桜が咲く季節だった。病院の窓から見える薄紅色の花びらが、風に舞って散っていく。僕はベッドサイドに座る彼女を見つめた。
「裕太、今日は調子どう?」
桜の声は相変わらず優しい。でも、僕にはそれが少し重く感じられた。
「うん、まあまあかな」
「そっか。良かった」
彼女は安堵の表情を浮かべる。でも僕は、この『桜』という名前の女性が、本当に僕の恋人だったのかピンと来ない。事故から三か月が経った今でも。
「ねえ、裕太」
「なに?」
「昨日持ってきた写真、見てくれた?」
僕は枕元にある写真立てに視線を向けた。制服姿の男女が並んで笑っている、確かに写っている男性の方は僕で、女性は目の前の桜だ。
「見たよ」
「高校二年の時の写真なんだ。文化祭の後に撮ったの。覚えてない?」
僕は首を振った。
「ごめん、やっぱり思い出せない」
桜の表情が少し曇る。
「そっか...でも大丈夫。きっと思い出せるよ」
この会話を何度繰り返しただろう。桜はいつも僕に昔の話をしてくれる。二人で行った海の話、一緒に見た映画の話、初めて手を繋いだ時の話。どれも彼女にとっては大切な思い出なのだろう。でも僕には……
「桜」
「うん?」
「桜は疲れてない?毎日ここに来て、僕の相手をして」
「疲れてなんかないよ。裕太に会えるのが一番の楽しみだから」
彼女はそう言って笑顔を作る。その笑顔を観るたびに、僕の心は締めつけられる。
数日後の午後、桜がいつものように病院にやってきた。
「今日はどこの話をしようか」
「桜」
「小学生の頃、よく遊んだ公園の話はどうかな。あそこのブランコで...」
「桜、ちょっと待って」
僕の声に、彼女の言葉が止まった。
「もう、無理しなくていいんじゃない?」
「え?」
「僕のこと、忘れた方がいいよ。記憶が戻る保証もないし、君がそんなに無理をしても...」
桜の顔が青ざめた。
「何それ。無理なんてしてない」
「してるよ。見てて分かる。君は僕との思い出を必死に話してくれるけど、僕にとってはそれが知らない誰かの話にしか聞こえないんだ」
「でも...」
「君がそんなに大切にしてくれてた記憶を、僕は全部失くしてしまった」
桜の目に涙が浮かんだ。
「ごめん、裕太。私、押し付けがましかったね」
「そうじゃない。君は悪くない。ただ...」
僕は言葉を探した。
「ただ、僕は君を苦しめたくないんだ。記憶はなくても、君が大切な人だってことは分かる。だからこそ」
桜は黙って涙を拭いた。しばらく沈黙が続いた後、彼女が口を開いた。
「分かった。もう昔の話はしない。でも、お見舞いには来る。それだけは許して」
僕は頷いた。
それから桜は、過去の話をしなくなった。代わりに今日あったことや、季節の話をするようになった。最初はぎこちなかったけれど、だんだん自然な会話ができるようになっていった。
ある日の夕方、僕は桜に言った。
「昨日、夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「桜の花びらがたくさん舞ってて、一際大きい桜木を前にして、誰かの手を僕が握ってた。顔は見えなかったけど、すごく温かくて」
桜が息を呑む音が聞こえた。
「その人、何か言ってた?」
「『ずっと一緒だよ』って...そんな声が聞こえたような気がする」
桜の瞳から涙が溢れた。
「裕太...」
「あ、泣かないで。僕、何か変なこと言った?」
桜は首を振りながら、僕の手を取った。
「ううん。嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん。記憶は戻らなくても、心のどこかで覚えてくれてるんだなって」
僕は桜の手を見つめた。確かに温かい。なぜだか、とても安心する。
「桜」
「うん」
「僕、君のことは覚えてないけど、君といると落ち着く。これから、また新しい思い出を作っていけたらって思うんだ」
桜は涙を拭いながら微笑んだ。
「うん。私もそう思う」
窓の外では、桜の花びらがひらりひらりと舞い散っていく。僕は桜の涙に濡れた頬を見つめながら思った。失った記憶は二度と戻らないかもしれない。でも、この手の温もりだけは、きっと忘れない。