午前0時。 スマホの着信音が止んだ瞬間、心臓が早鐘のように鳴り、耳の奥まで熱くなった。
俺は、ついにオートライフからの電話に出なかった。
──これでいいんだ。
そう自分に言い聞かせても、不安は胸を重く押し潰してくる。
明日、何が起きるのか。
50億のプロジェクトは? 社長や重役たちは? 全部、消えるのか。
翌朝。 出社する足取りは重かった。エレベーターの鏡に映った自分の顔は青白く、目の下には濃いクマ。
自信に満ちた昨日の顔とは別人だ。
受付の女性が眉をひそめた。
「田村副主任……お顔が真っ青です」
「大丈夫です」
無理に笑ったが、声が震えていた。
役員フロアの会議室。扉を開けると、社長と三社の重役たちがすでに座っていた。
「田村くん、待っていたよ」
社長は笑顔を作っているが、その奥に探るような光がある。
「さて、今日は正式契約だ」
田中専務が分厚い資料を広げる。
「まずシステム構成について──」
専門用語が飛び交う。 俺はページをめくりながら、頭が真っ白になっていく。
「田村くん、この点について意見は?」
「え……あ、はい……」
しどろもどろになり、言葉が出てこない。
「昨日は素晴らしい提案をしてくれたじゃないか」
山田取締役が怪訝な顔をする。
「今日はどうしたんだ?」
──昨日の俺は、俺じゃなかったんだ。
唇が乾き、手汗で資料が湿る。
「す、すみません。少し体調が……」
社長が身を乗り出した。
「田村くん、大丈夫かね?」
俺はかすかに首を横に振った。
「休憩にしよう」
田中専務が立ち上がった。
会議室を出て廊下に出た瞬間、スマホが震えた。
【030-0000-1234】
まただ。 画面を見つめ、指先が勝手に通話ボタンへ伸びそうになる。
出れば、すべてが解決する。
だが、俺はもう知ってしまった。人格乗っ取り。偽物の成功。
「田村くん?」
背後から社長の声。振り返ると、三人の重役もこちらを見ていた。
俺は深呼吸してスマホをポケットに押し込んだ。
「……大丈夫です」
その瞬間、3人の顔にかすかな失望の影が走ったのを俺は見逃さなかった。
午後。
結局、契約の話は延期になり、俺は会社を早退した。
アパートに戻り、ベッドに倒れ込む。
天井の染みを見つめながら思う。
──3日前までただの窓際社員だった俺に、50億なんて無理なんだ。
午後6時。インターホンが鳴った。 ドアを開けると、麗華が立っていた。
「田村さん……お疲れさまです」
「麗華さん?どうしてここに?」
「……心配になって」
俺は彼女を部屋に招き入れた。ワンルームの狭さが、役員フロアの豪華なオフィスを思い出させて余計に惨めに感じた。
「お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
麗華はカップを両手で包み込むように持ちながら、俺をまっすぐ見つめた。
「田村さん、悩んでいますね」
「え……」
俺は迷った。でも、もう誰かに話したくて仕方なかった。
「……実は、この数日間の記憶が抜け落ちてるんです。大事な場面ほど、何も思い出せない」
麗華の顔色が変わった。
「それは……いつからですか?」
「三日前から」
彼女は小さくうなずき、唇を噛んだ。
「田村さん……私も同じなんです」
「え?」
「私も記憶が抜け落ちています。昼間の私は……私じゃないんです」
耳の奥が熱くなった。
「どういうことですか?」
麗華は震える声で続けた。
「私もオートライフを利用しています。最初は便利だと思いました。でも……気づいたら、本当の私は夜の数時間しか存在で
きなくなっていました」
「じゃあ、昼間の麗華さんは……」
「AIが作った“完璧な秘書”です。本物の私は、今こうして話している時だけ」
目の前の彼女の瞳が濡れていた。
「昨日は二時間。今日は一時間。明日は……もう数十分しか残らないかもしれません」
胸が痛む。
「じゃあ……どうすれば」
「方法はひとつ。オートライフの電話に出ないこと」
「でも、それじゃ……」
「すべて失います。でも、あなた自身は守れる」
麗華は立ち上がり、俺の手を握った。
「私にはもう間に合わないかもしれません。でも、あなたはまだ救える」
その時、麗華の表情がふっと固まった。
「あ……時間です」
目が虚ろになり、次の瞬間には完璧な笑顔に変わった。
「田村さん、どうかしましたか?お顔が赤いですよ」
──AI人格の麗華だ。
俺は唇を噛みしめ、首を振った。
「……なんでもない」
「それでは明日の準備に戻りますね」
彼女はきれいな所作で頭を下げ、部屋を出ていった。
残された俺はベッドに腰を下ろした。
明日の朝が最後の選択になる。
偽物の成功か、本物の自分か。
どちらを取るかで、俺の人生は決まる。
そして翌朝6時。 プルルル、プルルル── スマホが震えた。
画面には【030-0000-1234】。
震える指が通話ボタンの上で止まる。
心臓が高鳴り、耳が熱くなる。
出るか、出ないか。