目を覚ました時、フィエルティア号は漂流していた。暴走した
寝かされていた船室を出れば、甲板も異様な静けさに包まれている。そこで、ベリウスの死を聞かされた。
直接的な原因としては、エステルが傷を治そうとベリウスに治癒術を使ったこと。親切心からの行動の結果、ベリウスは暴走状態に陥り、止む無く討伐したらしい。
大局的に見れば、功を焦ったハリーが
ドンの盟友であるベリウスが魔物に捕らわれており、ドンが探しているという
ベリウスが死んだ今、その死後に現れる
レイヴンは、聞かれた通りにありのままの真実だけを告げた。余計な誤魔化しは含まれていないだろう。訂正や補足の言葉は、船内の誰からも上がらなかった。
ジーンは一度ハリーの前で膝をついて、その頬を思い切り抓る。
「何すんだよ、スライムジーン」
「こっちが言いたいよ、このすかたんハリーめ」
溜息を吐いてその場を離れる。
夢に浮かされているような心地だった。どこか現実味がなくて、自分が真っ直ぐ立っているかどうか自信がない。
潮風に当たりながら、ジーンは夜の黒々とした海面を見た。
逆だ、と直感した。夢から覚めたのだ。もう二度と見ることの叶わない夢から、覚めたのだ。
それはジーンにとって、悪夢だった。望んで見ていた、悪夢だった。
これから、一つの時代が終わるだろう。
騙されたのだとしても、ベリウスの死を招いたのは、
血は血で、トップの命はトップの命で贖う。それがギルドだ。
ドンは己の命を対価にことを収めるだろう。
馬鹿なことをしたハリーを責めるつもりにはなれなかった。レイヴンだってそうだろう。
冷静にこれから起きることを予想している自分に嫌気が差した。
ドンの死を予感しながらも、ジーンはそれを見届けるためにダングレストに向かうだろう。その死の瞬間を正面から見据えるだろう。彼の選択を、止めることはしないだろう。
実際、ジーンは本当に人を殺したくなかったのだろうか。人の死を防ごうと本気で思っていたのだろうか。
ドン・ホワイトホース。あの男の前で、ジーンは誓いを立てた。
ずっと、熱に浮かされながら見る夢の中にいた。酒に酔いしれ、薄氷の上でそうと知りながら踊り狂うような大愚を晒して。
ドンがいなければ、ジーンはこうも破綻した人間ではなかった。
ドンがいなければ、そもそもジーンは人間ではなかった。
ジーンが愚かな誓いを立てたのは、ドンのせいだ。
大きく息を吸って、しばらくの間息を止めた。吐き出す時、『ジーン』という人間も同時に捨ててしまおうかと考える。
「ジーン」
コツリ、と足音が甲板を叩いた。ジーンは吐息混じりの不恰好な笑い声を嚙み殺し、もう一度夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
一体、今飲み込んだのは何だろうか。少なくとも、もう彼の知る『ジーン』ではないのだろうと思えた。
「良い夜ね、ユーリくん。星がよく見えるわ」
星など見ていなかったのに、ジーンはそう答える。
硬いブーツの足音は、ユーリのものだ。左手に剣をぶら下げた彼は、引き結んでいた口元を緩めてジーンの隣に並んだ。
「思ったより冷静だな。もうちっと取り乱すかと思ってたんだが」
「人間、色々過ぎると逆に冷静になるみたい。それか、一旦何も考えないようにしているのかもね」
どれも不正解だが、ジーンはユーリに対してはこうした接し方しか選ばない。自然に笑えているだろうか。いや、この状況で笑っている方が不自然だから、これでいいのだろう。
「お荷物で、ごめんね。こういうつもりで君についてきたんじゃないの。うまくいかないわね」
「……言いたいなら聞くし、言いたくないなら聞かねえ。なあジーン、何で大丈夫だって嘘ついて俺たちに着いてきた?」
それが本当に聞きたいことではないだろう、と直感した。けれど、彼の中でも上手く言いたいことを整理できていないのかもしれない。
「本当はまだ、人間と戦えないんだろ。別にそれ自体は悪いことじゃねえし、普通の反応だ。けど、アンタは自分自身に嘘ついて、思い込みで戦おうとしてる」
思い込み。なにより正確な言葉だ。ジーンの言動は全て思い込みで作り上げられている。
人を殺すな、人を死なせるな、人の死に耐えるな、死を厭え、恐れろ、そういう人間であれ。
「さあ。君の旅に着いて行きたいと思ったから、かしら」
「そりゃまた、なんでだ?」
「なんでだと思う?」
聞き返されてたじろいだユーリは、船内を見渡してから少しの間口篭った。
「そりゃあ……。おっさんが着いてくるから?」
「何それ」
「じゃあ俺に惚れたとか」
「ふふ、いいわねそれ。もう一声ちょうだい?」
「揶揄うなよ」
自分で言って恥ずかしくなったらしい。若干照れた様に首を振って、ユーリは「ま、ジーンが決めたことならとやかくは言わねえよ」と零した。
「けど、毎度今回みたいに気を遣ってやれるわけじゃねえぞ。無理だと思ったら置いてく。そこんとこはよろしくな」
「あら、今日のは無理の内に入らないの?懐が深いって言われない?」
「おー、よく言われるぜ。ラピードとかにな」
ノードポリカの件はこれで終いだ、と手を打って、ユーリはジーンを促すように視線を向けたまま口を閉じた。
「それ以外の件のこと?」
「言いたいことがあるんじゃねーの。俺がしたことについて。それでさっき気ぃ失ったんだろ」
「ご迷惑をおかけしました」
「いいぜ。運んだのジュディだしな」
「なら追いかけて、お礼を言わなきゃね」
二人で笑い合って、ジーンは海原に視線を落とした。
潮風の中ユーリと並んでいると、トリム港を出発する前夜のことを思い出す。ジーンはそこで、自分の誓いについてユーリに話をした。
「アンタはトリムで、『例え殺さなかったことで余計に死人が増えるとしても、殺さない道を選ぶ』と言った」
ジーンとは反対に空を見上げたユーリは、星空が眩しかったのかすぐに視線を下ろした。
「知ってたろ。あの時、俺がどう考えて、どういう理屈で何をしたか。トリムで話した時には知ってて俺にああいう話をした。違うか?」
「そうだとして、君に言うことは何もないわ」
ラゴウ、キュモール。生かしておけばそれだけ人の命を弄ぶ、社会通念上の悪。帝国法も、ユニオンの秩序も、あれらを裁くことは出来ない。誰かが動く必要があった。そしてユーリがそれを成した。それだけの話だ。
「不殺の誓いを掲げるアンタにとっちゃ、俺のしたことは許せないってか?」
皮肉げな言い方に、ジーンは薄っすらと微笑んだ。
「君は私に許して欲しいの?」
ユーリは俯いて掌を眺めながら、「さあ、な」と言い澱む。何かに迷うようなことが、彼にもあるらしい。
当たり前か。彼だって人間なのだから。
ジーンは、ユーリのことを何も知らない。赤子の頃だけの記憶で、なんとなく清廉な人間のような気がしていて、その人柄に触れて間違っていないと思い込んだ。実際、彼の優しさや義侠心は弱きを見捨てず、悪に立ち向かう理想通りのものだ。
ジーンは弟がそういう人であって欲しかった。そういう人だと思い込んでいたから、いつか会いに行きたかったし、会いたくなかった。
その手が血に染まっていることを知って、ユーリがジーンの思う以上に自立した人間であることを知った。自分の道を自分で決めて、その通りに歩いていく。
ジーンだって、そういうふうに生きている。
「アンタが気付いてるって知って、妙な気分になったのは事実だ。それを許して欲しかったとは言わねえよ。けど、そうだな。アンタがどう思うかは知りたかったような気がする」
人は少なからず、何かと対比して己を理解するところがある。ユーリが言っているのはそういうことかもしれない。だとしたら、ジーンはユーリが望む回答が出来るだろう。彼は、ジーンとはあまりにも違う人間だから。
「……不殺の誓いは殺さずの誓い。自分からは決して他人を殺さず、また目の前の殺人も許さず。それは目に見えぬ人にまで手を差し伸べるものではない。……他者を助ける為のものでもない。私は善人ではないから」
ジーンは知っている。
例えこの世から殺人の罪が消えたとして、魔物が絶滅したとして、事故や老衰や、あらゆる要因で人は死んでいくのだ。どれだけジーンが死を忌避しようとも、常にどこかで人の死は起きていて、ジーンはそれについて医療技術を向上させるとか、政治を整えるだとか、そういう抜本的な解決に取り組もうとは一切していない。死の気配を感じ取って、ただその場から逃げるだけだ。
そうした弱さがジーンにはあって、ユーリにはない。それはとても、貴重なことだと思う。
「善人ではない、ね。何が善で何が悪かなんて、結局一人一人が決めることだ。俺にはアンタがエステルと同じようなお節介に見えるが、それはあくまで、俺の視点からの話だ」
「ええ。エステルちゃんはこんな事誓わない。誓わずとも、その通り生きていけるからよ」
ジーンには、不殺の誓いが必要だった。奇妙な話だ。
「そうだな。アンタのは『人を傷つけたくない』でも、『争いたくない』でもなく、『殺したくない』、だろ?それは、自分が人を
そうだ。殺したくないから、傷付けたくないのだ。争いたくないのだ。ジーンにとって、まず前提に来るのが死だ。決して逆ではない。
「確かに争いごとや戦闘に向いていない人間ってのは存在する。けどアンタは違うだろ。傷つけるのが怖いなら、武器なんざ持たない」
どれも、その通りだった。
「ね、ユーリくん。あなた帝都の下町出身だったわよね」
「ん?ああ、そうだな。俺と、フレンもか。下町で生まれ育った」
「私もね、下町の生まれなの」
「……へえ。てっきり、カロルと同じようにダングレストかと思ってたが」
こんな話、することはないと思っていた。
「小さい頃の話。記憶は朧げよ。四つか、五つの頃までは住んでいたわ」
「すると俺がまだ赤ん坊の頃か。……案外、どっかですれ違ってたかもな」
「……かもね。一度出たきり、もうずっと戻ってないわ」
「浮雲ジーンは帝都にだけは現れない、か」
呟いて、ユーリは何かを続けようとして口を開いた。
けれど、何も続かない。
見なかったことにして、ジーンは話を続けた。
「下町は良いところよ。良い思い出もある。だからこそ、戻れなかったのかもね」
「そう、か。で?いきなり出生の話をした理由は?なんかあんだろ」
「……下町を出なければ、私は不殺の誓いなんか立てなかったって思ったの。下町を出て、世界を見て、私は知ってしまった。自分には、人を殺せる力があるってね」
「そうだな。俺も下町を出なければ、人を殺す事なんかなかったかも知れない」
そちらの人生だって悪くは無いだろう。ジーンは言葉を選びながら、ユーリを肯定するための言葉を吐く。きっと自分は、弟に対してそうしたいと願っているはずだから。
「君の言う通りよ。私は、こんな誓いで己を縛らなければ、いつか自分が人を殺すだろうと思ってるの。その衝動が、思考回路が、自分には存在していると思ってる」
「その為の不殺の誓い、か」
それは殺しが選択肢にある人間の誓いだ。人を殺せると知っているから、必要以上に怯えている。それがジーンの真実だ。
「私は殺さずを誓った。あなたはその手を汚す道を選んだ。それだけの話。私には貴方の生き方に口出しなんかできないわ。生き方を選ぶのは、個々人に与えられた自由でしょう」
「そうだな。選んじまったらもう引き返せない。そういう類の選択を、俺もジーンもしたんだ」
船縁から背を離して、ユーリは一度ジーンを見た。ジーンはユーリを見なかった。星を眩しく思うような純粋さは、ジーンの中にはなかったからだ。