ある看護婦の秘密   作:ディエ

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船上訓練

「止まれー!」

広い洋上、広い甲板の上で、若い女の声が力なく響く。一応、両手で拳銃を構えてはいるが、さっきからずっと構えっぱなしのため、腕が震えている。

「声が小さい!!」

銃を向けられている強面の教官が、野太い声で怒鳴る。

「止まれー!!」

「もっと腹から声を出せ!!」

「止まれー!!」

「ちゃんと相手を見ろ!! 目を逸らせば殺されると思え!!」

「止まれー・・・ コホッコホッ・・・」

最後にはその子は咳込んでしまう。普段から大きな声など出したことがないのだろう。

「チッ 下がれ!」

 

陸軍の指導教官が忌々し気に怒鳴ると、その子はようやく解放されて、後ろの列の中によろよろと戻っていく。そのままへたり込みたいのだろうが、そんなことをすれば、さらなる怒号が響くことは必至だ。

「いいか、お前たちの行くところは戦場だ! 戦場とはどんな所か! 人と人とが殺し合いをしている場所だ! 自分の身も守れない人間など足手まといだ、行く資格はない!」

四十数人の看護婦を前に、教官の怒号が響く。

「お前たちは何しに戦場へ行くつもりだ! 人を助けるなんて言う前に、自分の身を守れるようになれ! 次!」

「はい!」

教官に言われて次の子が前に出て行くが、すでに緊張で顔が強張っている。

「構え!」

「はい!」

教官の指示でその子は野外服の上着のポケットに手を入れるが、中で引っ掛かってしまったのか、なかなか拳銃を取り出せない。

「やり直し!」

「は、はい!」

その子は慌ててポケットの中に入れていた手を抜いて、気を付けの姿勢をとる。

この船で支給された野外服は特別製で、ポケットのように偽装された切込みに手を入れると、その下に装備した拳銃嚢(ホルスター)に触れるようになっている。ゆったりとした厚めの生地は、拳銃嚢の存在をきれいに隠している。

私はこれらの装備を受け取った時に、素早く拳銃を取り出せるよう練習したのだが、あの子はそんなことはしなかったようだ。

「構え!」

「はい! あ、あれ・・・」

また中で引っ掛かったようで、野外服から手を出せず、まごついている。落ち着いてやれば何も難しいことはないのだが、すっかりパニック状態だ。

「貴様、何をやっとるか!!」

「は、はい! すみません!」

その子は精一杯返事をしているが、後半は涙声だ。

「貴様、戦場で泣いて何か変わるのか! それともお前は仲間の足を引っ張るために戦場に行くのか!」

その子は俯きながら、必死で首を振る。遠目でよく見えないが、もう泣いているのかもしれない。

「もういい、下がれ!」

これ以上の叱責は無意味だというのだろう。教官はその子を下がらせる。

「次!」

いよいよ私の番だ。私は緊張に呑まれないように、大きな声を出して、前に出る。

「はい!」

「構え!」

「はい!」

私は野外服の切込みに手を入れ、留め具を外して、拳銃を抜き出した。

 

男の子たちが持っているブリキ製のおもちゃではない、本物の拳銃。鉄の塊。人を殺す道具。看護婦のはずの私が、人を殺す道具を使う練習をしている。ずっしりとした重みを感じる。今はまだ銃弾は支給されていないが、この拳銃の装弾数は8発。これは8人分の命の重みなのだろうか。人の命というのはこんなにも軽いのだろうか。

そんな思いを捨てて、私は拳銃を両手で構えた。

だが教官からは容赦なく叱責が飛ぶ。

「なんだその構えは! 撃つ気があるのか! 足を開け!」

「はい!」

撃つ気は、ない。だが、相当強いという射撃時の反動に供えるため、私は足をさらに開いて、甲板を踏みしめた。

「警告!」

「止まれー!!」

私は精一杯怒鳴る。

「もっと睨みつけろ! 本当に撃つと思わせろ!」

この銃を撃つ。撃つ。撃つ。

だが、もしこれで相手が怯んでくれれば、撃たなくて済むかもしれない。

「止まれー!!」

「もっと気迫を見せろ! 殺す気でいけ! 舐められた奴から死んでいくぞ!」

構えた拳銃の銃星越しに、私の視線が教官の体を彷徨う。

脳、即死。心臓、即死。肺、赤い泡を吹く。肝臓、大量出血。腎臓、苦しんで死亡。脾臓、長い苦しみの後の死。

・・・違う。こんなことのために勉強してきたわけじゃない。私は人を助けるために勉強したんだ。

「止まれー!」

私はなおも怒鳴るが、喉も腕も限界が近い。どんどん呼吸が荒くなっていくのが自分でも分かった。

「下がれ!」

教官が吐き捨てるように怒鳴る。

私はぐったりとして列に戻りながら、教官の顔に諦めにも似た表情を見た。

それはそうだろう。今まで軍の正規の兵隊を相手にしてきた教官からすれば、看護婦に拳銃の扱いを教えるなど、無理難題もいいところだ。体を鍛えたことも、喧嘩をしたことすらない娘に、どこからどう教えろと言うのか。

でも私は悟ってしまった。私の知識は人を助ける以外にも使えてしまうということに。

陰鬱な気持ちのまま、訓練は続く。

 

「次!」

「はい!」

次の子が教官の指示で前に出る。

だがその子を見た瞬間、私は『ん?』と思った。前に出る足取りが妙に軽い。今までの子たちはみんな、多分私も含めて、緊張した足取りで、行進の時のように歩いていた。だがその子は、ごく自然体だ。左手を軽く腰に当て、右手を垂らした態勢で教官の前に立つ。

「構え!」

「はい!」

教官の指示に返事をした時には、すでにその子の手に拳銃が握られていた。半身になって片手でまっすぐに拳銃を持つ構えは、この実習の前に習ったものとは違う構えだったが、教官に向けられた銃口はピタリと固定されたように動かない。

「警告!」

「動くなてめぇ、ぶっ放すぞ!!」

その華奢な体のどこから、と思われるような大音声が甲板に響いた。

こちらを向いていないにもかかわらず、周りの子が何人か、息を吞むような迫力だった。

「よし! 銃口降ろせ!」

教官が初めて満足したように言った。

その子がすたすたと列に戻ってくるが、その時も自然体で、自慢げな様子などはなかった。その子にとっては当たり前のことをしただけなのかもしれない。

「次!」

教官は次の子を呼ぶが、結局その午前中の威嚇訓練で「よし!」と言ったのは、その一回だけだった。

 

そしてそれが終われば休む暇もなく、実際に自分たちの食事を作る調理訓練に移る。いつもは軍人であることを忘れられる一時だが、今日は違った。

野戦服の下には、風呂と寝る時以外、常時装着していろと命令された拳銃がある。その重さのせいで、さっきの嫌な思いを引きずってしまう。

だめだ。今は目の前の作業に集中しないと・・・

そうして芋の皮を剝いていたのだが、横から声を掛けられる。

「ちょっと、そんなに芋いる?」

「え? あぁ、ごめんなさい」

何も考えていなかったせいで、分けておいたはずの芋にまで手を伸ばしていたようだ。

顔を上げると、そこにはさっきの威嚇訓練で「よし」と言われた子が、人懐っこい笑顔で立っていた。

「あ、さっきの訓練で・・・」

「あぁ、あれね。おかげで変な目で見られちゃうよ」

そう小声で言って笑う。

確かにあんな姿を見た後では、少し距離を置きたくなる気持ちも分かる。でも私はそんなことをしないという前提で話しているようで、少しおかしかった。

「私は布村ミチヨ」

「藤田スミレだ」

そうしてスミレは私の横で戻した椎茸を刻み始める。

「藤田さん、 ・・・スミレは拳銃の訓練受けたことあるの?」

「いや、拳銃はここで初めて触ったよ。でも猟銃ならずっと触ってたから。看護婦になる前はマタギと一緒に熊撃ちもしてたし」

「へ、へぇ~・・・」

前職が猟師という看護婦はなかなかいないのではないだろうか。思わず気の抜けたような返事をしてしまう。

「まぁ、ただの成り行きだよ。あたしはミチヨのほうがすごいと思うね」

そういうスミレの目がすこし鋭くなったような気がした。

「養成所3年で、木内少佐から直々に小隊に推薦されるなんてね。 ・・・ねぇ、木内少佐から何を頼まれた?」

「え?」と私は驚いてしまう。なぜそんなことを知っているのだろう。

木内少佐というのは木内婦長のことだ。確かに直々の推薦ではあったけど、特に何か任務のようなものを頼まれたわけではない。

「い、いえ、何も・・・」

「ふ~ん・・・ じゃあ、そういうことにしておくよ」

これは何か誤解がある。そう思って何度も否定するが、もうスミレはまともに取り合ってくれなかった。

「いいよいいよ。その代わり、何か思い出したら教えてね」

「だから、何もないって」

私の言葉を背に受けながら、スミレは刻んだ椎茸を持って、別の作業台に行ってしまった。

私は仕方なく、今度はニンジンの皮を剥き始める。

 

その時、ふと思い出したことがあった。最初にここの小隊名、第一特務救護小隊を聞いたときに、「特務とは何をするのか」と木内さんに質問したことがあった。木内さんの答えは、「今は気にしなくていい」というものだったはずだ。

スミレの問いは、ここに繋がるのではないか。

だがそれをすぐにスミレに話す気にはなれなかった。

木内さんたちに悪意があるとは思えない。だが、確実にまだ聞かされていない秘密はあるだろう。話すとすれば、それを自分なりに明らかにしてからだ。

 

その日の訓練は、久しぶりに講堂で行われた。

これまでは体力増強訓練、夜間行動訓練、護身術、そしておなじみの威嚇訓練など、看護婦の仕事とは離れたものが多かったから、少しホッとする。

あれからスミレとは、会えば挨拶もするし、お昼を一緒に食べることもあったが、秘密の任務などの話になったことはなかった。

席の指定はなかったので、私は前から2列目に腰を掛けた。そして後からやってきたスミレが「ミチヨ、おはよ」と小さく言って、一つ空けた右側に座る。講堂は広く、そのくらいの席の余裕はあった。他の人は思い思いに後ろの席についていくので、私たちが最前列となる。

「おはよ。今日はなんだろね。座学なんて久しぶりじゃない?」

「そうだね。でもミチヨはこっちのほうが得意でしょ?」

「まぁ、防毒面(ガスマスク)つけての殴り合いの訓練よりはね」

私はため息交じりで言う。昨日の午後に行われた有害ガス充満時の行動訓練は散々な結果だった。一方、スミレはそこでも無類の強さを発揮していた。

「別に殴り合わなくても、転ばせて逃げればいいんだって」

「それができないからすぐに捕まって殴り合いになるんじゃない」

相手の教官は看護婦相手ということでかなり手加減したのだろうが、それでも男の人に殴られるというのは相当な衝撃だ。分厚い防毒衣のおかげか、あざにはなっていなかったけど。

それにしても、こんな訓練をしていて本当に従軍看護婦として働くのだろうか。木内さんは優秀な人材を集めたと言っていたから、医療系の知識、技術はすでに習得済みであるという前提で、足りない軍事的な訓練を集中的に行っているだけなのかもしれないが。

 

やがて講堂に陰気そうな教官が、二人の助手を伴って入ってくる。助手は黒い木箱と紙の束を持っていた。

「起立! 気を付け! 礼!」

「「よろしくお願いいたします」」

「着席。これより観察記録技術向上のための講習を始める。 ・・・現場には様々な情報が入り乱れている。その中で必要な情報、異常値を選択し、客観性、正確性、簡潔性をもって記録しなければならない」

教官がそう話している間に、助手たちは木箱から小さな映写機や録音機を取り出して、準備を始める。そして窓に暗幕を引き、記録用紙が配られていく。

そうして器材を用いた講習が始まった。

写真を10秒だけ見せられて、その詳細と異常点を指摘する講習。雑音だらけの録音を聞かされて、背後で何が行われているかを推察する講習。数人が並んで応急処置を受けている映像を見て、患者の症状、重症度を把握する講習。

このようなものが三時間以上も続けられた。時間もお昼に近く、集中力も途切れがちだった。

 

「最後に、映像による記録実習を行う。今から15分間の動物実験の資料映像を流す。その間は一切記録禁止。その後10分間で、今見た映像をできる限り詳しく記録すること」

そのように説明しながら教官は自ら映写機のフィルムを交換した。

だが私はその二枚目のフィルム缶のラベルに違和感を覚えた。

暗幕の引かれた薄暗い室内で、教官はすぐにフィルム缶を箱に戻してしまったため、もう確認できない。でも最前列にいたからこそ、ちらっと見えたラベル。

そこには『防疫研究室 教育映像 Bー5』『供覧制限』とあった。

防疫研究室はいいとして、どうして教育映像が供覧制限となるのか。そんな疑問も、映像が始まれば中断せざるを得ない。集中しなければ。

「始め」

教官の声とともに映写機がカタカタと回り始め、いきなり、開腹された動物の内臓だけが接写で映しだされる。音声はなく、時々術者の手が映り込み、内臓の位置を動かしたり、切り取ったりしている。

私はこれが何の実験なのか、術者は何をしようとしているのかを想像しながら、映像を見つめた。

肺は両側にびまん性出血あり。右下葉に泡沫状の血液が貯留。表面には微小な出血点が散在。切開時には血性浸出液が多量に漏出。肺胞構造は不明瞭。

心臓は全体的に色調の不整あり。左心室に萎縮性壊死斑あり。冠動脈の異常は不明。

肝臓は腹腔内に対して肥大しており、特に右葉で著明。暗赤色から暗褐色で、肝小葉は不明瞭。中心静脈周囲に壊死が広がっている。

腎臓は両側皮質に点状出血、髄質部は顕著なうっ血。腎錐体の構造は崩壊。腎盂、尿管には異常所見なし。

 

ここまで観察していて、私はある疑念が浮かぶ。

・・・この映像は本当に動物実験なのだろうか。

そしてその疑念が確信に変わるのはすぐだった。

腸管の配置も、肝臓の下に隠れた胆嚢も、腎臓の断面も、豚、羊、猿、どれとも違う。これは明らかに人間だ。

映像に映っていた臓器の変化から推測できることは、交感神経系または呼吸中枢系の毒ガスによる死亡と、その直後の解剖だ。

つまり、人体実験。

無音の記録映像は唐突にブツリと終わった。助手の人たちが窓の暗幕を開けていく。洞窟の底で秘密裏に行われていた実験が白日の下に晒されたかのようで、なぜかビクッとしてしまう。

「記録始め」

教官の無感情な声で、一斉に鉛筆の音が走り出す。

 

だが、私は何を書けばいい。

臓器の所見か、その変化を作り出した毒物についてか、それとも、その毒物を行使した人体実験の存在をか。

臓器の異常ははっきりと覚えている。だがそれに私の知識を加えると、どうしても最悪の結論に達してしまう。

木内さんたちを信頼してここでの訓練を続けるか、悪をあばいてここを去るか。

私が葛藤している間にも時間は過ぎていく。

どうする。何を書く。

結局、私の記録用紙にはこう書かれた。

 

『この映像は明らかに人間のものであり、人体実験を示すものと思われる。そのような非人道的行為は直ちに禁止されるべき』

 

・・・私はこんなものを提出して、何がしたいのか。今の私はただの訓練生でしかない。私一人で何ができる。

私は自分で書いたその文字を、虚しく見つめていた。

「止め」

教官の指示で鉛筆の音が止み、助手が順番に記録用紙を回収していく。

教官はその場で記録用紙をめくりながら内容を確認していく。もう叱責が飛ぶのは覚悟の上だ。

そして案の定、教官の冷たい声が講堂に響く。

「布村」

「はい」

私は返事をして立ち上がる。

「これがお前の観察記録か」

「そうです」

私はそう答えるが、教官からの叱責はなかった。だが、教官は次の名前を呼んだ。

「藤田」

「はい」

隣に座っていたスミレが同じように立ち上がる。まさか、スミレも・・・

「これは書き直せ」

「できません」

スミレはしっかりと教官を見つめながら即答する。

そして教官は三人目の名を呼ぶ。

「小野」

「はい」

講堂の後ろのほうから、か細い声がして立ち上がる気配があった。

「お前はどうだ」

「あの、見たままを正確に記録しました」

教官の視線が、私たち3人に順に注がれる。

「お前たちのことは覚えておこう」

そう言って回収した観察用紙をトントンと整えてファイルに挟む。

「あとで添削したものを返却するので、確認するように。終了」

「起立! 気を付け! 礼!」

「「ありがとうございました」」

そうして教官と助手が退室して講義は終わるが、講堂の中はざわついてた。もちろん、教官に目をつけられた3人についてだ。

 

スミレはそんな周りの反応など気にせずに、さっと後ろのほうへ走って行って、同じく目をつけられた小野さんを引っ張ってくる。

「ちょっとお話したいんだけど、いいよね」

「あ、はい・・・」

「ほら、ミチヨも来て」

そう言ってスミレは両手で私と小野さんを引っ張って、人目につかない廊下の隅に行く。そしてあたりを確認してから、声を潜める。

「さっきのやつ、私は無意味な人体実験の結果って書いたんだけど、二人は?」

やっぱりそうか。

「私は人体実験みたいな非人道的行為は禁止すべきって」

「私は動物実験と偽った犯罪の証拠って書きました・・・ あの、私たちどうなるんでしょうか・・・」

小野さんは不安げに言う。

「まぁ、正面から喧嘩売ったようなもんだし、どうなるかねぇ」

スミレは気楽そうに言うが、小野さんは余計不安そうな顔になる。

「でもその場での処分はなかったし、評定が下がる程度で済むかもね」

私はそう言って小野さんをなだめてやる。

「そう言えば小野さんの名前は?」

「あ、小野シゲミです。よろしくお願いします」

「なんだ、あんたも『ミ』なの?」何のことだと思っていると、スミレが順に指さしてくる。「『ミ』チヨ、ス『ミ』レ、シゲ『ミ』」

その発想に、「ほんとだ」とシゲミがくすっと笑う。

「改めまして、布村ミチヨです。よろしくね」

「藤田スミレ。よろしく」

「はい、よろしくお願いします」

 

それから私たちは三人で行動することも多くなった。もっとも、体力の違いはどうすることもできなかったが。

「はぁ・・・ はぁ・・・ はぁ・・・」

潮風の中、汗だくになりながら、私はのろのろと走る。

「こら貴様! 早くここまで来んか! 患者が死ぬぞ!」

前に立っている教官が怒鳴りつけてくる。私は何とかペースを落とさないように、その教官が立っている場所まで行く。すると今度は、

「おら、ちんたら走ってないで、さっさと患者のところに行け! 見殺しにする気か!」と、こうだ。

 

背中には12キロの水袋。できるだけ高い位置で背負って、背負い紐を胸の前と腰の前の二か所で縛って固定したが、すぐにずり落ちてくる。

時折揺れる甲板上は、しっかりした地面を走る時の何倍もの体力を奪っていく。

体力増強訓練として、水袋を背負ってのデッキランニングを10周。これでだいたい1500メートルになるらしい。

一応、船上ということもあるし、安全のためにあちこちに教官が立っているが、前を通るたびにいちいち檄を飛ばしてくるため、休むこともできない。

 

あと5周、あと4周半、あと4周、と数えながら走っていると、後ろから軽快な靴音がしてくる。

この時点で、こんな靴音で走れるのは一人しかいない。

「お、なかなかやるね~」

まだ余裕たっぷりという表情でスミレが話しかけてくる。もう1周も差がついたわけだ。

「まぁ、ね・・・ このくらいは・・・」

私は息も絶え絶えで応える。

「シゲミは・・・ どのあたりにいた・・・?」

私はもう一人の親友の名前を挙げる。

スミレに勝つのは無理でも、シゲミには勝ちたい。シゲミは私より力は弱いが、力はなくても持久力はあるというパターンもあるから、油断はできない。

「シゲミはもうとっくにリタイアして看護されてたよ」

「なにそれ・・・ ずっる・・・」

そうな風に話していると、教官からスミレに檄が飛ぶ。

「おら藤田ぁ! さぼってんじゃねぇ! さっさと走らんかぁ!」

「うっす」

するとスミレはグンとスピードを上げて、前にいた人間を次々と追い越していく。スミレの体力が化け物なのは、すでに教官たちの間にも広まっているようだ。

私にはもう他の人を追い抜くような体力は残っていないが、せめて追い抜かれないように走る。

あと3周、と思って前甲板に戻ってくると、シゲミが日陰で寝かされ、濡れタオルを当てられていた。

心配半分、私たちのほうが看護されてどうするのよ、という呆れ半分だ。

でもそんなシゲミも、私がゴールする時には、多少顔色は悪かったが、スミレと一緒に手を振って迎えてくれた。

 

結果はスミレが12周走ったうえで断トツ1位。私は中の上の12位。リタイアは二人いたが、シゲミのほうが先、つまりシゲミが最下位だ。

気の毒だが、シゲミには後で追加の訓練が行われることだろう。この訓練は義務教育ではない。できなければ、できるまで続けられる。それでもできなければ、不合格となるだけだ。

訓練後の休憩時間、人気のないデッキの片隅で私たちはそんな話をするが、シゲミは「折角志願したんだから合格したい」と言うだけで、訓練が嫌だとは一言も言わなかった。

「はい、これ。どうせまた走らされるんだから、今のうちに回復しておかないとね」

私は部屋から持ってきた水筒をシゲミに渡す。

「え、これ、生理食塩液・・・」

さすがにシゲミは一口で分かる。

「医務室でもらってきたのか?」

「まさか。自分で作ったのよ。滅菌していなければ、ただの塩水でしょ。ほんとは砂糖も入れたかったんだけどね」

スミレの質問に笑いながら答える。

「うん、ありがと」

シゲミは体に染み込ませるように、水筒の水を少しずつ飲む。

「しっかし、シゲミはその体力でよく志願できたな」

「うん、病院の院長に『君なら自信をもって推薦できる』って言われて、その気になっちゃった」

シゲミはそう言って、えへへと笑う。

「・・・ねぇ、ここの募集の条件って、なんなの?」

私がふと気になって尋ねると、逆にシゲミのほうが不思議そうな顔をする。

「あぁ、ミチヨは募集要項、見てないんだよな。木内少佐の引き抜きだったから」

「え、そうなの? ミチヨすごーい」

「いや、私としては何でそんなことをスミレが知っているのかが気になるんだけど」

「まぁ、ここがどういうところかいろいろと調べてね。その時に偶然知っただけだよ」

そう言うスミレの顔に嘘は感じられなかった。

「えと、募集の条件は、『高い医療知識、技術、倫理観を持ち合わせる、30歳未満の看護婦』だったよね」

「体力、忍耐力も求められるって書いてあっただろ」

「え、そうだっけ・・・」

「あたしとしては、『軍人として、現場で判断を行う等、機動力を生かした運用が予定される』って部分に惹かれたんだけどな」

「あ、私もそう。看護婦が指示を待っているだけじゃ間に合わないんじゃないかと思って・・・」

シゲミがそう言うと、スミレが感心したように「へぇ~」と漏らす。

「いいとこのお嬢様っぽいから、もっとお淑やかに、ていう感じかと思ってたけど」

それは私も思っていた。でも観察訓練で自分を曲げず、体力訓練でも弱音を吐かないだけの強さも持ち合わせているのも知っている。

「昔はそうだったんだけどね・・・」

と、シゲミは少し悲しそうな顔をした。

「でも、自分を変えなきゃと思うことがあって・・・」

 

シゲミは華族の娘として、自由でもあり、不自由でもある生活を送って来た。

小さい頃はよその子どもたちと遊ぶこともなく、女中さんや、その娘が相手をしてくれた。本を読むのが好きで、望めばどんな本でも買い与えられたし、知りたいことは何でも教わることができた。

父はいつもシゲミの兄を連れて、忙しくあちこちを飛び回っていた。シゲミにとっては、実の父であっても、雲の上の存在だった。

そんな中、家の中で一番の発言力を持つのはシゲミの祖母であり、その口癖は『女は出しゃばらずに、おとなしいのが一番』というものだった。

シゲミは何の疑問も抱かず、みんなに喜ばれるよう努めていた。17歳になるその年までは。

その年の夏、3つ下の弟が熱を出して寝込んだ。元から体が弱く、病気がちだったので、最初はただの夏風邪だろうと思われていたし、本人も笑顔を見せていた。

だが弟の病状は一向に良くならなかった。

毎日、弟の様子を見に行く中で、シゲミはこれはいつもの夏風邪なんかじゃない、と思い、祖母に相談するが「女が口を出すもんじゃない。お父様に任せておけばいい」と逆に叱られてしまう。母に相談しても「おばあさまは何ておっしゃったの?」と言うだけで、取り合ってくれなかった。

何も言うことができないうちに、弟の具合はどんどん悪くなっていく。

ついに医者が呼ばれることになったが、その時の医者の言葉は、「もっと早く呼んでくれていたら・・・」というものだった。

弟はその二日後に亡くなった。

立派な葬儀が終わった後、親戚の集まりの中で、祖母は「うちのシゲは近頃珍しいくらいの控えめないい子でね」と自慢気に話しているのを聞いて、シゲミは泣くほど悔しがった。

自分がダメだから弟を死なせてしまったと思った。

シゲミは初めてわがままを言い、祖母や母と喧嘩をしてまで、看護学校に進んだ。入学後は両親も認めてくれて、協力してくれた。卒業後はその両親の意向に沿って、陸軍病院に入った。

そこではみんな親切で、「これは覚えられるか」「これも覚えておいて損はない」と、看護婦としての業務以外のことも、何でも教えてくれた。シゲミはそれが普通の訓練なのだと思っていた。

だがそこには、家の威光が多分にあったのだろう。

実際は、同期の看護婦が洗濯や掃除などの下積みをしている間に、他の看護婦が数年かけて覚えることを数か月で叩きこまれたのだった。その吸収力の高さはすぐに院長の目に留まる。

そして陸軍病院での勤務も二年目に入ろうとする時、院長からの呼び出しがあった。

「ここでのんびりするのもいいが、君が実力を発揮できるのはここではない。家から離れたところでやってみるのはどうかね。君なら自信をもって推薦できる」

そう言って差し出されたのは、陸軍衛生部の特別募集要項だった。

 

「そんなことがあったんだ・・・」

「うん。だから、自分から行動する看護婦っていいなって思ったんだ」

「なるほど。シゲミは信念の人、ってわけだ」

スミレが納得したように頷くがシゲミは慌てて手を振る。

「そ、そんな。そこまでしっかりしたものじゃないし・・・」

「ううん。私たちも一緒にがんばろう」

そうして三人で、手を握る。

「でもな・・・」

スミレは声を潜めて、そう切り出す。

「ここの訓練は少しおかしくないか? どうしてわざわざ洋上に停泊させて訓練する必要がある? 出発港と方角からして、任地は満州でしょ。だとすれば、たった二日で着くんだ。時間の節約のためでもないでしょ」

「・・・誰にも見られない場所で訓練する必要があるってこと?」

私はそう推測するが、スミレはさらにもう一つ付け足す。

「あと、外部から誰も入れない、誰も出て行けない場所ってことだな」

「あの、私も変だなって思ってることがあって・・・ 多分私も任地は満州だと思う。でも、威嚇訓練は日本語でしてるよね・・・ どうして中国語でしないのかなって・・・」

確かにシゲミの言うとおりだ。言葉のことを考えれば、今やっているのは日本人に対する威嚇訓練ということになる。

まだ何も分からないが、私も疑問を打ち明けることにした。

「二人は訓練に合格した時に配属される隊の名前は知ってる?」

「いや、聞いてないな」

「普通にどこかの衛生隊だと思ってたけど・・・」

「第一特務救護小隊っていうところ。私が木内さんに抜擢されたときに『特務って何をやるんですか』って聞いたのよ。でもその時は何も教えてくれなかった。さっき言ってた募集の内容が『特務』だったら、その時に教えてくれてもよさそうじゃない?」

「・・・募集要項には書いていない『特務』があるってこと?」

シゲミが不安そうに言う。

「木内さんたちに何か悪意があるとは思えないけどね・・・」

「訓練は続けるにしても、任官後のことも考えておいたほうがいいのかもね」

スミレが難しい顔で言う。

やがて、休憩終わりを告げるベルが鳴る。私とスミレは調理訓練。シゲミはもう一度デッキランニング訓練だ。

「頑張ってね、シゲミ」

私たちは一足先にシゲミを送り出した。<

 

その日の夕食後の夜間行動訓練が終わった後、私は婦長室に向かっていた。

夜間行動訓練が始まる前に教官が来て、終わったら婦長室に行くようにと言われたのだ。理由も何も告げられなかった。

そして婦長室の前に行くと、そこにはシゲミが立っていた。入るのをためらっていたようにも見える。

「ミチヨ・・・」

シゲミがほっとしたように寄ってくる。

「シゲミも呼ばれたの?」

「うん。でも、すぐに入っていいのか分かんなくて・・・」

そうしていると、今度はスミレもやってきた。

「あ」

私たちは互いに顔を見合わせた。この三人で呼び出しとなれば、この前の記録訓練のことだろう。何となく、『誰から行く?』という雰囲気になる。

「あのさ、ミチヨは在学中に抜擢されたんだから未成年でしょ? いくつよ」

スミレがいきなりそんなことを言いだす。

「・・・19」

何の話だと思いながらも、私は答える。

「シゲミは?」

「あ、私は21です」

それを聞いて、私は瞬きの回数が増えてしまうが、表情は変えなかった。

『シゲミが私より年上? しかも二つも? 態度も声も年下っぽくて頼りなさそうなのに・・・ そうか。年上か・・・』

「よっし、あたしは22だからあたしの方が年上ね」

「はいはい、スミレが一番のおばあちゃんってことでしょ。それが何なのよ」

私がそう言うと、シゲミが、あぁ、と頷く。

「スミレ、さん」

「スミレ、先輩」と、私も乗っかってみる。

「違うよ! そんなこと言わせたみたいでちょーカッコ悪いじゃん! 呼び方はスミレでいいの!」

そうしてスミレは一息入れる。

「こういうのはお姉さんから行くもんでしょ」

つまりスミレは嫌な役目を買って出てくれた、ということだろう。そのことに年齢を持ち出すあたり、いかにも体育会系っぽいなぁと思ってしまう。

「じゃあ、いくよ」そう言ってスミレはドアをノックした。

「藤田スミレです」

「小野シゲミです」

「布村ミチヨです」

そう順番に名乗ると、中から木内さんの声で「入りなさい」と返される。

「失礼します」

婦長室に入ると、そこには木内さんの他にも、高岡さんと吉川さんもいた。懐かしい顔ぶれだが、今は表情を見ている余裕もない。

ふと目をやると、木内さんの机の上には、あの時の観察記録用紙があった。やっぱりだ・・・

「お前たちはドアの前で何をごちゃごちゃ言っているんだ」

一番に高岡さんからお叱りの言葉が飛ぶ。だがその高岡さんも木内さんも、怒っているようには見えなかった。

「こんばんわ。お二人には初めましてね。婦長の木内です」「高岡だ」「吉川っす」

他に誰もいないからか、ラフな自己紹介が行われる。

「早速だけど、あなたたちの観察記録、見せてもらったわ」

観察記録、というより、あの映像に対する不満をぶつけただけなのだが。これは処分か、退艦か、と思う。

だが木内さんの言葉はどちらでもなかった。

「これは素晴らしいわね」

「・・・え?」

「高い医療知識と倫理観、そして行動力がある証拠だわ」

木内さんは満足げに言う。

「そんなあなたたちであれば、先に話しておいたほうがいいだろうという判断で呼びました」

私たちは木内さんの穏やかな口調の中に決意のようなものを感じ、身構えた。

「まず、あの時の映像は私たちとは一切関係がありません。私たちは医療従事者として、あのような行いを絶対に許してはなりません。でも、今はそれを口にする時ではない、ということも理解してください。いくら正しいことでも、口にした途端、追放されるのでは誰も救えません。だから、しばらくは私たちを信用して、口外しないでもらいたいの。いいかしら?」

「はい」「はい」「はい」

私、シゲミ、スミレの順に返事をする。

「ありがとう。その代わり、小隊について何か聞きたいことがあれば、応えられる範囲で答えますよ」

「この小隊は何をするのでしょうか? 募集要項には載っていない任務があるように思われますが」

スミレが真っ先に質問する。

「私たちは第一特務救護小隊といいます。特務というのは軍人として権限を持って、現場で独自に救護活動を行うということです。ですがこれは表向きの任務です。本当の任務は、時として軍の命令よりも医療倫理を優先して行動するということです」

「あの、それって、軍と対立するってことなんでしょうか・・・」

シゲミが不安そうに尋ねる。日本語で威嚇訓練をしていたことが思い起こされているのだろう。

「『軍』ではなく、『軍の中で非倫理的な行動をしている一派』ですね。対立はしますが、直接的な戦闘にはならないようにするつもりです」

木内さんは『つもり』というあたりを強調したように聞こえた。

「この小隊は木内婦長の創設なのでしょうか」

「一応はそうなります」

私の問いに木内さんが答える。

「様々なところと協議のうえで設立されたものですが、残念ながらそれは主流派ではありません。軍命に逆らう可能性がある以上、邪魔が入らないようにこのようなところで訓練するしかなかったのも、そのためですね。ですが小隊への支援は上層部、参謀本部に関与する人物からも行われています。公にするわけにはいかないので、支援内容も限定的なものになってしまいますが」

・・・もしかしたら私たちは、とんでもないところに飛び込んだのかもしれない。

「あと質問はいいかしら? なければ、あと6日間の訓練、がんばってくださいね」

そうして私たちは木内さんの笑顔に押し出されるように、婦長室を後にした。

 

しばらく三人で歩いていたが、最初に口を開いたのはスミレだった。

「やっぱり相手は軍の内部か・・・」

「参謀本部の人も支援してくれてるっていうけど、それって参謀本部の人でもどうにもできない相手ってことだよね・・・」

「そうなるわね・・・」

そうして再び沈黙が訪れる。

「でも、もうここまで来たし、あんな人体実験、自分の手で止めさせられるんだったら、いいかなって思うけど?」

私は他の二人に強制しないように、できるだけ軽く言う。

「そうだな。あんなフィルム作ってる奴らぶっ飛ばしたら、気持ちいいかもな」

「わ、私は、普通に逮捕とかでいいと思うけど・・・」

「じゃあ、このままやるのね?」

「もち」「はい」

そうして私たちは病院船の廊下で手を握り合い、決意を固めた。

 

だが、決意を新たにしても病院船の環境が変わるわけでもない。

「あづ~い・・・」

消灯時間までのわずかな間、スミレは上着を脱いで、下着をパタパタとあおいでいた。

七月の日本海は蒸し暑く、小さな船窓を全開にした程度では気休めにしかならない。

「せめて上着くらいは羽織りなさいよ」

そう言って私は床に脱ぎ捨てられた上着を投げつける。今でさえシゲミは顔を赤らめてスミレの方を向けないのに、放っておいたら下着まで脱いでしまいそうな勢いだ。

「このくらい、いいじゃない・・・」と上着を肩から羽織るが、胸元をパタパタやるのは止めなかった。

私は何気なく見ていたのだが、ふと、その胸元に白い磁器のようなものがぶら下がっているのに気が付いた。

「スミレが首飾りなんて意外・・・」

私がそう言うと、スミレは「ん? あぁ、これ?」と取り出して見せてくれる。

人差し指より少し大きいくらいの滑らかな円錐状だった。

「わぁ、きれい・・・」と思わずシゲミも身を乗り出してくる。

「だろ? あたしが仕留めた熊の牙」

「・・・え?」

私とシゲミの動きが止まる。

「・・・本物?」

「もちろん。あたしのお守りなんだ」

そう言ってスミレは話し始めた。

 

スミレは小さい頃から男のふりをしてマタギと一緒に女人禁制の山に入っていた。ほとんどの人間は気付いていただろうが、人手は欲しいため、黙認されていた。だが、建前上、女ではないとされていたため、他の男衆同様にこき使われていた。

山には怪我が付きものだが、当然医者を呼ぶことなどできない。スミレは実地で荒っぽい応急処置の技術を身に着けていった。狩りにはまだ早いと見られていたこともあって、応急処置はスミレの仕事となっていった。

ある時、鹿狩りで山に入ったのだが、いつもはいるはずの鹿が一匹も見当たらない。おかしなこともあるものだと帰ろうとした時、冬眠し損ねた巨大な熊と遭遇したのだった。

先頭に立っていた長は、仲間たちを守るため、突進してくる熊に至近距離から猟銃を放つが、鹿狩り用の銃弾では威力が低い。熊の突進は止められず、殴り飛ばされてしまう。

長の後ろにはスミレがいた。そのころはまだ半人前で、銃はなく、棒の先に剣鉈を付けた棒槍しか持たせてもらえていなかった。スミレは棒槍を構えて睨み合いになるが、その熊はふいと去って行った。

震えながらへたり込むが、腕が折れて骨が見えているような重傷の中、長は「追え! 目を合わせた以上、あれはお前の獲物だ! お前が仕留めろ!」と叫ぶ。

スミレは長の猟銃を受け取って、血の跡を頼りに熊を追うが、熊は山の奥へ奥へと分け入っていく。

手負いとはいえ、熊の移動速度は速い。スミレは雪に埋もれ、藪に前を塞がれながらも、追いすがった。その追跡は人跡未踏の地で何時間も続いた。

そして最後に辿り着いたのは、古い巨木が倒れた後の、小さな広場のような様なところだった。そこでようやく熊はこちらを振り返った。

後ろには銃を持ったマタギの仲間が何人か付いて来ていたが、誰も手を出そうとはしない。

しばらくの間か一瞬の間か、睨み合いとも見詰めあいとも言えるような時間が流れる。

そして、山奥に轟音が響き渡り、熊の巨体が崩れ落ちた。

翌日、熊の肉は仲間たち全員で平等に分けられ、肝は神棚に供えられた。

長はまだ傷に伏していたが、厳かな声で言った。

「お前はもう半人前じゃねぇ」

仲間が準備していたのは、スミレが仕留めた熊の右上の牙を紐で吊るしたものだった。片腕になった長は、それをスミレの首に掛けた。

「お前は戦士だ」

冷たい牙が肌に触れた瞬間、背筋を貫くような重みを感じた。

これはただの飾りじゃない。命懸けの狩りの証。山の掟に従う者の証だ。

そうしてスミレはマタギの一員として、山に迎え入れられたのだった。

 

「それがこれ。これがあれば、『あたしは戦士なんだ。あたしには熊の力があるんだ』って思える。何だってできる気がするわけよ」

シゲミは、自分とは全く違う過去を持つスミレの話に聞き入っていた。

だが私はある疑問を持った。

「・・・でもそれって、立派な猟師になる流れでしょ? そこからどうして看護婦になったの?」

「その後、麓で怪我をしたマタギの仲間を病院に連れて行くことがあってさ。仲間がどばどば血ぃ流してるのに、そこの病院の看護婦が悠長に問診とか始めたのよ。思わずその看護婦押しのけて、応急処置を始めたら、『看護婦でもないくせに』って言われてさ。あんまり腹が立ったから、看護婦になってやったよ」

「は、はは・・・」

何というか、いかにもスミレらしい理由に、私たちは笑うしかなかった。

 

◇◇◇◇◇

 

「そこで出会われたお二人、スミレさんとシゲミさんとの交流はまだあるのでしょうか」

「えぇ、えぇ、ありますよ。この年になって、実際に会うことは減ったけど、手紙や電話のやり取りはまだありますよ。特にあの二人は仲が良くて・・・ と、あの二人の話じゃないわね」

石塚さんは本当に楽しそうに言う。後半、何を言いかけて止めたのかは、少し気になったが。

「2週間の厳しい訓練、というお話でしたが、訓練の他に何か思い出に残る出来事はありましたか?」

「そうですねぇ、確か訓練の終り頃だったと思いますけど、近くの漁船の人が漁具で腕を切る大怪我をして、私たちの病院船に運ばれてくることがあったんですよ。その漁師さんはびっくりしていましたね。こんな大きな病院船に運ばれたと思ったら、中には野外服の看護師が何十人といるんですから」

その状況を想像して、私も思わず笑ってしまう。

「それはびっくりしたでしょうね」

「こちらは訓練中ですから長く収容しておくわけにもいかないので、縫合して、一日だけ様子を見て戻ってもらったんですけどね。その時はみんな軍人から看護師に戻れたようで、生き生きしていましたね。訓練の合間を見て、何度も病室を訪問する人もいたようです」

「なるほど。それくらい大変な日々を病院船の上で過ごされたのですね。でも戦地のほうがもっと過酷だったんじゃありませんか」

私はそう言って水を向ける。

「えぇ、そうですね。でもただ過酷だっただけじゃなくて、みんな自分のできることを一生懸命やっていたという感じですね」

石塚さんは、昔を懐かしむような穏やかな笑顔で言った。

 

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