから覚めたことから、神を呪う。
今日みたいな日、そう、まるで晴天で雲ひとつないその天気のいい日であっても、あるいは土砂降りの道路のぬかるむ日であっても、雪降る凍えるような日であっても、私はそれを欠かさなかった。
私のベッド、二段ベッドの上の段に寝ていた私は、体を乗り出してすぐ下で眠っている姉妹艦の五十鈴の顔を、少しだけずれたカーテンの隙間から眺めた。
朝まだき。寝相の崩れた彼女は、薄暗闇の中腹を出して眠りこけている。たぶん、夜勤明けなんだろう。
ベッドの横の机、その奥の窓を見ると、外は暗い。けれど、この基地のどこかには眠たげに眉をこすり、あくびを噛み殺しながら任務に就いている同僚たちが幾人もいるはずだ。
ふと神を呪うという日課を思い出すと、私は考えつく罵詈雑言のありとあらゆるを投げかける。それでも精神は晴れないし、もともとそのためにやっているのでもなかった。
そっとベッドを降りて、カーディガンを羽織り、冷たいリノリウムを過ぎてサンダルを履くと、私は部屋の外に出た。
宿舎のすぐとなりにある森。
そこにある東屋のあたりに、私は佇んでいた。
朝の空気の中、どこからか鳩の鳴き声がした。
霧すらもでた朝の中で私は過去を思い返していた。
特に、自らの守るべき者に刃を向けられた記憶を。
その子供は彼女に向かい、こういった。
「あなたさえいなければ、父様は生きていた。あなたが殺した」
なんの衒いもなく、まっすぐに伝えられたその言葉に私は打ちのめされた。
そうだ。私が殺したのだ。
数ヶ月前、私は艦娘ではなく一般兵器で構成される友軍艦隊との合同訓練に参加していた。
その時、運悪く深海棲艦の襲撃があった。その規模は小さく、はぐれた艦隊であろうと思われていた。
合同訓練に参加した艦艇の数からして、一般兵器であっても問題なく対処できる程度のものであり、実際に迎撃に参加したのは艦娘を除く艦隊だった。
そして、それが悪かった。
まずはじめに一般兵器による飽和攻撃がなされ、主に駆逐艦、軽巡洋艦、稀に重巡洋艦により構成された敵艦隊は半壊となった。残った敵艦艇は潰走をはじめ、味方艦隊は追撃の準備をしていた。艦娘たちはその時点で待機命令が出されており、できることといえば肉眼による監視、レーダー装備の艦娘であればそれによる監視程度であった。それでも、多くの者は思っていた。この艦隊に突っ込んでくるような奴はいないだろう、と。
そしてもちろんそれは覆された。
突如として海中より現れた敵の新兵器「レ級」により、一瞬にして戦線は崩壊した。一般兵器による部隊は即座に全滅かそれに準ずる被害。艦娘であっても、不意を打たれた結果、大破、中破が多く、実際に戦闘可能な艦娘の数を数えると全滅といって良い被害を受けた。
地獄のような戦場で、奇跡的にも小破で済んだ彼女は連装砲の過熱や劣化を無視し、機銃による対空射撃により弾幕を張り、味方の撤退を援護していた。
この時点で大勢は決しており、戦力比は理不尽なほどに広がっていた。深海棲艦の駆逐艦が縦横無尽に走り回り、魚雷を放ち、時にはあと一時間も持たないと思われるほどに浸水した船ですら雷撃を受け、そして即座に海中に没していった。
彼女の周りで沈む船は後を絶たなかった。
戦域を脱するまであと少しというところであっても、容赦無い艦砲射撃により沈んでいく。彼女は持ち前の運動性能により敵の攻撃を避けていたが、それでも損害は増えていた。
その時、彼女の後ろについていた駆逐艦がこう告げた。
「ワレ継戦能力ナシ、武運ヲ祈ル」
そして、その駆逐艦は彼女への艦砲射撃を遮るように敵「レ級」との間に進み、盾となった。
この時この駆逐艦のバイタルパートへの直撃弾は彼女が離脱する直前までなかった。船尾を砲撃により半壊させられ、舵も動力も死んだその船は彼女が戦域離脱する直前に、バイタルパートに16inchの三連装砲、すなわち「レ級」の主砲が直撃した。結果、駆逐艦は爆沈した。
その駆逐艦はもちろん、この海戦に参加した艦艇の構成員は軒並み2階級特進をすることとなった。
上層部は敗戦の責任を取るという形でこの訓練を指揮していた将官を処分したが、それは形だけのものだった。実際に処分するような暇がなかったのだった。「レ級」を含む敵部隊は今までの人類側による蹂躙を返すように、押し寄せてきた。かろうじてつながっていた南半球とのシーレーンは崩壊し、南方地域は熱した鉄の注ぎ込まれたるつぼのようになった。
彼女も、彼女をかばった船のことを思い出す暇もなくただ戦いに身を投じた。
ふと気づくとあれから何ヶ月もの時間が経ち、久方ぶりの休暇で街に出ると海戦の大敗などなかったかのような世界が広がっていた。
彼女は戸惑い、しかしながら歩いていた。
ただ呆然と、この数ヶ月の自らの断絶を他人のように眺めながら。
その時に、声をかけられた。
その子供はセーラー服を着た少女で、おでこを出し、髪を後ろでまとめていた。そのリボンは髪の色と近い色だった。笑ったら、たぶん素朴な感じがして可愛らしいだろう。
父様、は彼女をかばった駆逐艦の艦長だった。
少女はそれ以上なにも言わず、笑いも、泣きもせず、ただ踵を返していった。
たぶんだが、少女はただメリハリをつけたかったのだろう。
いつまでも名しか知らぬ何者かを恨むことではなく、形のある何か、私を恨むことでケリをつけたかったのだ。
そして、その重みは私に移ったのだった。
その刃に切り裂かれた私の心は、障子紙のようになり張力を失い、丸まった。
ああ、あの戦い。
重油が海にこぼれて蛇のようにのたうつ炎。
甲板を割られて飛び交う木片。
海に逃げ飛び込んだ兵達の怨嗟の叫び。
私は耳を塞ぐこともできずただ連装砲を撃ち、かき消す。
そうだ。
殺したのだ。
あの駆逐艦は私をかばわなければ、帰れたかもしれないのに。
レ級の砲撃を惹きつけなければ、死ななかったかもしれないのに。
性能にまさる私がレ級を撃っていれば、助かったかもしれないのに。
生きている。
私は生きている。
「ああ、神よ」
私を殺してください。
思いは言葉にならず、原初の世界は生まれ得ない。
私はため息をついて立ち上がる。
もう随分と体が冷えてしまった。
それに、まだ余裕はあるけれど、仕事の準備をしなくてはいけない。
ふと後ろを振り返ると、そこにはYシャツ姿の男の姿があった。
いつからいたのだろう。茫洋としてはいたがまったく気づかないなんて。
少し警戒しながら誰何の声を上げる。
「……誰?」
男はにっこりと笑いながら、言った。
「牧師兼神父兼坊さんといった感じのまあ、つまるところ従軍牧師みたいなものです」
「ああ……」
聞いたことがある。確かこの森の反対に基督教の、宗派は知らないが教会があるらしい。そこにはカウンセラーなどが常駐している他、彼のような者がいると。
「あなたがこの東屋に来てからもう三十分も経ちました。その間微動だにしないでいるので、不安に思ったんです」
「ああ、それは。ご心配ありがとうございます。大丈夫です」
「私は、君のような人を支えるためにこの場にいるんです」
唐突に、だが男はゆっくりと言った。
「君が何かに苦しんでいることはよく見えます。だから、ただ話すだけでいいんです。話さないで、ただ一人考えているだけでは、人は潰れてしまいます」
私は黙っている。
「もちろんいますぐにとは言いません。気が向いたらでいいんです。教会に来てくれませんか」
お待ちしております。
男はそう言って、去っていった。
もう一度ため息をついて、私は部屋に戻った。
数週間が経った。
私は教会の前に立ち、そう思い返した。
同じような朝。同じような太陽。同じような心。
足を運ぼうという気は起きなかった。
けれど、今日はなぜかここにいる。
降って湧いた休暇。少女と街で出会った日も、突然の休暇だった。
控えめにしかれた石畳を歩いて教会の周りをぐるりと一周すると、裏手に畑が見えた。
数十畳もの広さのその畑には、青々とした野菜が実を成らしていた。
そこには、この教会の主であるだろう男の姿もあった。
男は右手に持ったハサミでトマトを切り落とす。
傍らにはバケツが置いてあって、その中には色とりどりの夏野菜が入っている。
「ああ、お早うございます」
男が気づいて挨拶をしてくる。前あったときと同じようににっこりと、屈託ない笑みだ。麦わら帽子をかぶり、首元にかけたタオルはシャツの中にいれられている。
「お早うございます」
「すみません、もうそろそろ採り終わるので、少し待っていてください」
私が頷くと、男はまたトマトを切り落とす。
何度かハサミが枝を断つ音がした後、男はバケツを持って畑の外に出てきた。
「お待たせしました」
「……いいえ」
男は教会の裏手に回ると、台所の勝手口から中に入る。
バケツを、引き戸をくぐったすぐ横に置いた彼は、たたきで靴を脱いで中に入る。促されて、同じように上がると、そこは教会というよりはただの和風の住宅だった。台所を出て、板張りの廊下を歩く。
「ここは増築された部分なんです。教会にはもともと居住するスペースはなかったのですが、私が住むために増築してもらったんです」
「あなたが住むために……?」
「ええ」
話は途切れて、男が障子を開く。
そこには十畳もの広さを持つ和室があった。そこからは小さな庭が一望でき、森がその奥に広がっていた。
「いい景色でしょう」
暗がりのようであり、しかしそれでも入り込む柔らかな光が雰囲気を清々しくしていた。
青々とした光とでも表現すればよいかもしれない。
「さて、まず座布団をどうぞ」
男は押入れを開くと二枚の座布団を取り出した。
向い合って座った私達は、いや、私は所在なさげに目線をうろうろとさせた。
畳は綺麗に掃除されているようで染みはない。床の間に飾られたひまわりは花瓶の大きさに合っていなかった。
「ここは孤児院でもあります。あのひまわりは子どもたちの育てたものなんです」
私はうなずいた。
そして、不意に私はすべてを話し始めた。
私が殺した仲間と私を殺したい仲間とに関する、短い話。
それをただ相槌を打つだけで聞いている彼は、何を考えているのだろう。
話終えて、私は彼の顔色を伺った。
「なるほど」
彼は黙ったまま目をつむっている。
「神はあなたを殺すことはありません。神はあなたを赦すでしょう」
「ですが」
「ですが、神が赦したとしても、あなた自信が自らを許さない。そうでしょう?」
うつむく。
「だとするならば、どうすればあなたは自らが開放されると思いますか?」
「それがわからない……」
「いいえ、わかるはずです。気づいていないはずはない。自らに対し救いを持たない、与えないあなたが今まで生をつないでいることはおかしい。あなたはなにかを救いとして生きているはずです。そして、それがあなたを許すあなたなのです」
「自分を許す自分……?」
「自分を許す自分を見つけなければ、神を信じない人は生きられません。あるいは、自分を許す誰かを見つけなければなりません。それを自己のうちに求めるか、それとも外に求めるか。たったそれだけです。私は、あなたを許す人をたくさん知っています。その中に、自分は入っていませんか。慈愛を持って自らを見つめてきた内なる目を忘れていませんか」
よくわからない話だ。
私を許す私。
私を赦す神。
私は神ではないし、神が赦しても私は許さない。
ああ、なんだ。
私はあの少女のことなどどうでもよかったのだ。
罪を背負わされたのではなく、ただあの少女は私が背負っている荷物に目を向けさせただけだったのだ。
荷物それ自体はずっと昔から、それこそ艦娘になったときからあったというのに。
その時は軽くって、気付かなかった荷物は、今歩けないほどに大きく重くなってしまった。
たったそれだけのことだったのだ。
「私は、私を許す私を見つけられるでしょうか?」
「わかりません」
男は笑った。
「ですが、どこかにはいるのです。探せば逢えますよ」
「そうだと、いいです」
そう言うと、私はぎこちなく微笑んだ。
***
駆逐艦の艦長だった父様が死んでから、母さまは毎日泣き叫んでいた。
最初の数日はまるで猿のように泣き叫び、このような悲痛な叫びがこの世にあるのか、と思った。
私は家の椅子に座ってそれを一日中眺めていた。
何日か経って母さまは家政婦を雇った。
父様がいないのだ。私のために家事をする気も起きなかったのだろう。
家政婦が来て、葬式以来荒れ果てていた家の中は綺麗に掃除された。
お父様が最後に帰ってきた時に吸い、残していた煙管を掃除した家政婦は、母さまに殴られていた。
母さまは何も言わない家政婦を日になんども殴るようになった。
そして私も、殴られるようになった。
家政婦はすぐに辞めた。
私は逃げなかった。
逃げることを知らなかった。
母親というものから逃げるということを知らなかった。
初めは週替りで交代するほどだった家政婦も、やがては雇うこともできなくなり、そして、恩給に見合ったところまで生活を落とすことになった。
母さまはそれに耐えられなかった。
住まいを官舎から、少し離れたところに移した。
新たな住まいで、母さまは私を殴った。
何をしても殴った。
鼻の、例えるなら耳鳴りのような匂いを感じることにも慣れた。
無感情に拳を受け、母さまを刺激しないようにある程度痛がって殴られることを覚えた。
母さまの手は骨が浮き上がってきていて痛かった。
最初、私は、母さまに殴られても学校には通っていた。
たぶん、これを子供らしい意地だと評するべきなんだろう。
母さまはそのために腕や足を殴ることはしなかった。
殴ったとしても腹のみを殴り、つまるところ母さまは小物だった。
私は、学校から帰る途中街を歩き回るようになった。
巡回する警官を避けるすべを覚え、友達を作り、私は母さまから逃げていた。
いつしか、家に帰ることはなくなっていた。
学校へも、めったに行かなくなっていた。
そんなある日のことだ。
私は、仇を見つけた。
見つけてしまった。
どうしていまさら。視界に入った瞬間そう思った。
私は自分の体が不思議にも彼女に、父を盾にして生き残った艦娘に近づいたことに気づいた。
いや、不公平な言い方だろう。
誰に対して不公平なのだ? そう嘲笑する声が内から聴こえる。
彼女をかばったのは父様の意思だったということを知っているというのに。
彼女に対して私は心にもない糾弾の声を上げた。
美しい少女だった。
儚げに街を歩く彼女の瞳はまるでガラスのようで、透き通っていた。
彼女が化物なのだということを他のみなは知らないのだ。
そういう優越感と恐怖を抱いていた。
その場を離れて家に帰ろうとした。
今の自分ならば母さまと和解ができそうな気がしていた。
わかってくれる。仇を取ったのだと言い放てば母さまは。
匂いがした。
死の匂いだ。
母さまは家で首を吊っていた。
以前いた家の子供部屋のような小さな茶の間に母さまの体が揺れていた。
私は、警官を呼びに外へ出た。
その時私は家の外の砂利道の石がきれいなことに気づいた。
ああ、丸くて、つるつるとして、そして、なんと生き生きとした色だろうか?
太陽の光に照らされて、石の縁がきらめいた。
私は1つの石をポケットの中にいれて交番に向かい、母さまの死んだことを知らせた。
数日後、葬式などが終わった夜、私は月に石をかざした。
太陽の下のものと同じように見えたその石は、丸くて、小さくて、中心にマーブルの模様が入っていた。
それを月に向かって放り投げたその翌日、私は軍に入った。
そして、艦娘となったのだ。