朝5時半。目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。
昨日に続いて今日も早い。眠気はない。むしろ頭が冴えている。
シャワーを浴びている間、昨夜の電話が頭を離れなかった。
『あなたが体験しているのは、全部作り物です』
女の声は静かだったが、刺すような力があった。
作り物……あれが本当なら、俺は何者なんだ?
会社に着くと、受付で呼び止められた。
「田村副主任。社長がお待ちです」
「社長?」
まだ朝の8時だぞ。何の用だ。
会議室Aに通されると、社長の隣に見慣れない顔が三人座っていた。 スーツの質が違う。肩書きも一言で分かる。大手企業の重役たちだ。
「田村くん、紹介しよう」
社長が上機嫌に言った。
「こちらは東邦エレクトロニクスの田中専務、サミット商事の佐藤部長、そしてグローバルテック社の山田取締役だ」
昨日の会社名が頭に浮かんだ。……やっぱり現実だったのか。
「君にぜひ会いたいとおっしゃってね」
社長は興奮気味に続ける。
「三社合同で、総額50億円規模のプロジェクトを立ち上げることになった。そのリーダーを君に任せたい」
「えっ……俺に?」
心臓が高鳴り、生唾を飲む。
「田村くんなら必ず成功させてくれるはずだ」
社長は疑っていない目で俺を見ている。
でも俺は昨日の記憶すらない人間だ。そんな大役を務められるわけがない。
「で、でも俺は……」
言いかけた瞬間、スマホが震えた。
プルルル、プルルル──
表示された番号は見覚えがある。
【030-0000-1234】
空気が張りつめる。社長も重役たちも俺を見ている。
「す、すみません。少し失礼します」
会議室の隅に下がり、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
「準備はよろしいですか?」
オートライフの声。
頭の奥がふっと霞んだ。 そして気づけば、また映画館の座席にいた。
スクリーンの中、俺は落ち着き払って席に戻っていた。
「皆様のお話、大変光栄です。ただし、条件が一つあります」
低めの落ち着いた声。俺の声のはずなのに、威厳がある。
「条件?」
「プロジェクトの全権限を私に委任していただきたい」
「全権限?」
「はい。企画、予算、人事、すべてです。中途半端では責任が持てません」
社長も重役たちも顔を見合わせた。 そして田中専務が頷いた。
「分かった。すべて任せよう」
「ありがとうございます」 スクリーンの俺はゆるやかに笑みを浮かべた。
一時間ほどの打ち合わせの後、俺は役員フロアの新しいオフィスへ案内された。
個室。高級な机と椅子。窓からは都心が一望できる。 秘書を一人つける、と社長が言った。
──信じられない。三日前まで窓際社員だった俺が、今は役員待遇だ。
気づいたとき、俺はトイレの鏡の前にいた。 時計は午後3時を指していた。
まただ。5時間以上、記憶が丸ごと消えている。
スマホに通知。
【オートライフ サービス完了通知】
【本日の利用時間:6時間18分】
体は妙に軽く、頭には奇妙な達成感が残っている。
オフィスに戻ると、机の上に見慣れないスマホが置かれていた。
電源を入れると、ロック画面に俺の写真があった。
けれど、写っている俺は自信に満ちた笑顔で、今の俺とは別人のようだった。
「田村さん」
背後から声がした。振り返ると、一人の女性が立っていた。 落ち着いたスーツ姿、整った顔立ち。二十代後半くらいか。
「本日から秘書を務めさせていただきます、麗華と申します」
「秘書……?」
「はい。早速ですが、明日のスケジュールをご確認ください」
彼女が差し出した手帳には、朝から晩までぎっしりと会議や商談の予定が書き込まれていた。 俺が入れた覚えはない。
「これ、いつ決まったんだ?」
「本日の午前中、田村さんご自身で」
「……そう、だったな」
曖昧に笑ってごまかしたが、背筋が寒くなった。
麗華はにっこり微笑む。
「ご安心ください。すべて順調に進んでいます」
俺はうなずくしかなかった。
その夜。 帰宅してからも頭の中はぐちゃぐちゃだった。
50億円のプロジェクト。役員待遇。秘書。 すべて現実にある。
だが、その大半は俺の記憶の外で決まったことだ。
午後6時。スマホが鳴った。 表示された番号は
【090-7777-8888】。
あの女からだ。
「もしもし」
「田村健太さんですね」
「あなたは……昨日の」
「はい。セラと申します」
初めて名を名乗った。
「単刀直入に言います。あなたは今、人格を乗っ取られています」
背筋が冷えた。
「乗っ取られ……?」
「オートライフは、あなたの脳に別の人格を作り出し、体を操作させているんです。完璧な田村健太という、偽物の人格に」
思わず声が震えた。
「じゃあ今の成果は……全部」
「偽物です。ただし、契約や成果は現実に存在します。だから厄介なんです」
「……俺はどうなる」
「時間が経つにつれ、本来のあなたの意識は短くなり、やがて完全に消えます」
部屋の空気が一気に冷え込んだ気がした。
「助かる方法は?」
「一つだけ。電話に出ないことです」
「出なければ……」
「成果はゼロ。会社での評価も地に落ちる。でも、あなた自身は残る」
セラは静かに告げた。
「選べる時間は、明日の朝までです」
通話が切れた。 暗い部屋に取り残され、俺はスマホを握りしめた。
──偽物の成功か、本物の自分か。