ある看護婦の秘密   作:ディエ

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病院襲撃

昭和20年春の『最後のお祭り』の直後から、木内婦長と吉川さんはよくサイドカーに乗って外出するようになった。特に買い出しでもなさそうだったので、おそらく漢人の村などを回っていたのだろう。そうでなければ、病室で患者の様子を観察しているかだった。症状の度合いや回復具合を確認しているようだった。

そして、虚脱状態の田中さんにもよく話しかけていた。田中さんが入院してからだいぶ経つが、まだ自発的に動いたり話したりということはなかった。だが、入院当初と比べればほんの少しずつではあるが、回復の兆候は見られていた。

現地雇いの臨時職員はその祭りを最後として、契約解除となった。日本人の協力者と見られては危険が及ぶとの配慮からだったが、張さんのようにそれでも病院職員として活動を続けてくれる人もいた。

 

軍の配給トラックは第一便こそ安堵感を覚える内容だったが、その後は酷いものだった。たまに届く配給トラックの荷物はほとんどが開封済みで、中身は粗悪品か腐りかけたような物しかなかった。明らかに途中で中抜きされていたが、時間の無駄なので、検品や抗議はしないことにした。それでも、形だけでも配給トラックが寄っていくというのは、特例的な扱いだったらしい。高岡副婦長の話では、他の野戦病院では、今年に入ってから一度も配給がないというところも多いらしい。

今の第五病院は軍ではなく、周囲の村などからの寄付で成り立っている状態だった。木内婦長の言っていた『我々を助けてくれるのは軍ではなく、現地の住民である』という言葉が、終戦を待たずして証明された形だ。だが、周囲の村も決して裕福ではなく、余裕があるわけではない。

 

そんな時は木内婦長から、現地で最も信頼のある通貨である銀元を預かって、街へ買い出しに出かけるのだった。

本来は満州国の正式通貨である満州圓や軍の発行した通貨である軍票を使用することになっていたが、戦況の悪化から、満州圓も軍票もその信用度は大きく落ち込み、それらでは何も買えなくなっていた。

だが病院職員の給与は相変わらず軍票で支払われる。実質、無給ということだったが、そのことによって病院を離れる人は誰もいなかった。それはよく言えば名誉のためや使命感からだったのかもしれないが、単なる意地であったのかもしれない。そんな状態なので、病院の会計係がチチハルの方面軍司令部の経理部で預かって来た軍票を受け取る人はなく、裏面が白紙であったことから看護記録用紙として使われていた。会計係の人も「今月分のメモ帳です」と言って置いていくのが常だった。

そして最も変わったのが、避難訓練だった。以前は敵襲に備えて病院内に立てこもる内容だったのが、資材をまとめて病院から脱出する内容になり、頻度も月一回から週一回へと増えていた。誰もがこの病院の終わりを意識しないではいられなかった。

 

1945年7月下旬。その日は私が買い出し係として、三人の衛生兵と一緒にトラックで街に出た。

トラックのガソリンはもう半分を切っている。以前からガソリンの配給はなかったものの、それでも吉川さんが本部に運転していったついでに詰めてくることはあった。だが、もうそれもできない状況なのだという。ガソリンが切れてしまえば、ただの大きな鉄の箱だ。「今のうちに本部の方に売っ払ったほうがいいかもしれないっすね」などと吉川さんは言っていた。

あと何回使えるか分からない貴重なトラックということで、できるだけ大きな重いもの、コーリャンやトウモロコシの大袋や塩、灯油などを探していた。

そのころにはもう私の中国語は、普通の買い物程度ならば通訳なしでもなんとかなるようにはなっていた。幸いなことにこの辺でも第五病院の評判はそこそこ良く、『あの特別な徽章を付けた看護婦は銀元で購入してくれる』との認識も広まっており、馴染みの商店では向こうから声をかけてくることもあった。

 

そうして私ができるだけ安く、日持ちのするものを、と品定めをしていると、路地裏の方からカンカンカンと空き缶か何かを叩く音が聞こえた。同時に子どもたちの歓声が上がる。

お祭りか何かだろうか。この時期には珍しく、「ちょっと見て来ていい?」と言うとみんな頷いてくれた。

路地裏の石畳はあちこちが欠けて、そこに泥が薄く溜まっている。両脇には赤茶けたレンガ造りの家が迫るように立ち並び、格子窓からは薬草や油の匂いが漂ってくる。表札代わりの紙札が風に揺れていた。どこまでが商店でどこからが住居なのかも判然としない。そこを聞こえてくる子どもたちの声を頼りに進んでいくと、小さな広場に出た。

そこには木箱に反物を掛けただけの祭壇があり、その前で背中に『火神』『水神』などと墨で書かれた半紙を貼った子どもたちがくるくると踊っていた。空き缶や木箱を叩いて拍子をとっている子どもたちもいる。

その場にいる大人たち、とくに老人たちはとてもうれしそうに少し離れたところから眺めていた。そんな様子を見ると、こちらまでうれしくなってくる。

『こんな時期でも子どもたちは元気で助かるよ』

近くにいた老人が私たちのことを見つけて、そう話しかけてきた。

『そうですね。こっちも楽しくなりますね』

『あぁ。本当はもっと盛大な祭りなんだが今はこれで精一杯さ。でも子どもたちには、雰囲気だけでもな・・・』

その老人には元凶となった日本人を責める様子はなかった。ただ、子どもたちの未来を考えているようだった。

だがそこに、威圧的な軍靴の音が響いた。

「何の騒ぎだ! この非常時に誰が許可した!」

そんな怒鳴り声と共に、銃を持った憲兵の二人組が現れる。途端に子どもたちは親のところに走り出し、親は我が子を庇うように立つ。

「騒ぎでも何でもありません。ただの子どもたちの祭りです・・・」

一人の男がおずおずとそう言うが、憲兵たちは聞く耳を持たず、声を荒げるばかりだ。

「この非常時に祭りとは何事だ! すぐに解散しろ!」

そう言いながら、木箱の祭壇を蹴り飛ばす。

『おい、止めろ。子どもたちの作ったものだぞ』

もう一人が憲兵を押し留めようとした時、鈍い音がして、その男が地面に倒れた。憲兵が銃床で男の肩を打ち据えたのだ。

「こいつは騒擾罪で連行。応援を呼べ」

憲兵の一人が倒れたままの男に銃を向けながら、そう言い放つ。

『・・・何が連行だ。人様の物を奪うしか能がないくせに』『人の土地で好き勝手しやがって』『日本の軍人が何様だ』

そんな不満の声があちこちから聞こえてくる。住民たちの不満はもっともだが、今はまずい。憲兵たちは中国語が分からないようだが、口調で不満を口にしているのがバレてしまう。

そう思った時、憲兵が空に向けて、銃を一発撃った。一瞬で辺りが静かになる。

「貴様ら、何をぶつぶつ言っている! こいつらは全員、敵性行為の現行犯で逮捕だ!」

だが静かになったのは一瞬のことで、騒ぎはより大きくなった。

女子供が逃げ帰る音、それを庇うための男たちの怒号。通りにいた憲兵隊も駆けつけてくる。憲兵たちの暴力に対しては投石で、そして投石に対しては発砲で応戦され、騒ぎは拡大していく。

私はすぐに憲兵隊に駆け寄った。

「発砲を止めてください! これは大尉命令です! 民間地域での発砲は軍規違反です!」

私は精一杯叫ぶが、憲兵隊はもともと命令系統が違う上に、感情的になっている。銃声の中、私の声は届いていないのかもしれない。私の背中にも住民の投げた石が当たる。それでも私は憲兵隊の前に立つことを止めることはできなかった。

「銃を降ろして! 向こうには負傷者もいます! これ以上の発砲は無意味です! 皆さんも落ち着いてください!」

私が叫ぶ中、衛生兵の三人も住民を押し留め、銃撃の中、避難させようと必死だった。

そしてその場の混乱が収まるまでに、どのくらいの時間が掛かっただろうか。

ようやく冷静さを取り戻し始めた憲兵隊に、私は声を張り上げる。

「ここは第五病院の管轄する医療区域とします! 現在は負傷者の救護活動中です! 武器の使用や患者の拘束は軍規違反、国際条約違反として正式に報告されます!」

「なにぃ? 我々は正規の任務として治安回復を行っただけだ!」

「ならばその任務はもう終わりました! この場の指揮権は陸軍大尉である私にあります! 憲兵隊の皆さんは撤収してください!」

私は高圧的に睨みつけてくる憲兵隊の隊長に対して、一歩も引かなかった。数秒か、もっと長い間だったのか、睨み合いが続く。

その時、憲兵隊の一人が隊長に耳打ちする。「第五病院って、あの木内のいる・・・」とかすかに聞こえた。

そのせいか、先に目を離したのは憲兵隊の隊長の方だった。

「・・・じゃあ、大尉殿がそいつらをよく躾けてくださいね、今回のような騒ぎを起こさないように!」

忌々し気な舌打ちと共に、そう言い捨てて憲兵隊が去っていく。聞こえよがしに「看護婦風情が出しゃばりやがって」とのセリフも聞こえてくる。

 

やがて憲兵隊が通りに出て見えなくなると、私はその場にへたり込んでしまった。

「大尉殿! 大丈夫ですか!?」

慌てて衛生兵が駆け寄ってくるが、私は手を振って応える。

「ごめんなさい、気が抜けちゃって・・・ そちらの方の処置は?」

「応急処置は終わりましたが、肩と足を撃たれたものがいます。あとは肋骨の骨折が一人・・・」

「分かりました」

私は気を入れ直して立ち上がった。目の前に重傷の患者がいるのに、座り込んではいられない。

『その三人の家族の方はいますか? 三人は処置のために病院に収容します。処置が済み次第、こちらまで送って来るのでご安心ください。あと、今回の騒動に対する抗議は憲兵隊ではなく、第五病院で受け付けます。憲兵隊への抗議はしないようにしてください』

私は不安がっている家族にそう伝え、患者をトラックに乗せていく。

そのうちの一人の家族だろう、一人の老婆が『お願いします。お願いします』と私の手をしっかりと握ってくる。『任せてください』と答えて、老婆の手をゆっくりとほどいたが、内心は複雑な思いだった。同じ軍人として、同じ日本人として、私にもこの騒動の責任の一端はあるのではないかと考えてしまう。

私にできることは何だろう。そう考えながら、患者の収容の終わったトラックに、出発の合図を送った。

 

同日の午後、憲兵隊本隊の隊長、平井少佐は松島大佐に面会していた。チチハル市街の分遣隊から第五病院の活動を聞いた直後だった。

「・・・以上が、現地憲兵隊からの報告です。第五病院の看護婦による憲兵隊の任務妨害は問題と思われますが、いかがでしょうか」

「それは、我々の任務と何か関係があるのかね?」

松島は眺めていた書類から目も上げずに問い返す。

「いえ、直接は。ですがあの病院の活動を黙認していては、今後さらに助長してくる恐れも・・・」

平井は松島大佐のもう一つの顔、第731部隊の実験部隊の統括責任者としての顔を知っている。そして軍医大佐という階級よりもはるかに強大な権力を持っていることも。それは二階級降格のうえで第五病院に左遷された木内を中佐に昇進させたことでも証明されている。

『松島に気に入られれば、必ず昇進できる』それは平井の確信だった。

そんな松島が以前、第五病院の動向を尋ねて来たのだ。平井は何人もの部下を使い、木内が赴任と同時に20人もの看護婦の入れ替えを行ったこと、副院長がモルヒネ横流しで拘束されたこと、そして木内が書類の不備や患者の状態変化を理由に患者の受け渡しを拒んでいることなどを報告した。

それ以来、平井はずっと第五病院の監視を続けてきた。

松島が尋ねるくらいだから、第五病院には何かあるに違いない。それは第731部隊に関する防諜的な内容だろう。ここで成果を出せば第731部隊直属も夢ではない。平井の思考は、そう加速していた。

「現在、第五病院には支那人が収容されています。それを口実に監査に入ることもできますが、いかがでしょうか」

「・・・好きにしたまえ。君の判断で」

松島は面倒そうに言うが、それは平井には通じていなかった。

「はっ! 承知いたしました! ご配慮に感謝いたします!」

平井は敬礼すると、喜び勇んで退室していった。

そうしてやっと室内が静かになると、松島は溜息をつく。

「・・・まったく、私の周りには碌な人間がおらん」

 

その日の午前の診察を始めてすぐの時間だった。

軍用トラックの音がして、『配給トラックは先週寄って行ったばかりなのに、珍しい』と思って外を見ると、そこにあったのは、見慣れない黒い軍用トラックだった。側面に描かれた赤字の『憲』のマークが不吉な印象だった。

降りて来た憲兵は五人。昨日の祭りの時と違って、全員軍刀を下げている。その物々しい様子を見て、窓から顔を出していた病院看護婦が逃げ帰る。

今日の受付係はシゲミだったと思い出し、私も一応玄関に向かう。

「あ、あの、おはようございます・・・」

待合室に乗り込んできた五人の憲兵が、小柄なシゲミの前に威圧的に並ぶ。

「関東軍憲兵隊本部、監査部の平井だ。第五病院における軍規に関する監査に来た。責任者を出せ」

「あ、婦長は今、病室を回っているはずなので、少しお待ちください」

「ならばこちらで勝手にやらせてもらう。どけ」

「あの、ここは病院です。患者さんが驚かれますので、お静かに・・・」

そう応えるシゲミの声は震えていたが、足は一歩も引かず、憲兵を押し留めていた。

「ただいま婦長が参りますのでお待ちください」

私もシゲミの横に立って、そう加勢する。

「貴様・・・」

そう睨まれ、憲兵の一人が昨日の祭りの時の隊長だと気付いた。昨日のことで、もう報復に来たというわけか。つまり、もうプライドやメンツの他に頼るものがないということだろう。私はもう、睨み返す気もなかった。

「時間の無駄だ。踏み込め」

平井が高圧的に指示すると憲兵隊は一斉に動こうとするが、それがビクッと止まる。スミレがやって来て、睨みつけていたのだ。

「婦長の許可がなければ、お通しすることはできません」

スミレが冷静に言う。

憲兵隊の一人は、威嚇のつもりか軍刀の鯉口を切るが、そんなことで怯むような人間はこの小隊にはいない。私たちは毎日、命のかかった仕事をしているのだ。

「では早く婦長を呼んで来い!」

しびれを切らせた平井が声を荒げるのと、奥から木内婦長が出て来るのは同時だった。

 

「お静かに。お待たせしました。婦長の木内です」

その一言で周囲の空気が変わるのを感じた。

「監査だそうですが、どのような内容でしょうか」

「病院の軍規に関するものだ。ここには昨日、支那人が運び込まれて来たな。日本人のための病院物資を支那人に使うのは軍規違反だ。昨日の暴動の首謀者である可能性もあるので引き渡しを要求する。加えて、支那人との内通の疑いもあるため、確認させてもらう」

平井はどうだと言わんばかりに並べたてるが、木内婦長は「そうですか」と静かに受け止める。

「お答えしますが、私たちは陸軍衛生勤務令に基づいて、軍医の判断のもと、収容者の治療を行っています。そこには治療は日本人に限定するなどという条文はありません。患者の引き渡しについては、現在治療中であるため、応じることはできません。これは軍医による診療命令によるものなので、連行しようとすれば、そちらが勤務妨害罪に問われることになります。そして、内通の疑いがあるそうですが、疑いだけで院内の職務を乱されるわけには参りません。正式な命令書はお持ちですか?」

「そんなものはいらん。私は憲兵隊本部から来ているのだぞ。松島軍医大佐の許可も得ている!」

平井は最後の切り札のように言うが、木内婦長の反応は薄かった。

「松島軍医大佐に査察権はありません。正式な命令書をお持ちでないなら、お引き取りください」

「・・・その態度は松島大佐に対する不敬と取るぞ!」

その語尾はかすかに震えていた。それは怒りか、焦りか、あるいは不安か。

「ご自由にどうぞ」

木内婦長の声には平井のものとは対照的な余裕があった。

「その発言がご本人の耳に入った時に、どう取られるかは分かりませんが」

平井は二の句が継げず、辺りはシンとする。平井の歯咬みが聞こえてきそうだった。

「・・・私は大佐の信任を得て来たんだ! この態度は報告させてもらうからな!」

そう吐き捨てるようにして、平井は背を向けた。

木内婦長は声をかけることもなく、無言で見送っていた。

 

松島は書類に目を落としたまま、グラスの中の番茶を少し飲んだ。生ぬるい番茶の底でお茶の粉末が揺れる。

その番茶はごく普通の、部隊で支給されているものと同じものだ。松島はわざわざそれを指定して準備させている。水分補給として、それで十分だからだ。

様々なところから貴重品であるコーヒーや紅茶も『献上』されてくるが、松島はそれらには手も付けず、「働きのあった者にでも与えておけ」と部下に回していた。

松島にとって贅沢とは「目的のない消費」であり、「意味のない虚勢」でしかなかった。だから松島の生活は極めて質素で簡潔、そして静寂に満ちていた。それこそが思考力の源と考えていた。

だがその静かであるべき場所に、耳障りな音があった。

「・・・そのようなわけで、第五病院の対応は明らかに非協力的でして・・・ 物資調達の手段にも問題があり・・・ それに支那人との接触が多いというのも陸軍の病院としての権威を貶めているものと言え・・・」

直立不動の姿勢で話す平井の声は徐々に早口になっていく。松島の沈黙が恐ろしいのか、できるだけ早く自分の正当性を積み上げようとしているのか。

言い訳のような報告が、聞く者のいない空間に無意味に広がっていく。

「それに木内とかいう婦長は大佐殿のお名前を告げても全く意に介さず・・・ 私としましては、当然大佐殿の名誉を守るべく厳正に対処しようとしたのですが、木内の思い上がりは甚だしく・・・」

「くどい」

グラスの揺らして粉末の舞う様子を眺めていた松島は、木内の名前が出ると、そう言ってグラスを置いた。

ピタリと平井の口が止まる。

「・・・君は報告の仕方も知らんのかね。一言で済むだろう」

松島の冷たい視線が平井を突き刺す。

「『無能ゆえ、何もできませんでした』と」

平井の思考は完全に停止し、松島は再び書類に目を落とす。

完全な沈黙、平井は身動き一つできなかった。

松島が動いたのはそれから数十秒も経ってからだった。

「・・・指示されなければ、動くこともできんかね」

一拍置き、椅子の背にもたれた松島が最後の言葉を口にする。

「では、出て行きたまえ。この建物から」

平井は呆然と立ち尽くしていた。その言葉の意味するところが理解できなかったのか、信じたくなかったのか、あるいは『冗談だよ』という言葉でも期待していたのか。

やがて平井はこちらを見ようともしない松島に頭を下げると、よろよろと部屋を出て行った。

ほどなくして平井には全権剝奪の通告が行われた。

 

1945年8月1日。

その日の朝、私たちは玄関前の待合室に集められた。小隊員や病院看護婦だけでなく、軍医や他の職員なども含まれていた。人数的には春のお祭りの時と同じくらいだったが、今あるのは重苦しさや不安感だった。

私は最初、昨日の憲兵たちに関することかと思ったが、事はそれよりもずっと重大だった。

「皆さんも知っての通り、ソ連軍の侵攻はもう時間の問題です。あと十日もしないうちに攻め込んでくるでしょう。そのため、私たちは、本日をもってこの施設を放棄します。ですが第五病院が解体されるわけではありません。私たちはこれより、移動する病院として活動します」

シンと静まり返る中、木内婦長はそう宣言した。

「これは軍命ではありません。私の婦長としての判断です。目的はただ一つ。命を守ること。そのために第五病院は機能を維持したまま、後退します」

その言葉に対して職員の動揺はなかった。来るべき時が来た。それだけだった。

「まずは重傷者の、協力村落への移動を。その後、高岡副婦長をリーダーとして、職員、患者の移動を始めます。第一避難地点は泰来。第一特務救護小隊の10名がサポートとして同行します。残りの小隊員は私とここに残って憲兵の注意を引き付けます。以上、訓練通りにお願いします」

その訓示を受けて、私たちは一斉に動き出す。

 

第一段階は一人では動けない、あるいは長距離の避難に耐えられない患者を近隣の協力村落へ託すことだ。

このために木内婦長は足繁く周囲の村落に通い、協力を取り付けていたのだという。

すぐに荷馬車が用意され、そこに重傷者が担架で運び込まれる。幸いと言っていいのか、現在の病院には医薬品など残ってはいない。つまり患者にとっては安静に出来さえすれば、病院でも漢人の民家でも変わりないということだ。馬車には数少ない着替えや寝具も運び込まれる。

そして、受け入れ人数に応じて、お礼として一軒当たり銀元が20~50枚。これは患者のおよそ一月分の生活費に当たる。このお金は木内婦長と高岡副婦長が満洲赴任時から貯めていたものであり、決して『汚い金』ではないそうだ。協力を申し出てくれた人の中には「金など要らん」という人もいたが、木内婦長は報酬をきちんと渡すことにもこだわったという。

そして荷馬車で送り出される患者の中には、あの田中さんの姿もあった。田中さんを託す先はとくに木内婦長が慎重に選定し、最も信頼できる三合屯の家にしたそうだ。

「田中さん、回復まではいきませんでしたね・・・」

「そうね・・・ でも、その方が安全なのかもしれないわ・・・」

私が残念そうに言うのを聞いて、木内婦長はそう返した。

「あの人、本名は大川さんというのだけど、第731部隊の隊員なのよ。きっと、任務で酷いものを見続けたせいで、あんなふうになってしまったのね」

つまり、第731部隊の非人道的な活動を間近で見てきた証人ということだ。

「じゃあ、今、回復したら・・・」

「必ず第731部隊の諜報員に命を狙われるわ。その点も、あの人が行く家には注意しておいたけど。あの人の安全や人権が保障されるまでには30年以上かかるでしょうね・・・」

『戦争は終わらせることができても、被害者・加害者の苦悩を終わらせることなどできない』

私には木内婦長がそう言ったように聞こえた。

荷馬車には日除けと外部からの目隠しを兼ねたムシロが掛けられて、御者の合図で乾いた道をゆっくりと動き出す。

 

1945年8月2日。

重傷者の搬送が終わり、今度は高岡副婦長の避難隊の番だ。

職員100名、患者200名の大編成だ。それが先行隊、本隊、後衛隊に分かれ、およそ100㎞先の泰来を8日間で目指す。

先行隊は事務職員や比較的健康な患者で構成され、規模は20名。道中の村にはあらかじめ木内婦長が銀元払いで協力を要請しているが、その確認と、受け入れ準備の手伝いをしていく。

本隊は高岡副婦長や軍医、病院看護婦とほとんどの患者を含む250名。先行隊からの報告を受けながら、慎重に進んでいく。

後衛隊は荷車を引き、体調の崩れやすい患者や、道中で動けなくなった患者を回収しながら進む役割だ。30名規模だが、ベテランの病院看護婦と第一特務救護小隊員が多く含まれる。

この三隊がさらに数人ずつの班に分かれ、憲兵の目を避けるため、夜明けとともに順番に出発。近くの林で合流して、人員を確認後、今度は隊単位で進行する手筈だ。

 

夜明け前、軍医や看護婦たちはそれぞれ自分の担当する患者の体調を確認し、身支度を整えてやったりしている。

病院の玄関前では木内婦長をはじめとする残留隊9人が見送りのために並ぶ。

その中で高岡副婦長が避難隊の前に進み出る。

「我々は敗残兵ではない。責任を持って命を運ぶ病院職員である。各自、誇りを忘れず、堂々と進むこと。そして患者たちは、ただ守られる存在ではない。今この時も、我々と共に戦っている勇士である。その一歩を踏みだそうとする意志は、我々が命がけで支える。第五病院は、あなた方と我々が共に歩む、この道の上にある」

頷く看護婦たちは皆若かった。一人としてこの避難を楽観視している者はいないだろう。けれどその眼には絶望ではなく、決意があった。

すっと一人の小隊員が目の前の看護婦に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。

「私も後から行くから、頑張ってね」

抱きしめられた看護婦は言葉もなく、頷くしかできなかった。

一人、また一人と、互いの無事を祈っていく。みんな、その行為が不安を希望に変えるものであると知っていた。

高岡副婦長はそれをしばらく見守った後、短く声を上げた。

「時間だ。先行隊、出発」

先行隊の数人が無言で敬礼すると、音もなく病院の裏門から出て行った。

 

数時間後、日が完全に上り、朝日に照らされた第五病院はがらんとして、静寂に包まれていた。

「煙を出すために、石炭だけくべて来たっす」

そう言って吉川さんが厨房の方から戻ってくる。

残留隊は木内婦長、吉川さん、そして私、スミレ、シゲミを含めた小隊員7名だ。これからはこの9人で、病院が今まで通りに稼働していると思わせなくてはならない。病院が勝手に撤退したと知られれば、すぐに憲兵隊が捜索に動く。避難途中の職員、患者が見つかれば、脱走兵、敗残兵として厳しい処分が下されるだろう。

 

『病院の避難が進むまでの数日間、憲兵隊の注意をこちらに引き付けておくこと』

 

これが私たちに課せられた残務処理だ。

「さて、じゃあ病院の基本、清掃から始めましょうか」

木内婦長の言葉で、私たちは掃除用具を手にする。村に託した患者のことや、避難していった職員や患者のこと。心配の種は尽きないが、こうして手を動かしている間は、それらのことも忘れられた。

そしてがらんとした食堂で車座になって乾パンを食べると、今度は偽装用に残しておいた包帯を干していく。

病院の正面に軍の小型車両が止まったのは、そんな時だった。

『もしかして、もうばれた?』と緊張が走るが、降りて来たのは憲兵ではなく、まだ若い兵だった。

「こちらに木内中佐はいらっしゃるでしょうか」兵が緊張した面持ちで言うと、すぐに木内婦長が出て行く。

「私が木内ですが」

「木内中佐殿に通達。松島大佐殿がお呼びです。軍用車が待機しておりますので、御同行願います」

「承知しました。案内を頼みます」木内婦長はそう応えると、少し振り返って、「あなたたちは任務を続けてください」と言い残して歩いていく。

その背中は堂々としていて、これさえも計画のうちであるかのようだった。

私たちは無言のまま木内婦長の乗る車を見送ったが、誰も不安は隠せなかった。

そんな中、玄関から吉川さんが出て来る。

「大丈夫。すぐ戻って来るっすよ。それより仕事、仕事。中には患者さんが沢山いるって設定なんすから」

吉川さんにそう言われると、なんだかお芝居をしているようでおかしくなってくる。

「は~い」

私たちはそう返事をすると、病院の中に戻っていった。

 

松島の執務室の大きく開け放たれた窓からは、蝉の声と共に、時折生温かな風が吹き込んできた。執務室の中には部隊配置図の記された詳細な軍事地図が掛けられていたが、それさえなければ穏やかな夏の日と言えただろう。

松島はいつもの執務用の机ではなく、応接用の椅子に座り、向かいに木内も腰を下ろしていた。二人の前にはグラスに入った氷入りの緑茶があったが、木内がそれに手を付ける素振りはなかった。

「こんな格好で失礼するよ。君も楽にしたまえ」

そう言った松島は上着を執務用の椅子に掛け、開襟シャツの袖を肘まで捲り上げている。

だが木内は「はっ」と答えたまま、姿勢を崩さない。

「・・・暑くなってきたね。こんな時に外に出るのは大変だろうね」

まるで雑談のような口調だったが、それが何を指しているかは明白だった。

「はい、この暑さは堪えます。飲み水の確保も一苦労です」

木内はそう応えるが、そこにもやはり含みがあった。

「無理は禁物だよ。君はどうも責任を抱えすぎるきらいがある」

「お気遣い、感謝します」

二人の間には、単なる敵対などという言葉では表現できない、微妙な空気感があった。

「ところで君は、今年の二月、ヤルタで行われた会談の内容を知っているかね」

柔らかな口調だったが、松島は木内の眉がピクリと動くのを見逃さなかった。

沈黙の中、木内は言葉を選ぶが、それを発するよりも早く、松島が小さく笑う。

「知っているようだね。 ・・・君の情報網がどこまで伸びているか、非常に興味があるよ」

松島は本心からの賛辞を送る。

「であれば、話は早い。我々に残された準備期間は、もう長くはない」

「承知しております」

ヤルタ会談ではソ連の対日参戦が密約されている。そしてソ連軍はすでに満洲国境に展開を終えている。いつ攻め込んでくるかはもう時間の問題だ。

「君はこの短時間で300人からの命を救おうとしているようだが、現実的に可能かね」

「・・・それでもやらなければならないと心得ております」

松島の問いに、木内は可能か不可能かではなく、『やらなければならない』と答えた。その避難の困難さは、木内自身もよく知っていた。

「・・・もし、私のよく知る部隊が、君のところの患者を引き受けると言ったら、どうするかね。職員だけならば、もっと迅速かつ安全に避難できるだろう」

「折角のお申し出でございますが、お断りさせていただきます。私はあの方々の命にたいして、責務を負っております」

「まぁ、君ならそう言うだろうね」

そう言って松島は一息つく。

「目の前の命を助けるのは、確かに立派なことだ。私も、それを否定はしない。だが、助けられるのならの話だ」

松島はゆっくりと木内を見据えた。

「もし、助けられない命によって、日本中、いや世界中の人間が恩恵を受けられるとしたら。君はその選択を拒むかね? 極限状態では誰かが対象を選別しなければならん。これはトリアージだよ」

木内の目が鋭く細められた。

「トリアージとは助けられる命を助けるために行う苦渋の選択です。誰を生かすかという選択であり、誰を殺すかという選択ではありません」

木内の言葉には静かだが、断固とした力が込められていた。

「では私たちが『実験』に供さなければ、捕らえられた敵兵やスパイは、その後の人生を幸せに過ごせたと思うかね?」

一瞬の間を置き、松島は声を低めた。

「・・・そんなことはない。処刑されて終わりだよ。何も残らず、何も生まれずに。私たちはその死の直前に、わずかに手を入れたにすぎない。そのことで、彼らの命は情報となり、知識となった。君はその知識すら否定するのかね?」

「たとえ処刑される運命だったとしても、失われるその瞬間まで、命はその人のものです。他のものが手を出していい理由にはなりません」

松島はかすかに目を細め、鼻で笑う。

「それは平時はともかく、戦場では通用せん。それが通用するなら、殺し合いなど起こらんよ。むしろ、そういう当たり前の理屈が通用しないからこそ、戦時に医学が大きく進歩してきたのではないのかね」

「戦争の狂気の陰に隠れて非人道的な実験を繰り返す。そんなものが医学として評価されると、本気でお思いですか」

木内の声には怒りが滲んでいた。だがそれに松島は淡々と答える。

「もちろん、されるとも。どの国だって私たちの『実験』は非難する。だが、これが『データ』となった時にはどの国も欲しがるんだ。本当はどの国だって実験をしたいんだ。だが人目を恐れてそれができないでいる。そんな中、私たちはあえて実験を敢行した。世界中が妬んだだろうね」

正しく松島はしてやったり、というような顔だ。

「見ていたまえ。データを渡すとさえ言えば、何をやっていようと無罪放免になる。それは人道よりもデータのほうが優先されるという証拠ではないかね」

木内は感情を押し殺しながら、問いただす。

「・・・そんな保身のために実験を行っていたのですか」

その一言で、初めて松島の言葉に怒りが混じる。

「見くびるんじゃない。 ・・・私にはそんな低俗な考えはない。私の実験データなど、全て群がってくる連中にくれてやったよ」

だがその怒りも一瞬のことで、すぐに淡々とした調子に戻る。

「私の目的は認められることではない。そんなのは所詮、先人たちが勝手に作った枠の中での話に過ぎない。自分より劣る人間に褒められることに意味があるかね。私はその枠を超えてみせる。現状の勢力図を根本から塗り替えてみせる。医学においても、軍事においてもだ」

「そのための細菌兵器、なのですか」

木内は静かに問いかける。松島がフッと笑う。それにはどこか侮蔑が含まれていた。

「そう思うのも無理はない。731の連中の手口がそうだからね。あの連中は未だにペストだ赤痢だと騒いでいる。だがあんなものはあと数年もすれば簡単に治るようになる。お払い箱だよ」

そう言って、わずかに身を乗り出してくる。

「では連合軍が最終兵器と位置付ける原子爆弾はどうか。確かに衝撃波、熱線、中長期に渡る被曝障害といった破壊力は抜群だ。だがその破壊力をコントロールできないという時点で、あんなものは三流なんだよ。しかも、放射性物質による汚染だ。後のことを何も考えていない。ただ敵を痛めつけたい、脅したいという子どもの発想だ」

そうして、背を持たれさせて一息つく。

「私が求めるのは、もっと抵抗不能で計算された静かな死。 ・・・ウイルスだよ」

松島は種明かしをする手品師のように言った。その眼の奥に異様な光が灯ったように感じた。

「ほんの数人に感染させるだけで、無症状の潜伏期間中に空気感染で蔓延し、症状が出始めれば回避できない死が訪れる。しかも感染者が全滅すれば、ウイルスもそこで共に死滅する。食料も水も土壌もきれいなままだ。占領にはもってこいではないかね。まずはソ連軍だ。何千もの火砲も何十万の軍隊も、ほんの一週間足らずで壊滅する。格好の実地検証だよ。 ・・・欧米は黄色い未開人と嘲笑った者の手で、眠れぬ程の恐怖を味わうことになるだろう」

松島はゆっくりと拳を握り締める。それはまるで世界を握り潰そうとしているかのようだった。

「私はこのウイルスを『あ号ウイルス』と命名した。世界を暁に導くためのウイルスだよ。一応は形になったが、まだまだ育成していかなくてはならん。環境に適応し、免疫をすり抜け、毒性の強さも変えていく。そのために、君や布村君のような優秀な『教育者』が欲しかった。 ・・・まぁ、今更だがな」

重苦しい沈黙の中、木内は真っ直ぐに松島を見詰める。そこには怒りなどなく、あるのは決意のみだった。

「ありがたいお言葉ですが、大佐のご意向に沿うことはできかねます」

その言葉に松島は笑みを浮かべる。そこにはやはり敵意などはなかった。

「うん、君との思想の違いはよく分かった。 ・・・であれば、あとはお互い後悔しないようにしようじゃないか」

松島が立ち上がり、木内も立ち上がる。

松島は執務用の机の上から四角い紙袋を持ってくる。

「今日の土産だ。私の部下が横流ししようとしていたモルヒネ50本だ。出所がどこであれ、モルヒネには違いない。君なら有効に使えるだろう。 ・・・馬鹿な部下を持つと苦労するものなんだよ。君には分からんだろうがね」

木内は深く頭を下げ、声を潜める。

「・・・ありがたく頂戴いたします」

そうして木内の去り際に、松島はもう一度声をかける。

「・・・そうだ、近いうちに野良犬がそちらに行くだろうから、注意したまえ。 ・・・まぁ、言うまでもないことだったかな」

「・・・ご忠告感謝いたします」

木内はもう一度深く礼をして、執務室を後にした。

 

昼過ぎ、木内婦長は呼び出された時と同じように、軍の小型車両で正門まで送られてきた。その手には土産として渡されたという、モルヒネ10本入りの紙箱が五箱。

これは小隊の伊庭さんが、翌朝、避難中の後衛隊に届けに行くことになった。避難経路ははっきりしているし、明るい中での単独行動であれば危険は少ない。その日のうちに合流して、そのまま後衛隊に加わることが指示された。

それからも、病院内では昼夜を徹した警戒態勢が敷かれていた。

『憲兵隊はまた必ずやって来る。今度こそ情報漏洩の証拠と内通者を確保するために、夜間の強襲という形になるだろう』というのが木内婦長の読みだった。私たちはすでに、避難訓練と共に、そのための訓練も十分に行っていた。

夜の病院内で、明かりは看護婦詰め所と病室前の廊下に数か所だけ。灯油ランプの明かりは最低限に絞ってあるため、ほぼ真っ暗だ。そんな中、『夜勤班』は明かりの範囲外から常に病院周囲を警戒していた。

 

そして日付が変わった直後の1945年8月5日深夜にその時は来た。

最初に気付いたのは、『夜勤』中の飯沼さんだった。病院へ続く道に作っておいた水たまりの反射光が何かに遮られて明滅したのだ。かすかな月明かりだったが、その反射という光の動きは一目瞭然だ。

病院前に集まっているのが20人から30人。それだけの規模であれば、当然、病院周囲も包囲、警戒されているだろう。

飯沼さんはすれ違いざまに他の『夜勤者』に手信号を送ると、音もなく病室に滑りこむ。私たちは病院内では靴を脱ぎ、靴下で行動していたので、音はしない。

病室は一見、空のベッドだけでがらんとしているが、私たちはそのベッドの下で仮眠をとっていた。飯沼さんは私の肩を叩いて起こすと、無言のまま手で合図をする。私たちはすぐに手信号で合図を送りあい、訓練通り、無言のまま病室を後にした。

暗闇の中を音もなく滑るように移動する様は、まるで実体のない幽鬼のようだった。

 

その数十秒後、いきなりバタンと病院の玄関が開かれ、数十の軍靴が雪崩れ込む。

だが病院の中からは悲鳴どころか、物音ひとつしなかった。あまりに予想外の展開だったが、部隊を指揮する平井少佐は、すぐに持参のランプを付けて、院内を探索するよう指示を出す。

すぐにカーバイドランプが点火され、白い強烈な光が病院内に散っていく。だがどこからも職員や患者を拘束したとの報はなかった。

「昨日まではいたんだぞ・・・ あれだけの人数が消えるわけがない! 探せ! 床下や天井裏もだ!」

そう言って、平井も院内の探索に加わる。病室内のベッドに手を当てるが、そのどれにも体温は残されていない。ベッドが残されているのに床で寝ていたとも思えないが、念のため、床の空きスペースに手を当ててみるが、やはり体温は感じられなかった。

そしてその時に気付いたのは、床の異様な清潔さだった。埃一つ、靴跡一つ残っていない。付いている靴跡は全て自分たち、憲兵隊の軍靴のものだった。これではどこに向かったのかも分からない。

次に見つけたのは、階段から続く半地下にある扉だった。病院の外観からすると、ボイラー室の辺りだ。外部へ通じる扉もあるだろうが、外部の警戒をしている兵からは、何の連絡もない。ここを使ったとすれば、まだ中に潜んでいるはずだ。

平井は部下を呼び、その重厚な両開きの扉に手を掛けさせる。他の部下は銃を構えている。

平井の合図で部下がギシギシと耳障りな音と共に扉を開けると、途端に大量の煤や石炭の粉が舞い上がり、石炭の悪臭が鼻を刺す。平井は慌てて「明かりを下げろ! 爆発するぞ!」と、カーバイドランプを下げさせる。

持参したカーバイドランプには覆いが付いているものの、完全ではない。チチハルの炭鉱では頻繁に粉塵爆発が起きており、その危険性は常識だった。

下げられたカーバイドランプの狭い光の帯の中で、きらきらと舞う粉塵と、錆びだらけでスクラップ同然のボイラーが浮かび上がる。ボイラーの周囲にはまだ大量の煤や粉塵が山のようになっており、足跡などは見られなかった。

ふと見ると、舞い上げられた粉塵は扉の前の階段まで黒く汚している。扉を開ける前は埃一つ落ちていなかった。つまり、この扉は開けられていないということだ。

「臭くてかなわん。閉めておけ」

そう言って服に付いた粉塵を払う。

「じゃあ、どこに行ったんだ・・・」

そう呟いたとき、二階に行った班から声がかかる。

「隊長! 婦長室に手紙のようなものが・・・」

そうして二階の婦長室に入ると、そこの卓上灯が付いており、その光の輪の中に一通の封書があった。

「このランプは点けたのか?」

「いいえ、この状態で点いていました」

そこにある椅子には座っていた形跡などない。明らかにこちらの行動を見越したうえでの置手紙だろう。

『第五病院退避に関する報告書』と表書きされた封書を手に取る。

そこにはこうあった。

 

『昭和20年8月1日をもって、本施設は放棄されたことを報告する。

医療資材、記録等はすでに処理、移送済み。残務処理の後、職員も全員撤収した。

本措置は責任者の権限で実施された正規の退避行動である。これは敵勢力に対して、当院の貴重な人的資源である医療要員及び患者を引き渡さぬための戦術的判断である。

なお、現在地において病院機能は停止しているが、関東軍北満第五臨時病院は、引き続き稼働中である。

関東軍北満第五臨時病院 院長兼看護婦長 木内香』

 

つまり、昨日までの人影は偽装であり、この探索は全くの空振りだったわけだ。平井はその置手紙を机の上に投げ出した。

「隊長。終わりにしましょう・・・」

そう言われ、平井が振り返ると、部下の一人が一枚の命令書を見せてくる。そこには軍規違反、命令逸脱により、平井少佐の身柄を拘束せよとの内容が、昨日の日付で記されていた。

つまりここにいる部下たちは、軍部から平井の拘束命令が下された後も、平井の強制捜査に協力したことになる。

「お前たちは・・・」

「私たちは隊長を信じたかった・・・ 証拠があれば、こんな命令は跳ね除けられると・・・」「でも逃げられてしまった・・・ 私たちもここが限界です」「隊長、申し訳ありませんが・・・」

平井は小さく頷くと、軍刀と拳銃を外し、部下に差し出した。

「お前たちはよくやった。報告は任せる」

最後にそう言った平井の顔には、もはや何の焦りも浮かんではいなかった。

 

そうして憲兵たちが撤収し、どれくらいの沈黙が流れた後か。

ボイラー室の闇の中、粉塵の山の中から、雨具を被り、防毒面を付けた顔が、辺りを伺うように、ゆっくりと浮かび上がった。

 

◇◇◇◇◇

 

「憲兵隊と地元住民の方々との暴動を止めたそうですが、怖くはなかったのでしょうか」

今では考えられない状況、正しく前線にいたのだと聞いて、私は当たり前の質問をしてしまう。

「もちろん怖かったですよ。憲兵隊は容赦なく発砲しますし、住民側からの投石も酷くて。一つ背中に当たったのですが、後で見ると大きな痣になっていて。あれが頭に当たったらと思うと、ぞっとしたものです」

「憲兵隊のことはどのように考えていましたか?」

「終戦直前のことで、もう誰も自分たちの言うことを聞かない。でも上からはこれまで通りの任務を要求される。そんな状況で虚勢を張るしかなかった彼らが哀れに思えましてね。現場には被害者しかいないんだと、つくづく思いました」

「木内婦長が建物を捨てて避難すると言った時はどう思いましたか?」

「それに備えた訓練は十分にやっていたものの、やはり成功するのかという不安はありましたね。特に小隊員は、南方戦線での撤退で多くの兵が餓死、病死したと聞かされていましたから。それでもここまで来た以上、命も全て木内婦長に預けようという思いでした」

いくら上官とはいえ、そこまでの信頼があったのか、と驚いてしまう。

「避難隊を全て送り出し、憲兵隊をやり過ごした後、残留隊はどのような動きをしたのでしょうか」

「残留隊が動いたのは、憲兵隊をやり過ごした、その日の朝からでしたね」

 

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