翌朝、波止場に移動したジーンたちは、
この時期トリム港の近海では魚人の襲撃が多発するので、その護衛だろう。交渉の結果
「あら?そこにいるの浮雲ジーンじゃない。やっぱり良いビジネスになりそうだわ」
「やあカウフマン、久しいね」
ジーンも、流浪の旅の道中隊商に随行することは多い。ユニオン最大の商業ギルドの長であるカウフマンとは知り合いだ。互いの利益が一致しさえすれば、彼女は非常に物分かりがよく、こちらの事情に一切踏み込んでこない。
お互い、やりやすい相手と言えるだろう。
「ジーンがなんかあんのか?」
「仕事の依頼ってこと?そうだ、まだボクらジーンの講演見れてなかったんだ!」
「それも良いけど、腕っぷしの話よ。六年前の大襲撃での討伐記録、未だに破られてないんじゃない?」
「なんの話かしら。身に覚えがないわ」
「残念ながら、商売してると情報には耳聡くなるのよね」
お互いにっこり笑って、船に乗り込んだ。多少ボロい船だが、譲ってもらえるなら破格だろう。
「ちょっと待ってよ、なんの話!?ジーンってそんなに強かったの?」
カロルの声を背中に受けながら何も話さないでいると、レイヴンが「最近の子は知らないのねえ」と呟いた。
「ダングレストの結界って毎年ある季節になると魔物が押し寄せるのよ」
「この間の襲撃みたいなことが何度も起こるんです?」
「あそこまでじゃないけど、時々あるよ。前回は結界が消えたから大ごとになったんだけど、普段は腕に自信があるギルドが率先して結界の外に討伐に出て討伐数を競ったりするんだ。だいたいドンのいる
「六年前、どうしても外せない用事でドンが不在の時に大規模な襲撃があってね。その時大活躍したのがジーンちゃんってわけ」
「ちょっとレイヴン、あんまり吹聴しないで」
肩を竦めたレイヴンを足蹴にしながら、ジーンは「状況が揃えばそういうこともあるかもね」と適当に流した。
カウフマンは愉快そうに笑った後、軽い調子で出航を告げる。
「さあ気合い入れな!沖に出るまでが勝負だよ」
「うん、目指すはノードポリカ、出航!」
元気よく腕を振り上げたカロルの横で、ユーリがジーンに向かってウインクを寄越した。
「どうかした?」
「いや、食えない奴が増えたなって思ってな」
「ジュディの事?」
「それもあるが、アンタもだよ、ジーン」
「あら、私ほど分かりやすい人間もいないのに。レイヴンを見てみなさいな」
「それを言われちゃおしまいだな」
貼り付けた笑顔の下で、ジーンは口を引き結ぶ。誰もが秘密を抱えている。ジーンはそれをユーリに打ち明ける日が来ないことを願っていた。
デズエール大陸の玄関口、ノードポリカはギルド
よって、ジーンは努めてこの街に寄り付かないようにしていた。当然ながら街の構造には詳しくない。
「ウチはここまでなのじゃ」
「うん、ありがとねパティ!」
元気に駆けていく海賊帽子を被った少女の背中を見送る。航海中魔物に飲み込まれているところを偶然発見し、そのままノードポリカまでの操舵を担当してくれていた。彼女も彼女で進むべき道があるらしく、ここでお別れだ。
航海は概ね順調だったが、途中で海を彷徨う幽霊船と遭遇し、
推定一千年以上前の船は、それをヨームゲンという街に届けようとしていたらしい。街の名前すら残っていない過去だったとしても、エステルはその未練を果たすことを選んだのだ。
「とりあえず、闘技場に向かってベリウスに会ってみよう」
「大丈夫かしらね、もう夜も遅いけれど」
「行ってダメなら翌朝出直しだな」
ユーリを先頭に港の北にある闘技場へ向かい、そのままベリウスの執務室と思しき部屋の前に立つ男性に声をかける。
「はい、レイヴン。書状渡しておくわ」
「はいはい」
本来彼の仕事なのだが、と目的物を引き渡せば、門番とは一言二言のみのやり取りで突っぱねられた。
「新月の晩しか会ってくれないそうよん。こりゃまた随分と時間のかかる仕事になっちゃったわ」
「ドンも先に教えてくれたらいいのに」
「次の新月は結構先ね」
「なら先にコゴール砂漠にいての情報を集めましょうよ」
そういうことになり、ゾロゾロと闘技場内に備え付けられている宿屋まで引き返していく。
「じゃあ、明日まで解散にする?」
「そうすっかな。宿の手続きだけ済ませちまおうぜ」
「あ、私は街の外で野営するわ。人数から引いてちょうだい」
「渋々だけど、おっさんもね……。船旅終えたばっかだってのに、フカフカな布団が恋しいわあ」
「はいはい」
「野営?おっさんはどうでもいいけど、アンタ、キャンプにこだわりでもあるワケ?ダングレストでもキャンプしてたし」
「そんな感じ。気にせずゆっくりしておいて。また明日の朝会いましょう」
「おう。気をつけてな」
手を振って、凹んでいるレイヴンを引き連れて闘技場を後にする。
「っと」
「あ、し、失礼しました……」
出た瞬間、やたらおどおどとした男とぶつかりそうになり、踏み出そうとした足を引っ込める。
「……
「ジーンちゃん、レストランでも行かない?おっさん腹減っちゃった」
「ん。まあいいけど」
少し引っかかることがあったが、途端に騒ぎ始めたレイヴンの方に意識を戻して階段を足早に降りていく。
「何か気になるの?」
「そうだったけど、いいや」
「どうでも?」
「……そうね。どうでもいいわ」
一刻も早く、血の匂いの染み付いた闘技場から離れたい。ジーンにとって優先すべき事柄はその程度だった。
「よ」
「ユーリくん?」
夜も更けた頃、街のすぐ外に張っていたテントをユーリが訪れた。散歩ついでだというが、わざわざ様子を見に来たんだろう。
「悪かったな、アンタの性分じゃ闘技場とは相容れないだろ」
「ドンからの仕事を受けたのは私だもの、気にしないで」
「調査に進展あったらおっさん通じて伝えっから、ジーンは無理して闘技場来なくていいぜ。どうせ暫くベリウスには会えないんだろ」
「うーん、正直助かるわ」
「誰かを助けるって意味じゃない、か」
夜闇に、ユーリの静かな声が響く。
ジーンには、それはただの音に聞こえる。
鈴虫が必死に羽を擦り合わせて奏でた音階を、人間は意味のあるものとしては受け取れない。ましてや個体を区別することもできない。それと、似たようなものだ。
一つ一つの音を注意深く取り上げて、言葉に翻訳して意図を汲む。そうしないと、会話ができない。
ジーンは、他人が意味のある言葉を発しているとはとても思えなかった。
余計な手順を踏むせいで間違った受け取り方をしている可能性はあるし、そもそも自分で決めた範囲の人間の音しか拾い上げようとはしていない。だから、どんな噂話がされていようとジーンの耳に届くことはないのだ。
昔は、こうではなかった。ユーリが生まれてからの少しの間、帝都の下町にいた頃。下町を離れてからの日々。その中でジーンはいつの間にかこのようになった。
意識せずとも聞こえる声は、たった二つ。ユーリのそれはジーンにとって、そのどちらでもなかった。
だから、ジーンはユーリの『声』を聞くことはない。
ジーンはこの子の声を、どういう風に想像していただろう。産まれたばかりの姿しか知らず、どこかで生きているとは思いながら。会いたくはないと願って、帝都から逃げ続け、でも忘れたことはない。
大きくなっているはずの弟をどのように想像していたのか、ジーンにはもう思い出せなかった。
「闘技場で人が死ぬことはもうあまりないだろうけど、本来あそこはそういう場所でしょう。ああいうものを視界に入れたくない、出来うる限り知らんぷりをしていたい、そういう自分に嫌悪感を覚える」
「重傷だな」
「そうねえ」
「ま、悪いことじゃねえと思うけどな。ジーンは自分が悪い奴だってことを充分に自覚してる。だろ?」
ぱちん、と指を鳴らしたユーリがこちらを向いてニヤリと笑った。
「で、ジーンよりずっと悪人のおっさんはどこ行ったんだ?」
「悪人?」
「おっさんは自分が悪いとは思わないだろ?」
「言いたい放題ねえ、これが積み重ね損ねた信頼かしら。なんだか落ち着かないみたいでその辺ほっつき歩いてるわよ、いつも通りね。眠くなったら帰ってくるわ」
聞いたくせにあまり興味がなさそうなユーリは「安酒でもひっかけてんじゃねーの」と揶揄うように言った。
「そういやちょっと聞きたいんだが。ジーン、アンタ耳が聞こえにくかったりすんのか?」
立ち上がり、帰り際の問いかけのように見せかけるあたり、分かりにくい気遣いが滲み出ている。
そのポーズに応えて、ジーンも深呼吸のあとに意識して口角を釣り上げた。ジュディほどのスタイルではないけれど、ユーリが端正な顔立ちをしているのならば、ジーンだって同じ血を引いている。
「ユーリくん。君は私のことを知りたい?」
少し驚いたように目を見張る仕草は、フレンによればジーンとそっくりらしい。少し幼さの滲むその表情はすぐに引っ込んで、今度は等身大のニヒルな笑みに塗り潰される。
「ジーンが俺に知って欲しいんだろ?」
「…………」
咄嗟に否定の言葉が出てこなかった。
ジーンは決してユーリにこのような自分を知られたくはなかったはずだ。一つ大きな線を引いて、そこを超えないようにしている。
ただ。それなら確かに、己の内側を少しも明かさずいればよかったのだ。
張り詰めた糸が切れるように、がっくりと肩を落として眉間に拳を当てる。
「そうかあ〜〜…………。そうか。そう見える?」
「いや全く?」
「……ちょっと、言ってること違くない?」
「はは、ちょっとした意趣返しってな。言いたくないことや言ってないことなんか誰にでもあるもんだ。それでも人とは関わってかなきゃならねえ。ならどこかで線引きは必要だし、他人の引いた線の内側に招かれもせずに踏み込むのは無粋だろ」
何故ユーリはこうも、ジーンに手を差し伸べるのだろう。そういう性分だとしたら、何故ジーンとこうも違うのだろう。
「私はきっと一生、君をこの線の内側には入れないよ?」
「おう。ジーンが選んだ道がそれで、自分で納得してんなら良いんじゃねえの」
それでも、とユーリは握手を求めるように片手を差し出した。
「ジーンはもう俺の一番外側の線の内にいる。お前にとってもそうだろ。俺たちに同行するってのはそういうことだ」
そうして、繋がらない手をヒラヒラと振って、戯けたように微笑むのだ。
「おっと残念、つれないな」