「……カスパルを返してよ」
耳に入った瞬間、心臓を素手で掴まれたような感覚が走った。
「お前、そんな事を言うのか」
あの合理主義者が。不可能を不可能と切り捨ててきた彼が。よりによってそんな願いを投げつけてくるなんて。
返せるはずがない。もう動かないあの身体が、脳裏に焼きついて離れない。
その瞬間、俺は余程のことをしてしまったのだと、遅すぎる自覚を突きつけられる。
人を殺すのには慣れてきたはずだったのに。
「行けぇ!」
俺は得意のリザイアを浴びせる。リンハルトは最小限の動きで回避しながら反撃の風を返す。
相変わらず精度がエグい。全てを回避することは難しい。だが、一手でも間違えれば崩壊しかねない。
気分はさしずめ盤上遊戯の問題集だ。
「理詰めはまずいな……」
相手は理論の積み重ねで築かれた鉄壁。
ならば、俺は感覚だけで突破するしかない。
「俺は感じたままに撃つ! お前は計算して撃つ! どっちが速いか試してみるか!」
少しでも体力を吸い取ってやる。
「君は魔術を遊び道具とでも思ってるの?」
鋭い風が俺の頬を切り裂く。
「祈るだけでどうにかできるわけないでしょ」
「……違う! 俺はなった!」
息を荒げながら叫ぶ。
「死ぬはずだった未来も変えられた! 祈って、必死で足掻いて。それで俺は、生きてるんだ!」
沈黙。だが返ってきた声は氷のように冷え切っていた。
「僕の前でそれを言うんだ?」
リンハルトの瞳がぎらりと光った気がした。
知識を積み重ねても、救えなかった命を抱えた男の、底の見えない憎悪と絶望。
空気の鋭さが増す。
「君とは仲良くなれるかもしれないと思ってた」
魔法陣が幾重にも輝く。
「二度とそう思うことはないだろうけど」
視線が逸れた、その先に横たわる亡骸。
「彼と君は、似てたから」
「ん? なんだって?」
「君と話すことはもうないよ」
カスパル戦で感じた、全てが順調に行きそうな天に登る感覚。あれにたどり着ければきっとリンハルトも倒せる。理論上は。
だけど結局そこにはたどり着けない。『再現』しようとしてしまう。それを意識する時点で、完全には集中できていないという証拠だ。
そして、目の前の男は……そんな隙を決して見逃さない。
だから俺は諦めたんだ。
「何を考えているのかな」
ここが俺の死に場所と定めれば、やれることはまだある。
……本来ならとっくに死んでいた命だ。
でも、心臓はまだ「生きたい」と喚いている。
その矛盾ごと、ここに置いていくしかない。
少しでもリンハルトを足止めして周りの負担を減らす。
食らった分だけリザイアで吸い尽くしてやる。
9年前と同じだ。
血で滑る杖を握り直し、リンハルトを睨みつける。恨みなんかはない。あるとして逆だろうけど。理不尽だろうと、何だろうと俺は彼を止めなければならないのだ。
何か、たった一つを変えられればそれでいい。俺は逃げない。騎士とか貴族とか、そういう話じゃない。ただ、友達を見捨てて逃げるような奴にはなりたくなかった。
俺の命に意味があればいいと願った。
***
そして俺達は、激闘の末に。
視界が赤黒く揺れ、互いの姿も曖昧になりながら。
同時に倒れこんだ。
よくここまで持ち込んだよ、俺は。帝国屈指の頭脳派、眠りがちな天才学者に。
凄惨な戦場に落ちた静寂の中。
その寝顔は、まるで戦場には似つかわしくないほど穏やかで。
だからこそ残酷なまでに綺麗で、俺はぞっとしたことを覚えている。