僕の生まれた村は、どこにでもあるような村だった。観光できるような場所があるわけではなく、何か特別な産業を営んでいるわけでもない。
特段栄えているわけでもなく、そして貧しいわけでもない。際立った善人がいるでもなければ、悪人がいるわけでもない。どこを取っても平凡な、そんな村が、僕の生まれ故郷だった。
僕には兄がいた。
2歳だけ年の離れた、誰もが羨むような兄だった。まず、頭がいい。運動神経もいい。そして、魔法を扱う才まで持ち合わせていた。それでいて変に増長するわけではなく、謙虚すぎることもなく、子どもとして微笑ましく思われるような性格の。
そんな、誰もが羨むような出来の良い子どもが僕の兄だった。
そんな兄に二年遅れて生まれたのが、僕だった。
必然、僕にも期待がかけられた。
──“■■■の弟なんだから”。
──“あの家の子なんだから”。
──“あの子の次の子だから”。
──“きっと、あの子も凄いのだろう”。
そんな声が、ずっと耳に響いていた。
だけど。けれど。なのに。僕には、なんの才もなかった。むしろその真逆、僕はどうしようもなく
まず、頭が悪かった。運動もできなかった。魔法を扱う才は当然のように無かったし、人に言われたことすらできないぐらい要領が悪かった。失敗ばかりを繰り返して、性格も卑屈になっていった。
誰もが見下げるような、どうしようもなく出来の悪いのが僕だった。
そんな僕が見放されるのは、当然の話だったんだと思う。
7歳になる頃には、僕に話しかける人はすっかりいなくなっていた。……両親ですら、含めて。
領主様の目に留まった結果『召し上げられるかも』なんて話まで出ていた兄と、何もできず能無し以外の何物でもなかった僕。おまけに性格まで悪いんだ。
自分ですら分かるよ。どっちの周りに人が集まるか、なんて。
だから、僕はたった一人……両親の目を盗んで話しかけてくれる兄以外とは碌に言葉を交わせず、日々を過ごしていた。
聞えてくる『出涸らし』『失敗作』なんて陰口を聞こえないふりをしながら。
「母さんも父さんも酷いよな。ノモクはここで生きていて、それだけでも十分凄い事だってのに」
いつか、兄が口にしていた言葉だ。
そうは言いながらも、兄は一度だって両親にも、そして村の人にも反論しなかったけれど。
そもそも、それは僕に“生きていること”以外で褒められる部分が無いってことだろう?
もちろん、そんなことは言わなかった。態度にも出さないよう気を付けていた。
依存、していたんだと思う。自分でも分かってしまうぐらいに。
けれども、あの頃の僕にとっては兄が全てだった。羨んでいたし、妬んでいたし、もしかしたら憎んでさえいたのかもしれないけれど……それでも、僕に話しかけてくれる唯一の人だったから。
いつからか、僕に目を向ける人は誰もいなくなっていた。
無関心。悪意さえ抱かれない。陰口を言われても必死に笑っていたら、いよいよそれすらも無くなってしまったんだ。きっと、本当の意味で見放されたんだと思う。僕はもう“そういうもの”だから、何をしたって無意味。路傍の石のような、無価値な背景の一つ。
両親もそう。最低限のご飯はもらえていたし、屋根裏とはいえ家に住まわせてもらえてもいた。
でも、それだけ。風邪をひいて熱を出しても、ただ迷惑そうな顔をされるだけだった。ほんの僅かな愛情も、僕はもらえなかった。
寒さに震えて、寂しさに震えて、空腹感に震えて……でも、それでも十分すぎるんだって思うようにしたんだ。だって、僕は何も無いから。何もできないから。捨てられなかっただけでも幸せだったんだ、って。
それに、兄は時々こっそりご飯を分けてくれたり、夜には屋根裏にまで来て話し相手になってくれたりもした。
それが憐れみだったのか、優越感に浸るためだったのか、それとも親愛だったのか。それは、僕には分からないけれど。
だから、僕は決して兄の気分を悪くすることはしないようにしていた。歪み切った心が何を吐き出そうと、態度にも出さないようにしていた。
これで兄さえいなくなってしまえば、僕は本当にひとりぼっちになってしまう。耐えられるわけがなかった。
それに、兄はできた人だったけれど、決して聖人なんて言われるような人ではなかったのだ。そんなことを求められはしなかった。
人並みに喜ぶし、人並みに笑うし、人並みに怒りも抱く。等身大、というのが一番正確な表現だったのだと思う。
……人より優れた能力を持ちながら、そんな“人並み”を維持している。それもまた、兄の優れた場所だった。
そんなわけで、僕は自分に許された自由な時間はいつも森の方へと行くことにしていた。運動は苦手だし活発な性格でもないし、結界があっても森には魔物の危険があると知ってもいたけれど。
それでも、森には他の人は誰もいないから。夜以外も兄の近くにいたら嫉妬でおかしくなりそうでもあった、というのも大きかった。
依存していながら嫉妬している、なんて。我ながら随分と歪んでいるとは思っていたんだっけ。
そんな、ある日のことだった。
半分庭のようになった森を歩いていて、僕は結界を張っている魔石にヒビが入っているのを見つけたのだ。
結界。
村の周り、森の中腹辺りを通るように張られたもので、魔物だけでなく野盗などの襲撃も防いでくれている。その核となっていたのが、一定間隔で置かれた魔石だった。
当然……急いで村にまで戻って、僕は村長に伝えた。
魔石が壊れれば、結界も壊れてしまう。村もまた、魔物の餌食になって滅びてしまうだろう。
命がかかっているのだ、この時ばかりは普段の暗い感情も忘れて話しかけた。そうして大人たち同士で連絡が行き交って──いくつか事件を挟みながらも、最終的にその魔石は修復された。
……僕は、ひどく褒められた。
“さすが■■■の弟だ”とか“君のおかげで助かった”とか、とにかく色々。これまでの態度が嘘だったみたいに、誰もが笑顔で僕に感謝していた。
両親を、除いて。
今思えば、あの人たちも引くに引けなくなっていたんだと思う。
両親にとって、僕は出来損ないで出涸らしで、無能であることが正しい存在だった。今さら何かを成し遂げたとして、認められなかったんだろう。
どこまでの範囲が虐待になるのかは知らないけれど……無関心で放置することは、少なくとも普通のことではない。それを僕が物心ついてから5年以上も続けていて、今さら態度を改められるほど割り切りのできる人たちじゃなかったんだ。
だけど、その時の僕は、これを続けていけばいつか両親からも愛されるんじゃないかって思ってしまった。いつか。いつか。もしかしたら。
そんなことを思ってしまって、森を歩いて異変が無いかを毎日確認するのが日課になった。
ある時は、野盗が結界の近くで野営していたらしい痕跡を見つけたりした。ある時は、いつもいるものとは違う魔物の痕跡を見つけたりもした。
いつからか、村を歩いていて声をかけられることも増えた。
そんな日々を過ごして──12歳のある日。森の
全てが、終わったのは。
真っ白な髪に真っ白な肌。まるで、冬に降る雪みたいに脆そうな少女。
意識を失っていたその子を村にまで背負って行って、村長に引き渡した僕は、その足で家に帰った。
今日こそ両親からも褒めてもらえるかもしれない、なんて馬鹿なことを思っていた。どうしようもなく幼かったんだ。
そうして家の戸を開けて、母さんの方を見て。『今日は森で倒れてた女の子を助けたんだ』と、言おうとして。
それより早く、僕は叫ばれた。
「いい加減、なんなの! 私たちへの当てつけのつもり!?」
「おかあ、さん……?」
狂ったような金切り声。息苦しさ。押し付けられた壁の感触。視界いっぱいに広がる、母さんの眼。
黒い、黒い、ドロドロとした瞳。
「毎日毎日ちょこまかと……どうせ私たちを見返してやろうってつもりなんでしょ!?」
「そ、そんなこと」
「うるさい! 喋るな!! アンタは無能のままだったら良かったのよ!」
きっと、限界だったんだと思う。
僕が何かをする度に、村の人の態度は変わっていった。昔は両親と同じように無関心に扱っていたというのに。今思えば、その度に両親へと向けられる目線は厳しくなっていたような気もする。
負い目もあったのかもしれない。両親は善人ではなかったかもしれないけれど、悪人でもなかったから。
僕の扱いが良くなかったと分かっていて、それが問題になってきていると分かっていて、けれども態度を変えることもできなかった。その結果が、あの爆発だったのだろう。
「──アンタなんか、産まなければよかったのに」
でも、あの時の僕にそんなことは分からなかった。馬鹿で、自分のことしか見えてなくて、そしてどうしようもなく追い詰められていた僕には。
惨めに涙を流しながら、僕は母さんの手を振り払って家を飛び出した。
息が苦しかった。ズキズキと心臓の辺りが痛んだ。視界は滲んでいて、考えも曖昧に纏まらなかった。それでも家にはいられなくて、村にはいられなくて、必死に走った。
息が切れて、何度もつまずいて、全身が痛くなって、気付けば僕は森にいて──
そこで、生まれて初めて魔物の姿を見た。
今でも、昨日のことのように思い出せる。狼のような魔物だった。
見上げるほど大きな身体。触れるだけでも痛そうな硬い毛皮。人間を殺すことだけを考えている濁った瞳。光を反射する鋭い牙。その間から垂れる粘ついた唾液。
バクバクと外にまで聞こえてしまいそうな心臓の音を抑えて、茂みの中に身体を隠してやり過ごしていたあの瞬間は、僕の人生で一番生きた気がしなかった瞬間だった。
必死に息を殺して、5分ほどはそうしていたと思う。姿が見えなくなってからもじっと動かないようにして、もう大丈夫かと茂みから出た僕は、とにかく村に帰ろうと思って……はたと気付いたんだ。
“どうして、結界の内側に魔物がいるんだ”、と。
確認に向かってみれば、やはり結界は壊されていた。魔石が粉々に砕かれていたのだ。
当然ながら、非常事態だ。ヒビが入っていた時よりも圧倒的に危ない。母さんの言葉も魔物への恐怖も忘れて、僕は村へと駆け出した。
一刻も早くこのことを村長に伝えて、魔物の襲来に備えないといけない。場合によっては領主様に連絡してもらう必要もあるかもしれない。
そうして、山を駆け下りた先に広がっていた光景は──けれども、僕が思っていたものとは全く違っていた。
「──ぇ。これ……なに、が?」
いくつもの家が、壁に大きな穴を開けていた。黒い煙を上げている場所もあった。地面に並んでいるのはたくさんの見知った顔と、顔も分からなくなった人型の灰と、元の形すら分からなくなった赤黒い肉の塊。
だらしなく開かれた口が、虚ろに見開かれた瞳が、洞穴のような黒色で僕を見返していた。
「なん……どう、して」
地面の茶色に、赤い色が広がって、染み込んでいた。ああ、混ざるとこんな色になるのだな、なんてぼんやりと思考が吐き出した。
鼻を突くのは焦げた臭いと、赤色の鉄臭さ。村の中央、村長の家の方で、大きな音がしてるのが聞こえた。
呆然としたまま、足を動かす。
つい30分前には普通であった村が滅びていることに、どうしようもなく現実感が湧いてこなかった。ぼろぼろの麻縄みたいに、記憶も感覚も、何もかもが切れ切れの世界。夢を見ているみたいだった。
「兄、さん……?」
向かった先にはあったのは、赤い、朱い、紅いナニカと戦う兄の姿。
魔法で、剣術で、必死の形相でそのナニカに兄は立ち向かっていた。
──いや。ナニカじゃ、なかった。
「あの、女の子?」
紅い光のようなものを纏っていて分かりにくかったけれど、それは間違いなく森の中で倒れていた女の子だった。
周囲にいくつもの魔法を浮かび上がらせている。どうやっているのかも分からない、けれども間違いなく凄い魔法だと分かるものたち。
渦を巻く炎。
いくつもの棘を生えさせた地面。
水が、槍の形をとって漂っている。
──ああ。この村の惨状は、あの子がやったんだ。
不意に、理解ができてしまった。
魔物に襲われただけでは、あそこまで死体の状態に種類があるはずがないのだ。ならば、それを行ったのは魔物以外の存在となる。
あまりにも分かりやすい、出来の悪い僕でさえ理解できる話だった。
「ぅぷ」
吐き気が酷かった。
僕が村に運んだ少女が、村を滅ぼした。その時になって追いついてきた実感が、どうしようもなく吐き気をこみ上げさせた。
と、そこで。
不意に、あの女の子と目が合った。正気を失ったような、虚ろな目だった。
「──ぁ」
手が、掲げられる。
向けられる先は、僕が立つ場所。
「【
聞き取れない言葉が呟かれて、僕をすっぽり覆ってしまえるような火の球が放たれた。
大きくて、大きくて、僕の足でどれだけ逃げても避けようのない火の球。それが、目の前にまで迫ってきて。
「──生きろ。ノモク」
身体を竦ませて瞼を下ろした僕の耳に、そんな聞き馴染みのある声が響いた。
目を開けば、すぐそこに兄の姿があった。
「《
何度か見せてもらった、光属性の魔法。姿を隠すための魔法。
それと、結界にも似た半透明の膜のようなもの。僕を覆うように、それらが展開されて。
「兄さ──」
「じゃあな、ノモク。俺の弟。俺の家族。できる限り好きに、きっと笑って生きろよ」
言葉は聞こえなかったのか、忘れてしまったのか。
爆発。衝撃。閃光。身体を丸ごと振り回されるような揺れが、兄に護られた僕に襲いかかる。
意識が千切れていく最中、兄の笑顔が見えた。手を伸ばしても固い壁に当たるだけで、すぐそこにあるはずなのに、どうしようもなく遠い笑顔だった。
そうして目が覚めた時には、すっかり空は暗くなっていた。
誰もいない。何も無い。村の人も、両親も、兄も、あの少女も。何もいなかった。ただ、
夜空は、綺麗だった。
火が消えて、明かりをつける人も消えた村の跡地から見上げる月の色は、眩しかった。
妙に空気が澄んでいる気がした。
「う……うぅ、ああ…………」
あの時の景色は、心地は、今でも心に焼き付いている。
何もかもがぐちゃぐちゃだった。僕のせいで村が滅びたことへの罪悪感。兄に庇われて生き延びたことへの戸惑い。あの女の子への逆恨みにも似た憎悪。弱くとも確かにあった家族という繋がりが消え去ったことへの空虚さ。色褪せているのにどこまでも美しい世界への苛立ち。
いくつもの感情がぶつかり合って、混ざり合って、気持ち悪かった。
兄は、僕をどう思ってたのだろうか。
憐れんでいたのだろうか。優越感を覚えていたのだろうか。──家族として、弟として、想ってくれていたのだろうか。
何も分からない。
分かりようもないことだった。
──遠いものは、どれも綺麗なものだった。
月の色。
星の光。
両親の笑顔。
兄。
それに、愛情。
一人残された僕は、近くの都市に向かった。
スラム街があると聞いたことがあったから。
領主様へ連絡する術は知らなかったし、知っていてもきっと連絡しなかったと思う。そうまでして積極的に生きようとは思えなかった。
“死にたい”とは口にしないようにしていたけれど、生きる理由が無かったんだ。兄に生かされたなら死ぬことは許されないと思っていたけれど、生きる気力なんてものは残っていなかったから。
都市に入る時に衛兵さんに止められたり憐れまれたりもしたけれど、誘いは全て断っておいた。
死ぬ理由を……ううん、
積極的に死ぬことが許されないから、最低限生きるための道は選んだ。村の跡を出て、近くの都市に向かった。そして──その上で、死んでも仕方がない理由を探していた。それが、僕だった。
そうしてスラム街に入って、毎日を死にぞこないながら過ごした。
運が
あの子に、出会ったのは。
まるでいつかの日の焼き増しのように、意識を失った状態でゴミ捨て場に横たわる白髪の少女。
その姿があの日の情景と重なって、気付けば僕はその細い喉へと手を伸ばしていた。
ドクドクと、魔物に出会った時とは違う音で心臓がうるさかった。いやに粘ついた唾液の感触。まばたきを忘れた目から水分が抜けて、痛みを訴えていた。
遠くの大通りから聞こえる雑踏の音が、村の人たちの声と重なるように頭の中で響いた。やれと言われているようだった。
彼女の肌の白さに重なった僕の影の黒色が、まるで虫みたいで気持ち悪く見えた。やけに遠くに感じる、肌を伝う汗の感触。
熱を出したような頭で、ぐっと唾を飲み込んで。
そうして、僕は手を伸ばして。
「──ぅ、ん」
うっすらと開かれた彼女の瞳に、馬鹿みたいに見惚れたんだ。
その目は濁っていた。水たまりに映る僕の黒色と同じ。埃みたいに暗い感情が積もり積もって、濁り切っていた。
なのに、その色は綺麗だった。紅く、紅く、どこまでも紅く、それでいて炎よりも柔らかくて、林檎よりも瑞々しくて──流れ落ちた血のように光を反射していた。
息を呑むような、っていうのは。きっと、あの瞬間のことを言うんだと思う。
綺麗だと、そう思った。
他の何もかもを忘れて、ただただそう思ったんだ。
そうして見惚れている間に、彼女は目を覚ましてしまった。
中途半端な位置に手を伸ばして固まっていた僕を見て、彼女は『あなたは……』と呟く。その声がまた綺麗で、随分と久しぶりに……ううん、生まれて初めて世界が色付いたように見えて。
ドクン、と、鼓動がはねた。
恋をしてしまったんだ。僕はノルンに、生まれて初めて。見惚れて、見蕩れて。
その紅い瞳に。その小さく細い声に。泥と煤に塗れてもなお白く儚く映るその姿に。どうしようもなく、目を奪われて。
もう、何もかもがぐちゃぐちゃだった。
殺したいと思った。
護りたいと思った。
憎いと感じた。
愛しいと感じた。
死にたいと願った。
殺させてくれと願った。
こんななら、全て忘れてしまいたかったと──
──出会いたくなんかなかったと、どうして出会ってしまったんだと叫びたかった。
だけれども、僕はそれすらできずに中途半端なままで。
それから、僕は彼女と……ノルンと一緒に生きるようになった。
色々な事があった。
彼女の生まれについて、話をされた。僕は、ふとした瞬間にその首に手を伸ばしたくなる衝動が弱まるのを感じた。
二人分の食料を得るために無茶をして、それで負った怪我について心配をされた。僕は、彼女のそばにもっといてあげたいと思った。
彼女が自殺しようとしているのを、止めた。
僕は、もう何もかもが分からなくなった。
あのまま放っておけばノルンは死んでいた。自分では殺せないのだとしても、放っておけば済んだ話だったんだ。だけれども、僕は彼女の自殺を止めてしまった。
自分だって、死んでも許されるなら死にたいと思っているというのに。
……どうして自殺しようとしたのか、それを聞く勇気はなかった。
この曖昧な関係を崩したくなかったんだ。きっとノルンは僕のことを覚えていない。村に運んでいる最中はずっと気を失ったままだったし、その後だって一瞬しか顔を合わせていない。それも、正気を失っているらしい状態でだ。
その上で一年の時が経っているとなれば、覚えられていると思う方がおかしいだろう。
それに。僕は、ノルンを生きるための言い訳に使っていた。
ノルンと一緒にいるためにと言い聞かせることで、死を望む衝動から目を逸らしていたんだ。結局、彼女をちゃんと見れているのかすら定かじゃない。
そんな僕が何を聞けるというんだろう。何も分からないのに。
どうしたらよかったのかも、どうすればいいのかも、どうしていけばいいのかだって。
何一つとして分からなくなっているのに。
そうして、曖昧なままの日々を続けて……でも、その果てでようやく分かったんだ。教えてもらえたんだ。
しょうがないんだって。
どんな言葉で表現しようとしたって。
どうやって理屈付けようとしたって。
どれが正解だったなんて考えようとしたって。
しょうがないものは、しょうがないんだって。だって、恋に落ちてしまったんだから。
好きになってしまったんだから。
だから、それでいいんだ。
過去も、憎悪も、後悔も、罪悪感も! 何も関係なんてない。僕は君のそばにいたくて、君を護ってあげたくて、君に苦しんでほしくなくて──
──君に、生きていてほしいんだ。
だからどうか、君は生きて。唯一の心残りは、最期まで君の笑顔を一度も見れなかったことだけれど。もう、いいんだ。ありがとう。
ばいばい、ノルン。
──遠いものは、どれも綺麗なものだった。
月の色。
星の光。
家族の姿。
正解。
幸福。
愛情。
そして──あなた。
Tips.この世界には悲劇が溢れている