翌朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。午前6時。
普段ならギリギリまで布団から出られない俺が、自然に起きた。体が妙に軽い。
洗面台に立ち、顔を洗う。鏡に映る自分の顔を見て少し違和感を覚えた。昨日までと同じはずなのに、どこか違う。目つきがはっきりしていて、自信があるように見える。
「気のせいだよな……」
会社に向かう電車の中でも胸のざわめきは消えなかった。昨日の出来事は夢じゃない。だって、今の俺は副主任だ。たった一晩で周囲の態度が激変した。
会社に着くと、受付の女性が笑顔で頭を下げた。
「おはようございます、田村副主任」
その響きにまだ慣れないが、心地よさは隠せない。
エレベーターで営業フロアに向かうと、同僚の佐藤が駆け寄ってきた。
「田村さん、昨日はすごかったですね!一体どうやってあんな契約を……」
「いや……まあ、運が良かっただけだよ」
自分でも説明できない。運と言うしかない。
「運だけじゃあんな数字は取れませんよ。何か秘密があるんでしょう?」
答えに詰まったそのとき、スマホが震えた。
プルルル、プルルル── 画面に表示された番号は、昨日と同じ。【030-0000-1234】
「すまん、ちょっと電話に出る」
廊下に出て通話ボタンを押した。
「もしもし、田村です」
「おはようございます。オートライフサポートです」
昨日と同じ男性の落ち着いた声。
「本日も素晴らしい一日になります。ご準備はよろしいですか?」
「準備って……」
「午前9時から、重要な商談がございます」
「え?俺の予定には……」
「大丈夫です。すべて手配済みです。それではサービスを開始いたします」
「ちょっと待っ──」
次の瞬間、意識がかすんでいった。 視界がゆがみ、体が沈む。 そして、気づくと映画館の座席に座っていた。
スクリーンの中には俺がいる。昨日よりもさらに堂々とした俺。 営業部のフロアを堂々と歩き、部長の席に向かう。
「部長、おはようございます」
「おお、田村くん!おはよう!」
部長の顔が輝いている。昨日までの冷たい態度とは雲泥の差だ。
「実は新しい案件の件でお話がありまして」
「新しい案件?」
「某大手メーカーから直接ご連絡をいただきました。年間10億円規模のプロジェクトです」
ざわめく営業フロア。10億円なんて、営業部全体の年間目標の半分にあたる。
「ほ、本当かね?」
「はい。本日10時に先方へ伺います」
部長は興奮し、同僚たちは唖然としている。 俺はただスクリーンの映像を見ているだけなのに。
その後、スクリーンの俺は颯爽とスーツを直し、都心の高層ビルに入っていった。
看板には 「東邦エレクトロニクス」。 役員フロアに通され、専務らしき人物と握手。
「お忙しい中ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。早速ですが──」
資料が広げられ、IoT関連のシステム開発についての話が始まった。年間10億円の予算。
俺にはちんぷんかんぷんだが、スクリーンの中の俺は専門家のように堂々と答えている。
三十分後、専務は満足げに言った。
「素晴らしい。ぜひ御社にお願いしたい」
「ありがとうございます」
「来週には契約書を用意いたします」
──本当に決まった。10億円の契約が。
会社に戻ると、部長が駆け寄ってきた。
「田村くん、どうだった?」
「おかげさまで契約いただけることになりました」
「すごいぞ!本当に10億だ!」
拍手が広がり、同僚たちが口々に俺を称える。 でも俺は、座席から眺めていただけだ。
次の瞬間、トイレの鏡の前に立っていた。時計を見ると午後3時。 また、記憶がすっぽり抜け落ちている。
スマホを見ると、通知が届いていた。
【オートライフ サービス完了通知】
【本日の利用時間:5時間32分】
【満足度評価をお願いします】
頭の中は空っぽなのに、体の奥には妙な爽快感が残っていた。
夜、昨日と同じカフェ。矢野が待っていた。
「お疲れさまです、田村さん」
「今日も……俺は体験したんですよね」
「はい。素晴らしい成果だったでしょう」
「でも、正直言ってよく分からないんです。記憶がないんです」
「それがオートライフの特徴です。お客様には結果だけを楽しんでいただく」
「でも、それじゃあ俺じゃないんじゃ……」
「いいえ。AIは田村さんの脳波を読み取り、潜在能力を最大限に引き出しているのです」
矢野はにこやかに説明を続けた。
「料金は月額10万円。ただし今なら初月半額の5万円です」
「解約は?」
「可能です。ただし、一度慣れてしまうと元の自分に戻れなくなる人が多いですね」
その言葉に、背筋が冷えた。 でも同時に、今日の成果を考えると、手放したくない気持ちが湧き上がる。
「……契約します」
俺はペンを取り、契約書にサインした。
「ありがとうございます。明日からも素晴らしい毎日を」
矢野は握手を求めてきた。俺は迷わず応じた。
その夜。ベッドに入っても眠れなかった。 もしこれを使い続ければ、俺の人生は変わる。
でも本当にそれでいいのか。
午後11時。スマホが震えた。
【090-7777-8888】
「もしもし」
「田村健太さんですね」
昨日と同じ女の声。落ち着いていて、美しい。
「はい」
「あなた、気づいていますね。記憶がないことに」
胸が鳴り、息が詰まった。
「それは……」
「あなたが体験していることは、全部作り物です」
「作り物……?」
「明日、真実をお教えします。ただし知ったら、もう戻れません」
通話は一方的に切れた。
暗い部屋に、スマホの光だけが残る。
作り物。真実。戻れない。
──いったい何が待っているんだ。